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中世を終わりにした男ファーティフ スルターンメフメット2世
第一章 メフメット2世とは?
メフメット2世は1432年3月29日(または30日)土曜日〔または日曜日)うまれました。
お父さんはムラト2世,
お母さんはいろいろなせつがありますが、いろいろな調査の結果
HUMA HATUN(ヒューマー・ハ−ツン)です。
ビザンティン帝国を20代の若さで破ったメフメット2世は、
小さい時からオスマン帝国のその時代の最も知識のある学者〔先生〕達から
いろいろな授業を受けて大きくなり,若い時から統治する力をみにつけました。
3つの言葉,つまり,トルコ語とアラビア語とペルシャ語を上手に使いこなしたように、
ラテン語とギリシャ語とスラブ語も学び使うことができました。とても勤勉で活動的でした。
31年間続いたパーディシャッフ〔王様みたいな位)の生活の中でいつも活躍を続けてきました。
織田信長のように軍隊の先頭に立って戦争するタイプでした。
そして,お父さんのムラト2世の時代のオスマン帝国の国境よりも国境を広げました。
この偉大な軍人であるメフメット2世は敵達にさえも立派だと思われていました。
ASKER〔兵隊〕達と共に行動し兵隊達からも信頼されていました。
例えば1461年のトゥラブゾンの遠征の時にたくさんの険しいブルカル山脈を山越えしました。
このときほとんど彼は,歩いて兵隊達と共に険しい山を登ったそうです。
つまり自分だけ隊長だからと楽をしないで,兵隊達と同じ思いをして戦いました。
この武人としての活躍の反面、彼は哲学や文学を学ぶことを怠っていませんでした。
また,詩人としても有名でした。
知識人を保護し、有名なイスラーム学者達を国に迎え優遇し、
トルコの青年達の教育に熱心でした。
イスタンブールの勝利の後,
ラテン語とギリシャ語とシリア語の本を図書館に集めて
これらをTOKAT(トカット)うまれのモッラルトゥフィに分類させました。
当時としては大変貴重なアラビア語トルコ語ペルシャ語の写本を
メフメット2世が図書館に寄贈しました。
肖像画を見てもわかるように、バラの香りを楽しんでいる知性豊かな顔立ちは、
武人としての恐さも秘めているように感じます。
このメフメット2世がコンスタンティノープルをどのように落としたかを調べてみました。
〔資料MIDHAT SERTO?LUより〕
第2章コンスタンテーノープルの戦い(1)
メフメット2世がはじめて即位したのは,12歳の時でした。
後見役はチャンダルル ハリル パシャで、彼が統治する補佐をしていました。
1445年十字軍が侵攻してきたので、
このためお父さんのムラト2世がマニサから飛んできて息子を助けました。
十字軍のために村と2世は復位しました。
そして戦いの勝利の後、ムラト2世は首都のエディルネに戻ると、
もう一度息子をパーディシャッフにして、自分はマニサにもどりました。
そしてメフメット2世は又パーディシャッフの生活をはじめました。
しかし1445年イェニチェリ〔常備歩兵軍団〕が給料の問題で氾濫を起こし,
街に火事が広がっていきました。
氾濫を鎮圧できず兵隊(ASKER)の信頼も失ったため、
メフメット2世またお父さんに助けを求めました。
お父さんが復位しなくなるまでパーデッシャフを続けました。
1451年2月3日にムラト2世がなくなり、19歳で3度目の即位をし,
いよいよコンスタンティノープルの包囲とかんらくの準備をはじめました。
即位後すぐにアナトリアのカラマンが攻めてきたので、それをとうばつし、
その帰りにコンスタンティノープルのそばに立ち寄り,
ボスポラスのヨーロッパ側にルーメリ砦を築くことを命じました。
そのときバヤズィット1世が築いたアナドル砦をほしゅうするようにも命じました。
ビザンティン皇帝が何度も抗議をしましたが
メフメット2世は夏〔7月)までに、砦を完成させました。
この理由はボスポラス海峡をふうさするたいせいを作るためでした。
1452年の末頃からさらに征服するための準備を進め、
コンスタンティノープルの地図を持ち歩き、思案をし、
たいほう、ざんごう、攻城用のはしごなど,細かい部分まで,研究しました。
問題は中世1000年の間守りつづけてきた、
ビザンティン帝国側の3重の大城壁でした。
413年テオドシウス帝が完成させました。
延長約5.6キロメートルもありました。
コンスタンティノープルの街は
北側は金閣湾と呼ばれる西北へ伸びる細長い湾に守られており,
南側はマルマラ海に守られています。
そしてこの西側を大城壁が守っていますから、
コンスタンティノープルの街を落とすことは大変むずかしいことです。
海からの攻撃のために軍艦輸送船の建造,改修をを進めさせ、
300せきをこえる艦船を集めました。
オスマン帝国各地に兵と物資を調達するために動員令をだし
コンスタンティノープルにたいして上陸ふうさをじっししました。
1453年に入り,2月にウルバンの巨砲が,
3月はじめにアナドルとルーメリーの隊長と部下達が
そしてついに、3月23日にメフメット2世がエディルネを出発し
4月にコンスタンティノープルにとうちゃくしました。
いよいよ作戦開始です!!!
