冬枯れ


  *
 わたくしは、深い森の中に立っております。
 人の姿を見なくなって久しく、少し、淋しい気も致しますね。春になれば、わたくしは葩華(はな)を咲かせます。このように年老いてはおりますが、枝振りばかりは、見事なものでございましょう。葩華の時期になりましたら、それはもう、夢のように――…。
 けれど、愛でる方がいらっしゃらなければ、その華やかさも哀しいばかり。
 一年に一度の葩華でございます。ほんの数日の、そのためだけに蓄えた、葩華の生命(いのち)でございます。この枝いっぱいに、薄紅の、淡雪のような葩華を懸命に咲かせます。その葩華の命が、知る人も無く色褪せ散って行くのは、何とも哀しいもの。
 仲間たちは、美しいと云ってくれます。
 ああ、わたくしは一人で立っているのではございません。この森の樹々は全て、わたくしの仲間。この森はわたくしであり、わたくしはこの森。一つ一つの樹が、それぞれの意識を持ち乍ら、それぞれの意識は全てひとつに繋がっている。それが植物というものでございます。不思議に思われますか。
 わたくしは一人ではございませんが、それでも矢張り、一人という気が致します。
 わたくしの葩華は、人に愛でられてこそ美しいもの。元々、そのためにわたくしは生まれました。
 人に愛でられるためだけに、只、咲いて散るばかりの葩華でございます。葩華の後に小さな実を形ばかりは付けますが、其処から育つものは在りません。わたくしも、地中から芽を出したのではなく、地面に挿されて根を張って、此処に立ったのでございます。
 毎年、此処を訪れたどなたかに見ていただこうと、そのためだけに、懸命に、咲かせてはおりますが、このような森の奥にはどなたがいらっしゃる宛てもございません。それでも、春になれば遠来のお客様に心を和ませて戴きたくて、懸命に咲くのでございます。あの方がいらっしゃったころと同じように。どの季節にも、気を緩める事無く、一心不乱に、葩華を咲かせる準備をするのでございます。
 あの方は、大樹の中の一本の繊(ほそ)い枝に過ぎなかったわたくしに、この場所を与えて下さいました。此処は、あの方のお庭でございました。あの方は、深い森の中、古びた一軒家にたった一人で住んでいらっしゃったのです。まだとても若い方でしたけれど、お出かけになることは少なく、お庭に面した日当たりの良いお部屋で、本を読まれたり、何か書きものをなさったりして、一日一日をお過ごしでした。時折、お掃除やお食事などもなさってはいたようですが、矢張り、お部屋で静かに過ごしていらっしゃる事が多かったように思います。

 あの方は、わたくしがこの場所で初めて咲かせた葩華を見て、「綺麗だね。」と、微笑まれました。本当に、嬉しそうに、倖せそうに。その時の微笑の鮮やかさを、わたくしは今でもはっきりと憶えております。その後も、わたくしが葩華を咲かせる度に、あの方は微笑まれました。
 それが、わたくしには何より嬉しいことでございました。


 *
 そろそろ、この森も色付き始める頃でございます。朝夕の風が冷たくなって参りました。
 この森は、燃えるように見えるのだとか…。あの方のご友人が仰った事でございます。
 あの方はたった一人で森の中の古い家に住んでいらっしゃいました。訪ねて来る方も殆ど無かったのですが、一人だけ、ご友人がおありでした。同じ年頃の方で、七日に一度、必ずいらっしゃいました。あの方は、ご友人と一緒に七日に一度の外出をし、七日分、生きるのに必要な品々を揃えて帰って来られました。それから、ご友人と二人、お庭を眺め乍ら、とりとめもないお話などなさるのでございます。
 あの方はいつも、穏やかに微笑んでおられるような方で、一人きりで暮らすのにも淋しいとか詰まらないとか云った事は、思っておられないご様子でしたが、それでも、ご友人がいらっしゃると普段よりも少し嬉しそうにされました。
 ご友人は、あの方とは対照的な、あまり笑ったりはなさらない、淡々とした様子の方でした。けれど、心根のお優しい、よく気のつく方だったのではないでしょうか。あの方を訪う度に、形の美しい、季節に合わせたお菓子などお持ちになりました。それは、「お菓子」などと呼ぶのが憚られるような、美しいもので、あの方はそれに合ったお茶など淹れるのが楽しかったようでございます。
 何とも年寄りめいた方々だと、内心呆れたものでございます。わたくしが大きな樹の一部であった頃に見た、あの方たちと同じ年頃の方は皆、大きな声を上げて笑い、話し、或いは怒鳴り合っていて、騒がしい程でございました。黙って歩く姿にさえ、何処と無く、燥(はしゃ)いだ雰囲気があったものでございます。けれどお二人には騒がしさなどは微塵も無く、楽しげに話していらっしゃっても、何処か、しん、と静まって、燥ぐ様な事は皆無でございました。お二人が声を上げて笑ったのを、わたくしは一度も見た事がございません。

