GW中、高松市美術館で開催されていた「ピノッキオの冒険展」へ行った。
なにやら、ピノッキオの原画が世界で初めて公開されているらしいのだが・・・、原画にこだわるほどマニアでもピノキオ好きでもない。はじめはふぅ〜んと思っててくてく館内を見ていると、30メートルくらい進んだあたりで、なんと! ピノッキオが縛り首で木からぶら下がって死んでいた。
えー!!終わりやんけ!
と、思いかけたのだが、このときちょうどCIVIという学芸員による説明があったので、聞きながら見ていると、ピノッキオという話は、童話などでも知られるように本当は残酷なお話なのです。と解説していて、なるほど、となった。
この話は、イタリアが1861年に近代国家として統一した後、教育的童話として描かれたもので、当時の小学生新聞のようなものに連載されたのだという。作者のカルロ・コッローディは、イタリア統一のための義勇兵として戦いに参加したり、ジャーナリストとして論陣を張ったり、また統一後は未来を支えるべき若い世代への教育へと関心を移し、教科書の執筆を行っていたこともあるという。
この展示室を出ると、当然のようにキャラクターグッズ売り場が設けられていて、私は当然のように原作本を買った。
まぁ、絵本という短い話しか知らなかったのだからしょうがないかもしれないが、原作本にはこれでもか!というくらい、ピノッキオのショウガナイ奴ぶりが描かれている。まったくダメな奴である。もう、いい加減にせえよと言いたくなるほどのバカさ加減。またかいな、とついには笑ってしまうほど、懲りない奴なのである。
これはいい子にしていれば人間の子どもになれるという話だけれど、とてもそうとは思えたもんじゃない。
最後の最後は、ちらっと教訓じみているが、それまでおおかた9割は世の中遊びとユーモアにあふれて生きることの楽しさ、根っからのイタリア人気質のようなものを感じさせるもの。
《たとえば悔しさという感情を笑い飛ばすこと以外の方法で、乗り越えられる術はないのだろうか?》
そんなシーンが続出だった。とにかく、実感があり情景がリアルに目に浮かぶ。物語りであるけれど、現実世界を覗いているような。
物語は、東京・千歳烏山の2LDKマンションに住む男女5人の同居生活。家族でも親友でもない、友達と呼ぶのもちょっと恥ずかしい…、家族や恋人の相談もすれば、進路の話も“とりあえず”する。でも、明日このマンションを出て行くと言ったとしても、誰も止めないし、咎めない。
そんなスレスレの人間関係の築き方、距離のとり方。
それをチャットやBBS上の匿名性のもとにつくられる距離感になぞらえて、5人の視点で物語りはすすむ。
読後、TVをつけると長崎の小6女児殺人事件が報道されていた。
自分のHP上掲示板を荒らされたから、殺そうと思って呼び出したという。
TVの街頭インタビューでは、大人たちが口をそろえて「今の子供の考えていることがわからない」と言っていたが、パレードはそんなチャットやBBS上でのスレスレの距離感と、現実世界の鋭角で不可逆な事実を描いている。そのパレードのラストと長崎の事件の現実がリアルに重なってしまった。
不安定で、一時的であろう人間関係とその場に合わせてつくった人格。それを客観的に見ているもうひとりの自分。はけ口・爆発先はどこに?
25歳の私は、この登場人物世代の真っ只中。
これが現代の青春小説だとすれば、学生時代に腹を抱えて笑った村上龍「69」の爽快感や、宮本輝「青が散る」の敗北感と完全燃焼からくる達成感という清清しさを感じることは微塵もない。時代が違うのだ。変わってしまったのだ。コミュニケーションの形が。
長崎の加害者少女は殺害された少女に「会って誤りたい」と言ったという。
現実ともうひとつの世界の倒錯に、一瞬、頭が追いつかなかった。
パレードのラストシーン。それでも変わらぬ日常が続くリビングで、直輝は思いをめぐらす。この先、どんな展開がおとずれるのか、それは読者に任されている。
以前読んだ、吉本ばなな「キッチン」の名残で、タイトル買いしてしまった。
まぁ、家族のこと書いてるんやろーなぁと予想したものの、ビンゴ。「婦人公論」に連載していたものだそうで、すべてにおいて物足りなさやパンチのなさを感じて欠伸が絶えなかった。
話は、短編と連続4回の短編が折り重なっている。ファッション雑誌編集者の夫に、イラストレーターの妻に子どもナシのいわゆるDINKS。シンプル・モダン・スタイリッシュなライフスタイルが理想なのに、リビングのカーテンを開けると趣味の悪い隣の庭。四季の花は造園屋か隣家の妻の趣味が悪いのか、柄々しい色取り。DINKSの理想が台無しである。・・・と、ここらまで読んで肝心のリビングという空間を描く(であろう)あたりまで達せず、本を閉じてしまいました。
重松さんの本は、以前読んだ「ナイフ」もそうで、作品自体はいいんだろうけど、それを読んでよくよく噛み締めるところまで私自身の年齢や経験が追いついてないというのを感じる。そういう時は無理に読んでも仕方ない。またいつか開くときまで「元気でいろよぉ〜」