続きは来週です!!今日は4月15日です。
ハーイ,続きは4月21日今からはじまりはじまり、すごいぞメフメット2世のどぎもを抜く作戦!!!たのしいでってね。
第2章コンスタンティーノープルの戦い(2)
いよいよ作戦開始です。コンスタンティノープルの街の西側の大城壁の外にオスマン軍の主力が配置されました。メフメット2世はVezirハリルパシャと共にイェニチェリと常備騎兵軍団を率いて中央にふじんしました。ちょうどTOPIKAPI(トプカプのトプは大砲の弾でカプは門という意味です。ビザンツ人達はトプカプをロマヌス門と呼んでいました。ウルバンの巨砲がちょうどロマヌス門の向かいがわにおかれたために、トプカプと呼ばれるようになりました。)の前です。左右には不正規の騎兵がおかれました。右翼にはアナトリアそうとく、イスハクパシャの率いる、アナトリア正規騎兵軍がじんどり、左よくにはルメリ総督カラジャパシャの率いるルメリのせいき軍がじんどりました。メフメット2世の腹心で,後にハリルパシャを追いやり宰相になった宮廷奴隷出身のザガツス・パシャは予備軍を率いてガラタ地区こうほうを固めました。海上にはバルタオウル・スレイマン・ベイの率いる艦隊が海上から攻撃をする準備を整えました。特に金閣湾入り口の防御の鉄のくさりをはかいし、湾内に入って北側からコンスタンティノープルを攻撃する任務が与えられました。こうしてコンスタンティノープルの包囲は4月11日に完了しました。彼ら騎兵は刀槍を主な武器として戦いガラジャ・パシャとイスハク・パシャの指揮下にはいっていました。これに対するざっとオスマン軍は10万ぐらいで、主力は6万−7万に及ぶ騎兵軍でした。ビザンツ軍は、ビザンツ臣軍4983人外国人2000人で合計約700人ていどでした。
メフメット二世はイスラーム法の規定に基づき最後のビザンツ皇帝コンスタンティヌス11世にこうふくを求める使者を送りました。申し入れは皇帝が部下達と家族と財産を携えて退去すれば住民の安全と財産は保証するという和平の内容でした。しかし皇帝が拒否したのでオスマン軍が攻撃をしかけました。攻撃の中心は三重の大城壁で、これをすくないビザンツ側の兵隊がよく守り,こうぼうは長びきました。そして金閣湾入り口にはオスマン軍の船の進入を防ぐための鎖がはりめぐされました。金角湾内には、優秀なビザンツかん隊がまもりをかためました。
オスマンかんたいはきへいに比べて弱体で,4月20日に西ヨーロッパからの援軍の一部であるすうせきの船団がオスマンかんたいを退けて無事入港しました。これを見てメフメット2世は大変激怒し,あの有名な船を山越えさせるというきしゅう作戦を実行し、成功しました。これは大変驚くべき策で,味方も敵もいっしゅんに現れたオスマン艦隊を見てゆめをみているようにかんじたそうです。
これはぼくも大変きょうみのある話です。ボスポラス側のカバタシュあたりからテコとコロを用いて大勢の兵隊に船を運ばせガラタの後方を通り金角湾内に着水したといわれています。湾内に入ったため北側からこうげきも可能になりました。巨砲によるほうげきも強化して,攻城車によるこうげきや地下からの坑道による侵入作戦を撃退してきたビザンツ側もとうとうゆらぎはじめました。そして,5月29日未明、メフメット2世は最後のそうこうげきを開始しました。大城壁を中心に激しい戦いがくりひろげられました。しかし、ビザンツ側が閉め忘れた皇城近くの大城壁の小門からオスマン兵士一団が城内に入り込み,とうに登って旗をかかげたため、城内で混乱が生じました。ちょうどほのころ前線でがんばっていたイタリア人の隊長ジュスティーニアーニが負傷してよわきになり船に逃げ込んだためにビザンツ防衛軍のしきがみだれました。このころたいほうであなのあいた大城壁からオスマン軍が城内に突入しました。市内は乱戦となり、ビザンツ皇帝コンスタンティヌス11世も、自らりっぱにたたかいましたが、ついにゆくえふめいになりました。
こうしてメフメット2世はビザンツ帝国〔東ローマ帝国〕の1000年の都をかんらくさせました。世界史ではビザンツ帝国の崩壊をもって中世の終わりとしています。こうして,ファーティフ・スルタン・メフメット2世はコンスタンティノープルを手に入れ、中世を終わりにした男となったのです。
つぎはいよいよ「第3章オスマン帝国から学ぶべきこと」です。これは鈴木先生の影響が多いかもでも、鈴木先生と同じ考えです。この考えって?何かな?たのしみにね。
第三章オスマン帝国から学ぶこと
メフメット2世が7代オスマン帝国のパーディシャッフになったことは前に書きました。
ではメフメット2世のほかにも多くのスルタンたちがかつやくしたオスマン帝国はどのような国だったのでしょうか?
日本ではあまり知られていない、又は知っている人でも、十字軍の敵として、ヨーロッパの敵として知っているぐらいだと思います。オスマン帝国は北アフリカ、アラビア半島、黒海の周り、ギリシャ、ブルガリア、ユーゴスラビア、などの東南ヨーロッパ、そして現在のトルコ共和国のもとであるアナトリアを統治下におき、建国1923年まで、約624年間の間栄えた偉大な大帝国だったのです。
この帝国についてかんたんには説明できませんが、メフメット2世がアラビア語、ペルシャ語、そして母国語であるトルコ語、さらにギリシャ語、ラテン語、スラブ語をじゆうに使いこなしたことのみ、ここでは考えたいと思います。
オスマン帝国が広い範囲で、統一できた理由は、多言語帝国であったからということです。たとえば、公文書(VAKIFIYE)はアラビア語で、財政文書はペルシャ語がもちいられました。学問の世界ではペルシャ語が主につかわれていました。トルコ語は支配集団の日常語でした。メフメット2世のコンスタンティノープルの入城以後、トルコ語は公用語、文学語として、はってんしていきました。
アラビア語、ペルシャ語の文明語に新たに、オスマン語が加えられました。オスマン語(オスマンルジャ)とは、日常語においても古アナトリアのトルコ語とはすこしことなり、文学語、公用語としても用いられるトルコ語の事です。
つまりオスマン帝国を統治していた人々は文明語であるオスマン語、アラビア語、ペルシャ語を使いこなせることが必要でした。さらに拡大していった地域地域では今まで使われていた日常語はみとめられていました。地域ごとにいろいろな言葉を話す人々は民族も宗教も多種多様でした。
現在は一国家一民族一言語のシステムとしての国家(ネーションステート)が世界中に作られています。オスマン帝国の崩壊後、たくさんの一国家一民族一言語をりそうとする国々ができました。実は1923年に作られたトルコ共和国もその1つです。
トルコ民族対クルド民族、トルコ民族対アルメニア民族などをかいけつするための方法の1つとしてオスマン帝国の多言語多民族多宗教を認めた国づくりを学ぶべきだと思います。そうすれば、ボスニアなどの民族問題もすくなくなり、他の問題もあるかもしれませんが、世界がもっと平和になると思います。
1996年夏休みの宿題小6『歴史のレポート』 BY Y

ミーマル・スィナンとスレイマニヤェの開館
Mimar Sinan ve Suleymaniye’nin
Ac?l??