 秋の半ば、丁度、今と同じ頃の事でございました。ご友人は、珍しく夕方までこちらに残っておいででした。いつも、午后の早いうちに帰って了われますのに。その理由が判ったのは、月が昇って暫くしてからでございます。森の中ですから、月は昇って直ぐには見えません。昼の光が全て消える頃に、月明りがあの方のお部屋に落ちました。

 その夜は見事な満月だったのでございます。

 本を読まれているあの方の傍ら、ご友人が、縁側にお月見の席を整えられました。いつも通りに淡々と。
 あの方は、月であっても花であっても、美しいものを愛ではしましたが、特別に席を設ける事はなさいませんでした。ですから、お月見を提案したのはご友人の筈なのです。ご友人が少しも楽しそうになさらないのが、不思議な気が致しました。かと云って、詰まらないふうでもなく…。あの方のご友人はどんな時でも激しい感情を露(あらわ)にしない方でした。
 お二人は静かにお月見をなさいました。ぽつり、ぽつりと、とりとめのないお話を、常と同じに交わし乍ら。その内に、ご友人がふとわたくしに目を止めたのでございます。
「あれは、君の気に入っていた桜かい、」
 その頃にはわたくしは小枝ではなく若木になっておりました。
「そう。僕が開園から閉園まで、ずっと桜の前で動かなかったものだから園長さんが小枝を分けてくれてんだ。」

 この場所に来る前、わたくしは植物園の桜でございました。偶(たま)にいらっしゃったあの方が、わたくしの前に置かれた石の長椅子(ベンチ)に坐り、長い時間何もせず、只、心地好さそうにしていらしたのを確かに憶えております。植物園には温室などもあり、私の他にももっと華やかな植物達が幾らでも見られましたのに、そちらは一度か二度、覗いたきりの様でございました。お気に召さなかったのかも知れません。
 あの方は、説明の立て札も無いわたくしの前にばかりいらっしゃいました。

「挿し木などした事が無かったから、上手く根付くかどうか不安だったのだけれど、植物は強いね。初めての場所にも確りと根を張って、もう、あんなに大きくなった。」
 あの方の声は響きの柔らかな、優しい声でございました。独特の、心を惹き付けられる様な深みがあったように思います。
「綺麗に咲くと好いな。」
 ご友人の言葉に、あの方は顔を上げて微笑しました。それは何かをはっきりと確信している笑みでございました。
「屹度、綺麗だよ。」
 お二人はとりとめのないお話をなさって、そうして、わたくしが思っていたより随分早く、お月見はお開きになりました。
 ご友人が帰った後には、あの方は一人、静かに本を読んでいらっしゃいました。
 ほんの数分前までご友人がいらっしゃった事も、お月見をしていた事も、忘れて了った様なご様子で。


