宵待ち


 居酒屋は、橙色の光と温い温度で満たされている。一つ一つの言葉のはっきりとしないざわめきの中で、ひとつ、私に届く声がある。
「――…その玉蜀黍畑なんだが、黍はもう大人の背丈より高く伸びていてな、畝に沿って立ち並ぶ、緑の壁のようだった。その中をばさばさと、騒がしく、葉擦れに似た音がしたと云う。どうやら畑の中で、黍が倒されているらしい。収穫の時期でもないのにと、不思議に思っていると、何やら白いものが見え隠れする。何かと思って、足を止め、更に見詰めていると、それがひょいと高く跳んだ。」
「何だね、それは。」
 別の声が入る。
「さてこれが……どうも大きな狐に見えた。狐と云えば、犬っころとそう変わらない大きさのものだ。だが、そのとき跳ね上がった姿は異様に大きかったと云う。茫然と眺めるうちにも、白いものは、二度三度と跳ね上がっては作物を薙ぎ倒している。それは確かに狐だ。きゅうと尖った細い鼻面(はなづら)も、ふっさりとした尾も、狐に違いないと思われた。しかし、周りの黍と比べて考えて、どう控え目に見ても、仔牛程はあるだろう。それが、跳ね上がっては躯を回し、太い尾で黍を倒していたのだと云う。」
 目の前の卓には酒と、数種類のつまみが並んでいる。私の向かいには男が二人座って、その一方が奇妙な話を語っていた。他方と私とが、この話の聞き手である。
 店の赤黄色い照明とざわめきの所為か、二人とも見覚えのあるようなないような顔をして見える。男が話すのを聞き乍ら、私はこの店に入る迄の記憶を手繰り寄せようとしている。まだ、それ程飲んではいない筈……と思うのだが、どうにも記憶が曖昧だ。恐らく、久し振りに会った友人と居酒屋の梯子をしているのだろう。そう思って見れば、向いに座った二人の顔は馴染み深いものにも思えてくる。少し酔ったか。
 酒もつまみも、程良く追加されている。時折口を挟んでは相槌を打っている方の男が、頃合いを見計らっては、そつ無く注文するのだ。
「で、それを見た子どもは、どうした。」
「幼かったからな。周りの大人たちには夢でも見たのだろうと、相手にされなかった。確かに、夢と現(うつつ)を区別出来ないなどという事は、幼い子どもにはよくある事だ。本人も時が経つに連れて、大人たちの云う通り自分は夢を見たのだろうと思い始めた。妙にくっきりとした夢を見たものだと。今では成人して、普通に生活しているとか。」
「夢と思い込んだのは、その子どもには幸いだったな。」
「ああ、そんな大層なものを見ては、戻るのは難しい処だ。本当なら、その白狐に囚われていただろうに。」
「では、今度は囚われた者の話をしようか、」
 聞き手であった男が語り手に回る。
「もう、二十年近くも前になるだろう。俺の在所に、月夜の度に行方の分らなくなる男が居た。妻も子もあって、普段は実直な、生真面目な男だ。」
「だが消える、」
「ああ。月が満ちる頃になると、四日か五日か、必ずふいと居なくなる。そして、居なくなっていた間の事は何一つ覚えていない。」
「細君はそれを追ったのか、」
 先ほどの話し手と違い、この男の語り口にはつい口を出したくなるような調子がある。
「その通り。最初は、本人から訳を聞こうとした。何処へ行くのか、何をしているのか、月に五日も黙って家を留守にして、自分や子どものことが心配ではないのか…と。だがいくら問いつめても脅しても泣き縋っても、男は、何も覚えていない、自分でも判らないの一点張りだ。終いには心底申し訳なさそうに項垂れる。細君は問いつめるのを止めた。そして、月が満ち始めて、虚ろな顔付きになってくる男の様子に注意を払った。ある晩、真夜中に起きあがった男の後をこっそりと尾けた。」
 男は手にした猪口を見乍ら話す。其処に話の筋が書いてあるとでも云うように。
「男が向かったのは竹藪だ。広い藪でな、夏なら藪蚊が気になって仕方がなかったろうが、幸い、秋の半ばの事だった。」
「それならばもう、夜には肌寒いのではないか、」
「細君の話では、不思議に寒くはなかったという。歩き続けて汗ばむこともなかったが、ほかりと妙に温かかったとか。」
 猪口の中身を、くいと飲み干す。聞き手に回った男はそれに酒を注ぎ、序でに私の猪口も満たした。猪口の中で、橙色の光が揺れる。
「月夜で、竹は黒く影絵のように見えたと云う。強い風が吹けば、地面に散った細い葉が舞い上がり、眩暈がしたとか。空気は妙に温く、それなのに風ばかりが酷く冷たい。何やら恐ろしいような心持ちになる。亭主に追いつこうとして急ぎ足になるが、どうした訳か、ふらふらと頼りなく歩いている亭主に追いつく事が出来ない。逆に足取りを緩めると、今度は、見失うと云う事もない。」