ミーマル・スィナンのはじめての大作はシェフザーデモスクです。
カーヌーニー・スルタン・スレイマンがこのモスクを
若くしてなくなったむすこをシェフナーゼ・メフメットを偲んで作らせました。
スルタンはこの作品を気に入りました。
その一年後,スィナンに自分のなでモスクを作るように命じました。
モスク建設は1552年に始まりました。
それから6年半の歳月が過ぎても,そのままになっており,完成できませんでした。
この男は黒泥からさえ建物を立ち上げられない。
〔基礎工事も終わらない〕とうわさしはじめました。
この抽象はスルタンの耳まで届きました。
カーヌーニーはある日突然スレイマニヤェへいきました。
その日、スィナンは大理石やのアトリエにおりました。
思いもがかず,パーデシャーを身の前にすると、驚きました。
統治者は怒っていました。
この建物はいつ完成するのはいつか?即答せよ!」と,
怒りを明らかにしました。
スィナンは
「わがパーディシャーよ、2ヶ月でインシャアッラー,完成いたします。」
少なくとも一年はかかると思っていたカーヌーニーは、
「建築家よ!もし2ヶ月で終わらなければなんじととはなしあおうぞ。」といいました。
カーヌーニーが帰った後、
ミーマルスィナンはイスタンブル中のありとあらゆる職人達を,石屋達を,労働者達をあつめました。
それから,グループごとに,日中夜働きました。
スィナン自身は夜二時間しか眠れませんでした。
ちょうど2ヵ月後モスクは完成しました。
ミーマルスイナンは大傑作の開館式に統治者へ鍵を渡しました。
パーディシャーはそばの宰相に尋ねました。
『このモスクの扉を開けるのに相応しいものはわれわれの中で誰であろうか?」
「わがパーディシャーよ,ミーマルスィナン、アーという者でございまする。」
モスクの扉を置けるのは彼が相応しいかと存じます。」といって
建築芸術の最高峰である、スレイマニヤェの鍵を改めてスィナンに渡しました。
『そなたがつくったモスクを、清らかな心でドゥアーし、そしてそなたが開けよ」といいました。
このように,スレイマニヤェの扉をミーマル・スィナンが開けました。
当時、彼は67歳でした。
1
トルコの歴史クイズ
| 1、トルコ人のアナトリアへの定着のようす |
| トルコ人を優遇したアラブの朝は? |
アッバース朝 |
| トルコ軍がアラブ軍を助け、戦った戦いは? |
中国とタラスでおこなわれたタラスの戦い(751) |
| この戦争語たいせつなえいきょうは? |
タラスの戦いの後から次第に、トルコ人が個々にイスラームを受け入れ始めました。 |
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トルコの初めてのイスラーム政権は?
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カラハーン朝(カラハンルラル)
サトゥク・ブウラーハーンの時代にムスリムの国になりました。
ガズニー朝との戦いの後、国はだんだん弱くなっていきました。
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| トルコの有名な2つの朝は? |
オスマーン朝(帝国)とセルジューク(セルチュク)朝 |
| よく知られているセルジューク朝は実は2つの朝が入り組んでいます.どれとどれ |
大セルジューク(セルチュク)朝(ブユク セルチュクル デヴレトレル)とアナトリアセルチュク朝(アナドル セルチュクレル) |
| サマンオウルラルとカラハンルラルの戦いで、サマンオウルラルに味方して名声を得たのは? |
セルチュク ベイ |
| 彼はその後何した? |
実は彼の名にちなんでセルチュク朝の名がつけられたのです。 |
| セルチュクベイの子どもは? |
アルスラーン |
| 彼を罠にかけて捕まえた国は? |
ガズナ朝 |
| セルチュクベイの孫は? |
トゥウルール と チャウル |
| ガズナ朝からホラサーンを手にいれたのは? |
トゥウルール とチャウル |
| ガズナ朝と彼らとの有名な戦いは? |
ダンダナカンの戦い、1040年 |
| その意義は? |
ツゥウルールベイが大セルチュク朝のスルタンであると宣言した。 |
| チャウルの子は? |
アルプアルスラーン |
| 彼は誰と戦った? |
ロマノス ディオゲネス |
| 戦いの名は?何年? |
マラズギルトの戦い、1071年 |
| 意義は? |
トルコ人にアナトリアへのとびらを開いた事 |
| 大セルチュク朝の崩壊はいつ? |
1124年、 |
| 世界のスルタン、光栄なるスルタンと言う称号をもらった人は? |
アルプアルスラーン |
| 亡くなったのはいつ? |
マラズギルトの戦いの翌年、1072年。 |
| では次のスルターンは? |
メリクシャフ |
| 彼の後、大セルチュク朝はどうなった? |
行為継承問題などの内乱で混乱し、.弱体化してきました、。。 |
| いつ滅びたの? |
鎌倉に幕府ができて二年後、1194年 |
| アナトリアセルチュク(セルジューク)朝を作った人は? |
スレイマーン シャフ |
| 彼はどこの国の長官だった? |
実は大セルチュク朝の軍事司令官でアナトリア派遣されていました |
| どの国と戦っていたの? |
はい、ビザンツ帝国です。 |
| どこまで近づいた? |
イスタンブールの近くのイズニクまで進みました。 |
| どうして大セルチュク朝の軍人がアナトリアセルチュク朝の創始者なの? |
それは、歴史には見られることですが、彼イズニクをとった後(1075)、独立しました。 |
| その時の大セルチュク朝のスルタンは? |
アルプアルスラーンの息子、メリクシャフです。 |
| アナトリアセルチュク朝打倒のために、だの長官を送ったの? |
ポルスク |
| どうなった? |
スレイマーンシャフが守り抜きました。 |
| アナトリアセルチュク朝の創始者はいつ亡くなった? |
1086年 |
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979年初めてトルコの地を踏んで以来、何度か訪れたトルコ、その感想を書き留めておこうと思う。
トルコにて
はじめに
飛行機は高校時代までは、北海道に一度、テニスの試合の遠征のためにのったきりでだった。だがその後、飛行機が嫌いになるほどのらなければならない運命がまちかまえていた。テニスに明け暮れた高校時代、修学旅行も試合と重なりいけなかったので、旅行というとテニスの試合でいったところだけだ。そんなんで、私はそのころは、自分がこんなに旅が好きな人だとは気がつかなかった。1979年初めて海外に出かけた。私は結婚前まではいつも1人旅立った。結婚後はいつも子供が一緒という奇妙な旅ばかりをしてきた。また小さな子供達と出かけなければならないのは多少気が重い・・・おしめをつけた子供達、飛行機の中で静かにしてくれるか、子ども達もあんな小さな空間で泣かずにし静かにすることはたいへんなことだろう。
