秘密、誰にも秘密。    安田瑛理



「天知る地知る、我知る人知る」
 中国に伝わる故事成語で、簡単に言ってしまえば、
『何かして誰も見ていないと思っても、実は周囲にモロバレ』
 という意味である。
 悪事を働いても、いつかはバレてしまう、もしくは既にバレている、という教訓も含む。
 

 バカ言ってんじゃねーよ。
 ンなことあったらたまんねーっつーの。


 久しぶりに出席した古典の授業。
 今日の内容がたまたまそれだった。
 それに激しく気分を害した彼は、たまに出たやる気がすっかり萎えてしまったのだ。


 だからこうしてボーッとしている。
 誰もいない、屋上で。


「やっぱりここにいた」
 ホッとしたような声に振り返る。
 そして、顔を確認するとまた前に戻す。
「せっかく来たんだから、全部受けていきなさいよ」
「……もう帰る」
「何それ」
 彼女の呆れたような声に、顔を顰めた。
 別に、自分が授業を受けようが受けまいが構わないではないか。
 既に受ける必要も無いのだから。
「そっちこそどうしたんだよ」 
 彼女こそ、授業は?
「空き時間」
 彼女は笑いながら、隣に来た。
 そういえばそうだった。自分と違い、彼女には空き時間が存在するのだ。
「いーのかよ勉強しなくて」
「いーのいーの」
 軽く答えて自分を見つめてくるその目は、無邪気な子どものようだ。
「頭が良すぎるからなんだろうけどさ、気にしすぎだよ」
 でも、気が回りすぎるとこも好きなんだけどね。
 恥ずかしいなら言うなよ。
 彼女の赤く染まる顔を見ながら、こちらも自然と赤くなる。
「頭は関係ないだろ」
 彼は、照れているのを隠すように話を変えた。
 実際、頭のことは触れて欲しくなかった。
 一を聞いて十を知る。まさしくその通りの頭で、知識だけでなく応用力も高く、発想力も素晴らしかった。


 天才。


 よくそう呼ばれる。
 しかし彼はここにいる。ごく普通の公立高に。
 理由は簡単。第一志望であった私立の超進学校を、蹴ったのだ。
 スキップの誘いもあった。
 その方が良かったかもしれない。
 学費が三年分浮くし。
 だが彼には致命的な欠点があった。


 熱し易く冷め易い。


 よくそう評される。
 善く言えば執着が無いのだが、悪く言っても執着が無さ過ぎる。
 突然走り出し、突然止まる。例えゴールが目の前にあっても、やる気が無くなればレースも放棄。
 時期が悪かった。
 彼の両親は、そう言って笑った。決して彼を怒らなかったし、泣きもしなかった。
 蝶よ花よ天才よと周囲に扱われていた子どもの、愛すべき欠点だったからだ。
 何の手もかからなかったこの子が唯一困らせてくれるのが、こういう時だったからだ。
 そんな親の愛情を、その当の子どもは、理解していたが分かっていなかった。
 そして、蹴ったはいいが何をしようか、と考えていた時に、彼女に会った。
 出会いは図書館。
 その日は混んでいて、座る席も相席状態で、すぐ隣に座っていたのが彼女だった。
 何やらうんうん唸っていたのでひょいと見てみると、問題集を手に持ち、目線はノートに落とし、固まっていた。
 どうやら、分からないらしい。
 彼はノートを奪い、驚く彼女を尻目に「はい」とノートを渡した。
 彼女は怒っていたが、ノートに目を落とすと「ありがとう」と礼を言い、
「じゃ、次これ分かる?」
 と問題集を差し出してきた。
 その態度に、今度は彼の方が驚いた。


 そして、年下の自分が彼女の家庭教師になってしまったのである。


 そして、現在に至る。
 その関係は、家庭教師から彼氏彼女へとステップアップしたのだが。
 その時の会話を覚えている。


「家庭教師と生徒が恋人になっちゃうって、なんか危険な香りがするわね」


 そんなことは今更だと応えると、「それもそうね」と彼女は笑い、彼にキスをした。
 本当に今更だ。
 二人の関係は、周囲にとって危険極まりないものなのだから。
 道徳上よろしくないものだから。
 ところが、なんだかんだで恋人歴二年。
 なんとかなるものである。
 愛を語るには致命的な欠点のある自分にしては、快挙である。 
 どうしてなのか。
 だが、深く理由を追求する気にはならない。
 理由を知ったら、冷めてしまうかもしれない。
 知らなくていいのだ。
 彼女が好きだから。
 訳も分からず、相も変わらず、愛も変わらず、側にいて欲しいから。
 そう思うと、突然心が疼いた。
 隣の彼女を抱き締める。
 隣の彼女に口づける。
 二人とも、けっこうその気になったその時、無常にも鐘が鳴った。
 空き時間が終わってしまった。
「残念」
「じゃ、またね」
「すぐだろ」
「そうね」
 彼女の後ろ姿に、彼はひらひらと手を振った。
 不意に、古典の授業が思い出される。


 天知る地知る我知る人知る。


 別に、構わないのに。
 でも、彼女の仕事があるし。
 人の目、世間の道徳、彼女の立場、男としての責任。
 色んな物に縛られて、がんじがらめにされて、腹が立って仕方ない。
「しょーがねぇな」
 彼は、屋上の階段を下りると、教室へ向かった。
 ざわざわと騒ぐ中大人しく席に就き、授業の用意。
「珍しいじゃん。この授業でるなんて」
「出席やべーんだよ」
「なー、宿題見せてくれよ」
「当たったらやるよ」
「うおー、超よゆー」
 そういえば、昨日教えた所だが大丈夫だろうか。
 もしできていなかったら、また教えてやらなければならない。
 さて、お手並み拝見。
「はい、席についてー」
 先生登場。
 そして彼を見つけると、笑った。
「珍しい。今日は来てるのね」
「はい、先生」
 これは、秘密、誰にも秘密。


 先生と生徒が恋人になるって、危険な香りがしないか。



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