 月が奇妙に明るい夜に、影絵のような竹藪を竹藪の中を進んで行く男女の姿を、私は想像した。男は夢見心地に、女は捉え処の無い恐怖に息を乱し。二人は一定の距離を保ったまま、藪の奧に進む。その光景は、今此処に見えているように明瞭だった。
「細君がどれ程歩いて来たのかも判らなくなった頃、男は竹藪の中の一軒家に着いた。」
「舌切り雀のようだな。」
「さて、どうかな。……月は未だ中空にあり、歩き始めてからの時間は然程長くはなかったのかも知れない。男は足を止め、細君も立ち止まって呼吸を整えた。細君が男に声をかけようとした、その時だ。一軒家に明かりが灯り、板戸がからりと開いた。」
「雀か、」
「現れたのは、色の白い、美しい女だったと云う。女は男を招き入れ、戸を閉めようとした所で、ふと目を上げた。夜目にも艶やかな、怪異のような美女だ。夫を奪われた憤りよりも先に、その美しさに言葉を失い、次いで恐怖に囚われた。女は離れた場所から様子を窺っていた細君に真っ直ぐに視線を合わせた。眦(まなじり)の切れ上がったその目は燐を燃やしたように青白く光って細君を見据えたとか。それから彼岸花のように紅い唇の両端を吊り上げて笑って見せた。」
「雀と云うより蛇だな。妖艶だ。」
「何時迄も雀に拘るなよ。……細君は一目散に逃げ出した。後ろで戸を閉める音がからりと響くのを聞いた。それに振り返る事も無く、竹藪を走り抜けた。藪を抜けて、見慣れた畦道に出た時には、月は矢張り中空にあり、皓々と輝いていたそうだ。」
「それで終わりか、」
「ああ。男は二度と戻らず、竹藪の中に見た一軒家も見つからなかった。細君は少しおかしくなって生家(さと)に帰って了った。子供らは親類縁者の元を盥回しだ。消えた父親と、自分たちを放り出して半分死んだ母親を、今でも恨めしく思っている。」
「一軒家の女は何者だったんだ、」
「竹の花。」
 短い返答。聞き手の男が目を細めて先を促す。
「広い竹藪だったが、男が消えて暫くすると全て枯死した。竹が気に入った男を道連れにしたのさ。」
 話し終わると、男は目の前にあったつくねの串を手に取り、しげしげと眺めてからぱくりと食べた。
「お前は何か話はないのか、」
 白狐の話をした男が問う。私は首を捻って考えたが、何の話も思いつかなかった。
 否。
 彼等の奇妙な話は、私に幼い頃を思い出させた。夜毎、降りてくる深い闇を、私は恐れていた。布団の中に居れば、その闇に棲む筈のどんなに恐ろしい物も、私に近寄れはしない気がしていた。深い闇の世界に、囚われはしない気がしていた。
そんな薄い結界にくるまって、夜毎ねだって聞いた、眠る前の物語。
 祖母の語る、沢山の奇妙な話。
――…さて、今夜は何の話にしようかね、
 柔らかな声で、怖い話も面白い話も悲しい話も、祖母は自分で見てきたもののように話したのだった。夜道を駆けてくる跫音、人の真似をする声だけの鳥、咲き誇る花を凍らせて了う美しい娘、硝子戸の向こうの赫い火は大蛇の目の光り。
 やがて私は文字を習い、自分で本を読めるようになった。沢山の本の中に、祖母の語った物語も幾つか見付けたが、未だにあの柔らかな声の中にしか見付からない物の方が多くある。
「……こんな話を聞いた。この世界は、見えている儘の世界ではなく、何処かで、普段は見えないような場所と重なっているのだと。重なった場所に、幾度と無く足を踏み入れる者もあれば、その生涯で唯の一度もそのような場所とは縁を持たずに終わる者もあるが、その場所では、自分たちには奇妙に思えるような事が、普通の事として起こる。異形の者が見え、時間が歪む。」
――道が重なるのはよくある事。うちの前の、畑の中を通る真っ直ぐな道があるだろう。ずっと下って行けば川に出る。あの道だって、何処か別の場所に繋がる事もある。お前が思っているよりは、ずっと容易く、道は繋がり場は変わる。見えていた物も姿を消す。
「そうした場所に、知らずに入り込めば、出て来られなくなる事も多い。そちらの住人に誘われるのだ。」
 私の向いで、二人の男の影が揺らいだように見えた。店の照明が、何かの拍子に揺れたのだろう。
「山の神に奉公をした子供の話をしよう。私の祖母から聞いた話だ。」
 私は猪口の酒を一舐めして口を湿らせ、話し始める。
――…ほんの少し前の事。その頃は、お前のように小さな子供も、余程裕福な家の子でない限り、働かなければならなかったのだよ。
 祖母の声が耳に蘇る。
――その子供は、山を一つ越えた村のお屋敷に働きに出る事になっていた。まだ小さな子供だから、お屋敷から迎えが来た。山道は険しかったけれど、迎えの者に手を引かれて、不思議なくらいに楽に、子供は山を越えた。お屋敷は、大きく、立派で、そしてとても古いものだった。木や石の配置が工夫され、野放図に生える雑草さえ美しい趣を見せる庭には、立坪菫や垣通しが淡い色の花を咲かせ、木蓮の白い花は強い芳香を放っていた。冬の終りで、村はまだ寒く、雪も残っていたけれど、そのお屋敷には既に春が訪れていたのだよ。