私は、本当は、一人旅が好きだ。なぜか?ときかれても、もちろんこたえられないけれども、旅は自分を見つめなおすのにはもってこいだ。そこにはだれ1人、あなたを知る人はいない。すべてを自分でこなすことができる。これがなんともいえない魅力だった。
1979年夏
というわけで、初めての海外旅行は、はるか昔のことで、おぼろげにしか覚えていない。家を出るときに、母が後ろで微笑んで見送ってくれたことが脳裏に焼き付いている。私はそのとき、遠い異国の地、憧れのオスマン人達の末裔の住む国、トルコを目指した。生きる目的を見失い、それを求めて旅立った・・・死ぬ前に一度、彼らに会ってみたいという単純な理由で・・・
なんてついつい大げさに書いてしまっているかな?でも若さというのは時には無謀で、ちょっとしたことがきっかけでが思っても見ないことをしてしまうもんなんだ。今思うと、たいしたことないことを妙に思いつめてしまったり、「そういうこともあるわよ。」というようなことを、真剣に考えたりする。当時の問題そのものは私の中で小さくなり、あるいはもうなくなったかもしれないが、「真剣な感情」だけは今でも新鮮で、それを思い出す時には、「若さ」というものがとてもいとおしく感じられる。
旅そのものは、私の考えをよそに大変楽しい思い出となった。トルコが、当時のトルコの人々の暖かさが私を和ませてくれたからだと思う。彼らは大変親切で、今ほど物質主義的傾向はなく、心豊かな人々だった。私に比べると飛びぬけて明るく、元気な人々が21年前には確かにそこに、住んでいた。こうして、私はトルコの人々に精神的に助けられ、人間不信から徐々に解放されていくのだった。そう、当時、私にはある病が取り付いていた。その名は、「人間に対する強い不信感」・・・この不信感が私をトルコへと駆り立てた・・・
私はイスタンブールである方に会いそこに滞在させてもらうことになった。私は家の近所を歩いて歩いて歩きまくった。今でも、とおりの名前は思いだせないけれど、その道並の様子をよく覚えている。よくいった公園も・・・そこのベンチでなが〜〜〜くすごしたものだった。
ある時いつものように道を歩いていると、急にギクという大きな音を聞いた。聞いたと思ったのは、私だけだったのかもしれない。その音は道端の穴に落っこちた私の右足首からだった。骨が折れたかと思うくらい痛かった。ともかくそれ以降歩けなくなり、どうやって友人の家までたどり着いたのかも覚えていない。私を出迎えた彼らは暖かかった。当時、接骨院などなかったので、(そういえば、今でもないです。だから、子供達には必ずシップ薬を持たせます。)なんやらかんやらとみんなが歩けない私を、本当によく世話してくれた。あたかかった・・・・やさしかった・・・
見知らぬ異邦人になぜこれほどまでに彼らが無条件でやさしくしてくれたのかは、いまでこそわかるけれど、当時の私にはわからなかった。でも、私はその時、テニスの顧問の先生が亡くなってから4年半の間、私を縛りつづけた目に見えない紐が解かれたのを感じた。人間ってなかなかいいもんジャン。まだまだ捨てたもんではないなと思った。笑うことを忘れていた4年半、私は久しぶりに自分の笑う声を聞いた。足の痛みをよそに、みんなと心から笑っている自分を見た。うれしかった。うれしかった。うれしかった。ギクっとう音は人に対する不信感が私の心の中で折れた音だったのかもしれない。まだまだ自分への不信感は私の中にくすぶっていたけれど・・・でも雪解けはまじかだとこのとき直感した。
このグキ事件で私のはじめての海外旅行はあっけなく幕を閉じた。2000/9/17
旅行記1980年、
あれから一年が過ぎようとしている。2度目のトルコは私にとって人生の大きな転換期となった。このHPのメインでもあるHZ.メヴラーナに巡り会った。そうそれはやっと会えた!!!という感じ・・・
まずイスタンブールのお世話になった友人達を家を訪ねた。それから今でもとてもポピュラーなウルギュプという町へ出かけた。大島さんを真似して、トルコを一周しようなんて思った。軽い気持ちでイスタンブールをバスで出発した。バスの中で出合ったかわいい女の子、名前はジャーナン、と仲良しになって、そこのお家に泊まらせてもらうことになった。彼女とはいろんなことをして時を過ごした。一番忘れられないのは朝早くおきて「さあ出かけましょう」って言うから一緒に行ったらなんと、20kmの道のりを歩く羽目になった。ほとんど一日中歩いていたような気がする。谷間を見に行ったのだけれど・・・帰りは夜遅くなって、へとへとになった。彼女は平然として、疲れた様子もなかった。それから体半分を折り曲げないと通れないような、地元の人しか知らない地下道などでよくジャーナンとその仲間達と一緒に鬼ごっこして遊んだ。初めて、今日本でも健康によいっていわれてるざくろもさじめて食べたし、
畑といっても土地柄、段々畑に近いようなブドウ畑まで一緒に行った。そのとき私がお客さん?ということでロバにのせてくれた。外の人々はみんな歩いていくんだけど・・・ほんとにかわいい子だった。朝早くおきて、ご両親に朝食を準備する、それから彼らを起こすのだ。トルコの女性は一般には、みんな小さいうちからよく家の手伝いをする。彼女はその後、結婚してドイツに住んでいると聞いた。今はどうしているのだろう?もしかしたら、ちょうど当時のジャーナンのようなかわいい女の子と一緒に暮らしているかも知れない。
ところで、ウルギュプといえば葡萄。ブドウ畑はとてもおもしろい。かたちが日本と違う。棚を作らない。手塚治さんの「火の鳥」にでてくる、ある星の生物に似ていると思った。このことを漫画好きな姉に手紙で書いたことを覚えている。姉はちなみにマンガが上手で、ミズノヒデコさんだったかしら?が大好きだった。手塚おさむさんの「リボンの騎士」もよく真似て描いてたっけ・・・
もう一つ忘れられないことは、星がとてもきれいだった・・・とても空に近い・・・まるで空の一部から、星を見ているような感じだった。それほど星に近かったのだ。天国に一番近いのはここだ!なんて思ったりしていた。
こうして楽しい思い出をたくさんもらって、私はウルギュプからコンヤへ向かった。コンヤにはイスタンブールの友人から1つのアドレスをもらっていた。バスの中で手にしたコンヤのパンフレットを私は見た。Come
come
