My Opinion    感情のビッグ・バン


号外(3月25日)
毎日対イラク戦の報道が続いています。
開戦の報道はタイでバンコクポストを読んで知りました。
カンボジアでたくさんの地雷被害者、地雷原のそばで遊ぶ子どもたち、戦争で家族を失った人たちに会いました。
戦争がひと度起きてしまうと銃声が止んだ後も被害が続くということ、本当の意味で戦争が終わることがないということを少しだけ覗いてきた気がします。
その一番の被害者となるのは事情もよくわからず巻き添えとなっていく子どもたちでしょう。
子どもたちの未来のためにも、私は戦争に反対します。

10.自分らしさって何? (10月19日)
 このテーマはETVで毎週土曜日21時からやっている10代の討論番組で今日取り上げられていたテーマである。高校2年生のちょいギャルな女の子が持ち込んだテーマだった。その子は自分探しってことでいろんなバイトもやってみたし、優等生だったけどギャルにもなってみた。でも、結局自分のやりたいことや自分らしさってものが見えてこなかったらしい。彼女の言葉の端々に、「挫折や一歩踏み出すことへの恐怖」や「安心できる場所を求める」といった姿勢が感じられた。ほかの人はどんな声を持っていたかというと、「自分らしさを見つけたいんだったら、何か無意味なことをやるべき!オレは北海道まで自転車で行った!」とか、忘れちったけどいろいろな考えがあったな〜。ほとんどの意見、よくわかります!なぜかって?そのほとんどがオレも通ってきたものだからさ。っていうより、いまも進行形かな?opinionに書いたようなことも出ていたね。
 結局自分っていうものは形がないわけだから、いろんな経験しながら積み上げていくものなんだろうね。「@挫折や一歩踏み出すことにびびる。逃げ場が欲しい…。」→「Aがんばって一歩踏み出す。自信がついたかも?」→「Bちょっとわかったような気になる。自分ってもしやこんな感じ?!」→「C壁にぶち当たって、またよくわからなくなる。誰か助けて〜」→「@挫折や一歩の恐怖」→・・・・って感じで、ぐるぐる回ってんのさ。これを自分探しスパイラルと名づける。
 昔はイニシエーションで青年と成人の区別がはっきり区切られていたけど、現代では青年期ってのが非常に曖昧になっていると言われる。現代社会の青年期ってのは、このスパイラルがめちゃめちゃ活性化している期間を指すんじゃないかなぁ〜。なんてふと思う。
 オレの今の状態は、Cから@に戻ってくるあたりかな?オレはもう少しモラトリアムを生きるよ。オレはまだ自分探しスパイラルをぐるぐるぐるぐる…

9.若造のちょっとしたつぶやき いいのかなぁ?中教審の答申。(7月30日)
 中央教育審議会は29日の総会で、ボランティア活動を高校や大学で単位認定したり、入試で評価対象にするなどの推進策を答申したらしい。青少年がボランティア活動を通じて、社会参加することや様々な活動を体験することを推進しようってものだろうけど、明確に「単位認定する」とか「入試で評価対象にする」とかなると、ボランティア活動の「自主的な意志」っていう面がおかしくなりゃしませんか?教育の流れが、従来の「詰め込み式」(銀行型)の反省から「子供たちに様々な体験をさせよう。いろんなものとの出会いを与えよう。」って方向に来ているのはいいことだと思うけど、持っていき方が少々強引ではあーりませんか?!
 大人がやらねばならないのは、子供たちに「出会い」を保証してやること。単位認定や評価対象の規定を明確にすることではないだろう。いろいろな分野の人やものと向き合える状況を与えてやって、子供たちがそれらと向き合ったとき、子供たちはきっと自ら動きだすに違いない!上野小の子供たちのようにね!子供たちが出会おうとするとき、動こうとするとき、大人のつぶやき(ファシリテート)が必要だろうなー。まわりの大人の姿勢がカギになってくると思うなー。

