樹木

                               瀬川草一


  *


 夏の話をしよう。夏の、真夜中の話だ。

 その年の夏は、酷い猛暑だったと聞く。元来、物覚えの良い方ではない。幼かった頃の記憶は所々に綻びを生じ中には崩れて了って原型を留めていないものもあるが、その夏の事はよく覚えている。
 夏は苦手だった。猛暑だと云われても、暑い日は全て、私にとっての猛暑だったから、前年トノ比較は困難だった。子供の一年は長い。一年前は遠い昔であり、そんな昔の温度など、思い出せなかった。夏は暑いもの、冬は寒いもの。それだけで、季節の概念は完結する。
 只、その年は植物たちの勢いが随分良いとは感じていた。
 私には苦痛でしかなかった熱を自らの力に変えて、草も樹も、不気味な程に緑を濃くしていた。深く茂る緑は、叩き付ける雨も、乱暴な風も、心地好さげに受け止めて、ざわざわと揺れた。その姿は、植物の淡白な性質よりも、動物的な生々しさや攻撃性を強く感じさせた。細く柔らかな、小さな草も、とても強いものに思えた。

 植物たちの緑の深さに、私は時折、強い眩暈を感じた。

 その年は確かに、勢いを増した植物が全て、人を狂わせようとしていた。


  *


 真夜中に、私は目を覚ました。庭から草雲雀の声がしていた。
 その声が綺麗で、私は一人、外に出た。昼の熱気が嘘のように涼しかった。
 山間(やまあい)の集落では、夜中に出歩くものは居ない。昼とは全く違う場所のような寝静まった村の光景と涼しさと、草雲雀の美しい声に満足して、私は気分好く歩いた。星明りだけの暗い夜だったけれど、その暗さには目覚めた時に既に慣れていた。暗がりに何か恐ろしいものが潜んでいて、急に襲って来ると云うような空想は私の頭を掠めもしなかった。暗がりから聞こえる虫の声は美しく、そんな美しい声を出すものが潜んでいる場所には、美しいものは居ても、恐ろしいものが居るはずが無いと、そう思ったのだろう。
 私は何処へ行くとも無しに歩いて、やがて細い山道(さんどう)に入った。其処はもう、完全に山の中だ。そのまま歩いて行けば、私のお気に入りの樟(くすのき)がある。とても大きなその樹は、堂々とした威厳があり、樹木に特有の優しさと、人を安心させる雰囲気を備えている。その大樹が、夜の中でどんな姿をしているのか気になって、行き先を樟に定めたその時、

 カンッ

 金属と金属を打ち合わせる音が、右手から響いた。そちらを見れば、樹々の奥に深い深い闇があった。樹々は妙に艶めいている。

 カンッ

 また、響く。硬質な音は粘る様な感触を含んだ。睛を凝らしてよく見れば、葉先に昼の熱を溜めたままの下草の間、細く道が出来ていた。一人か二人。小人数で通って出来た道だ。通った跡、と云った方が適切か。ともかく、下草が踏み分けられて、奥までずっと続いている。そしてその先で、

 カンッ

 誰かが金属を打ち合わせているのだ。
 私は道から外れて、樹々の間に踏み入った。


  *


 いつしか、草雲雀の声は止んでいた。
 気付かずに私は草を踏み分けて進む。

 カンッ

 音は、一度鳴ると少し間を置いた。樹々はその間に漆黒の闇を抱き、風が吹く度にざわりと枝を揺らしてさざめく。今は黒く見える葉の一枚一枚に昼の火照りを残している。
 夏だと云うのに蚊の一匹も居ない。湿った風が頬を撫でる。

