黒絹
                        瀬川草一






  *

 此処数日、仕事も無く雨が降るので、こうして薄暗い長屋から外に出ないでいる。
 畳が湿気を含んで不快な感触になっているのは振り続く雨の所為だろう。こうも湿っていては、傘張り堤燈張りをしても糊が乾かない。暇潰しに始めてはみたが片付かないので一日で厭きて止めにした。いつもは数日続ける事もあるのだが今は散乱(ちら)かるばかりで埒が明かない。
 この様に散乱り、その上、甘酸く饐えた臭いが薄く漂っているのを知ったら、あの娘はすぐに片付けに来るのだろう。私の様な、自分で考えても得体の知れない人間の世話を、何故ああも熱心に焼く積りになるものか。

 手を着くと、畳が僅かだがぐにゃりと沈む。腐り始めているのかも知れないと、ふと思う。

  *

 空気が澱む。
 昼過ぎだと云うのに夕刻の如く薄暗い。一日中暗く湿っていて、それが何日も続く。気が滅入っても良さそうなものだが、実際には私が常と変わる所は何も無い。
 只、如何(どう)した訳か動きが鈍くなった気がする。意識して腕や脚を動かしてみれば差し障り無く動くのだが、気を抜けば動く事が酷く億劫になっている。動き難(にく)い。
 雨音が耳を打つ。
 背後に奇妙な気配を感じてそちらを見たが何も居ない。振り向く刹那、霧散した。汚れた壁に寄り添うようにして、人が一人辛うじて入る事の出来る程度の大きさの櫃が黒光りするだけだ。

 幽かに、甘酸い臭気が漂う。

  *

 数日間仕事が来ないがそれですぐ様喰い詰める心配は全く無い。長屋の連中は私をどう思っているものか。普段の暮らし振りから浪人か何かと思っていても不思議ではないが、元より私は武家の出自ではない。何処の馬の骨とも知れない根無し草。それが私だ。齢(とし)は今年で二十四、五になる筈だが正確な所は私も知らない。飢饉の頃に山に捨てられ狼に喰われる前に野盗の群れに拾われた。獣の胃袋に収まるのと人に拾われて凡そ自慢出来ない特技を身に付けるのと、どちらがましか思い悩む時期は疾うに過ぎた。今では自分の過去を思い出す事も稀だ。二つで死のうが五十まで生きようが、大した違いは無いだろう。来し方行く末を想う事は感傷に過ぎず、価値も無い。

 人の生の価値はどれ程のものか。

 仕事の度に、長屋暮らしならば一生を楽に過ごせる程度の報酬を得る。公家ならば一晩で使い切る。
 これまでに得た報酬は殆ど手付かずに近い状態で箪笥の抽斗(ひきだし)に入れた儘になっている。改めて数えた事も無いが、長屋の連中では想像もつかない程のものになっているだろう。持ち腐れとはこの様な事を云ったものか。どれ程の蓄えがあっても、豪遊する訳には行かないし、その積りも無い。私は飽くまでも陽の当たらない場所の存在であり、無闇に遊び回って目立つ事だけは避けなければならない。人目に立つことが嫌いでもある。
 それでも月に一度か二度は悪所に足が向く。
 朝寝をして帰ると、あの娘が犬の様に駆けて来て、何処に行ってたの、と訊く。適当に答えると、それ以上は尋ねずに他愛の無い事を喋り乍ら従いて来る。その声は禽の囀りにも似ている。愛らしくはあったが、それ以上の特別な興味は持たなかった。
 何処となく、以前知っていた女に似ている気はした。

  *

 普段は薄汚れて暗い障子ばかりが白く光る。その白が蒼味を帯びて来たのは本当の夕刻が近いからだろう。
 あの娘は行方知れずになった。長屋の連中が心配して捜しているが、見付かる気配は無い。愛嬌があって働き者、その上中々の器量良しだった娘は、長屋の皆から好かれていた。
 娘の兄は娘が消えた日の夜に私の所にも捜しに来た。彼は娘の唯一の身内だ。
 妹が私の所へ行くと出て行ったきり帰って来ないのだと、遠慮勝ちに云った。
暇潰しの傘張りで、部屋は見事に乱雑だった。来たかも知れないが留守にしていたので判らないと告げると、他を捜しに、その時はあっさりと立ち去った。だがそれからの数日、──…もう四日になるだろうか、朝に夕に、必ず訪れる。
 先程も来ていた。私の背後の櫃を頻りに気にするので蓋を外して中を見せた。外は薄暗く、部屋の中は一層暗かったが、櫃の中に何も入っていないのを確かめるには十分だった。
 彼は釈然としない様子乍らも疑った事を詫び、それから娘が私を好いていたのだと云った。それは全くの初耳であり、私は彼女の気持ちに気付きもしなかった。しかし、私が人の情に疎いのは今に始まった事では無い。

雨は娘の消えた夜から降り続き、止む気配は無い。

  *

 随分前の事を思い出した。十年以上も前になる。
 私が最初に殺したのは、私が初めて好意を抱いた女だった。
 朗らかで気風の良い女だった。
 野盗の群れの紅一点であり、頭領の右腕。嫋やかな見た目とは裏腹に、恐ろしい程腕が立った。彼女から、教わった様々な事は今の仕事の役に立っている。技量だけならばやがて彼女を超えたが、それを実践する機会は中々巡って来なかった。
「本当はね、人を殺めるなんて許されない事なんだよ。機会が無いなら、その方が好い。」
 他に人が居ない時に彼女は云った。
「本物の木地師にでも百姓にでもなって暮らす事は出来る筈なんだ。そりゃあ楽な暮らしじゃないだろうけど、その気になりさえすれば今すぐにでも出来る事なんだよ。」
 野盗の群れは山中に小さな邑を作っていた。畑があり近くに清流があり、後は鶏と牛でも飼えれば、その儘、群れは野盗を辞める事も出来そうだった。
「お前は、誰も殺めずに済めば好いのにね。」
 血の匂いのする手を清流で洗い乍ら女は云う。群れを、抜けたがっている様だった。