8. 2002 FIFA World Cup Korea/Japan (6月25日)
 4年に一度、世界を熱狂の渦に巻き込むワールドカップサッカー。今回は歴史上にギクシャクした関係をもつ日本と韓国、両国の共催で行われるという、メインのサッカー以上の注目点を持つ大会になった。近年も日本の歴史教科書問題や首相の靖国神社参拝問題などで、事あるごとに両国間の関係には微妙な空気が漂う。大会が始まるまで、「本当にうまくいくのだろうか?」という不安と「両国の関係がより良いものになってほしい。」という期待感が両国民にあっただろう。
 ワールドカップが始まったばかりのころは、正直なところ韓国への期待感なんてものはあんまりなくて、むしろ「日本の方が上に行くんだ!」っていうライバル心が強かったと思う。しかし、韓国代表の強豪国に恐れず立ち向かう姿勢・決してあきらめない姿勢に自然と引きつけられていった。ポルトガル、イタリア、スペインと、強豪国を次々と打ち破っていく大活躍に日本中が勇気づけられたよね。日本が負けてしまったとき、「これでワールドカップも終わってしまったなー。」っていう思いがみんなあったと思うけど、それが「まだ韓国が残ってる!」って変わっていくのがわっかったよね。
 日本に引き続き、今日ついに韓国もドイツに敗れて姿を消した。僕はテレビの前で自然と韓国を応援していたし、試合終了後は自然と韓国に対して拍手を送っていた。韓国に対するライバル心。それは変わらずあるけど、「日本が上にいってやる!」っていうものじゃなくて、「韓国もがんばってんなー。よーし!負けねーぞー!」っていうものに変わった。いっしょに戦った仲間意識が両国に(少なくとも日本には)芽生え、両国間の関係が一歩近くなったと思う。韓国と日本、両国を力いっぱい応援していた在日の人達のすばらしい笑顔が今の両国の関係を象徴しているような気がした。

7.「可能性」と「経験」 (5月21日)
 この「My Opinion」を読んでくれている人ならもう気付いていると思うが、僕は「可能性」という言葉が大好きだ。なぜかって言うと、そりゃあ「可能性」って言葉を聞くと、とんでもなくでっかい力を持っているような気がするからさ。でも現に誰でも同じように「可能性」という大きな力を持ってるんだよね。子供たちは当然でっかい可能性を持ってるし、電車の中で口開けながら寝てるおじさんも持ってる。ハンディキャップを持っていようが、肌が白かろうが黒かろうが、日本に住んでいようがアフガンに住んでいようが、大卒だろうが中卒だろうが、竪穴式住居に住もうが高級マンションに住もうが、男だろうが女だろうが、異性が好きだろうが同性が好きであろうが・・・・みんなものすごくでっかい可能性を持っている人間なことに変わりは無い。
 話しは少し変わって、僕はたいへん無学なる者だけど一応今までに学校行ったり、恋をしてみたり、ケンカしてみたり、中国でマフィアに騙されたり、それなりにいろいろな経験がある。同じように人にはそれぞれいろんな経験があるわけだよね。大人はもちろんいろんな経験があるだろうけど、子供だって小さいなりにいろんなことを経験している。日本人であろうがベトナム山岳小数民族であろうが、識字能力があろうがなかろうが・・・・みんなそれぞれ様々な経験があることに変わりは無い。
 つまりここまで書いたところで何が言いたいかっていうと、誰でも「可能性」と「経験」っていうものを持っているわけだから、「無能なる者」なんて存在しないってこと。逆に言ってみれば、そこら中みんなすごい人間だってこと。(当然自分もね!)K先生風に言うと、そこら中みんないとおしくて抱きしめてやりたくなっちゃう!(笑)みんな「可能性」と「経験」を持ったすごいヤツなんだから、ちょっとばかりの「違い」なんて気にならなくなっちゃうし、もっと他人と関わりたくなる!お互いの「可能性」と「経験」という能力を認められたとき、「僕は僕でいい。君は君でいい。」っていう「違いの承認」と「相互理解」が成り立つんだろうね…。


 

6. 混乱をさらけ出す! 文化の喪失 Yes or No? (5月14日)
 先日「第三世界と開発と文化」という授業で在日コリアンのコミュニティーを訪れた。そこで在日の人達の教会でミサに参加した時、神父さんがコリア語で説教した後に日本語で同じ内容を話していた。日本で生まれ育った2、3世の人達の中にはコリア語を話すこともハングルを読むこともできない人達がいる。そのような状況を見た僕は「文化が薄れてしまうということは少し切ない感じがする。」というような感想を授業で述べた。すると、その授業のコメントペーパーに「私の友達の在日3世の子は日本語しかしゃべれないし日本の文化しか知らないけど、在日韓国人の家に生まれたので韓国に縛られて困惑している。文化が失われると押し付けてしまうのはどうか。」というコメントがあった。僕も言葉が足りなかったと思うが、このことはかなり僕の脳を刺激することとなった。
 文化の喪失というのはいろんな場面で起きていることだと思う。例えばベトナムなんかの少数民族の場合、自給自足をしながら独自の民族衣装を着て、独自の祭りがあって…など伝統的な生活をしていたところにいろんな情報や政府の介入が入り、しだいに換金作物を栽培するようになっていく。開発が次第に進んでくると、村では洋服を着る人が増えたり、伝統的農業が見られなくなったりするだろう。うまく発展することもあるが、逆に市場経済の渦に巻き込まれさらなる貧困へ向かう場合もあるだろう。また、日本を見てみても文化の喪失はいたるところに見られるだろう。昔は地域ごとに必ずあった祭りや行事がなくなったり、アイヌの人達の問題…などなど。