 おどろに乱れた黒髪が見えた。

 ごつごつとした黒い木肌の太い幹と、豊かな葉を蓄えて、地面に触れそうな程に重たげな枝を持つ樹だった。私の気に入りの樟より遥かに小さいが、古木の威厳を十分に備えていた。闇の中で更に深い、闇そのものを凝固させたかの様な、重い存在感。古木であり乍ら艶めく気配があった。
 その樹の幹に寄り添う様に、髪を乱した女が居た。
 岩肌に似た黒い樹皮に顔を寄せ、唇を這わせる。その横顔が、夜目にも白い。呟く声が私の耳に届いた。内容は聞き取れなかったが、何かとても淫靡な、粘つく雰囲気を感じた。
 それは真夏の植物群によく似ている。
「……」
 女が呟く。粘着質な中に希(こいねが)う者の切実な響きが混ざっている。樹に唇を這わせ乍ら呟くのでその声は樹に吸い取られて、言葉は聞き取れない。柔らかな唇が、樹皮に触れて傷つかないだろうかと思った。女の肌は柔らかそうだった。その質感は、私とは全く別のものの様だったが。
「…殺しておくれ。」
 女の言葉が明瞭になった。呟き乍ら樹から顔を離したのだ。
 黒い樹皮に、鈍く銀に光る釘が突き立っている。女が腕を振り上げる。握り締められた黒い鎚が釘を打つ。
 カンッ
「…っ。」
 私は悲鳴を押し殺した。見ては不可ないものだと、禁忌だと理解していたから、女を見た時すぐに茂みに身を隠していた。息をひそめて、女を見ていた。逃げなかったのは、樹と女の姿が美しかったから。古木と女は、自然には有り得ない程の、妖艶な絵模様を漆黒の闇の中に描き出していた。
 押し殺した気配を感じたのか、女がゆらりとこちらを向いた。
 おどろに乱れた黒髪が風に揺れ、闇に融ける。其処だけ白く浮かび上がった小さな顔は綺麗に整っていたけれど、整った分だけ無表情が不気味だった。光の無い切れ長の睛。闇色の瞳には視線が無い。
 女は何も見てはいない様だった。
 私は睛を閉じた。暗い茂みの中からでも、私が視線を送れば気付かれるだろうと思った。気付かれた後には何か恐ろしい事が待っている。必ず、待っている。そうでなければ、これ程怖い筈が無い。

「頼むよ、桜。…あの人を探し出し、殺しておくれ。」

 くぐもった低い呟きが聞こえた。先刻(さっき)よりも随分はっきりと聞き取れる。睛を閉じたために聴覚が鋭くなったのか。しかし、女が樹皮に唇を這わせているとは限らない。睛を閉じていては確認は出来ず、睛を開ける勇気は無い。
「あの人は、私のものなんだよ。他に渡すものか。取り返してやる。」
 夜中に出歩くのではなかったなと、後悔した。"夜中に歩けば、山から降りてくるものに喰われるよ"そう云った祖母の言葉を信じ込んで、安全な場所で睡っていれば良かったのだ。
 私は弱い。女の腕は細かったが、その腕でも絞め殺せる程、私は弱い。そう思って、私は自分が子供である事を呪った。大人であれば彼女を突き飛ばして逃げる位は出来ただろうと思った。
 だが、今思い出してみると、現在の私でも、あんな得体の知れない存在を前にして、冷静に逃げ果(おお)せられるとは思えない。屹度、足が竦む。まだ幼かった私と同様に、茂みの中で睛を閉じるだろう。

「あの人を殺してくれたら…」

 草を踏み分ける音がした。音は私の隠れる茂みの前を通り過ぎ、やがて何も聞こえなくなる。
 草雲雀が鳴き始めて暫くしてから、私は恐る恐る睛を開けた。
 誰も居ない。
 古木には、釘が打ち込まれていた。頭が樹皮に埋まっている。
 それを見て、私は転がる様に其処から逃げ出した。

「殺してくれたら、釘は抜いてあげるよ。」

 女の呟きが、耳の奥に残っていた。


  *


 暑い、夏だったと聞く。気が狂いそうな程に暑い夏だったと。温度よりも湿度が、人の体力を奪った。
 夜は涼しく心地好かったが、私は日が暮れてからは一人で戸外に出なくなった。夜の闇と静寂と、昼よりも生々しい樹々の気配は、あの女を思い出させて私の足を竦ませた。