come,againではじまるメヴラーナの言葉を・・・この文を目にしたとき、身震いしたのを今でも忘れない。誰かが私の肩にやさしく手をかけて、話しかけているような感じがした。私は思わずバスの中で誰もいないはずの後ろを振向いた。もちろんそこには乗客のほかだ〜〜れもいなかった。衝撃が大きかったらしく、この時まで、聞いていたナカジマミユキさんのカセットのはいっているラジカセのイヤホーンを耳からはずした。そして私は、あることを考えていた。私の心にいつもくすぶっているある問題を。Hz、メヴラーナなら私を受け入れてくれるかもしれない。私が私を赦すチャンスをくれるかもしれない・・・などと、とめどなく思いあぐねくうちにバスはコンヤのオートガルについた。ところで、やさしく私の肩に置かれた手のぬくもり・・・それはまさにMuhabbetだった・・・
この手のぬくもりの感触が私をイスラームへと導いた。2000.9.18
1980年コンヤ1
Hz.メヴラーナが待っていてくれたのかわからないけど、とにかく私はHz.メヴラーナの博物館のあるコンヤという町が気に入って、そこにしばらく滞在することになった。滞在した郊外のお家の周りも、今は住宅街と化したが、当時は林だった。とげとげした乾燥に強い花々が咲き乱れてはいたけれど、それはそれは赤毛のアンの世界を思い出させるような美しい光景だった。家の前には小川が流れ、交通事故の心配なんてまったくなかった・・・
あ〜〜、年をとると一番困るのは、昔の思い出を美しくしすぎてしまうことだ。ほんとは、そんなに善くなくても懐かしくいとおしく感じてしまう・・・
今はなき義祖母、義母、彼女たちの思い出がそっと私を包んでくれる・・・古きよきトルコ人々・・・当時の義母は今の私よりも若かったんでだと考えると不思議な気がする。私は彼女達から多くのことを学んだ。たぶん今のトルコの若者達にはわかりにくい時代のお話しかも・・・
メヴラーナ博物館の入り口のところで、小さな子供に会った。彼は小さいのに何かの話の時、政治的な話をまるで大人みたいな口調で話していた。そのときはすごいなんて思ったけど、トルコ人は日本ではタブーの政治、宗教の話が好きな人々だった。なぜかわからなかったけど、それは彼らの明日のパンにかかわる大事な話題だったのだ。まずインフレが激しいトルコでは、知らぬ間に税金が…ということがある。(でもこのときのTLはつよかったんです。。。確かYENのが弱かったかまたは同じくらいではなかったかしら?)一日にして法律が変わるというのもざらで注意せずに入られない状況なのかもしれない・・・宗教の話も賛否いろいろで、いろんなところで花が咲く。古の昔より、このアナトリアの地には多くの民族が生き、死んでいった。彼らの生き方そのものがいくつかの文化、文明を形づくり、そしてそのすべてが現在にも何らかの形で息づいているのだ。現在トルコの98%はムスリム、イスラームを信じている。イスラームとはちょっと日本語で言う宗教には入りきれない意味合いがある。イスラームは包括的な体系で、宇宙的なシステムの縮図化したものといったほうがわかりやすいかもしれない・・・・なぜなら、トルコにはイスラームについて賛否両論ある。でも基本的にはみんな「神を認識している」土壌で話し合っているのだ。「ガッチャマンのマント」のお話をなさった、あるおもしろい先生が「スピノザは最終的には無神論者だ」と主張しつづけた。でも、無神論自体、神という前提があるわけで・・・前提が同じである限り、それはやはり神を意識していることの現れに過ぎないと思う。(すみませ〜〜ん。先生生意気なこといっちゃって・・・)
トルコで政治,宗教が小さな子供達の話題にのぼるのは、それが生活に密着したものだからとだと思う。
こういう堅い話はおいておいて、よくお茶を飲んだ場所は、アラウッディーン.テペスィというところ・・・バックにはバルシュマンチョの「黄色いチズメ」とかがかかってたっけ・・・お茶というのはもちろん紅茶のことだが。とても安かった・・・そこでたまたま会ったイギリスからきたといういぎりすの旅行者とお話したのを思い出した。後に日本の方と結婚されたとか・・・そういえば、主人となる人とも、そこで出会ったんだっけ?(と思ったのは私だけで、その前にメヴラーナ博物館の入り口で私を見かけたそうだ。そこで彼は観光省のアルバイトをして、受け付けにいたらしい。)当時彼は大学生だった。
コンヤ2
コンヤの町は歴史も深く、セルジュークトルコの首都として栄えた。Hz.メヴラーナも放浪の末、コンヤに落ち着いた理由が,コンヤにすむとわかるかもしれないと思ってコンヤにいたかったのかもしれない。
メヴラーナ博物館は観光地というよりも、トルコ全土からトルコのみんなもやってくる場所の1つだ.
私は、歴史名所訪問とはちょっと違う、トルコの人々の日常生活、考え方みたいなものを伝えられたらとも思う。実際、私はあんまり歴史めぐりをできず、ある町のある人々についてしかわからない。人々の生の生活、声を知るのに一番手っ取り早いのは、彼らと一緒に生活することだと思う。これはちょっと厳しいかも・・・でもやはり一緒に生活すると口では言い表せない色々なものを感じ、知ることができる。私のトルコ旅行とはずっとこういう感じのものだった。日常生活はおもしろいものでは決してない。特に当時のトルコでは、GEZMEというと決まってどこかの家庭訪問で、座って一緒にお茶を飲んだり食事をしたりするのが定番だった。S?raと言うのがあって、(今もあります)何人かがグループを作り2週に一度とか月に一度とか日を決めてみんなを家に呼びお茶とケーキをご馳走しあうのだ。義母の属していたスラは2つあった。1つは30人以上もの人々が集まる大掛かりなホームパーティーだ。もてなす前の準備としては大掃除とケーキ作り、そしてお客さんが来られてからは、まずジュース類、次に紅茶とケーキ、それからしばらくしてから果物類を出すのが常だった。お客さんはすべて女性と子供達のみ・・・彼女達は料理、ケーキ作り、手芸、そして噂話に花を咲かせ、とても楽しい時をすごしているように見えた。私は接待をしながら、なぜかむなしかった。本来の傍観者的性格が彼女達の話題に興味を示せなかったのだろうと思う。
いつか旅人のように旅をしてみたいという望みがまだある。「旅人のように、トルコ旅行したいな。」と半ばあきらめ口調でぼやく私に、子供達が「今度、おかあさんとトルコ一周旅行をしよう。ハッジにも行こう。」とやさしい言葉をかけてくれるときがある。子供達も、私達のトルコ生活は、旅行ではなく、ただ生活場所が移動しただけの日常生活の延長だということを良く知っている。日常的なことから離れられなければ旅とはいえないと思う。コンヤでの生活はそういう意味では旅ではなかった。
話がずれてしまったけれど、コンヤでは色々な人々とであった。私が一番すばらしいと思った人は日本人だった。エジプト好きの日本の方が、縁あってコンヤにすむことになったらしい。彼女はほんとにすばらしい人で、生粋のトルコ人よりもある意味ではトルコ人らしいんじゃないかと思う。と言うかトルコの方々よりもイスラーム的感覚が優れていると思う。とてもやさしい、純粋な方で、会うたびに成長しているのがわかる。そこへいくと私は、あんまり変化もなく、とるのはただ年ばかり・・・ コンヤでであった人の中で、一番印象に残っているのが日本女性というのも、奇妙だ。でも、案外そういうものなのかもしれない。理想とは意外と自分の身近なところにあるのかもとも思う。おいおい彼女は回想の中に出てくることだろう。彼女のことを考えだけで胸があたたかくなり、気持ちが柔らかくなれる・・・