 ゆったりとした祖母の声は、不思議な屋敷の光景を、鮮やかに私の前に描き出した。
 屋敷の庭は広く、春の雨に濡れた名残で、湿った土の匂いがしていただろう。
 最近置かれたものではない証拠に、木にも石にも、深い緑色をした苔がはえ、それらの輪郭を柔らかくしていただろう。
 迎えの者に連れられて、子供は勝手口ではなく、庭に通され、其処で待てと云われる。
 村からその屋敷まで、自分の手を引いてくれた迎えの男の、無骨な手を頼もしく思っていたので、それが見えない所に行って了って、子供は俄に心細くなる。
 庭に面した座敷の濡れ縁に、三毛猫がやってきて座った。その、つんとすました様子に、子供はさらに不安になる。この広い屋敷の何処で、自分は働くのかと、自分に何が出来るのかと、思い始めればきりがなかった。
 不安が極限に達した頃になって、一人の女が現れた。朱華色(はねずいろ)の着物に、若草の帯を締めた、妙齢の女だった。子供の村では見ることもない、上品な様子で、細い手は、野良仕事など知らないだろうと思われた。
 女は子供を見て、柔らかに微笑んだ。
――そんなに固くならなくても良いよ。お前には、この庭の世話を手伝ってもらいた
いのだ。お前のように小さな者なら、細かな所まで目が行き届くだろうから。
 そして、最初の一日は庭をよく見るように云った。
 庭は子供が思った以上に広く、翌日、一日かけてやっと見てまわった。不思議に、子供の村の野に、山に、似通っていた。子供は庭を慕わしく思った。
 二日目からは子供を迎えに来た男について、庭の手入れを手伝い始めた。男は庭の木や草よりも土に気を配っているようだった。芽吹かない木、花をつけない草があれば、その周辺の土を調べ、固まりすぎた土はほぐし、水捌けの悪い土には空気を含ませた。
 子供に出来ることなど無いように思えたが、毎日、男について庭を見るうちに、他とは樹皮の色の違う木や、蕾が開かない枝、庭に似合わない草が一本だけ生えていることなどに気づくようになり、それを男に伝えた。男は病気の木には樹勢を高めるよう、手入れの仕方を変え、一本だけ生えている草は、悪種だと云って焼き捨てた。子供は悪種の草や病気の枝葉を誰より早く見つけることが出来、それはかなり大きな成果らしく、夏には庭の片隅に自分の場所を貰い、好きな草花を育てることを許された。
 屋敷の年若い主人は、一人、機を織っていることが多かった。トンカラリと、機の音は屋敷の中だけではなく広い庭の隅々まで届く。その音に、村の女達が生活のために織るような、何処か張りつめた響きはなく、悠然として、織り上げられる布地を愛おしむように思えた。主人は布が織り上がる頃になると子供を呼び、それを見せた。村の女達が織る麻や木綿とは違う、上質な絹の反物は、仕立てられる様子も、何処かへ運び出される様子もなかった。
 屋敷に来た日、子供を不安にさせた三毛猫は、陽の当たる縁側に丸くなっていることもあったが、大抵は不意に現れては、子供を驚かせた。屋敷や庭だけでなく、その外まで歩き回っているらしく、庭では見かけない草の種を毛皮につけていることも多かった。悪種の草はあの三毛猫が運んでくるのではないかと子供は疑ったが、猫は誰に咎められることもなく、自由に出歩いていた。三毛猫は、屋敷や庭やその周辺の見回りをしているようにも思えた。
 子供がこの屋敷で見たのは、庭師らしい男と、若すぎるようにも見える主人と、得体の知れない三毛猫だけだった。だが、広い屋敷にたったそれだけの者しか居ない筈もなく、屋敷の薄暗い廊下を歩くときなどには若い娘のさざめくような笑い声や、年嵩の者の嗄れた囁き声、あるいは低すぎて話す内容はおろか話し手の年も性別も判らないような声を聞くことがあった。そうした声だけの者達が内向きのことをしていたのだろう。朝夕の食事や風呂の用意は知らないうちに整えられ、屋敷の床はいつでも綺麗に拭き清められていた。
 貰った場所は、耕してはみたものの何を植えて好いのか判らず、暇を見つけては庭師に教えられた通りに小石を取り除き、堆肥を鋤き込み、やがて土を育てているような気分になった。秋の半ばには、子供に与えられた一角には、大量の肥沃土が、育てるものも決めずに、ふくふくとできあがっていた。
 主人が機を織り上げ、庭の木が燃え上がるように紅葉した。その葉が落ち、庭師と子供はそれらを樹々の根本に集めた。そうすることで、土は柔らかくなり、肥えて、草も木もよく育つようになる。子供は自分の土にも落ち葉を混ぜた。草が薄茶に萎れ、殆どの木が葉を落とし幹を露わにして、鈍色の空から白い羽毛のような雪が舞い始めた。春には腐葉土が出来る。


