俺の吐き出した煙が蛍光灯の下で白くとぐろを巻いている。その下で俺はぼんやりしている。狭い台所にはタバコの煙が立ちこめて、うっすらと白い。
そうだ換気扇を回さなくちゃな、と俺は4回目の独り言を口の中でモゴモゴつぶやいたが、なにせ足の先までぼんやりしているものだから、そう思ったところで体が動かない。ぼんやりしたままタバコを吸った。
吸い殻でいっぱいな灰皿を乗せたテーブルをはさんで俺の反対側には、褪せた青いビロード張りの椅子に猫が一匹、あまり珍しくもないキジトラの毛皮を柔らかに鈍く光らせて鎮座している。凶器を隠した丸い手をきちんとそろえ、まるで三つ指つくようにちんまりと坐って俺を見ている。正面から見ると少し笑っているようで愛嬌がある大きめのマズル。太めの尻尾がだらしなく椅子から垂れている。時折その先がぴょいぴょいと上を向いて揺れている。
俺は足を組み替えて、組んでいた腕をほどいた。その動きに猫がツイと顔をあげて俺を見る。くわえていたタバコを右手に持ちなおし天井に向かって細く煙を吐き出すと、愛想のないむき出しの蛍光灯の下でぼやぼやとしたマーブル模様が揺れていっそうぼやぼやとした。
それを見ながら俺は、はてコイツはどこから入って来たのやら、と猫について考えた。首輪はしてないな。してみると野良。その割に毛並みは悪くない。見たこともないヤツだ。俺は別に猫嫌いじゃあない。かと言って見ず知らずの猫を家に上げるほどの猫好きでもない。しかし現にコイツは俺の目の前にいる。俺はそれが意味するところについて考えようとしたが、何せ俺はぼんやりしていて頭のてっぺんまでぼんやりしているものだから、猫の存在意味の謎は解けそうにない。
ごりごりと顎をこすりながら上向いた顔を戻して猫を見ると、猫は意味ありげにゆっくりとまばたきをした。俺の視線を多分に意識した、媚びのあるまばたきだ。猫なりに意味があるのかないのか俺は知らないが、あんなまばたきは意識的に目蓋をコントロールしけりゃ出来ないことは確かだ。薄い山吹色の透明な目がゆっくりと閉じられて、そしてまたゆっくりと開く。鈍い金色に囲まれて綺麗なエメラルドグリーンの虹彩が見え、そしてその中心には深い紺色をした瞳孔がある。それが目を開けた瞬時に収縮して細くなる。よくよく見なければわからないがエメラルドグリーンの中にもところどころ、不出来な翡翠のような白っぽい部分がある。俺はなんだか少し、ほんの少しだけこの猫が憎らしくなった。
じっと見つめていると、凝視に弱い小さな獣はふいと視線を外した。正面を向いていた顔が横を向き、俺は猫の目を今度は真横から見つめた。眼球の前半分はまったく透明なガラス玉だ。人間のものとは違うつくりをしている。金茶の濡れたガラス玉の向こうに、短い睫毛が透ける。ヒゲと睫毛が容赦のない蛍光灯の下で白く光る。そいつを見ながら俺はなんとなく右の手で額をこすった。なんだか少し、胸のあたりがざわざわする。俺は続いて、落ち着きなく眉毛をこすった。
猫だ。そうだ、猫だな。
猫の耳を切符切りでぱちんとしたいと言った男がいた。確かにあのぺらぺらした耳はつい手を伸ばして裏返したりしてみたい気持ちにさせる。そうそう。確か、猫を食おうと言った猫好き男もいたな。
俺はテーブルに身を乗り出して頬杖をついた。使い込まれたテーブルの表面は少しべた付いてひんやりしていた。むき出しの肘がごりごりと板に当たる。
顔を近付けた俺を見て猫がかすかに首を引いた。
俺は手元の短くなったタバコを灰皿に押し付けて、新しい一本に火を着けた。テーブルの上の100円ライターを取り上げて左手を添えて火を着け、そしてまた戻す、その俺の手の上下を、少し首を引いたままの猫が興味津々といった目で追う。まだ首の後ろあたりを少し緊張させているけれど、上目遣いで俺の手を見つめる好奇心いっぱいのその目は、肉厚な口許と相まってとても愛らしい。コレにはさすがに俺も口許がほころぶ。
好奇心は猫を殺す。
外国製の文句だが、この言葉の意図するものを俺は知らない。猫は死ぬほど好奇心の強い生き物だってコトか? いや、好奇心が強いと身を滅ぼすというコトかもな。なかなか含蓄のある言葉だ。好奇心も度を越さない程度に、程々に。
ところで、俺はさっきからあの目にタバコの火を押し付けてやりたくてたまらない。これは度を越した好奇心だろうか?
あの水を満々とたたえたような美しい眼球にタバコの火を押し付けたら、きっと、ジュッといってパチンだ。俺は想像する。赤々と燃えるタバコの火が音を立てて消えて、そして表面張力で球形を保っているのではないかと思わせるあの潤んだ表面は、ふくらんだ水面をつついたグラスのように金茶の美しい水をこぼすだろう。輝く緑の虹彩は雲母のようにはがれやすいに違いない。白みがかった部分とその周囲ではきっと硬度が違う。白い部分は、俺が少し力を込めて指の腹で圧しただけで脆く崩れるだろう。
俺は想像する。 想像する。想像するだけだ。多分。
貧乏揺すりを始めた足をなだめるように組み替えて、俺は椅子の背もたれに深く身を預けた。ガタのきている古い椅子がかすかに軋む。俺はひとつ首でも回そうとしたが、それがあまりにごまかしめいた仕草だと思ったのでやめにした。
猫は飽きたのか、とうに俺から目を外し、首の後ろ、肩あたりを舐めている。短い首をひねって、何度も何度も舐めている。肩が終わると背中。尻尾の付け根。尻尾。
俺はぼんやりと、猫がパラノイアのような執拗さで毛づくろいをするのを見ていた。
尻尾の先まで舐め終わると、猫は腰を上げて伸びをした。おもしろいほどに背を山なりにして伸びながらそいつは大きなあくびをしたので、唇がめくれ上がって白いかすかな前歯と小さく尖った牙が見えた。口が大きく開いて引きつったように唇がめくれると、猫のかすかにピンク色をした鼻の横に幾筋かの皺がよってなかなかおそろしい形相になる。俺は幸いにもその顔を斜め前から見ていたが、不覚にも少しばかりぎょッとした。不覚にもぎょッとしてしまったので、仕方なく俺は首を回してみた。猫はそんな俺にはおかまいなしに、にょっきり爪をむき出して前足を伸ばし、次に後ろ足を一本づつ伸ばす。そして二三度ぐるぐるっと回ってからゴロンと椅子の上でとぐろを巻いた。今度はきちんと尻尾を体に巻き付けて。安心しきったように顎の下に前足を丸め込んで。
俺は手にしたタバコを灰皿のかすかな余地でもみ消した。そして換気扇を回そうと椅子から立ち上がった。