 私は彼女を姉の様に慕っていた。他の誰より好きだった。彼女は老成していたが、実際の齢は幾つだったのか。今の私よりは若かった気もする。思い返してみれば、日常のふとした時に零れる彼女の笑みは、明るく無邪気な、若い娘のものだった。

 女は群れから逃げようとしていた。頭領はそれに気づいていて、雨の晩に、私に初めての殺人を命じた。
 逆らう事は出来なかった。私は山を下りる女を追い、泣き乍ら、彼女を殺した。せめて苦しませずに殺したかったが、女は強く、必死に抵抗したので、結局、何度と無く斬り付ける事になった。女が絶命した時には私も幾つか深い傷を負っていたのだが痛みは殆ど感じなかった。雨の冷たさに震え、ずぶ濡れになって泣いていたが、自分が何の為に泣いているのか判らなくなっていた。
 その後、頭領の隙を窺い、彼の信頼を得る為に画策した数年。私は数え切れぬ数の罪の無い人々をこの手に掛け、彼らから全てを奪った。一年で、私は頭領の懐刀として認められるようになった。年端の行かぬ私がいつでも頭領に一番近い所に控えているのを快く思わない者も居たが、野盗の群れでは力が全てだった。
 そしてある酒宴の席での事。
 気分好く酔って、上機嫌で私を息子と呼ぶ頭領の前で、私は私の浮かべ得る笑みの内、極上の笑みを浮かべて刀を抜いた。
──面白いものを、御覧に入れましょう。
 酔いの廻った男たちは本当に宴の席の余興が始まったものと思って楽しげに騒いでいた。頭領だけが即座に自分の刀に手を掛けたが、その動きは完全に日頃の俊敏さを欠いていて、私には遅過ぎた。
 笑った儘、その首を斬り落とした。首は無様に転がって、断面から生温い血を垂れ流した。その時の笑みが、私の最後の表情だ。
 一瞬の沈黙。直後に、逆上した男たちの怒声が振動となって私を包む。
 男たちは数こそ多かったが、酒の所為で酷くふらついていた。彼らを切り捨てるのは造作も無い事だった。

 私を拾い、養ってくれた者たちを残らず自分の手で殺して、私は野盗ではなくなった。

  *

 日が暮れた。
 燈を灯そうと立ち上がりかけ、指先ひとつ動かせなくなっている事に気付く。
 
 数日前、外から戻ると娘が箪笥の前に立ち竦んでいた。
 部屋が片付きかけていたので、どうやらいつもの様に私の世話を焼きに来たらしいと察した。
 娘は蒼褪めた顔で振り向く。今までの報酬を収めた抽斗が開いて、中の金が見えていた。この長屋に住んでいる者では一生かかっても見られない類のものだ。娘の愛らしい顔が怯えで歪んでいた。
 箪笥を開けた事に害意が全く無かったのは判っている。何かを片付けるために、偶々(たまたま)その抽斗を開けただけだろう。
 逃げようとする娘を捕らえるのは容易(たやす)かった。震えるばかりで悲鳴すら上げられない娘の頭を包む様にして抱く。娘は細い首をしていた。
──あの女とこの娘とは、一体何処が似ていると感じたのか。顔立ちも気質もまるで違う。
 躊躇う事も無く、細い首を折った。骨の折れる音。娘の躰から力が抜けて、ぐたりとした只の物になる。
 小さく畳んで櫃に入れた時、娘の髪が解(ほど)けて黒絹の様に広がった。数本が指に絡むのを振り払って落として櫃に収め蓋を閉めた。
 傘張りを始めて暇を潰し、夕方、丁度部屋がこの上なく散乱かった所に娘の兄が訪れた。
 深夜、長屋を出て、神社の裏の林に死骸を埋めた。

 この時期、死骸は足が速い。一昼夜置けば腐って臭い出す。だからその前に、野犬にも見つけられぬ様、地中深くに埋めたのだが──…漂う臭気は如何した事か。
 臭気は確実に濃くなっている。

  *

 絹糸に似た繊く艶やかなものが、私の指先から全身に這い上がり、絡みつく。
 ぐらりと揺らいで私は湿気を帯びた畳みの上に倒れた。黒光りする櫃が視界に入る。

 女と娘と、一つだけ確かに似ていた。
 曇りの無い、晴れやかな笑い声。
 女が何も特別な事の無い時に、ふと何の作為も無く見せた笑みを、娘は常に持っていた。二人の持つ、他の全てのものは余りにかけ離れていたが、明朗な笑い方だけは変わり無く、私にとって等しく好ましいものであった事に、今、気付いた。
 甘酸い臭気の充満した中に、黒光りする櫃の重い蓋が、内側から競り上がる黒いものに依って押し上げられている。
 私の好いた女と、私を好いた娘が、今度は私を殺すのかと、霞のかかった頭で思う。
 蓋を押し上げて蠢く黒いものの間に一本の簪が見えた。此処に在ろう筈も無い、あの女の持ち物だ。

 絹糸に似た繊く艶やかなものが──…
 ああ、身動きが取れない。


                            〈了〉

 

 


モドル。