 ……祖母が、私の口を使って話すようだった。語られない細かな部分まで、聴く者は目の前に見るように感じる。子供がどのようにして庭を見回り、庭師にどのような手入れを教わったかなど、祖母は語らなかったし、私も語りはしない。廊下で聞く囁きも、三毛猫の足取りも、語られなくても、聞こえ、見えるようだった。


 村に戻らずに迎えた二年目の春に、子供は主人から桑の苗木を貰う。冬の間も怠ること無く庭を見て、手入れをした褒美に。結局育てるものが決まらなかった自分の場所に、子供はその桑を植えた。
柔らかく肥沃な土に植えられて、桑は深く根を張り、見る間に成長した。初夏には甘い暗紫色の実をつけ、子供を喜ばせた。成熟しきらない赤い実にはすがすがしい酸味があった。

二年目も、子供は庭を回り、土の手入れをし、時折悪種の草を見つけた。悪種は、元々この地には無かったものであり、生命力が逞しいことが多く、放っておけば瞬く間に増えて、庭にある草木を駆逐して了うかも知れないものだった。根付いて成長すれば、元からこの地にあったものたちには毒になる花粉や樹液を出す。
相変わらず、三毛猫は屋敷や庭やその外を歩き回り、屋敷の中では気配だけの者たち
が働いていた。

主人は機を織り続けていた。雪白、薄香、淡紅梅。若草、菖蒲、山藍摺(やまあいずり)。桔梗、茜、朽葉色……。織り込まれる、色とりどりの糸の色。主人の織り上げる物が、少し先の季節を写し取ったように見えることに子供は気づいていた。主人が織ったとおりの色に、庭も山も空も染まる。庭を見回り、草木の世話を見ながら、子供はいつでも機の音に耳を傾けていた。屋敷の中では会ったことの無い者が、天蚕を煮殺して、繭から糸をとる。糸は庭師がどこからか集めてくる草木の葉や根や樹皮で染められ、主人はそれでこの地の季節を織り上げている。
 冬には、主人は雪白の布を織るのを見せてくれた。天蚕の糸は殆ど白に近い淡い緑色を帯びていて、織り上げられていくものは、雪の中に春の緑を宿していた。