さすがの桐野先生!ってくらい背筋が凍りつきそうな寒ぅ〜く、それでいて我が身をえぐられているような話の連続。標題の「錆びる心」を含む6つの短編がおさめられた短編集。
自分の浮気が原因で、夫に仕事も習い事も禁じられ、月10万円の生活費でやりくりすることを命じられた絹子。10年後に必ず家を出るという復習の決意を胸に、すこしずつ貯めた100万円を持ち、10年後の朝、夫を見送り、家を出た。その後、東京で見つけた仕事は打田家の住み込み家政婦。家を取り仕切る梅子、その姉で高齢の繁子、胃がんを患い寝たきりの靖夫とその世話をする知的障害を持つミドリ。ひとり1食500円で、と言われた絹子にとって、切り詰めた家事を行ってきた10年間を発揮するハリのある仕事であり、夫との本物の家庭で得られなかった充実感を味わう。
ある夜、絹子は余命1ヶ月と言われた靖夫の願いで夜の庭へ靖夫を運び出す。そこで交わされた靖夫のミドリへの想いは、絹子に10年間耐え忍んだ絹子自身の心の奥にある想いを気づかせた。
恋愛中だけは自己中心的になっていいと思う。愛する人を想う時の優しさがそれを許す気がするし、恋人同士だから言えるっていう依存度みたいなのが恋愛の深度みたいな気もするし。ただ、それがただのわがままな子供になってしまったり、優しさとか理性がなくなってしまう時がないだろうか。
私はよく「プラスマイナスゼロにしないと気が済まないのか!」と彼氏に怒られていた時がある。私が食器を洗えば、彼氏はせめて洗濯してよと要求する。彼氏が待ち合わせに遅れれば、私も1回は待ち合わせに遅れることが許される。それがフィフティフィフティみたいな立派なもんじゃなく、私も傷ついたんだからあなたもその分は傷ついてよ、っていうアホラシイ子供っぽい発想だったと、当時もよくわかっていた。じゃあ、彼氏が浮気をすれば私も1回は浮気OKなのか・・・、多分当時なら1回くらいしてやろうとか、それを彼氏に自分から言って彼氏を傷つけたいみたいな発想になっていた気がするし、これからそう想わないかどうかは、、、うぅ〜ん、微妙。ほんと嫌な性格だわ。女々しいし。
でも、これって人間の遺伝子に組み込まれてる性質なんだろうか・・・って思わせられる。誰でもあるんじゃないかって。
靖夫は最後に「他人だからできるんだろうな。あの子の中に、僕を失う悲しみを植えつけたいという衝動があるんですよ」と言っている。靖夫とミドリの関係、絹子と夫の関係、ともに<してもらう/してあげる>の主従関係が成り立っていて、それを最後には、一時でも逆転したい、そんなものを私は感じる。世の中で起きてきた紛争や戦争なんか、こんな思いが噴出した形なだけだし、だとすると本当に人間はこういう本能を持っているんだなと思う。そんなスケールではないけど、だからこそ弱いもののせめてもの抵抗という寂しい思いを、打田家のあわただしい、暖かさの中で気付かせるシチュエーションの設定が余計寒さを増している。
江國香織 「スイートリトルライズ」 幻冬舎 2004.3.25
人気テディベア作家・岩本瑠璃子とその夫・聡のW不倫のお話。
瑠璃子は、翻訳家を目指して居酒屋でバイト中の春夫と。聡は学生時代の後輩志保と、結構頻繁に会っていて、お互いばれないのが不思議なくらい。現実問題、ごろごろしてそうな話だが、「それで?どうすんの?どうなった?」っていう野次馬的好奇心もあって、一気に読み終えてしまえる一冊。
ふつーにおもしろかった。が率直な感想。
江國小説って、もっと変に感覚的な言葉を多用して、ぼんやりとしたものだとなぜか思い込んでいたんだけど、ところがどっこいで・・・。
<男性というのは、好きになろうと思えばいつでも好きになれるものだ/ここにあるのは愛ではなく飢餓なのだ
別な男を好きになることなど簡単だった/絶望に実態があるとすれば、今この部屋にあるものがそれだ>
けっこう鋭くひどく、きびしく、現実的にスパッって差し込む。
桐野夏生が牛肉をブッタギッテるとすれば、江國香織はりんごを果物ナイフで微笑しながら切り込んでいく感じ。
要は、結婚すればひとりのパートナーと生きていくわけだけど、そのパートナーにないものを不倫相手で埋めようとする。結婚相手が日常なら、不倫相手は非日常。それって、楽しくないわけがない。いけない事してるスリル感と限られたつかの間の逢瀬という興奮。冷め冷めの夫婦関係に対して、女々しいほど求めてくる春夫の優しさ、癒し、なごみ。聡にとっての志保がディズニーランドなら、瑠璃子にとっての春夫は伊香保温泉?(例えるほどに私の説明って意味不明になってく傾向が・・・)
でも、いつまでもこのままじゃぁ・・・って思うのが正常な人間。最後の章のタイトルは「トリカブト」と保険金でもかけたろか、みたいになってるけれど、けっこうまじめです。
タイトルの『スイートリトルライズ』
甘い・小さな・嘘
それは誰に対してつくもの?逆に本音を言えるのはどんな相手?
