腐った水
瀬川草一
*
美しい街とは云い難い。汚れた高層建築が建ち並び、至る所に昏い陰の出来る、吹き溜まりの様な場所。地面の下には無数の水路が走る。
『水の都市』
一体、何処の誰が云ったものか。その美しい呼称はこの街に余りにそぐわない。水は汚れ、澱み、地下に追い遣られた。それとも、運河があった頃の呼び名なのだろうか。
現在、かつての運河は蓋をされ、この街の下を、水を腐らせ乍ら流れている。水は時に地上に溢れ、汚水の臭いを撒き散らす。
街には身元の知れない人々が無数に暮らす。定住しない者も多い。私の棲み付いている部屋の両隣の住人は、ほぼ一箇月毎に入れ替わる。
だからどうと言うこともない。この街は極めて刹那的だ。人は他人の持ち物に興味を持っても、他人自体には興味を持たない。
*
鼻を突く異臭と、きつい香水の匂いが混ざり合っていた。女達の嬌声が聞こえる。
既に日も暮れた。
私は入り組んだ道だらけのこの街でも、特に入り組んだ裏路地を歩く。慣れない者が歩けば即座に物陰に引き摺り込まれ、二度と出て来られなくなるのが常だが、私はこのような道に慣れている。物心付いた頃から、この街より他を知らない。
ふと足を止めたのは何故だろうか。
細い横道。汚水の臭いと、人々の生活の匂いの漂う暗がり。道の奥、踊る者が居た。
顔を伏せ、ゆうらりと、緩慢な踊り方をする。白く、細い指が鮮やかに翻った。どうやら等身大の人形らしい。黒衣を纏い、闇に融けようとする者の黒い手が、踊る者を操るのが見えた。この街によく居る芸人の一人が傀儡回(くぐつまわ)しの練習でもしているのだろう。
立ち止まったのは、ほんの数秒の間。再び歩き出そうとしたその時、人形が顔を上げた。
白い顔が昏い微笑を私に向けた。
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鮮やかに、彩られた光景だった。揺らめき、絶えず変化を繰返す。原色。無数に生まれ、消える色彩。眩暈を誘う色の洪水。
色。
光。
溢れて…
空間を歪める程のそれは、よく見れば鮮やか過ぎる。私は何故、こんなものを見ているのか。
――暗転。
「それはお前が狂っているからさ。」
昔知っていた女が、老いさらばえた皺だらけの指で私を指して嗤う。嗄れた、耳障りな声だ。
目を開ける。くすんだ天井が見えた。外は薄暗く、雨音が聞こえる。朝が近い。
夢を見るのは久し振りだ。さて、あの女は誰だったか。目を開けた瞬間、夢は雨音に紛れて消えた。朧(おぼろ)な印象だけが残り、それも直(じき)に消える。
今朝は風が強い。
*
数日間、降り続いた雨で、地下は増水したらしい。異臭を放つ水がその姿を地上に覗かせる。
傀儡回しの芸人が、いつの間にか増えている。人形が、あちらの角でゆらりと回る。そちらの路地で半身を折り曲げ沈み込む。細く暗い道の奥、白い指が天に向かって伸びる。
妙に生々しい動きをするのは、操り手の腕が良いからだろうか。
人形の顔は白く、のっぺりとした印象だ。唇には紅が注され、鼻は控え目に形作られ、睛の在るべき場所には漆黒の穴が在る。ゆるゆるとした動きは確かに緩慢ではあるが、ぎこちなくはない。むしろ滑(なめ)らかで、その様な動きは勢いに任せた無闇に速い動きよりも遥かに難しそうに見えた。
踊る腕や脚や、細い指先の動きの一つ一つが、無表情の人形に繊細で生々しい表情を与える。
見物料を取らずに、暗がりでひっそりと傀儡を回すのは些か奇妙に思える。それが鑑賞に値する芸であれば尚更。しかし、本人にしか理解出来ない事情と云うものもある。
部屋に帰った時、肘の内側に痣が出来ているのに気付いた。何処かで打ち付けでもしたのだろうか。コインくらいの大きさの、鮮やかに赤い痣。最初、血の染みかと思った。
*
「最近、妙に多くないか、」
道で、知り合いの男が云った。
「何が、」
傀儡回しの芸人の事だろうか。
「死人だよ。何処を歩いても、転がってやがる。」
「今に始まった事じゃない。」
「多いと思わないか、」
彼は僅かに不安そうな表情を見せる。何を神経質になっているのだろう。