 あれこれ考えていると、文化が薄れるスピードっていうのは恐ろしく速いんじゃないかと感じる。2、30年もあれば完全に消えちゃうものもあるんじゃないかな?しかも、一度失ったら取り戻すのはものすごく時間がかかるよね。たぶん完全に取り戻すことは不可能…。
 なんかふと考えると僕らは欧米風の文化に染まりきっていて、「欧米風の方が良い」って感じていないかな?同じようにベトナムの少数民族も「マジョリティーであるキン族の文化・生活の方が良い」って感じているみたい。なんでこういう言ってみればタチの悪い劣等感みたいなものが生まれちゃうんだろうね。「私は洋式トイレじゃなきゃイヤだ!」って人は多いけど、「オレはインド式じゃないとウ○コしね−ぞ!」ってヤツは少ないよね。絶対インド式の方が清潔だと思うけど…。なんでも優劣が無意識につけられてないかな?
 だいぶ話しが反れちゃったけど、在日コリアンやアイヌ(日本社会のマイノリティー)の子供たちには日本の文化と独自の文化、両方とも学べるような環境を作ってあげるべきじゃないかな?結果的に日本語を使って「日本人」として生活していたとしても、自分のルーツを振り返りたくなったら振りかえれる術を残しておいてやるべきだと思う。「在日コリアン」ということにトラウマを感じてしまうっていうのは、日本社会が何かしらの排除をしているからなんだと思う。
 複雑な問題だし、これが正解ってものが無い問題だからメチャメチャ頭疲れる…。とりあえず今回はここまで。わけわからん…



5. 旅(未知との遭遇)のすすめ (4月26日)
 僕らは普段生活をする中で不便に感じたり、もうダメかもしれないと思うような困難にぶつかることはまず無いといってよいだろう。都合の悪いことにぶつかってもいくらでも逃げられるし、見ないようにふたをすることだってできる。欲しい物・必要な物は駅前のスーパーに行けば売っているし、どこの売り場に行けば何が手に入るか頭の中にだいたい入っているだろう。欲しい情報へのアクセスの方法はわかっている。ボタンを押せば世界中のことが手に取るようにわかっちゃう。この生活は完全に自分が支配しているというか、自分の思うようにできる快適な空間だ。そんな生活の中では自分の知らない何物(人・文化・環境etc)かと直接出会わなくても全然問題なく暮らせてしまうよね。でも…自分の知らない何物かと直接出会うことほど、エキサイティングなことはないんだよね!他者との直接的な出会いほど自分を豊かにしてくれるものは絶対無い!絶対に無いんだぞぉー――!!!
 旅に出るってことは自分の暮らしてない世界にズカズカ入っていくってことだから、当然旅の間は常に他者(人・自然・異文化etc)と直接接していることになるよね。全く知らないんだから、当然「あれなんだろう?どうしてホニャララなんだろう?」って疑問、疑問、疑問だらけ!!この疑問って大事だよね。人間の知的探究心は疑問を感じないことには機能しないのだ!他者との関わりから、疑問を感じ眠っていた知的探究心が一気に爆発する。つまり、眠ってた自分の可能性が引き出されるってことだ。(例えるならナメック星の最長老に出会った感じ。)ちなみに僕は中国やベトナムやタイの人・文化・自然・街並みetcが自分の可能性をものすごく引き出してくれたと思っている。一度他者に出会う楽しさを知ってしまうともう止まらない…。一度外国で他者と関わってみると身近な他者(となりのカツオ君、あそこのワカメちゃん)にも接する勇気が持てるよね。P.フレイレの言った「自由への恐怖」を克服できるってわけだ。
 さあ、みんなバックパック背負って旅に出よう!「自由への恐怖」をぶっ倒しに行こう。計画なんてものはどうだっていい。流れにまかせてぶらり旅…。それでだれでもぶらり族
 
 
 