見事な構成に拍手したいくらいです。もう1冊、彼女の本を読んでみよっかなーという気になったくらい!ほんと、おもしろかった。
渡辺一史 「こんな夜更けにバナナかよ 筋ジス・鹿野靖明とボランティアたち」 北海道新聞社 2003.3.31
筋ジストロフィーという難病を患った鹿野さんと、彼を支える有償・無償のボランティアたちをひとりひとり取材したノンフィクション。
第35回大宅壮一ノンフィクション賞・第25回講談社ノンフィクション賞を受賞している。
乙武くん以来、障害者自身がつづった本というのをよく目にするようになった。しかし、それまでは、障害者というと専門書というイメージで馴染みがない。一般的にボランティアと言うと聞こえがいいし、好い事をしているとまではいかなくても悪いことではないだろう、でもそれ以上のそこにある人の想いとか、困難さなどは、経験していないものにとって未知であり、時に高尚なもののような気もするしで、・・・単純に手が出しづらい分野でもあるのだ。しかし、本書は障害者やボランティア、福祉というものに無知なフリーライターが、重度の障害を患う鹿野さんと彼を取り巻く有償・無償のボランティアたちに取材に取材を重ねたルポである。私と同じレベルで単純に障害者には「他者と生きること」を、ボランティアには「なぜボランティアをするのか」と、問いかけ続けている。
特に印象に残ったのは、ボランティアのひとりで「これは実験なんだ!」と言った人のことだ。
彼は他のボランティアたちが言う観念的なことを嫌った。たとえば障害者と健常者はこうあるべきだとか、シカノさんからこんなことを教わった・・・みたいな。そうじゃなくて、彼はボランティアを特別なことをするのではなく、“普通の”ことにしたかったのだという。自販機にお金を入れてジュースをとる、それは完成形であって、そこにできるだけ近づけたかったと。結果的に自分はずっと「一生懸命ふつうに徹して」きた、つまり日常にはならなかったというが、「普通」ってそういうたくさんの実践や積み重ねの上に成り立つものなんじゃないかと思うと、かたっている。
シカノさんとボラ達の間で交わされるノートに、彼はボラ最後の日、こう書いている。
「今日が僕にとって、ここに来て介助する最後の日です。
感想から言うと、自己満足感でいっぱいです。
ボランティアはぼくにとって実験でした。結果はすごくよいと思っています。そして「よくぞ、おもしろいことをしたもんだ」と我ながら誇りに思っています。
鹿野さんは、今、僕の実験なんか比較にならない大変な実験を命をかけてやっている。
あんまり言ったことないけど、会えてよかったです。本当にありがとう。(後略)」
そう、ボラとシカノさん。背景は人それぞれであるが、これはひとつの実験の過程である。残念ながら、誰もまだ成し遂げていないノーマライゼーションという社会への。インターネットや携帯電話などのハードがこれだけ普及したのに対しこれだけ人のよい面も悪い面も含めてドロドロし、遅々として進まない、ゆっくり広めていくしかないというのが、人間という決して画一化されないナマモノを扱うという事なんだろうと思う。
この本に登場した人々の想いは、社会のおそらく至るところにあって、これからも続いていくことだろう。この本で障害やボランティアがわかったなんて決して言えないが、私も、私でも、日常で普通に意識して行動するだけで、その壮大な実験に参加することができるかもしれない、と思う。
自分が一生懸命生きてないなと思うとき、人とどう付き合ったらいいか悩んだときなんかに再読したい一冊。
片山恭一 「世界の中心で、愛をさけぶ」 小学館 2001.4.20
純愛小説・・・というより、ほんと現実味のないファンシーなお話。
一番びっくらこいたのは、読み終えてパタンと本を閉じた瞬間目に飛び込んできた帯の言葉。
『私の人生の一冊になると思います/何度も読み直してます/好きな相手ができたときは、この本の話をしようと思います』
とかとか・・・。私的には、話自体は超ライト級、観客席の歓声だけが超ヘビー級。
でも、内容がどうこうというより、本が売れないご時世にこれだけ売れて知名度があって「勝ちゃあ何でもOK」って私思いました。
これ出版界の勝ち犬っていうんでしょーかね・・・?