「死体が転がっているのは、あんたの云う通り、今に始まった事じゃない。だが、何か気味が悪いんだ。」
男は数日の内にこの街を出る積りだと云った。別に悪い事ではないだろう。彼は元々、余所から流れて来た者だ。これまでも様々な場所を転々としてきたらしい。恐らく生まれた時からこの街に住んでいる私とは違う。
引き止める積りは全く無かった。好きにすれば良い。
「北の街に古い友人が居る。此処よりも綺麗で明るい街だ。あんたも来ないか、」
「行かない。」
即答した私に、男は苦笑した。
「そう云うだろうと思ったよ。兎に角、俺は行く。この街はどうもおかしい。何処がどうとは云えないがな。」
おかしいと気付いた時には手遅れだった、と云う事もよくあるが、それは云わずにおいた。
「短い間だったが、あんたには色々と世話になった。元気でな。」
体に気を付けて、と社交辞令を返して、男と別れた。
二日後、彼は汚れた道の隅で、襤褸(ぼろ)の様になって転がっていた。数日前に見た知人が死体になっている。よくある事だ。
街中に、死臭が満ちている気はした。
腐った水と同じ臭いだ。
*
暴れる水が居た。雨が降り、増水する度に、光の射さない暗い場所で水は暴れているのだった。
汚れた水は地下で澱み、腐り、異臭を放ち、時折、唸りを上げて渦巻く。唸りを上げて流れた後にはまた、汚れた儘の水が其処に澱む。地下の水は洗い流される事も無く、常に汚れている。ほかの場所の水も、此処と同様に汚れているのだろう。
地下には汚れた水が満ちている。
水の中に無数の柱を立て、板を渡し、蓋をして、その上に人が棲む。街は水の上に在り、住人は自分たちの下の汚れた水の存在を忘れようとしている様だ。
幼い頃、雨の夜の地下に降りて暴れる水を見た。鼻を突く異臭も忘れて、水の激流と轟音に心を奪われていた。
目覚めた時には覚えていないが、恐らくあの水は私の夜毎(よごと)の夢に現れている。暴れる水の激しさを忘れられない事が、私がこの街を離れようとしない理由になっていると思う。この街より美しく明るく住み易く、安全な街は幾らでもあるが、私がこの街を離れる事は無いだろう。
朝、赤い痣が増えているのに気付いた。鮮_を思わせるそれは、私の右腕の手首から腕の付け根までを斑(まだら)に染めていた。
その痣が背中一面を深紅に染め上げている事には全く気付かずに居た。
*
傀儡が踊る。白い顔。白い指。
街は最近静かで、出歩く人の数が目に見えて減っている。逆に暗がりの傀儡回しの芸人と、道に転がる死体が増えた。通行人よりも傀儡回しが多い気がする。気の所為ではないだろう。
通行人と擦れ違う事がなくなり、何処に行っても踊る傀儡を見る。何処に行っても、道端に襤褸の様な死体が転がっている。
汚れた高層建築は完全に無人となり、朽ちかけている。
相変わらず、汚水の臭気は漂う。
先日、腐った水の臭いを死臭と感じた。ならば水は死臭を放ち、この街は死臭に包まれているのだろうか。
湿気を含んだ重い風が吹いて、転がった死体の纏う布を剥いで行った。死体の肌は全て赤く斑(まだら)に染まっている。
暫く歩き、強い眩章を感じて立ち止まった。人気の無い、入り組んだ細い道が交差する一角だった。暗い道の奥で、白いものが踊っている。傀儡回しの人形だ。だが、黒衣を纏った操り手の姿が無い。
人形だけが衣装を翻らせて舞っていた。
操り手は闇に融けたのか。
一方の手が天に向かって伸び、細過ぎる白い指が何かを掴もうとする。一瞬後、鋭く大きな刃物がその手に握られていた。湾曲した刃が光も受けずに銀に輝く。
他方の手は白い顔に当てられる。顔が外れた。白い仮面の下から、更に白い髑髏が現れる。手は、元より骨だった。
巨大な刃物を手にして、骸骨が踊った。
ああ、そうか。あれは、dance macabreなのだ。
刃物を持った骸骨が死の舞踏を踊る。
この街にも病がやって来たらしい。
〈了〉
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