イスタンブールで出会った女の子
今日は2000年の最後の月12月です。ヒジュラ暦の9月をラマダンと言いトルコでも日本でもムスリム達は斎戒をします。今、私は1980年の秋にタイムスリップしています。私はこのころはトルコのイスタンブールか又はコンヤのどちらかにいました。イスタンブルにいた時、友人の一人が、子どもを連れにある場所に立ち寄りました。そこにはかわいい5歳ぐらいから11歳ぐらいまでの女の子達が、白や青や花柄などのスカーフをして、なにやら一生懸命本を声を出して読んでいるようでした。私は、暫しの間そこで美しい女の子達の声に聞き入っていました。するとそのうち、白い大きなスカーフを身に付けていたその中の女の子の1人が、、この世のものとは思えないような美しい声で朗唱しはじめました。私はなぜかわからなかったけれど、急に涙ぐみ始め、恥ずかしかったのでうつむきました。天使のようなその女の子の名前は「えりふ」と言いました。あとでわかったのですが、私が聴いた彼女の朗読していた本はクルアーンと言うイスラームの聖典でした。以前、翻訳を日本語で読んだことがありましたが、そのときのイメージとはまったく違いました。このとき聴いた彼女の声は私の心の奥のほうに大切に大切にしまってあり、私にとって宝物の1つです。(12/4)
ローマバハッチェ
私がイスタンブールでよく行った喫茶店は、金閣湾の見える大変見晴らしのよい場所にあった。名前?確か・・・思い出せない。そうだ、ローマバハッチェだ!そこからの眺めは最高で、そこでチャイを飲みながら長い時間を過ごした。あるとき、一人の男の子が声をかけてきた。お決まりの質問のあと、あなたはムスリマか?とたずねられたように思う、なんと答えたかわからないけれど、そのうち幾人かの人が集まってきて、いろいろ話しかけられた。そのうちたくさんの本をみんなが持ち寄ってきた。そして、最初に話しかけてきた手にタスビーフを持っていた男の子が「ちょっと待ってて、すぐ戻るから。」といって消えた。しばらくすると、ひげの長い中年の小柄な男の人を連れてきた。そして、なにやら集められた本を選んでいるようだった。その方はホジャで、タスビーフを手にした子の先生だそうだ。彼がみんなが持ってきてくれた本の中で、お勧めの本を選んでくれた。そして、それらを私にくれるという。私も本は好きなので、好意にあまえて全部いただいた。今もそのときいただいた本を時々参照することがある。そのくらいよい本だった。私は、その先生と一緒に?私の泊まっている家の近くまで歩いた。厳密にはいっしょには歩かなかった。その先生は早足で私の前を歩いた。そして会話はあまり交わさなかった。今でこそこの先生の行動が100%理解できるが、そのときは、なぜこの人こんなに早くあるくんだろう?となぞだった。私はさよならの挨拶をして家路へ向かった。
このときにあった人々、本を持ってきてくれた若者たち、その先生との出会いも忘れることはできない。(12月11日)
ムスリマになった自分自身との出会い
その秋、今から思うと私の人生の転機だったかもしれません。メヴラーナとの出会い、この少女との出会い、多くの出会い、素敵な出会いがこの短時間に凝縮されて、天から雪のようにふりそそぐ感じでした。そして、なんといっても一番印象に残る出会いは、『ムスリマになった自分自身』とのであいです。
人は、若いころ、いろいろなことを考えます。色々なことに迷います。何のためにいきているんだろう?じぶんってなんだろう?何のために自分は生まれてきたのだろう?など、色々な質問が頭に浮かんだり消えたりながら不安な、不安定な状態で日々を過ごします。自分自身の存在の帰属場所を捜し求めます。これは、若者にとって当然の迷いだと思います。ただ、捜し求めることは、ある意味ではとてもつらい作業で、探すのをあきらめてしまうこともあるでしょう。でも、探しつづければ、見つかることも確かです。私はその秋、自分自身を見つけることができました。
「知とは自分自身を知ることです。自分自身を知らずして、人はなぜ学ぶのでしょうか?」と言うユーヌスのことばが心に染渡ったのもこの時です。いろんな本を読んだり、色々な人とお話したりしても、出会う時と場所が少しでもずれてしまうと、同じ言葉でも、素通りしてしまうことがよくあります。皆さんも同じような経験はありませんか?(2000/12/7)
1981夏
今回は黒海沿岸のお茶で有名なリゼという町を訪れた・イスタンブールの空港からオートガルまでバスでオートガルから長距離バスに乗って約10時間、長いバスのたびでリゼについた。そこは国会がすぐ目の前に見える、こじんまりした町だった。おいしいケバブ屋さんがあった。黒海も波はどちらかというと高く、地中海のような穏やかさはない。ちょうど日本の景色に似て、あちらこちらに緑の木々が見られる。ここに2週間ぐらい滞在した。夏だというのに、それほど蒸し暑くなかった。トラブゾンの町も見学した。海はすぐそこに見れるけれどイスタンブールの風景とは、どことなく違う。ここはその昔オスマン帝国から独立して小さい国を作っていたというから、ある意味では独立精神が強い町なのかもしれないとも思った。
それから私は知人に会いにコンヤに行く。コンヤまでの長距離バスは快適とはいえなかった。深夜のバスだったのだが、なんだか蒸し暑くて、仮眠も取れなかった。寝不足のまま、コンヤのオ−トガルに朝早くついた。コニヤの様子はあまり変わっていないように見えた。ただ、なんだか懐かしい気がしたが、私は2週間ほど滞在して、今度はアンタリアに向かった。アンタリアはとても暑く、さすが地中海沿岸の町って言う感じだった。多くの観光客がいたそこで私はジャポニヤ(日本)という意味の花がたくさん咲いていることを友人に教えてもらった。なぜ日本なのかいまだによくわからない。由来は尋ねなかった。
ラーレバハッチェ
アンタリアにある公園をぶらついた。ベンチに座ってひまわりの種の食べ方を教えてもらった。ひまわりの種は中身を食べるのはなれない人にはとてもむずかしいのだ。そこでシャツを買ったが確か500リラだったと思う。アンタリアはリゾート都市で多くの人が避暑地用のマンションにすんでいた。海の見える見晴らしのよいマンションがあったので」、どのくらいするのがたずねたところ当時の日本円で2000万円ぐらいといった。なんと、たか〜〜〜〜いととても驚いたので今でも値段を覚えている。友人はあんなマンションに住んでみたいと夢を話したが、どうなったんだろうか?すむことができたんだろうか?