ただ、先入観もあってじっくり読めなかったのが残念といえば残念なところ。
平松 剛 「光の教会 安藤忠雄の現場」 建築資料研究社 2000.12.9
この本は安藤忠雄がそこそこ名が通るようになってきた頃、手がけた大阪・茨木の光の教会ができるまでの紆余曲折を描いたノンフィクションである。予算3000万円に対して、安藤事務所が出しだ見積もり額8000万円。折りしも、日本はバブル経済真っ只中。建築職人たちはより高い賃金の仕事に流れていくし、建築ラッシュで資材価格は高騰するしで、建築はなかなか前に進まない。
この教会に大きくかかわるのは、設計士安藤忠雄、安藤事務所の担当者水谷、施主軽込牧師、竜巳建設社長一柳、現場監督那須。それぞれのイメージやスケジュールやらが、ずっとかみ合わない。それぞれにストレスを抱えていたはずである。
たとえば、教会内で軽込牧師が立つ場所の後ろの部分にガラスのはめ込みをして光が十字架となって差し込むのだが、そこにガラスを入れず光を直接差し込ませたほうが、より光がシャープに入ると主張する安藤に、『どないすんねん!冬は俺ほっといたら、寒うて死んでまうで。刑法持ち出したら、殺人やで!』と軽込牧師。これ、けっこうまじで怒ってはったんちゃうかなぁって思う。
それに対して、安藤は『確かにガラスがないと快適性はなくなるけど、教会というのは喫茶店ではないからね。あそこにガラスがなければある程度の畏れや精神的緊張感がある教会になるだろう』と、光のダイレクトな力強さを語っている。
また、それに関して安藤事務所の担当者水谷は、コンクリートの壁面が完成しガラスをはめ込む前に差し込んできた光を見て、こう語っている。
『安藤先生がこだわるのは、こういうことだったのか・・・ナルホドね。この建築家の仕事をしていると、苦しいながらも、その工事の途中にほんの一瞬、がんばってよかった、努力が報われた、と思えるような時が必ずある』と。
イメージを形にする仕事。
モノをつくるという行為。
現実社会と現実と理想のスレスレの境界線。
そういった人間臭さと清清しさ、謙虚さが、ノンフィクションだから嫌らしくないし、押し付けがましくもない。というより、とっても爽快で前向きになれる。また、この著者の文章が独特なテンポで安藤さんのキャラクターに合っていたのかな?とにかくおもしろかった。
吉本ばなな 「キッチン」 角川文庫
私がこの世で一番好きな場所は台所だと思う。
仕事なのだが、スケルトンインフィルといって、キッチンの設計を対面式とかアイランド式とか自由に選べるというのが売りの、とある新築マンションがある。キッチンかぁ・・・と思って、頭のなかに真っ先に浮かんだのが、吉本ばななの「キッチン」の冒頭の一文だった。
だが、どうしてもどんな話だったか思い出せなかったので、読み返してみた。
喫茶店でコーヒーを飲みながら、いい加減な気持ちで読んでいたのに、いろんなところで涙がこぼれそうになって、ぐっとこらえた。
両親が死に、唯一の肉親だったおばあちゃんが死んでしまった桜井みかげは、田辺雄一とその母で実はオトコのえり子さんに拾われるという話。キッチンはみかげが孤独を一番感じさせられない場所。ぶぅーんという冷蔵庫の音に心を休ませる。それは、別にキッチンでなくてもいいのだろう。そういう場所が誰にでもある、ということを書きたかったのかなと思う。
だけど、同時に、それはキッチンでなくてはならなかったのだろう、とも私は思う。
家族がそろう場所。食べ物を食べて元気になる場所。誰かひとりの場所でなく、家族が行き交う場所。朝、出掛け、夜、戻ってくる場所。という意味において。
最後に、「夢のキッチン。私はいくつもいくつも持つだろう。心の中で、あるいは実際に。あるいは旅先で。ひとりで、おおぜいで、二人きりで、私の生きるすべての場所で、きっとたくさん持つだろう。」とある。
家族は、毎朝、家を出るのと同じようにしてこの世から去って行った。そして雄一とえり子さんと知り合った。やがてこのキッチンを出て行くのは私だ。わかってるの。ようやくわかったの。私は一歩、前に踏み出せそうです。
と、そんなさわやかな、終り方。
続編があったなんてこと、すっかり忘れてて続けて読んだ。
以前読んだ時は、何も思わなかったはずなのに、今は何度も何度も繰り返し読みたいと思っている。不思議。こういうことがあるから、(それは本には限らないけど)小説っておもしろい。
これは、泥棒学校のくまさかとらえもん先生が、生徒の石川のろくでなし、ねずみ小僧のじろきち達に、一番悪い泥棒になるよう、盗みの宿題をだしたり、夜中の10時集合・出刃包丁とねじ回し持参の遠足に連れて行ったりするお話し。遠足の行方は・・・
小さい時、加古里子さんの絵本をよく読んでもらったが、「どろぼうがっこう」はなかでも特に好きだったのをよく覚えている。
「ぬきあし・さしあし・しのびあし」というリズム感と、悪い事をこっそりするイ・シ・シ・シ・シというスリル感が、何度読んでもゾクゾクきてたんだろう。
帰省中、もうすぐ2歳になる姪っことよく遊んだのだが、そんなリズム感とスリル感を楽しむ悪ガキ部分がすでに芽生えていたように思う。
友達の名前をメロディにのせて口ずさんでいたり、家の中でもちょっと薄暗い物置のような部屋に行きたがったり、そこで探検してる気になって楽しんでいるみたいだったり。まだこの絵本は早いが、読めるようになったらどんな反応をするんだろう?こんな事を「楽しみ!」と思う自分を振り返り、やっぱおばさんになってもーたなぁと自覚(してしまった)。
経済の仕組みを絵本で紹介するという画期的な絵本!