  *
 葩華が何故美しいか、ご存知でしょうか。無心に咲くから美しいと仰る向きもございますが、そのように思ってはいけません。葩華を咲かせるのに、わたくしどもが無心になる事など一瞬だって、ありはしないのですから。
 わたくしども植物の内、葩華を咲かせるものたちは、何時でも、どなたかに観て戴こうとしているのでございます。その「どなたか」は、人であったり人でなかったり致しますが、兎にも角にも、観て戴く事を第一に思って、咲くのでございます。
 わたくしは春に葩華を咲かせます。
 大地に深く広く根を張ります。それは、より多くの栄養を集め、幹を太らせ伸ばすため。太らせ伸ばした幹が、真直ぐに立てるよう支えるため。根に支えられた幹の頑強さは、繁らせ広げる枝のため。枝は、其処に咲き零れる無数の小さな葩華のために。
 養分を、生命を、蓄えます。長い冬を越えるため。そして、それに続く春に備えて。
 蓄えた生命を解き放つ春に備えて。
 全ては、美しく葩華を咲かせるための、精一杯の智謀智慮。咲かせた葩華の美しさは、それを観て下さるどなたかのためだけに。

 葩華が何故美しいか、ご存知ですか。わたくしどもは、無心なのではございません。
 わたくしどもは、一心なのでございます。


  *
 あの方は七日に一度の、ご友人との外出以外には殆ど昼の外出をなさいませんでした。
 それを知ったのは此方(こちら)に参りましてからの事でございます。何度か植物園にいらしたのは、あれは、本当に珍しい事だったのだと、あの方とご友人との会話から知りました。
 昼の外出をしない、その代わりと申しましょうか、夜のそぞろ歩きなど、よくなさいました。
 宵の口と云うには遅く、真夜中にはまだ間のあるような、いつも、そんな刻限でございました。
 跫音も立てずに、あの方はお歩きになります。灯(ひ)を灯した、美装の台洋燈(ランプ)を手に。火屋(ほや)は少しの曇りも無く磨かれた、透き徹る玻璃。台座はとろりとした艶を持つ乳白色の白磁。あの方のしなやかな白い手に、その洋燈はよく似合っておいででした。
 夜の中をゆっくりと静かに歩きます。歩く時には何時でもそうしているように、慎重に歩を進めます。一歩一歩を大切そうに――…。
 あの方は、わたくしが知っているほかの同じ年頃の方々と較べて、随分ほっそりとしておいででした。夜、わたくしの傍をあの方が通り過ぎる時に、ふと、その背の薄さに気付き、驚いたものでございます。優雅で凛とした立ち居振る舞いや、穏やかであり乍ら芯の強さを感じさせる雰囲気に隠れていた、それは、あの方の儚さでした。

 樹々の間を歩かれるあの方の全てを、わたくしは存じております。

 橙色の灯に照らし出されるお顔は、月に晒されたように大層白く、慎重な足取りは、それでも大層、確りしておいででした。一歩一歩、進まれる度に、洋燈の灯は揺らぎ、あの方の姿も揺らいで消えるように思われました。

 そぞろ歩きをなさるのは、二日か三日に一度の事。或いはもっと間をおかれる事も。静かに静かに、歩かれる時間も距離も、そう長いものではございませんでした。

 あの方が夜の外出をなさる事に対して、ご友人は好いお顔はなさいませんでした。
「まだ、夜中に出歩いているのか、」
 ご友人の問いかけに、あの方は只、微笑まれます。
「そろそろ、風も冷たくなるだろうに。」
「寒くはないよ。歩くのは、とても心地好い。」
 ご友人は、僅かに眉を顰めたようでございます。
「せめて、昼に歩いたらどうだ、」
「駄目だよ。陽の光に眩んで了う。」
 植物園にいらしたのは、いつも真昼でございましたが……ご友人はその事には言及なさいませんでした。
「無理は、しないほうが良い。」
「――…しないよ。」
 静かな会話は其処でぷつりと途切れました。

 わたくしは、これでも沢山の方々を見て参りました。とても速く歩かれる方も、勢いよく歩かれる方も、ゆっくりと歩かれる方もいらっしゃいました。そのほかにも沢山の方々が様々に歩かれるのを知っております。けれど、あのように歩くことそのものを楽しむようにして、本当に楽しそうに、そして一歩一歩を大切そうに歩かれる方を、わたくしはあの方のほかに知りません。