4. 単純明快!Hidetsuguの考える「教育」シリーズA 子供の権利(4月14日)
 現在の社会では子供は常に未熟なものとしてとらえられ、大人たちは「子供に何かを与えなければ」と必死になっているように思う。それがちょっといきすぎて過剰な保護・供与になっているのが現代社会だと思う。親たちと学校は子供を統制しようと必死になり、子供たちは過剰な保護・供与の中で物質的には豊かだけどどこか窮屈な生活を強いられる。その上、能力主義の中で常に競争させられ、周りの友達すらライバルに変化する。苦しい!!苦しすぎる!!子供の発言の場はあるのだろうか?せっかくある「子供の権利条約」を生かせているのだろうか?
 子供の権利条約には大きな柱が3つある。保護(protection)・供与(provision)・参加(participation)である。今の日本では保護・供与という部分にだけ大人の意識が集中しすぎて、子供の「参加する権利」が十分に保証されていないために子供にとってとても生きづらい世界になってしまっている。子供はいろいろな社会参加による他者との関わりの中で、「自分」として生きていけるのだと思う。一方的な詰め込み・参加の無い教育で子供たちは、無意識に自分でない何物かにさせられてしまってはいないだろうか?「自分」を見失った子供たちが大学生くらいの年頃になった時、自分から外へ出て行こう・他者と関わろうとすると非常に勇気がいるし、恐くて前に出ることができない。「自由への恐怖」とブラジルの教育学者P.フレイレは言ったらしい。
 
 ゆとり教育の導入で学力低下が懸念されているが、学力を得るために子供たちが「自分」を殺さなきゃいけないような学力なら身につける価値はナシ!今子供たちに必要なのは、自分を受け入れてくれる、自分の存在を承認してくれる他者と関わる場であろう。そのためには「参加」を保証してあげなければならない。ゆとりができたというのならば、子供が関われる活動の場をもっともっと増やしてやるべきだ。子供が何かを感じることができる自然を守ってやるべきだ。主役はあくまで子供である。



3.単純明快!Hidetsuguの考える「教育」シリーズ@ 現在の教育の問題点(3月31日)
 今の教育の問題点を考えるとき、教育システムの悪いところをあげるとキリがないので、僕が家庭教師・個別指導の講師の経験から感じたこと、今まで教育を受けてきた経験から考えたいと思う。
 ↓の「2」で書いたように人間は常に他者との関わりの中にいるので、当然誰でも他人に認められたいって気持ちはあると思う。これは大人だけでなく子供たちにも当てはまる。むしろ子供のほうが強く感じているかもしれない。現在子供たちは能力主義の競争の中で常に他者と比べられて生きていると思う。ここに一番の問題点があるんじゃないかなー?一言で言ってしまえば、教育に関わる教師・親などのまわりの大人達が子供ひとりひとりの能力・存在を認めてあげていないという気がする。子供のとき「なんでできないの?」とか「みんなちゃんとやってるじゃない?」とかいう言葉を周りの大人から言われたことがないだろうか?そのときにどんな気がしただろうか?子供はそういう大人の何気ない一言にとても敏感であり、傷つきやすい。自分を認めてもらえないということがどんなにつらいか。認めてもらえないというフラストレーションは「いじめ」のように他者への攻撃に向かったり、自信喪失=自分の存在意義が見出せない、というように様々な問題の原点になっているように思う。
 すっごく単純なんだけど、僕がその解決策として考えるのは「心の底から褒める・ひたすら褒めちぎる!」(勝手に松岡修三式と命名)ということ。どんな悪ガキでも、どんなに勉強がなかなか理解できない子でも、いいところは星の数ほどある。どんな子でも常に発達していっている。その子なりのいいところ・成長したところをどんどん褒めてやる。この一見単純な「褒める」という行為が、子供にとっては自分の存在・能力を認めてくれたという安心感・自信につながっていくのだ。教育に関わるすべての大人が、子供達ひとりひとりの能力・存在を「心の底から褒める」ことによって常に認めてあげられるようになったとき、可能態としての子供の能力は爆発的に膨らんでいけると思う。そして教育はもっともっとおもしろくなる!