もう少し説明すると、政府の市場介入によって景気回復やインフレ収束をはかろうとするケインズ主義の立場から、経済の仕組みを絵解きしたもの。
あるレモネードがとびきりおいしい街がお話しの舞台。そこでレモネード店を開きおこづかいをかせぐ女の子が主人公。だが、ある時不作によりレモンの値段が急騰。レモネードの値段を釣り上げると、レモネードを買っていた友人たちのペンキ屋さんや犬小屋さんも続々と値上げしはじめ、<インフレ>がはじまった。給料を払えなくなったペンキ屋さんは手伝ってもらっていた者の一時解雇<レイオフ>を断行、お小遣いを使わなくなった子ども達は当然レモネードも犬小屋も買わなくなる。しかたなく値下げ・値下げ・値下げの<デフレ>が始まった。彼女達は親からの資金援助を受け徐々に需要と供給のバランスが整い始める・・・と、ざっくりこういう具合だ。
今や、「金持ち父さん 貧乏父さん」で幼い時からお金の話・経営者感覚を養うという発想を快く思ったり、抵抗感があまりないという世代が親となっている。が、20年以上も前に、うちでは大絶賛でこんな絵本を読んでいた。(母親はちょっとどうかな?と思っていたらしいが)
とにかく絵が可愛・憎らしいのだ。そして、女の子がレモネード屋さんをやっているという設定に共感を持ったのもあるかもしれない。(そういえば、私は家でコーヒー屋とか言ってメニューを作って、家族に無理やり注文させていたような時期もあったっけ・・・もちろんちゃんと値段もつけて)そして、表紙のジェットコースターの乗り物になったレモンに登場人物が乗っているように、短い絵本のなかで経済の浮き沈みがちゃんとある。ドキドキするし、ハラハラするけど、小屋だったレモネード屋が大きなパラソル付きのレモネード売り場になってる。周囲に風船が飛びまわり、人々が集まっている。そんなハッピーエンドに物語りとしてのおもしろさもあった。
その後20年近くを経て、私は税理士事務所で中小企業の経営に関わってきた。そしてそこで実際の経済(というよりも経営)がどれほど困難であるかを身に沁みて実感している。そんなうまいこといくかい!ってこともわかっている。金持ち父さんにしても先取りしていたこの絵本にしても、理論を学んでおくことは重要だとは思うが、経営者感覚というのはやはり実務の中でしかわかるものではない。経験に勝るものはない。
桐野夏生 「光源」 文春文庫
映研あがりでたいした経験もない薮内三蔵の脚本に目をつけた映画プロデューサー玉木優子が、かつての恋人で撮影監督である有村秀樹、無名時代に優子が目をつけブレイクした有名男優の高見を誘いはじめた映画「ポートレート24」。
このひとつの映画をめぐって、映画は誰のものなのか、作品としての映画の魅力、予算の制限、人間関係の崩れなど製作の過程を時系列を追って進んでいく物語。
映画の内容は、妻を失った細野が旅に出、1本のフィルムを取り終わると同時に自殺すると言う暗い話。しかし、制作過程でキィとなる主婦役で元アイドル井上佐和の登場によって、脚本が書き換えられ、徐々に魅力を増していく。脚本を書いた監督三蔵の思い描く映画、夫に秘密で家を抵当にいれてまでかき集めた金を出した優子の思い描く映画、主演男優細野役の高見が思い描く映画。それぞれのズレが映画制作の進行を妨げ、高見は結局、降板を告げ、映画化権は大手映画会社に買い取られる。
映画をつくる過程がよくわかる。
撮影に関わる人たち、例えば、監督、プロデューサー、撮影監督、照明班、助監督、俳優、エキストラ、雑用係などが登場して、あぁ、映画づくりって共同作業なんだなぁ、と。
そして、この本は誰が主人公というのがない。
最初は撮影監督の有村の視点で描かれていが、途中から優子がメインで、最後は細野。
それぞれの山があって、気づくと別の人物が主人公になりかわっている感じだ。
この話は人間の明るい部分やハッピーエンドとは対極にある。
どんなにできた人間だって持っている、黒やダークグレーの部分を、そこでもがいている姿を、できればそうなりたくない姿を描いている。そこで登場人物が自分の人生にどう光源をあてるか、と悩み苦しむ姿はトンネルの中の一筋の光のようにも見える。
ラストシーンで、細野は絵に描いたような成功した俳優という職業を捨てようとしている。だが、本当にそれができるのかどうか、まだわからない。わからないまま終ってしまう。それに、話の展開からして細野でラストを締めたことにも驚きだ。(というより、え!ここで終るのっ!!という感じ)
さんざん書いてきた三蔵や優子、最初主人公のように描かれた有村は最後はすっかり脇役になっている。予想もしなかった展開にいつも不思議な感覚をおぼえる。
その桐野さんの投げっぱなし感が私は大好きだ。
桐野夏生 「残虐記」 新潮社