 振り上げる、白い腕。打ち込まれた釘の銀色。鈍い色が、一瞬、闇に閃く。

 昼の強過ぎる光と熱気の中では、女も古木も、儚い夜の夢だった。光に追い遣られ、追い水に紛れて消えそうになる。それでも、その真夜中の光景が幻ではなかった事を私は昼の光の中で確認して了った。

 正午に近い時刻、私はお気に入りの樟を訪れた帰りだった。樟は巨大で緑陰を吹き抜ける風は涼しく、暑さを忘れさせてくれる。その大きさから見てもかなりの老木の筈だったが、葉や樹皮は若々しい。樹の下に居ると落ち着いた。葉の緑が睛に鮮やかだった。
 巨木の近くは、幸せな心地になる。自分より遥かに長い時間を生きているものの近くに座っている事が何かとても不思議な事の様に思えた。そうでなくても、大きな自然物の近くは安心出来る。
 そんな心地好い場所で午前中を過ごし、一旦家に帰ろうとした山道で、私は道の端に細い通り道があるのを見て了った。下草が踏み分けられただけの、細い道。
 真夏の熱気を忘れさせる緑陰に、一際(ひときわ)涼しい風が吹き抜ける。
 私は樹々の間に足を踏み入れた。

 樹々が、真夜中に見たのとは全く違って見えた。木洩れ日の差す、明るい場所だった。樹々は葉を茂らせて、生命力に満ちていたが、あの夜の静けさも艶かしさもない。只、無邪気に陽光を浴びる、深く美しい緑だ。緑が深すぎる気がしたが、それは枝を見上げる時に逆光になるからだろうと思った。
 屹度、別の獣道だ。そもそも、あの夜、樹に釘を打ち込む女など見なかったのかも知れない。見たと云う証拠は何処にも無い。
 そんな事を思った時、私の前に一本の古木が姿を現した。

 真昼の光の中で、其処にだけ、夜があった。

 漆黒の樹ではなかった。黒ずんだ、岩の様な幹と枝。豊かに茂らせた葉は、緑色を明るくして陽光を返したけれど、その樹は確かに夜だった。
 雰囲気が暗い、陰鬱だ、と一言で云うには内包する闇があまりに深い。
 岩肌に似た樹皮は黒褐色で、暗い色の苔が生えている。触るとごつごつとざらついて、生えた苔が、しとりと柔らかい。幹に、鈍い銀に光る釘が打ち込まれている。あの夜よりも明らかに本数が増えている。
 その内の一本に半ばまでしか打たれていないものがあった。黒々とした長い髪が絡み付いている。

「…殺しておくれ。」

 夢ではなかったのだと、思った。


  *


 同じ夏に、大人たちの噂話があった。悪い噂はひそめた割によく聞こえる声で語られる。
 様々な会話の中に織り込まれて、其処だけふわりと浮き上がる。自然に話す流れの中で、一つの内容だけが他より際立つのは、それが、何気ない顔をした彼等の、最も話したいゴシップだからだ。
「…お宮のお嬢さんだよ。」
「ああ、気の毒にねえ。」
「気が触れたのかい、」
「そうらしいよ。婿が亡くなってから暫くは確りしてたって話しだけど。」
「春頃からだね。少しずつ…。」
 仕事の手を休めた大人たちが、木陰で話している。皆、日に灼けて、歯の白さが妙に目立つ。
「昔っから、情(じょう)の深い娘だったよ。」
「それで取り殺されては堪らない。」
「おや、悋気を起こして婿を取り殺したと云うのは本当だったのかい、」
「さてね、噂だよ。」
 そんな会話を、少しだけ離れた樹の下で、私は聞くともなしに聞いていた。
 他の数人の子供たちと一緒に外で遊んでいたのは好いが、熱気に当てられて一人だけ緑陰に入りぐたりとしていたのだった。他の子供たちは甲虫(かぶとむし)を採りに行くと云って何処かに消えて了った。
 大人たちの声を聞き乍ら、ああ、神社の娘の話かと、ぼんやりと思った。婿が自分以外の女と会っている事を疑って、嫉妬した挙句、殺して了ったとか云う噂話だ。実際には病死だったと知らされたが、村の大人たちの間には、娘が婿を殺したのだと云う噂が婿の死んだ頃から流れている。
「あの子は気が触れたのかい、」
「ああ、探しているらしいよ。夜中に歩き回って。」
「恐ろしい。」
 蝉が煩(うるさ)いなと思った。
「お止め、お前たち。」
 嗄れた、不機嫌な声がして、大人たちが黙った。
「子供の前で、妙な話をするんじゃないよ。」
 髪のすっかり白くなった老婆が立っていた。ちらりと私を見てから、大人たちを再度睨みつける。
「判りゃしないさ。」
 男が云い返すと、老婆は馬鹿にしたように鼻を鳴らす。
「お前は相変わらず血の巡りの悪い頭をしている様だね。他人が自分と同じ様に馬鹿だと思ってるんだろう。餓鬼の頃の儘だよ。それとも今でも餓鬼かい。いつになったら一人前になるんだね、」
「婆さんも変わんねえな。昔っから、口の減らねえ年寄りだ。若い頃ってもんがあったのかい、」
 別の男が云い、女も男も明るく笑う。
「あったとも。妾(あたし)の若い頃を見たら、お前らの目なんざ、すぐに潰れちまうだろうよ。」
「鏡が割れたかい、」
「ああ、割れたとも。妾が綺麗過ぎてねえ。」
 話の内容は別のものに摩り替わっていった。大人たちはやがて短い休憩を終えて仕事に戻って行く。


