何やかんやと、思いついたものを、書いていきます。
笑いについて、書けばきりがない。
ボクが一番こだわっているもの中の一つが、笑いだ。(ちなみに、「一番〜〜の中の一つ」という英語的な言いまわしは、「何で【一番】が沢山あるんや!」と言いたくなるけど、書くには便利ですね・・・)
でも、笑いは、うだうだ語るモノでは無いと思う。哲学でも、様々な感情は分析・論究されてきた。性欲などがその典型だ。しかし、笑いに関しては、ろくな論が無い。一応、ボードレールやベルグソン、フロイト辺りが有名だけど、どれもピンと来ない。何故か。それは、分析・論究できないのが、「笑い」だからだろう。笑いとは、既存の価値観を、少しだけずらす(ずらされた)ものだと思う。だから、笑いが分析・論究できた時点で、もう既にそれは、笑いでなくなっている。笑いを分析・論究しようとするのは、自分の影を踏もうとするようなもので、追えば追うだけ逃げていく。よって「笑い」を論究するのは、初めから不可能・・・なのでは。
と、「笑いが語れない」ということを、「語って」しまいました。いきなり自己矛盾。
その自己矛盾ついでに、敢えて笑いについて、語ってみます。そのことで、語れないことを再認識したいな、と。
先ず、最近のお笑いについて。全然、面白くない。見てる人を、バカにしすぎ。わざわざ下にテロップを出して、或いはスタッフのわざとらしい笑い声を入れて、「ここで笑うんですよ〜〜」ってなサインを送る。バカにするな。もうその時点で、その番組は見る気がしません。人それぞれ、笑いのツボは違うはず。それをいちいち指示するなっちゅうに。上岡龍太郎氏も、わざとらしく笑うスタッフに、番組中、「バカにするな!」とキレていました。
本当に面白いものは、繰り返し、何度見ても面白いと思う。例えば、上岡氏と鶴瓶さんの、『鶴瓶上岡・パペポTV』なんかがそうです。もう15年以上前の放映分でも、心から笑えます。あんな素晴らしい番組は、空前絶後だと思う(なんで、ビデオ・DVD化してくれないんだ・・・よみうりさん・・・)。
更に、ダウンタウンの番組。当然、松っちゃんが作ったモノがそうで、ガキとごっつは何度見ても、新たな発見があって、面白い。ヴィジュアルバムも当然そうで、「古賀」や「巨人殺人」なんかは、最初見たとき、「なんじゃこりゃ」と思ったけど、今では最も気に入っています。
けれども、以前ゴールデンで復活された「ものごっつ」は、視聴率が10%も行かなかったそうで、松っちゃんが嘆いていました。・・・何で?
こんなことじゃあ、そりゃあ、面白い「笑い」は生まれへんわ。視聴者は、「分かり易さ」を求めすぎてるんじゃあ・・・。そりゃあ、制作者にバカにされるわ・・・。
何でかな。近年は何でも消費の対象として見られるなどと言われ、まぁそれは資本主義の特質だからしょうがないんだけど、でも、「笑い」は、消費できないから「笑い」なんじゃないの?既存の価値観をずらして、自分自身の価値観も揺るがされる。笑いはそんな行為なのに、「安心して」「分かり易い」、使い捨ての笑いじゃあ、もう、笑いじゃないじゃん。
ボクは別に、「笑い」を分かっているなんて思ってません。ただ、「笑いたい」と本気で思っているだけ。世の中に、そんな人は多くないのかなぁ。暇つぶしに笑う、なんて、ボクにはできません。
鬱陶しい世の中だからこそ、生きることが鬱陶しいからこそ、「笑いたい」と本気で思って、「笑い」に貪欲にならないと、損な気がするんだけど・・・。ボクの妄想かな。
ま、そんなことを思います。(いや、いま、ふと思っただけかもしれません) (10/8/03)
大量生産・大量消費のお笑いについて、少し述べたので、その続きを。
大量生産・大量消費のお笑いと言えば、思い出すのが明石家さんまさん。これも上岡氏・鶴瓶さんがおっしゃってましたが、彼の笑いは、後には全然残らない、と。「勢いだけ」、でもその「勢い」が凄い、と。そう考えると、さんまさんは正に、大量生産・大量消費の笑いの筆頭株なのかもしれない。
でも、さんまさんには、凄いと思ってしまう。さんまさんは、丁度ボクが思春期のころ、本当に「アイドル」だったし、心から尊敬していた。さんまさんがやっていた「ヤングタウン」というラジオ番組を必ず録音して、それが100本近くたまっていた。それを毎日聞いていた。それくらい、思い入れがある。だから、そういう思いがあるという理由だけで、さんまさんを「凄い」という思ってしまっているのかもしれない。(いまだに「さんま」と、呼び捨てにするのは抵抗があるし)
でも、さんまさんの、笑いに対する異常なこだわりには、敬服する。離婚を筆頭に、幾つも不幸があったのに、それを微塵も感じさせない(むしろそれを笑いにしてしまう)パワーとこだわりには、やはり凄いと思ってしまう。確かに彼の笑いは消費するわらいだけれども、その根底にあるパワーとこだわりは、消費できないのではないか、と・・・。良く見すぎかな?
もちろん、松っちゃんとさんまさんには、大きな違いがある。それは、よく言われることだから、ここでは省きます。でも両者の、笑いに対する異常なパワーとこだわりは、共通するのではないでしょうか。
・・・と、こう書いていくと、関西の笑いであれば、何でもイイと思っているかの節があるので、それを否定しときます。最近の関西のお笑い、そして、関西ローカルの番組は、本当に面白くない。さんまさんや松っちゃん(あるいは、それ以前の三枝師匠など)が必死になって作ってきた「関西の笑い」に乗っかっているだけで、「わては関西人でっせ〜〜っ!」ってのを、表に出しているだけだから。そんなのは、当然「笑い」じゃないと思うし、実際に笑えない。(面白い人も、いるにはいますが)
笑いには、どこかに異常さが必要だと思う。吉本の会長(故人)が、「笑いには副作用がない」と言い、仁鶴師匠もそれに賛同していらっしゃって、ボクもそう思うけれども、当の本人(笑わせる人)には、「異常さ」という副作用を持っていないと、どうにもならないと思う。何せ、笑いは既存の価値観をずらすパワーが必要なのだから・・・。そんな異常さを持っている人が少なく、型にはまってしまっているのではないか、と。
ってな具合で、笑いについて、更に書きましたが、ボクは(一番悪い意味で)常識の枠の中でしか生きられないですし、面白いこと一つ言えません。だからこそ、「笑うこと」へのこだわりが、人一倍強いんですが・・・。