10歳、小学3年生の景子を誘拐拉致監禁した安部川が刑期を終えて出所した。景子は1年1ヶ月あまり監禁された後、無事保護され、現在は作家・小海鳴海となってひっそりと暮らしていた。今になって安部川から手紙を受け取った景子は25年前の記憶を記した「残虐記」を残して失踪する。そこには、幼き頃、拉致されてケンジと過ごした1年1ヶ月の出来事と、それ以降の家族の崩壊、景子自身の性的人間としての目覚めが記されていた。
失踪した妻の原稿を見つけた夫が、出版社の小海鳴海担当の編集者に原稿を届ける手紙と、残虐記の内容と、それに答える編集者の手紙で構成されている。性的人間というのがイマイチよくわからなかったが、もう一度ゆっくり読もうという気にもならないほど、事件事態が悲しくやりきれない出来事だし、どうせ書くならもっとエグク書いてほしかった。
タイトルの強い印象にだまされ読んでみたが、ちょっと疲れるだけのはなし。
大田区にあるゼームス坂というところに、取材に行った。
その坂は、もともと急な坂で、そこを行き来する農民が大変そうだったのをゼームスさんが見て私財を投げ打ってなだらかな坂にしたということから名付けられたそう。だが、その坂を有名にしているのはそんな小話ではなく、高村光太郎の「智恵子抄」で智恵子がレモンをガリリと噛んだ病院がある場所だからである。
というわけで、読んでみた。
小学校か、中学校以来である。当時読んだ時は、レモンと言えばワックスのよくかかったサンキストで、みょうにテカテカして、べたべたして、とても皮のうえから齧るような物でなく、ニガソウとか、病人がそんなんしたらあかんわ、とかそんなふざけたというか、率直な思いしか浮かばなかったのだが、今読み返してみると、その美しさとか、飾らなさとかをひとことひと言に感じる。
「智恵子抄」のなかに、「あなたはだんだんきれいになる」というのがある。
「をんなが附属品をだんだん棄てると どうしてこんなにきれいになるのか
・・・見えも外聞もてんで歯のたたない 中身ばかりの清冽な生きものが 生きて動いてさつさつと意欲する 」
光太郎の智恵子へのふかぁい愛情がひしひしばしばし伝わってくる。
智恵子が精神をわずらって、死へ向かう途中の頃だろう。智恵子は、切り絵の才能が開花して、つぎつぎと切り絵の創作に励んでいたという。さつさつと意欲するという躍動さと、附属品を脱ぎ捨てて子どものような清冽さ。死へ向かうなか、智恵子の病気からくる衝突があってもなお、智恵子を思う光太郎の目線が暖かくて、暖かくて・・・。
「時々内心おどろくほど あなたはだんだんきれいになる。」
飲んだ次の日、夜更かしした次の朝、自分の顔を見て年を感じる今日この頃。そんなことじゃないんだと思いつつ、だんだんきれいになっていく、相手を内心驚かせるほどだんだんきれいになれないものかと思うのだが・・・。
兎にも角にも、相手探しが先。
延藤安弘 「何をめざして生きるんや 人が変わればまちが変わる」 プレジデント社 2001.5.30
『住宅とは生活物語を育む場である。住み手の生活物語がゆったりと育まれていく場所である。』
と、延藤さんのどれかの本で書いていた。
なんかステキな言葉だ。
縁側のねこ。犬の鳴き声。季節の花々。
隣のおじいさん。おばさんたちの立ち話。公園のお母さんたち。
子どもたちの笑い声。
見張り番のようなおじさん。
うれしそうに孫の手を引くおばあちゃん。
お菓子屋さんの口うるさいおばさん。
友達のおばちゃん。
どれも生活に色をつけ、鮮やかにしていくものたち。
感受性を育む環境もあれば、感受性を奪う環境というものだってあるのだと思う。
仕事で、人生で一番大きな買い物=家を買うとき、絶対譲れないものって何だろう?と思っているときに、立地=地域と思い、手に取った本。超大型マンションが建設されて、もともとの地域性などもかわるのだろうが、それを古きよきものがなくなるというよりも現実としてどう変化していくのか。千葉大の先生であるこの延藤さんに今後ぜひ調べていってほしいと思う。
その関係で、『子育てで選ぶ街』というAERAのムックを読んだ。
東京23区と主要都市の幼稚園・保育園、子どもに関わる援助などを数量化してあり、数値だけで比べられるものではないが、延藤さんの本とは違った視点でまたおもしろかった。
文藝春秋・編 「私の死亡記事」 文春文庫
『死を考えることは、生を考えることだ。』
編集講座に通っていた時、自分への『弔辞』を書くという課題があったことを思い出し、手に取った。
自分はどんな生き方をしたいのか・・・
うんうん悩んで書いたもので、今、読み返すのも空恐ろしい作文だ。
この本には、阿川弘之、阿川佐和子、嵐山光三郎、桐野夏生、西部邁(すすむ)、筒井康隆、山口昌男、渡辺恒夫、高野孟、南伸坊、横尾忠則・・・などなど、104人の人が自分の死亡記事を書いている。
死亡記事なんだが、もちろん暗いものではなくおもしろいものである。