  *


 山間(やまあい)の村は小さく、家々は山に遠慮するようにぽつりぽつりと建っていた。傾斜のある土地だから、村の端と端ではかなりの高低の差がある。その一番高い所に、村を見下ろす様にして神社があり、神社に並んで宮司の家がある。「お宮のお嬢さん」と、村の住人は宮司の娘を呼ぶ。
 娘は村の外で知り合った青年を婿に取り、仲睦まじい暮らし振りだったが、いつからか青年は街を懐かしがり、村を出たがって娘との仲は少しずつおかしくなっていった。
 婿入りから三年目の冬に、彼は風邪が元で呆気なく死んだと云う。娘は春頃から奇行が目立ち始め、夏には真夜中に出歩くようになった。夫が死んだ事など忘れており、自分の元に帰って来ない男を恨み、探しているとか――…。
 それらの事を、私は大人たちの噂話から聞き知った。真夜中に樹に釘を打ち込んでいたのはその女だろうと思った。女の肌が夜目にも透ける様に白かったからだ。宮司には子供が三人居る。上の二人が息子。その二人とはかなり歳の離れた三人目が「お宮のお嬢さん」だ。「お嬢さん」と云う呼称には、多分に揶揄が含まれている。遅くに出来た娘を宮司夫妻は大いに可愛がり、大切にして、幼い頃には体が弱かった事もあり、壊れ物の様に扱った。その様子を村の人々は揶揄(からか)って、娘を「お嬢さん」と呼んだ。娘は大切に育てられ、美しくたおやかな、情の深い女になった。体が弱いと云う事はなくなったが、屋外で遊ぶ事が少なかった為に肌が非常に白く、その白さが彼女に病的な美しさを与えていると云う。村に、そんな白い肌をした女は他に居ない。皆、日に灼けた肌をして、快活に笑う。
 何度か、夜の気配を漂わせる老木を見に行った。勿論、昼間に。
 樹皮の様子と葉の形から、その樹が桜だと、私は知った。神社や、村のあちらこちらにある桜には無い威厳と妖艶さと禍々しさが、その樹にはあった。
 見に行く度、釘はその本数を増やした。