「子供は三年目の春に村に帰された。粗相をしたわけではない。ただ、二年より長く居ることは出来ないのだと云われて、子供は帰り支度をした。」



 最初に来た日と同じように、子供は庭で待たされた。二年のうちにすっかり馴染みとなった庭は、薄く雪に覆われ、未だ冬枯れの様子だったが、今にも木々が芽吹き、草が土を押し上げて、柔らかな色で満ちるように思えた。
 主人が現れた。朱華色の着物に、若草の帯。萌葱色の反物を手に、子供を見て微笑
んだ。
――二年の間、よく働いておくれだね。もう少し引き止めておきたいところだけれど、これ以上留めては、お前を村に帰せなくなって了う。……手を引かれていても、雪道を帰るのは辛いだろう、
 主人はそう云って、手にした反物を虚空に放った。はらりと解(ほど)け、そのまま消える。萌葱色が空気に融けたと感じた、その刹那――……雪が消え、木々が芽吹き、草の緑が地を覆った。木々は冬芽を膨らませ、見る間に緩んで色の明るい柔らかな葉を広げ始めた。土を押し上げた草は、細い芽をまっすぐに空に向けて伸ばした。庭は瞬く間に冬の殻を脱ぎ捨てて、早春の装いとなったのだった。
 驚いて目を瞠く子供に向けて、主人は鮮やかな笑みを向ける。
――さあ、お行き。大切にするのだよ。
 主人の声を後に庭師に手を引かれ、気付くと子供は村の入り口に居た。振り返ると、新芽を芽吹かせたばかりの木々の間に、山の奥へと、山道が続いていた。手には、天蚕の入った木箱を抱えていた。



「子供が奉公に出ていたうちに、村のはずれに桑の林が出来ていた。それで天蚕を養い、生糸を取り、やはて村では絹織物が盛んになった。村中に、トンカラリと、豊かな機の音が響いた。」
祖母から聞いた話はそれで終(しま)いだった。私は渇いた咽喉を冷酒で潤した。店
の照明が揺らぐ。

「やれ、参った。」
 向かいに座った男が呟く。
「仕方あるまい。異界に入り、無事に帰った話をしたのだ。それも千水山の神の元か
ら。この男に手は出せまいよ。」
 もう一人が宥めたが、相手は苦虫を噛んだような顔で続ける。
「口悔しいのう、そのまま囚われた話でもしたならば、我らのものになったものを。久方ぶりの旨味い者を、みすみす逃すだけでなく、土産をつけて無事に送り届けなければならん。」
「そう云うな。決まったことだ。」
 二人の影は、ふっさりとした尾を持つ狐と、とぐろを巻く蛇に見えた。蛇が苦笑し
て懐から小さな紅絹(もみ)の袋を取り出した。私に差し出して、云う。
「詰まらんものだが、土産だ。賢い祖母上に渡してくれ。」
 そっぽを向いていた狐も、渋々、守り袋のようなものを差し出した。
「道案内だ。どんなに暗い道でも迷わずにすむ。……二度と来るな。」
 最後の呟きを聞き咎められ、叱責されて、狐は余計にそっぽを向いて了った。
 急に酔いが回って少し朦朧としてきた頭で、私は目の前の者達が私の友人ではなかったことに思い当たったが、では誰なのか、何処で会い、どのようにしてこの店に入ったのかは全く思い出せなかった。
 蛇に背中を押されて、店の暖簾をくぐって外に出た。
 外に出た途端、夕暮れの涼しい風が吹き抜けて、俄かに頭がはっきりとした。慌てて振り返ると、其処には蛇も狐もおらず、見慣れた居酒屋の暖簾を、店員が出しているところだった。
 手の中には守り袋と紅絹の子袋があった。
 紅絹の袋を開けてみる。中には小さな褐色の粒が丁寧に薄紙に包まれて入っていた。月見草の種だ。去年他界した祖母が好きだった。別名を、待宵草とも云う。道に迷わず帰ったら、庭に撒こう。
 この夕暮れの奇妙な話を、祖母が聞いたら屹度喜んだだろう。