ブルサ
アンタリアからエーゲ海沿岸の有名なを経由してブルサという町についた。私はこの町がどことなく気に入った。坂の上り下りもイスタンブールほどではなく、ウルジャーミィというジャーミィを見学してから、包丁(ナイフ)をミニお店屋さんを歩き回った。なぜナイフかって?ただそこの名産品ということだけの話。ちなみにトルコでは日本のように幅の太い包丁は見当たらない。果物ナイフの少し大きめもナイフが重宝がられる。なぜかというと、とるこの人たちはほんとに見事な包丁裁きで、まな板というものがなくても、何で実切ってしまうのだ。よく料理に使うたまねぎのみじん切りも手とナイフで切る。この時大きめだと手の中によく収まらないので、日本のような包丁はあまり使わない。ただ肉とかを切るときは、やはり大き目のほうが使いやすいと私は思う。
ブルサで有名なハマムに入り、それからウルダアにのぼった。そこでほんとにおいしいばーべきゅうーで焼いてお肉を食べ。高い山の上で奇麗な空気のせいもあるかもしれないが、ほんとにおいしかった。ぜひ子供達にも食べさせてやりたい。
ヤロヴァ
ブルサからヤロヴァ、そこで船に乗った。そしてイスタンブールへ
イスタンブール
イスタンブールでトプカプ宮殿、エミルガン公園、エミノニュなどいろいろ見学して、旅路についた。
1981年はいろいろなところを回ったので楽しい思い出がたくさんあった。でも今覚えているのはほんの少し・・・また思い出したら書き足したいと思う。
1982年夏
再び夏にトルコを訪れた。ちょうどラマダン中だった。朝早くおきて軽い食事を日の入りまで、飲んだり食べたり悪い行いをせず、,悪い言葉を使わずにただ唯一不変の絶対的存在について考え,思う一日を過ごす。日常の雑用に終われなかなか精神的にはそこまで行かないけれど,飲んだり食べたりしないことで,肉体的な充実感を味わえる。みんなはこの時期をとても喜んでいるように見えた。周りに同じことをしている人々がいるのは心地よく、とても楽しかった。
そしてラマダンの27日目の夜、ライラトルカディルに、私は、家の一室で結婚をした。証人が何人かいて、近所にすんでいる主人の親しいホジャにニカーをしてもらった。私はわからない、なぜ結婚したのか。ただ,そのときは何の抵抗もなく,私は自然体だった。これこらどのような人生が待っているかなんて考えることもなく,ただ絶対的存在の思うがままにに身を任せたように思う。それからあっという間に19年が過ぎてしまった。今年のライラトルカディルにふと「俺達は今日、結婚したんだよね。」とボソッといったとき、私はとてもびっくりした。そんなこと思い出すような人ではないし、今までもそんなことは言わなかった。多分、彼も年をとったんだと思う。
とにかくこうして,その夏もあっというまに過ぎ、11月に彼が兵役にいくまで、私は主人の実家で過ごした。
1982年はラマダン中だったのでどこへも旅行した覚えがない。
(2001.2.18)
2001年夏
7月10日
7月8月の2ヶ月間、4年ぶりにトルコを訪れた。今回は3人子連れのなかなか快適な飛行機旅行をすることができた。とはいっても、イスタンブールの空港では、鼻血をだしたり、もどしたりする子もいた。それでも今までの中では一番楽なたびができた。今年は下三人の子供達の割礼もかね、長男の進学をどうするかなど多くの課題をかかえた旅だった。今年のトルコは大変暑く温暖化の影響があるのかなと思ったほどだ。
コンヤの家に着いたのは夜の11時ごろだった。主人がコンヤの空港まで迎えにきてくれていた。主人と挨拶を交わしたあと、私達のスーツケースを運ぼうとする若者にふと気がついた。背がたかく、口ひげの生えた若者を、日本から来た弟達はそれが兄だと誰も気がつかなかった。私も、てっきりよその人を待っているのかと勘違いしてしまい、私達の荷物を運び出した時は、「おいおいちょっとまって!それ私の荷物。」と、あせってしまった。私に主人が「Yだよ。」といったので、「えっ!」と驚き、よく顔をみていると、髪型も変わり、口ひげもあるが、なんと私のむすこ!最初からびっくりさせられぱなしの旅が始まった。
忙しいあわただしい2ヶ月間はあっという間に過ぎたが、今年は幸先がいい。というのは、11時ごろ、家に着いた私達に、長男Yがトルコ式お茶を作って持ってきてくれた。私はとても感激した。なぜなら、私は今まで、お茶をご馳走になったことがなかった。今までは、私は家に着くとすぐ台所に行き、自分でお茶の準備やら、軽食の準備やらしていたのだ。お茶は本当においしかった。息子がいれてくれたお茶だから、特別だ。こうして、私達は日本から持ってきたおにぎりやら、おせんべと機内食のパイのようなお菓子をいただきながら、1年ぶりの再会を大いに楽しんだ。留守番をしていた次男も、声変わりをしていたので、お兄ちゃんと同じような声質になっていた。そろそろ寝ようといいながらも、私達は朝までついつい語り明かしてしまった。4男、5男は途中で寝入ってしまった。話し出すと、やはり長くあわなくても、子供達とは通じるものがあると感じた。少し、ほっとしながら、私達は朝6時ごろ浅い眠りについた。
セマーゼン
セマーゼンとはセマーで演舞をする人のこと、メヴラーナの演舞の後継者達である。
彼らはそれぞれ師について、長い間、稽古をする。2001年7月25日、毎日稽古にはげんできた小さな日本人の血をひくセマーゼンの試験が行われた。彼らの名は、愛称でブルちゃんとサラちゃん。小さい頃からよく顔見知りのかわいいお子さんだ。兄弟の二人はとうとう、試験に合格し本物のセマーゼンになった。試験の日、運悪く打ちの子供達が割礼をしたので、見に行くことができなかった。写真をいただいてきたので、そのうち公開したいと思う。彼らは元気に毎日回っている。時計の針と反対の方向に回る。宇宙のすべてのものは時計を除いて、左まわりなのだそうだ。彼らはまわっているうちに、浄化されていき、いつしか自分自身の存在も忘れるほど、神に近づく。彼らが日本でまわる日も近い。
もう1人若きセマーゼンを紹介したい。彼の名はユースフ。彼の父親が有名なセマーゼンで来日したこともあるそうだ。彼は父親から、学んだ。とてもシャイで、いまどき珍しいトルコ青年だ。ペルシャの詩を、ペルシャ語でくちずさむほど、繊細で、穏やかで、背のすらっとした、すてきな青年だ。彼は、アンタリアとか、トルコの地方に行って、舞っているそうだ。舞うのが好きだそうで、メヴラーナについてもこれからいろいろ学びたいと抱負を語ってくれた。
毎年、夏休みに彼らを訪れる1青年がいる。彼は舞いに魅せられ、毎年必ずコンヤを訪れる。また、日本女性達も、踊りを覚えようと稽古しているとのことだ。
2001年9月17日
| トルコ教育事情 |
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良いニュース:大学入試で受験の時、産業高校、商業高校、イマームハティープ高校の出身の者は点数を最初から減点されるという方法が、2年前に急に制度化され、2年間実施された。この制度が導入される前に、減点される高校に入学した人々には、入学する時点では、このような改革が起こることは知らされなかった。さらに、知らされたあとで、転校をすることも大変困難だった。その制度を取りやめるというニュースがつい最近発表された。もし来年度から元のように、改正されればみんなにも、平等の受験資格が与えられることになる。(9月27日)