  *
 此処は、深い森でございます。近隣からも人は減り続け、森は深まるばかり。淋しゅうございますね。鳥やら、獣やら、そう数が増すでもなく。
 余所でも森は深まっておりますよ。人が減るのでございます。
 正直な所を申し上げますと、人が幾ら減ったとしても、わたくしども植物には困る事はございません。それでもやはり、人が居なくなるのは淋しゅうございます。わたくしのように、葩華を咲かせ愛でられるためだけに、人に手を加えられて生まれた者でなくとも、植物は皆、全ての生命(いのち)を愛しく思うのでございます。
 それが、植物の性(さが)なのでございます。

 ああ、この森も随分冬枯れて参りました。色づき始めたのはつい先程の事と思われましたのに…。
 あの方の事やご友人の事や、徒然(つれづれ)に思い返すうちに季節は巡ります。わたくしが此方に参りましてから、もう、どれ程の時が経ったのでございましょう。枝を張り、幹を太らせ、天に向かって伸び上がり、地面の下では広く深く根を張り巡らせて――…。只々、どなたかに見て戴く為だけに、わたくしは幾度葩華を咲かせ、その葩華を幾度、甲斐も無く散らせた事でしょう。
 白い空でございますね。
今日は北からの風が殊更冷たく思えます。栗鼠が木の実を集めに駆け回るのも、今朝から見ておりません。
 今夜は、雪になるのかも知れません。

 此処は森でございます。豊かな森でございます。この季節にはもう、多くの樹々は葉を落として了いますから、冬枯れの淋しい森に見えますけれど。淋しく見えましても、樹々は数多の命を蓄え、鳥も獣も穏やかに生きる、豊かな森なのでございます。
 此方に参りましたその時から、わたくしはこの森がとても好きでございます。この森を愛しいと思い、その瞬間に、わたくしはこの森になったのでございます。この森はわたくしであり、わたくしはこの森。
 意外な事でございましょう。あれほど淋しい淋しいと申しておき乍ら、わたくしがこの森を好いているとは。ずっと好いておりますよ。わたくしは、全てのものを愛しいと思うのでございます。全ての植物は、世に存在する全てのものを愛しく思うのでございます。そうして、ひとつに繋がって行くのが、植物という存在(もの)でございます。
 淋しいと思うのは、わたくしが僅かにではありますが人の性質も持ち併せているからでございましょう。わたくしは人の手を経て生まれました。人の多くいる所に長く留まった記憶もございます。人の居ない静けさは、懐しくこの身に馴染むものでもあり、又、とても淋しくも思われます。
 あの方は、如何(いかが)だったのでございましょうね。
 この森に、人の身で一人…。

 秋が深まると、あの方は夜のそぞろ歩きをお止(や)めになり、そして、本当に出歩く事が稀になりました。この頃にはもう、あの方が日を追う毎に儚くなってゆかれる様子が、わたくしにもはっきりと判るようになっておりました。元々静かな方でしたけれど、居るのか居ないのか判らない程に、静かに過ごされるようになり、庭に面したお部屋に一人、只々呼吸をするばかりの人形(ヒトガタ)のように見える日もございました。ご友人は七日に一度、必ずいらっしゃって、あの方は一緒にお出掛けになりました。七日に一度のお出掛けの時間は、短くなっていったように思います。ご友人の配慮だったのでございましょう。相変わらず淡々とした様子の方でしたけれど、あの方を心配していらっしゃるのはよく判りました。
 ご友人は、感情を露わにする事の稀な、表情の変わらない方でした。それでも、わたくしにはご友人が何を考え、何を感じているのかが、不思議に判る気が致しました。逆に、何時(いつ)も静かに微笑んでいらしたあの方のお考えは、皆目見当が付かないのでございます。
 優しい方でございました。心遣いの細やかな、聡明な方でございました。そして、不自然な程に、穏やかな方でございました。人の中に例外無く息づいている負の感情は、あの方の表面に一度も浮かび上がっては来ませんでした。
 あの方はその微笑の中に、不安も憤りも苛立ちも哀しみも、全て隠していらしたのかも知れません。
「あの桜は、屹度綺麗に咲くだろうね。」
 弱くなった陽光すら遮った部屋の中から、雪見越しに、わたくしを見て呟かれました。
 小春日和の暖かな日で、その頃少し掠れていたあの方の声は、微笑を含んで楽しげに、そして何処か淋しげに聞こえました。
 ご友人がほんの一瞬、痛みを堪えるように眉を顰(ひそ)めました。


