ヒポコンデリー。



長雨に 枕の位置を変えてみる      敦盛草



 何もかも嫌になった。
 最近ため息ばかりだ、と男が私に言った。同じクラスの、級友というやつだ。教室から出たところの喫煙所で、煙草を吸いながら、実に重大なことを語っている口調で、そう言った。そう親しくもない私に向かって、実に厳かに、最近ため息ばかりだ、どうしたらいい? と言うのだから、なかなかに思いつめているらしい。楽しいことが何もない。何もかもが嫌なんだ。つらつらとそんな言葉を通して、要はこんなはずじゃなかったんだということを彼は伝えたがっていた。
 背のないベンチが置かれた廊下の隅は湿っぽかった。開け放ってある窓から湿った風が吹いて、灰皿の誰かが消し損ねた吸い殻からのぼる煙を揺らしていた。朝から雨で、少し蒸し暑かった。私は髪に臭いがつくことを気にしながら煙を吐いていた。
 テメェのことなんざ知るかよ。
 事実私は彼の名前も知らなかった。
 煙草から口を離して、
「五月病ってやつなんじゃない?」
と言ってやった。オプティミストを装った笑顔で。
 暦はとうに五月を過ぎていた。
 彼は自分の重大な悩み事がそんな一言で片付けられてしまうのは心外だったらしく、最近の自分の病状について語り出した。
 人の理想と現実に興味はない。私は湿った空気の中でなかなか燃えない煙草を煙りにすることに没頭した。
 どこにいても、楽しいことはそれなりにあるし、そうでないこともそれなりにだ。そんなことも知らない輩が多すぎる。


 彼らは自分には何かができると思っている。何の根拠もなく自分はこんなもんじゃないと素直に信じることができる勇気を持っている。
 自分の望むやり方と、自分の持っているやり方は違うことを、知っている人間は少ない。
 無知は、知らないということは、最も恥ずべき罪だ。悪気のない悪意ほど始末におえないものはない。


 風がゆらりと顔を撫でた。
 わざわざ喫煙所まできて煙草を吸う輩は稀だった。今は私と男だけだ。マナーの悪い輩が多い。教室の後ろやベランダには吸い殻がたくさん落ちている。相変わらず煙草は燃えにくく、私はゆっくりと時間をかけて一本を灰にした。
 男は少し前から黙っていた。まだ言い足りないような顔をして、手持ち無沙汰にライターをいじっていた。何か言うことを期待されていたが、あいにく感想は何もなかった。


 「五月病」が蔓延していた。いくつもの顔に見えるこんなはずじゃなかったというつぶやき。それを五月に限らず年中顔に貼付けていた。私は彼らの意識されない自意識を呪った。
 皆が苦しんでいた。こんなはずじゃなかったと言って。そして誰もが、自分以外のやつらを軽んじていた。悪気のない悪意で。いつでも、真に悩む価値があるのは己のことだけだった。
 誰もが目の前の人物を軽んじて、どことも知れない遠くにいる人に思いをはせた。自分の腕が触れる相手ですらなんら影響を与えられないことを知ってか知らずか、まだ見ぬ誰かに思いをはせた。ここにいない人間はどこにもいないのと同じであることを、誰も知らなかった。
 自分の望むやり方と、自分の持っているやり方は違う。
 自分の腕の届く範囲ですら、動かせない石は転がっている。腕の届かない範囲の石なら尚更。動かすべくもない。
 自分が、自分たちが、矮小であることに気付かない無邪気さを呪い、無邪気になり得ない自分の自意識を呪った。
 出来ることといったら、それなりの楽しいことを大切にするだけだ。目の前の一本の煙草に集中し、それを煙りにすることに没頭するだけだ。
 風で煙りは気持ち良く窓の外へ流れていった。


モドル。