トルコは6月に、受験がある。受験シーズンが終わり、受験生が結果を不安げに待つ頃、わたしはちょうどトルコにいた。そして幾人かの受験生とその家族達に話を伺う機会があった。というよりも、彼らの頭の中は、どうやら進路問題でいっぱいで、ほかのことは考えていない様子だった。出遭う人が必ずする話題。私は大変びっくりした。なぜなら、ここまで教育問題を熱心に話題にする人々が現れ様とは、10年前のトルコだったら決して考えられないことだったからだ。さらに申せば、20年前だったら、話題そのものが存在しなかっただろう。わたしには、この変化は大変興味深い。というかショックだった。
人情を大切にする人々、ゆとりのある、明るい人々、食べ物や政治や宗教の話に花を咲かせる人々はどこへ消えてしまったんだろう。まるで、私の育った日本と同じ・・・ゆとりのないみんなが競争しあい、子供たちの点数に、一喜一憂する彼らを見て、私はここはほんとにトルコなんだろうか?!と、疑った。そういえば、子供たちもたしかに変わってきている。以前は、学習にほかにも子供達は親の手伝いをしたり、よく働く子供達の姿をよく見かけた。ところが、手伝いの時間をさいても、熟や家庭学習をすることを優先するようになった。これは、親の姿勢が明らかに変化したのだ。以然よく働いていた子供達は今、机に向かい、又熟に通い、又は友人と遊びに行くようになった。親達は子供が学習し、よい成績をとり、よい学校に入り、よい仕事につけることを心から願っているので、彼らに何も言わなくなった。いや、いえなくなった。なんてこと、これでは日本とまるで同じだ。私は本当にショックだった・・・
個人的な、感情的なことを話しても、たいくつするかもしれない。でも、教育に関して、私にはある理想があり、そのために、2人の子供はトルコの中学校へ通うこととなった。
実は、私はあるトルコ人が日本の大学で学んでいる時、こんなことを聞いた。その人が、試験前に、机に座って勉強していた。クラスメートのAさんがきて「ここわからないから教えて。」といったそうだ。彼は教えた。そして試験が始まった。2人とも試験に合格した、というストーリーだ。私は尋ねた。「なぜ、あなたは大変忙しい貴重な試験前の時間を、友人に教えることに使ったの?」彼いわく、「別に100点を取る必要はない。それより、みんなが受かるほうがいいだろう。」私はこの話を聞いたときえらく、感激した。彼にとってはあたりまえのことらしい。一点でも多くとることを良しと学んできていた私には、なんだか新鮮なよい感覚だった。自分が恥ずかしくなった。そうだよね。1等は入らない。みんなが3等でも、みんなが合格し、幸せになるほうが良いんだ。
というわけで、私はトルコ人の精神構造は日本では育たないと思った。できれば、子供達にもこのような考え方を学んでもらいたかった。そして、一番の理由は礼拝のやりやすい環境を私は望んだ。それで、トルコに行かせた。もちろん、多くの壁があり、そんなに簡単なことではなかったが、何とかクリアーして、良いものを、良い心を、学んでもらいたかったので、がんばった。
ところが、”Zaman Kotu”「時が悪かった。」ちょうど長男がトルコの学校に入学する9月に教育改革があり、それからは改革につぐ改革で、長男の言葉を借りれば、「この4年間の変化の速度は、以前の10倍だ。」そうだ。10倍ほどはないとしても、急激な速度で変化しているトルコ社会は、4年ぶりに訪れた私がついていけるはずもなかった。まるで、浦島さんになったような気持ちで、変化を、特に教育の変化を眺めていた。「時」は息子達だけでなく、その「時」に、遭遇してしまった、トルコ人の子供達や親達にも強い影響を与えた。進学問題が白熱している理由の1つは、この4年前から続いているトルコの教育改革にある。彼らもそして私たちもそれに、翻弄されつづけた。次に経済問題がある。2月の経済危機後、マルクは2倍以上に高騰し、ドルも値上がりの一歩をたどる。人々は経済的に大変追い込まれている。(もちろんホルトゥンジュとよばれる一部の金持ちを除いての話だが、)就職が大変厳しい。だから良い就職のためには、良い学校という発想になる。良い学校に入るためには、良い成績ということになる。だから、みんなは進路問題に頭を悩ませている。
余裕がない。暖かさがない。心の豊かさなんて、羽をつけてどこかへ飛んでいってしまった。心が豊かなことが大切なんて言ったら、ごく一部の人々を除いて、みんなに馬鹿にされてしまうだろう。それほど、人々は、以前に比べて精神的にも、経済的にも、ゆとりがなくなっているのだ。私は私にとって良くないと思えるこの変化を責めることはできない。ただ、長くトルコに関り、トルコの人々をいとおしく思う1人として、彼らに立ち止まってほしいと願う。立ち止まって、考えてほしいと願う。このままでいいのか!これでいいのか!できたら、ふんばって欲しい。以前のようなゆとりを、あたたかさを豊かな心を残していって欲しい。
ただほんの少しのぞみはある。一部の人々は世の中の風潮に流されず、しっかり、ふんばっている。彼らは少数だ。でも輝きは一等星だ。ずっと輝きつづけて欲しい。
注:一般的に見ればこのトルコの変化は、子供が労働から解放され、学習する時間を与えられたといえる。と同時に、子供は親達の仕事から隔離され生きていく知恵を学ぶ機会を失ったともいえる。これからトルコの子供達はどのように、生きていくのかを肯定的に模索しなければならない時期だと思う。(10・4)
2002年2003年冬
2002年12月13日から12日まで約一ヶ月間トルコへ行った。さびしい旅だった。アンカラで降りた時主人が迎えにきていた。外はマイナス6度.そもそれほど寒くは感じなかった。車で子ども達の待つ今夜へ急いだ。
いえにやっとたどり着いたのは朝方だった。子ども達は2人とも寝ていたらしくベルを鳴らしても応答がなかった。鍵を開けて中に入ると、寝ていた。次男は38度の熱があり、家に入るなり彼の看病が始まった。3男モ物音で目がさめたらしく、いらっしゃいと恥ずかしそうに言った。たどり着いたばかりの4男と5男は三男とすぐにふざけあって格闘し始めた。四ヶ月ぶりに見る3男はとても大きくなっていた。(ようなきがした)
2005/夏
あんなに近かった土耳古が、今はまるで昔のなつかしい思い出話みたいになってきている。何を見ても何を聞いてもそうだなあ。そうだったかなあ。と感じるぐらいで、、なにもかんじない。どうしてこうなってきたのかはよくわからないが、多分年をとってきたせいだと思う。私は土耳古が好きだったし、今もそうかもしれないが、以前土耳古と聞くと感じた心の高まりは今はない。よきにしろ、あしきにしろ今までは大変心が動いたものだった。土耳古も遠くなりにけり・・・なのかな?
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