  *
 わたくしにも表情がございましたら、ご友人と同じに眉を顰めた事でございましょう。この身の内にひしひしと、感じる痛みがございました。

――この身に葩華を。

 春になったらあの方に、このお庭で初めての葩華をお見せしたいと思っておりました。あの頃はまだ、小枝から若木になったばかりのわたくしでございます。枝振りなどと云える程の枝も無く、付けられる葩華の数も限られておりましたが、この身に能う限りの美しさで、咲きたいと思ったのでございます。
 春は遠く、あの方は冬を前に一層儚くおなりでした。

――この身に葩華を。

 わたくしは祈りました。
本来ならば私は春に咲くもの。それでもわたくしは、わたくしの葩華をあの方に見せて差し上げたかった。葩華を咲かせた事で力尽き、冬の寒さに耐え兼ね凍えて枯れたとしても、決して悔やみはしないだろうと思われました。それ程、あの方に葩華を見せて差し上げたかった。あの方は事ある毎に仰ったのです。
「あの桜は、綺麗に咲くだろうね。」
 わたくしは確かに、あの方に愛されておりました。そしてわたくしもあの方を愛しいと思ったのでございます。世に在るもの全てを愛しいと思うわたくしでございますが、あの方の事は殊更に愛しく思われました。
 わたくしに口はございません。まして、声など出せる筈もなく――…。けれど、叫ぶように祈っておりました。

――この身に、葩華を。

 そして、ある夜。
 ふうわりと、冷たく柔らかなものがわたくしの枝先に乗りました。
 それが、その冬の始まりを告げる雪でございました。
 後から後から、雪は降り、全てのものは白く覆われて行きました。とてもとても、柔らかな雪。何時の間にかわたくしも、その真綿に似た雪に包まれておりました。
 それは丁度、わたくしの葩華とよく似ておりました。
「綺麗だね。」
 すぐ近くで柔らかな声がして、わたくしは大層驚きました。
 久方振りに間近に見るあの方は、わたくしの記憶よりも一層、儚くなっていたようでございます。不思議に、窶れたという印象はございませんでしたけれど、少しの風にも消えて了われそうで、もう半ば以上、この世から離れていらっしゃるように思われました。
 どうかお部屋にお戻り下さいと、云えるなら云いたかった。
 こんな寒い夜に…、こんな雪の夜に…と、わたくしは泣きそうでございました。零す泪の無い事が、どれ程辛(つら)かった事でございましょう。
 けれど、そんな気持ちはあの方の次の言葉で、融けて消えて了いました。
「春を待たずに、見事に咲いてくれた…。」
 掠れていても、変わらず独特の深みを持つ、あの方の声。あの方が、わたくしの纏う雪に満開の葩華を見た事が解りました。
 何と陳腐な、とお思いでしょうか。それでも、わたくしを覆っていた雪は、あの方が葩華と見た瞬間に、わたくしの葩華に変じたのでございます。
 あの方が、嬉しそうに倖せそうに微笑まれました。その微笑の鮮やかさを、私は今でもはっきりと憶えております。
「本当に、綺麗だね。」

 冬の始まりの白い雪。
それが、わたくしがこの場所で咲かせた、初めての葩華でございました。


  *
 あの雪の夜から数日。あの方はそっと呼吸を止めました。
 ご友人の目の前でございました。

その日も、いつもと同じにとりとめもないお話を、お二人はなさいました。
雪が降ってとても寒いから外出は止(や)めにしようとご友人が仰って、あの方は渋々承知されたのでした。
本当に、とても寒い、そしてとても静かな日でございました。
あの方は少し睡(ねむ)そうで…。
「熱い茶でも淹れようか、」
 ご友人の言葉に、申し訳なさそうに「頼むよ。」と応えました。ご自分でお茶を淹れられないことが、不服であるようにも聞こえました。
「本当に、今日は妙に睡い…。」
 そう云って小さく溜息を吐きました。
 お部屋を出ようとしたご友人がふと振り返った時、あの方は炬燵に伏して、もう息をしてはいなかったのでございます。