2.「なんで国際協力をするのだろう?」(3月29日)
 昨日のO村さん送別会でこのテーマに関して議論になったので、自分の考えをまとめてみようと思う。
 まず、そもそもボランティアへ踏み出していくきっかけを考えてみたい。僕がなぜ「何かをしたい!」と思うようになったかというと、旅先でのストリートチルドレンとの出会いからのような気がする。「なんでこの子はこんな時間に花を売っているのだろう?なんでこの子は学校に行っているはずの時間にこんなことをしているのだろう?」と、日本で普通に暮らしているときはまったく感じることのできない疑問が次から次へと沸いてきた。以前は世界の貧困の問題・戦争のことなど身近に感じることのできなかった自分が、旅先での人との出会い・風景からそれらの問題を身近に感じるようになった。そこから、今の「自分」が始まったと思う。
 世界にある貧困の問題をいろいろ考えているうちに、結局日本人である自分も深く関わっているのではないか?と感じるようになってきた。例えば、毎日食べているごはんの中に途上国からきている食材がどれほどたくさんあるだろうか。その生産の背景にどんな現実があるのか。などなど、僕らの生活は多くの国の人々に支えられて成り立っていることに気がつく。そこにたくさんの犠牲がある場合もあるだろう。ちょっと過激に言ってみると、僕らの生活は途上国の人達の犠牲の上に成り立っているということ。日本にいるかぎりそのような人達はなかなか見えてこないので、みんなピンとこないだろうけど。
 昨日の議論の中で「なんで自分の生活をもっと豊かにできる可能性があるのに、いろんなものを犠牲にしてまで、後ろを振り返って自分に関係ない途上国の人達のことを考えるの?」という問いがあった。僕自身は前述のとおり貧困の中にいる人達のことをまったく自分に関係の無いものとして考えていない。自分で意識はできなくても世界中の人はどっかでつながっていると、ちょっとアホみたいにスケールのでかいことまで考えてしまう。(笑)人間は他者との関わりなしには生きられないから、自分に関係している人(途上国の人)のことは誰もが無視できないはずであると思う。国際協力は、自分の豊かになる可能性を犠牲にして後ろを振り返ることではなくて、むしろ関わりのある人の中にもっと深く関わっていくための前進であると考える。僕の思う「豊か」になるということは、「地位や名誉を手に入れる」ということより「他者との関わりを深めていくこと・なかなか見えてこないけど関係している人達との関係を深める」こと。O村さんもそんな思いで協力隊に行くんじゃないかな?って勝手に思う。
 ここらで強引にまとめると・・・「国際協力とは、見えないけど関係している人達(その中でも困っている人達)との関係を深めるための前進である!」(実際やってるわけじゃないから説得力なし!)ということでどうでしょう?実際、活動している人に聞くのが一番だよね!越智さーん、どう思います?


 

1.{左手}のすすめ(3月25日)     お食事中の方はご遠慮下さい
 2月初めにタイへ行ったとき、バンコク市内から100kmほどにあるNGOの自然農園を訪ねた。その農園は簡単に言うと、農民たちが市場経済の波に流されないように複合農業でリスクを分散し、自給自足の生活を送れるような農業を提案する農園だった。水・土壌を汚さないように洗剤も手作り石鹸だし、化学肥料ももちろん使わない。水の供給方法は驚いたことに、飲み水は雨水をろ過して飲み(無味無臭)、シャワーの水は池の水をフィルターに通したものだ(ドブくさい)。バンコクでは必要不可欠なミネラルウォーターも必要ないし、シャンプー・洗剤なんかも全く必要ない。街から隔離されてもたぶん平気。
 1日目は、農園生活を快適に過ごす。しかし、次の日の朝トイレに行ってしばし悩む。トイレは便器に足をのせてキバるオマルのでっかいヤツで、行為後はバケツで水を流す。トイレにはトイレットペーパーが設置されていないのに、街のトイレにあるようなくずかごもない。そのときピーンときた。「これはもしやインド式?!」(紙を使わないでケツをふくトイレのことをオレはインド式と呼ぶ)実際頭ではわかっていても、なかなか踏み出せないオレ・・・。一応、他の人に聞いてみたりする。「ここってもしかしてインド式ですか?」当然返ってくる答えは、「そうだよ!」 「・・・・。ですよねー!」それが当然のようにふるまうオレ。(インド式との遭遇ははじめて)
 意を決してトイレのドアを閉めた。行為後バケツの水をすくいながら、恐る恐る左手でふく。やけくそになってゴシゴシふく。チャプチャプ、ゴシゴシ・・・・。
 インド式との格闘を終え流しで念入りに手を洗っているとき、ふと沢木耕太郎の言葉を思い出す。「トイレで左手を使えるようになったとき、僕はまたひとつ自由になった。」(深夜特急より)手を洗いながら、自分も爽快感のようなものを感じていた。「オレもできるじゃん!やれるじゃん!」
 
 ぜひ一度インド式を試してほしい。よく言われるように、西洋式より絶対清潔で地球にやさしい!何より自分が大きく見えるようになる!自分に自信が持てるようになるというか、異文化に溶け込んだ気になれるというか、なんとも言えない満足感を得られます。