  *


「婆ちゃん。」
小さな庭の雑草を毟る老婆に、私は声をかけた。大人たちの話では八十歳を超えている筈だったが、そうは見えなかった。腰は曲がっていないし、杖も使わない。背筋をいつでもピンと伸ばして歩く。口の達者な、堂々とした人で、村で一番の年長者であり、村で一番の物識りだった。私は老婆から様々な事を教わった。
「ひと休み、しようかね。」
 云って、老婆は縁側からヒョイと家の中に入り、すぐに麦茶を手に戻ってきた。コップに注いで差し出す。
「お飲み。どうせまた、暑さでふらふらしてんだろ。軟弱者。」
 それを素直に礼を云って受け取り、飲んだ。程好く冷えた麦茶が、咽喉に沁みる。
 老婆は口が悪いが、悪気は全く無い人だ。只、そういう性分なのだろ。歯切れの良い喋り方は却って耳に心地好いから、村の人も老婆を嫌わない。
「で、今日は何が知りたいんだい、」
 私が三杯目の麦茶を飲み干した所で彼女が訊いた。
「桜が何の樹なのか教えて、」
 老婆は細い睛を更に細めた。
「桜ねぇ…、あれは神の坐る樹さ」
「じゃあ、桜は願いを叶えてくれたりするの、」
「桜は神ではないよ。神の坐る場所だ。桜に坐る神は田や畑の神だから、その神の祭りは春と秋に神社でやっている。豊作を願う春の祭りと、収穫に感謝する秋の祭りだ。桜に願ったり感謝したりする者は居ないねぇ。」
 老婆は煙管を咥えた。それをふかし乍ら続ける。
「だがね、どんなものでも長く生きれば神や鬼になる。樹などは千年も同じ場所に立って、その場の主になるものも多いとか。そんな樹は、神として祀られたりしている。桜は神の坐る場所だし成長も速い。神になるのも、他の樹に較べたら早いかも知れない。それとも鬼かね。」
「神と鬼とは違うものでしょう、」
「同じさ。人を救えば神、人に祟れば鬼。それだけの違いだよ。神だの鬼だのって云うのはね人の到底及ばない力を持って、人の自由にならないものの呼び名さ。」
「本当に、居るの、」
 ふう、と長く煙が吹き出される。
「在る、と云った方が好いだろうね。何処にでも、常に在る。眼に見えるものとは限らないが…。はっきりと見たいなら、この近くでは先刻お前が云った桜だよ。もしかしたら知っているかも知れないね。お前の好きな大樟(おおくす)に行く山道の途中に、昔は細い脇道があったんだよ。今ではすっかり草に埋もれて了ったが、その脇道の先に桜がある。…知らないかね。昔はよく知られていた桜だよ。古い樹で、春になると不吉な程の葩華(はな)を咲かせた。妾(あたし)は娘の自分に一度見たきりだが、恐ろしかったよ。見事過ぎてねぇ…。神木だと呼ぶ者も居たが、あれは鬼の類(たぐい)だろう。放っておけば何も無いが、下手に何かすれば祟る。そんな樹だよ。」
 見たいなら探してごらんと老婆は云う。
「道が消えても葩華が無くても、すぐに判るさ。其処だけ空気が違う。」
 老婆がどの桜の事を云っているのか、すぐに判った。確かに彼処(あそこ)は空気が違う。
「何故、昔は道があったの、」
「道と云っても大したものじゃない。草を踏み分けて何度も通るうちに自然に出来ただけの細いものだよ。獣道の様な、ね。」
 白い煙が、皺だらけの口から吐かれた。
「昔は、通うものが多かったのさ。」
 何故、と私が問う前に、老婆は話はもうお終いとばかりに立ち上がって、草毟りを再開した。
「有難う、婆ちゃん。」
 礼を云って私も立つ。老婆は私のほうも見ずに云う。
「桜を見るなら昼間におし。夜中に行くと喰われるよ。」


  *


 他者の力が必要な時、どうするか。どうしても相手の力が必要であるにもかかわらず、相手が自分の頼みに反応してくれない時、どうするか。
 先ず、相手の意識を無理矢理にでも自分に集中させる。集中せざるを得ない状況を作り出す。その上で、交換条件を提示して取引する。脅すことも、これに含まれる。
 狂気に取り付かれた神社の娘は、桜に対してこれを行った。
 夫が死んだことを忘れて、自分の元に帰らない彼を憎み恨んだ。深過ぎる情念は彼女を狂わせ、山中の桜の元へ走らせる。嘗て、神とも鬼とも云われた桜の幹に釘を打ち、自分の願いを叶えてくれたなら、釘は抜いてあげようと囁いた。何度も何度も。