フフッと笑いがこみ上げてくるようなユーモアあふれる人や、意味がよくわからない人など。
たとえば、筒井康隆は、若い頃はSFで飛ばしたが、年老いて頭が固い扱いづらいと敬遠され、文壇からも追い出され、最後は原宿で若者グループと乱闘。全身打撲、内臓破裂で死亡。(よくご自分の事わかってはるやん)
高野孟は、モンゴルからちょっとトルコに行ってくると馬に乗って行ったまま、それっきり。(この人には、四国で米をつくれって言われたっけ・・・)
渡辺恒夫は、カラスの駆除中、屋根から転落死。ちなみに巨人は2019年までに20連覇を果たし、長島監督は84歳で現役監督、最長記録を続進中とのこと。(残念ながら阪神が優勝してしまいましたね)
横尾忠則は、霊言で死を伝えていた。もう、絵にしたほうが早いのではと思わんばかりの意味不明さ。(短いんですけどね)
死亡記事というものは、その人の業績、エピソードが同時代の評価にさらされ、集約した形で書かれるもの。
自分の貫く主観と、自分を客観的に見る視点の双方が必要。
そして当然、読みながら『私なら・・・』となる。
ばっさりと、おもしろく、でもまじめにたまに考えてみようと思う。
それは課題と同じで、今の自分となりたい自分を考えることだから。
それにしても、それを公表するのだからモノを書く人・・・表現者というのはスゴイなぁとつくづく思った。
綿矢りさ 「蹴りたい背中」 文藝春秋
ハツ(♀)とニナガワ(♂)。ともにクラスに馴染めず、「班に分かれて」という授業で残りものになってしまった。ふとハツはニナガワを見ると、女性誌を穴があくほど見ている。ニナガワは、モデルのオリチャンのファンだったからだ。そして、ハツがニナガワに「見たことあるよ」というところから、友達のいない、2人の奇妙な関係がはじまった。
ハツとニナガワは彼氏・彼女じゃないけど、恋愛抜きでも、そんな青臭さって描けるんだなという清涼感があった。表紙の何を狙っているのか意味不明の感じ悪い絵に比べて、読後感はすっきりしたもの。ただ、19歳の作家が、これからの人生でリアルタイムですれていき、それに伴って作品がどう変化していくのかが楽しみなような、恐ろしいような・・・。
金谷ひとみ 「蛇にピアス」 文藝春秋
スプリットタン・・・蛇のように先が分かれた舌を持つ赤い髪のアマと、その彼女ルイ。お互い、本名も、勤め先や家族のことなど何も知らないふたりと、スプリットタンにしようと、アマの紹介で行ったDesireの店長、シバさんの物語り。
アマとルイと友人と3人でべろんべろんに酔っ払ったある夜、ルイにからんできたチンピラたちを振り払おうと、アマは彼らを殺しか ける。パンクなくせに、癒し系のアマは、普段は温厚だが、時に歯止めがきかなくなるのだ。一方、ルイはdesireで、シバさんにsexと交換に麒麟と龍の刺青を彫ってもらっていた。
少しずつ完成に近づく、スプリットタンと刺青。
ある日、警察からアマの調査が入る。チンピラは死んでいた。そして、アマもいなくなる。途方にくれたルイは、酒びたり、痩せ細り、生きる気力も失うが、アマの死因について知らされて、生きる支えを見つけたかのように動き出した・・・。
一読目の印象は「19歳?!なんてすごい性描写!」。ルイとアマ、ルイとシバさんのsexは、ほぉ〜、さすが、学校行かんで彼氏と同棲しとっただけあるなぁと作品と作家の生活を結び付けて考えてしまうほど。テンポがよくて、リアルで、生々しくて、文章がそのまま映像になって動き出す。・・・官能小説ってこんなん?読んだことないが、谷崎潤一郎とかより、ぜんぜんリアル(生きている時代が違うし、しかたないか)
でも、それはそれでおいといて、ぐぐっって身に迫るところもある。
『大丈夫、大丈夫だってば・・・。私は自分に言いきかせた。舌ピをした。刺青が完成して、スプリットタンが完成したら、私はそのとき何を思うだろう。普通に生活していれば、恐らく一生変わらないはずの物を、自ら進んで変えるという事。それは神に背いているとも、自我を信じているともとれる。私はずっと何も持たず何も気にせず何も咎めずに生きてきた。きっと私の未来にも、刺青にも、スプリットタンにも、意味なんてない。』
世の中の基準とずれること。世の中のレールを踏み外すこと。どうしてそうするか、自分でもわからない。何の意味があるのかわからない。でも、敢えてする。そして、一度踏み外したら、自分で選んだら、なんともいえない不安定な浮遊感。そして、気持ちいい優越感。ただ、「そうする事」に意味があって、「それ自体」には何の意味もない。
あぁ〜あ、何がいいたいんだぁ?って考えてると、国語のテストを思い出してしまった。今日は、このへんでもうや〜めた。
そんなこと考えなくても、歯切れのいいテンポと、よくつくられたストーリーがラストまでぐぃっっと引っ張ってってくれるし。なんてったって、史上最年少芥川賞やで!