 静かな静かな、雪の日でございました。空は厚い雲に覆われて、止む気配も無く雪は降り…けれど、奇妙に明るい日でございました。
 炬燵に伏したあの方が、雪見越しに見えました。
 いつも通りの、穏やかな寝顔でございました。


  *
 ああ、何時の間にか、雪が…。
 もう、すっかり冬でございます。

 あの方を、ご友人は庭に埋めました。
 わたくしはそちらへ根を伸ばしました。ゆっくりと、慎重に。
 時間を掛けて根を伸ばし、やがて届いたその根で、そっとあの方を抱き取りました。その時、あの方の温かさを感じたのでございます。あの方はまだ少しだけ、この世界に残っていらっしゃいました。
 あの方は確かに、暫くの間、此処に留まっておいでだったのです。あの洋燈を手に、夜の中をそぞろ歩きなさる事などもございました。橙色の灯も、揺らぐあの方の姿も、儚く頼りないものでしたけれど、あの方は変わらず楽しそうに、ゆっくりと歩かれました。
 わたくしは春を迎える度に葩華を咲かせ、その度に、あの方は嬉しそうに微笑まれました。「綺麗だね。」と優しい声で仰いました。
 時が経つにつれて、あの方は徐々に形を失い、消えて行き、わたくしがこの場所に来てから五度目の葩華を付けた頃には、すっかり、居なくなって了われました。

 訪れる方が居なくなってからも、何度葩華を咲かせた事でございましょう。
 わたくしももう、植物園に居た頃よりもずっと大きな樹となりました。長い長い時が、何時の間にかわたくしの上を通り過ぎていました。
 この森の中でも、わたくしは随分、沢山のものを見ました。他の樹々と共有する記憶の中にも、沢山の美しいものを知りました。あの方のように、美しいものを愛でました。醜いものなど何一つ、ございません。全てが美しく、愛おしく思われます。
 わたくしは、誰もいらっしゃらなくとも葩華を咲かせます。咲いては散るばかりの淋しい葩華でも、懸命に。
 葩華を咲かせる、その度に、消えて了ったあの方の微笑を思い出します。あの方の声が甦ります。そうして少しの間、淋しさは消えて、満ち足りた心持ちになるのでございます。あの方のように、優しい心持ちになるのでございます。そんな時、消えて了ったあの方は、もしかすると消えたのではなく、この森に融けたのかも知れないと、そう思います。
 長い時をこの森で過ごすうちに、沢山の美しいものを知りましたけれど、わたくしには、あの方が一番、綺麗でございました。

 一体、どれ程の時が流れたのでございましょう。ご友人はずっと以前に此方にいらっしゃらなくなりました。あの方のお家はもうすっかり朽ち果てて、樹々が繁り、森の、他の場所と変わらなくなっております。わたくしが居た植物園はまだ、開園しているのでしょうか。もう、朧な記憶しか残っておりませんし、何故か、然程(さほど)懐かしいとも思われません。あの方の事やご友人の事ばかりが、懐かしく鮮やかに思い出されます。お二人がお月見をなさった晩は、昨晩の事ではなかったでしょうか。「屹度、綺麗だよ。」と仰ったあの声は、何故此処に聴こえてこないのでございましょう。
 一本の繊い枝に過ぎなかったわたくしが、何時の間にか、このように大きな樹となりました。春になれば、周囲の風景を霞ませる程の葩華を咲かせるようになりました。とてもとても、長い時が経っているのでございます。それでも不思議に、あの方やご友人がわたくしの前から消えてから、然程の時は経っていないようにも思えるのでございます。
 
 冬枯れの森に、雪が降ります。静かで、白くて…、淋しゅうございますね。凍える空から絶え間なく、白い羽毛が舞い散るようで、少し恐いような美しさでございます。

 世界はひっそりと、睡りに就きました。


                        〈了〉