
窓を開けたら、目の前の中学校の校舎の上にちょうど細い月が白々と昇ってきたところだった。ビーチサンダルを引っ掛けて表に出た。
脇の外灯に照らされた木では、眠れない蝉がわしわしと鳴いている。昼間は車通りの激しい道路も、今は黄色く信号が点滅しているだけだ。ぺたぺたとビーチサンダルのかかとを引きずりながら歩道を歩いた。隣の寿司屋の前を過ぎ、シャッターを下ろしたドラッグストアの前を過ぎ、静まったガソリンスタンドの前を過ぎた。コンビニに入ろうかと思ったが財布を持っていないことに気付いて、そのまま通り過ぎた。
コンビニを過ぎてしばらく歩いたがどうもそろそろ見なれた道に飽きてきたので、ひょいと普段は入ったことのない脇道へ入ってみた。ゆるゆると下る坂で、細い道の両側は静まり返った住宅地だ。
しばらく両脇の家々の品定めをしながらぺたぺた歩いていると不意に、
「旦那さん、旦那さん」
と、声をかけられた。思わずびくりと立ち止まったが人影はない。
「旦那さん」
かすれた声にひょいと足下を見てみると、生け垣の根元でよく肥えたねずみが手招きしているのだった。
「なんだい?」
と聞くと、小さな鼻をひくひくさせながら煙草を一本くれと言う。
はて、先程持って出てきたろうかと思いながらジーンズの尻ポケットに手をやると、はたしてそこに煙草はあった。しゃがんで一本差し出し、火をつけてやる。ねずみは丁寧に礼を言うと、小さな両手で吸い口をつかみゆっくり煙草をふかし始めた。
なぜこのねずみに俺が煙草を持っていることがわかったのだろうかと不思議に思ったが、ねずみのせわしなく動く鼻を見てなんとなく合点がいった。
自分もねずみの隣にしゃがみ込んで一本くわえる。
ねずみは器用な手付きで、両手につかんだ煙草を口に運んでいた。
ぽっぽと煙を輪にして吐いて、見ろ、とねずみをつつくと、ねずみは黒くて小さな目を輝かせて大いに喜んだ。せがまれるままに、いくつか輪っかをつくってやった。
自分が一本を灰にする間に、ねずみの煙草は半分くらいしか燃えていなかった。それで満足したのか、ねずみはその半分ほどの燃えさしを排水溝に投げ入れたので、自分もそれにならった。
ねずみは再び丁寧に礼を言うと、ちょこちょこと生け垣の向こうへ消えていった。自分は軽く手をあげてそれを見送ってから、うっそりと立ち上がって、ゆるやかな坂を今度は登った。
明るいコンビニの前を過ぎ、ガソリンスタンドの前を過ぎ、ドラッグストアの前を過ぎ、寿司屋の前を過ぎて部屋に戻ると、あらかた昇りきった月を見ながら寝た。
窓を開けたら、ちょうど夕方から降り続いていた雨が上がったところだった。厚い雲が切れて、微かに星が見える。うちわを手に、ビーチサンダルを引っ掛けて表に出た。
アパートの階段を下りて道路に立つと、湿気で昼間以上の蒸し暑さだった。道路に出て、信号だけが静かに点滅する車道の真ん中を歩いた。
道路にはところどころ薄く雨水の溜っているところがあり、底の薄いビーチサンダルのおかげで、足がすぐに濡れた。濡れた足が滑って、ビーチサンダルがきゅうきゅう鳴く。
隣の寿司屋の前を過ぎ、ドラッグストアの前を過ぎたところで角を曲がった。細い私道のような道を歩く。とたんに外灯の間隔が長くなって、足下が不如意になった。
しばらくは黒々と濡れたアスファルトが続いていたが、もうしばらく歩いていくと、両側にブロック塀が立ち並んでいる辺りから地面がむき出しになっていた。窪んだ二筋のタイヤ跡に水が溜っている。注意して歩いたが、やっぱりはまった。水たまりを気にするのはやめにして、濡れたジーンズの裾を折り返し、ビーチサンダルをきゅうきゅう言わせながら歩いた。
きゅうきゅうきゅうきゅう歩いていたら、誰かが後ろを歩いているような気配がした。後ろを振り向いたが、誰もいなかった。自分の足音が響いているのだろうと思ったが、再び歩き出すと、やはり自分のものではない柔らかな足音がする。ぐるりと首を巡らせたら、ブロック塀の上にいる白い猫と目があった。
猫は悪びれた様子もなく、俺の首に向かって少し顎をしゃくってみせた。はしこそうな目がきらりと光る。
俺は首に巻いていたタオルを猫の首にかけてやった。猫はうれしそうにタオルの端をくわえ、ブロック塀の上を小走りに去っていった。
俺は猫が走り去った方に向かって、きゅうきゅうきゅうきゅう歩いた。
しばらく歩くと道より一段高くなったところに、平家造りの建物と外装で幼稚園だとすぐに知れる建物があった。低い植え込みの内側にフェンスがはり巡らされ、その中が園庭だ。植え込みの外側からのぞくと、園庭の隅の常夜灯の下で、たくさんの猫たちが集まって輪になっていた。輪の真ん中では数匹の猫がふらりふらりと踊っていた。どの猫も頭から手拭いをかぶっている。豆絞りや七福神のや屋号を染め抜いたのもあれば、オレンジやピンクや真っ白のタオルもある。輪の中に見覚えのあるタオルを見つけた。先ほどの白猫だ。
後肢で立って自由になった前肢が柔らかく動く。しっぽの先がゆらゆらと揺れる。常夜灯で、黒猫の毛先が白くけぶる。一匹が踊りだすと一匹が輪に戻る。入れ代わり立ち代わり、猫たちはひらひらゆらゆらと踊り続ける。周りで輪になっている猫たちははやし立てるでもなく、それは静かで奇妙な光景だった。
しばらくそうして見ていたら、雨が落ちてきた。見上げると、まだ残っていた雨雲で空が白っぽい。すぐに結構な降りになった。猫たちが三々五々に駆け出していく。自分も帰ろうと思い、フェンスから身を離した。きゅうとビーチサンダルが鳴る。その音に、白猫が振り返って俺の姿を認めた。こちらに駆け寄ろうとするのを手で制する。そのまま行けと手を振ると、猫はタオルを頭からしっかりとかぶって走っていった。
うちわで雨を避けながら足をきゅうきゅういわせて、ブロック塀の間を通り抜け、角を曲がり、ドラッグストアを過ぎ、寿司屋を過ぎ、部屋に戻った。部屋に戻ると、開け放した窓から雨が吹き込んでいた。
窓を開けたら、目の前の中学校の天体ドームの丸い表面に、オレンジ色に染まった雲が映りこんでいた。薄く刷毛で掃いたような雲が何層にも重なっている。煙草と灰皿と白ワインの小瓶を持ってベランダに胡座をかいた。よく冷えた瓶はすぐに汗をかいて俺の手を濡らして、温くなったワインは少しずつ甘みを増した。空を、時計の短針の速度で、雲がゆっくり流れていく。オレンジ色に紫が混ざり、空気が青くなるまで、そうしてドームの表面を見ていた。
東の空から遅い月が昇ってきた。
ベランダの手摺の端の方で白いものがはためいていると思ったら、それは先日、ネコに貸したタオルだった。
立ち上がってタオルを首にかけ、煙草を尻ポケットに突っ込むと、ビーチサンダルを引っ掛けて青い空気の中に出た。秋の虫が鳴いている道を、水の中のようにゆっくり足を進めた。