小池真理子 「恋」 新潮文庫
ブックオフで見つけて、「そういや、最近恋してないな」と思い、ついつい購入。
女性作家のものは、これまであまり読んできてないので、それも楽しみにしつつ、読んだ。
感想は、おもしろいけど、古臭い。
恋愛と肉体関係。 心と体。 テーマとしては、誰もが心に持っているもので、軽々しく口に出せないもの。 だからおもしろいし、知りたいし。でも、古い本を読んでいるからしかたがないが、読んでいくうちに、そろそろこういう展開で、もうすぐ終わりだから・・・と想像できるところが、おもしろいんだけど、火曜サスペンス的。
今は流行らないだろうなぁ。宮本輝の「オレンジの壺」とか「避暑地の猫」に似たものを感じた。恋愛を軸に、サスペンス仕立てで。これはこれでおもしろいけど、ぐっと来るものに乏しい。ひとつの完結したきれいな物語りなら、正直、TVでもいいんちゃう?と思ってしまう。まぁ、これを言うとミモフタモナイが、結局好みの問題か。
でも、長いのに、飽きずに読めたし、やっぱりおもしろかった。
今、70年代安保闘争のころの人について、少し興味があったりするので、72年冬に起きた浅間山荘事件を背景のひとつに据えていて、そういうところとは無縁の学生を描いているところなどが、ほんとうに少しだけど、参考になった。
坂口安吾 「堕落論」 新潮文庫
『人間は変りはしない。ただ人間へ戻ってきたのだ。人間は堕落する。義士も聖女も堕落する。それを防ぐことはできないし、防ぐことによって人を救うことはできない。人間は生き、人間は堕ちる。そのこと以外の中に人間を救う便利な道はない。
戦争に負けたから堕ちるのではないのだ。人間だから堕ちるのであり、生きているから堕ちるだけだ。たが、人間は永遠に堕ちぬくことはできないだろう。なぜなら人間の心は苦難に対して鋼鉄のごとくではありえない。
人間は可憐であり脆弱であり、それ故愚かなものであるが、堕ちぬくためには弱すぎる。
人間は結局処女を刺殺せずにはいられず、天皇を担ぎ出さずにいられなくなるであろう。だが、他人の処女でなしに自分自身の処女を刺殺し、自分自身の武士道、自分自身の天皇をあみ出すためには、人は正しく堕ちる道を堕ちきることが必要なのだ。
堕ちる道を堕ちきることによって、自分自身を発見し、救わなければならない。政治による救いなどは、上皮だけの愚にもつかない物である。』
ふぅ、堕落論ですかぁ。
高校生の時、これを読んでいる人がいたが、なんてすごい感受性!私には、ただ、この文体にかっこよさと、理解不能さと、時代のずれを感じさせられるばかりだ。そして、『グロテスク』『東電OL殺人事件』と読んで、『堕落論』を読む私はホントミーハー娘この上ないと思わせられるばかり。
堕ちきることによって、自分自身を発見し、救わなければならない。かぁ。 でも、なんかわかる。 自分を追い込んでこそ、追い込まねば、深いところにいる自分には出会えないもんなぁ。。。就職活動の自己分析なんかそうでしょ?
ってことでいいのかなぁ?いいよな。
軽すぎか?
斉藤美奈子 「男性誌探訪」 朝日新聞社
毎度のことですが、「よくもまぁ、ここまで」という一冊。男性誌というのは、実は私、結構好きで、理解不能な男の人やおっさん達がどんな事考えてんのかなぁとか、何を知りたがってんだろうと時々、パラパラめくる。で、「趣味は読書」以来、斉藤さんのファンになってしまった私は、普段だったらこんな本、絶対買わないはずなのに、あぁ〜あ、何を血迷ったか、買ってしまった・・・。
まぁ、おもしろいんだけど、正直、買う必要はなかったかな、の一冊。
それより、雑誌『サイゾー』で、斉藤さんインタビューみたいなのがあって、斉藤さんにサイゾーを評価して一言もらっていたのが、おもしろかった。サイゾー編集部の人たちは、さぞかしドキドキしたのだろうかと。。。ちなみにその評価は『ダカーポ並みにひねくれていて、社会を斜めから見る視点には長けているが、独自の意見を持ってないのが残念』(うる覚えです!)って感じだった。私、ダカーポとサイゾー、結構愛読してるんだけど、、、
佐野眞一 「東電OL殺人事件」 新潮文庫 2003.9.1