 殺す事で、一人の人間を自分のものにしようとした。
 死んだ者を更に殺そうとした。
 既に手に入らないものを得ようとして、彼女は――…。


 私が真夜中に桜を見た年の、次の年だったと思う。神社の娘は死んだ。事故とも自殺ともつかない死に方だったと聞く。
 夏の終わりの、雨の降る朝だった。その頃には娘が夜中に歩き回っていることは、村の中では周知の事だった。朝には必ず神社か自宅に戻っている娘が戻っていないと、ちょっとした騒ぎになった。大人たちは文句を云い乍ら彼女を探しに外に出て、すぐに死体を見つけた。
 山道の入り口で、山に向かって倒れていたと云う。真新しい釘が、白い咽喉に突き刺さっていたとかいなかったとか…。
 その日のうちに、私は桜を見に行った。雨に濡れて、地面は柔らかく滑りやすくなっていた。私は転ばないように注意し乍ら、山道を外れて樹々の間に分け入った。
 昼過ぎだったが、重たげな雲の所為で、酷く暗かった。それとも茂り過ぎた葉が私の視界を暗くしていたのだろうか。

 雨の中、桜は禍々しさを増していた。

 それは殆ど闇の塊だった。太い幹も、大きく広がって葉の重みで緩やかに地面に垂れる枝も、重く暗く茂る葉も――…全てが、闇の色だった。桜は桜の正常な色彩を保っていたが、その姿には夜の闇がぴたりと重なっていた。
 桜に近付き、幹に触れる。禍々しく感じ乍らも引き寄せられ、触れた樹は湿気を含んで、思いの外、柔らかな感触を私の掌に返した。数日前に訪れたときには頭まで埋まっていた銀の釘は見当らず、刺さっていた痕すら無かった。
 ふと下を見ると、無数の、赤く錆びた釘が落ちていて、それは足先で軽く触れるだけで脆く崩れた。


  *


 何年前の事だったかも忘れて了った、私が子供だった頃の話だ。
 そして今、私は五年振りに自分の生まれ育った村に戻って来て、桜の前に立っている。

 村は廃村になり、家々は全て朽ちていた。私が住んでいた頃とはすっかり変わった光景は、あの夏の真夜中に見た村と奇妙に似通っている。静かで、誰も居ない。
 草に埋もれた山道を、注意深く進み、途中から、完全に道の無い茂みを歩いた。
 酷く暑い夏で、私の意識は朦朧とし乍ら子供の頃の事を思い出した。十五年か二十年。その程度の過去だろうか。
 植物たちが艶めいて、濃い酸素を吐く。

 桜は夜を内包して、変わらず其処に在った。

 岩肌に似た樹皮に手を触れる。
 樹は、ひっそりと呼吸をするようだった。
 あの女を真似て樹に寄り添うが、叶えたい願いも、破壊する事で独占したいものも無く、深い情も持たない為に、私の唇から呪詛の言葉は零れない。
 女は死ぬ事に拠って、再び夫を得ただろうか。
 桜は女の願いを叶えたのだろうか。
 それとも只、喰らったか。

 風に、ざわりと樹々が揺れる。
 日が暮れると辺りはしんと静まった。
 桜は闇そのものになり、静かに妖艶さを増す。月は無く、星明りだけの暗い夜の中で、樹木の気配ばかりが濃くなって行く。
 失ったものの為には足掻くまいと思った。足掻いた所で、得られないものはある。
 樹は、只、其処に在るもの。。失ったものを得ようとした者に釘を打たれ、情念の籠もった呪詛が吐かれても、人の願いを聞く耳は持たない。人知を超えた力があっても、神も鬼も、人の願いは叶えない。
 桜に凭れて睛を閉じる。闇は濃厚になり、空気が粘る程に樹々の気配に満たされる。
 湿った風に吹かれて、ざわざわと、葉擦れの音が迫った。


                                         〈了〉



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