さらりー。

疲れた気持ちで電話を切った。
部屋は薄暗く、テレビだけが煌々と輝いて、音のないCMを流していた。
使える伝手という伝手は、親戚から、友人、昔の恋人まで使った。
既に携帯のメモリの番号は使い切ってしまった。
誰もが渋々ながらも、いいよ、とは言ってくれたが
声にハッキリと不満の色を表す者もいれば、それ以来電話の掛かってこない者もいた。
それでも新規契約者数の今月のノルマ分には届かない。
消音にしていたテレビのボリュームを上げる。サマーセーターを着た
天気リポーターが今年は五年ぶりの猛暑だという。
画面には海水浴場のにぎやかな風景や、街中の噴水で裸になって遊ぶ子供達が映し出されていた
八月まであと三日だった。

「高橋ぃ」
朝、地下鉄の改札を出た所で声を掛けられた。同期の山中だった。
「電車降りたら、前に高橋がいてさ、声かけよっかなー、って思ったんだけど。おまえ暗いよな」彼は明るい。
「そうか、いつも通りだけどな」
「暗い、背中で語ってた。お前、ノルマとか気にしてんか」
「山中はあと、いくつ」月末恒例の会話だった。
彼はVサインをして見せた、反対の手は腰に当てていた。
「もう終わったのか」
「いや、あと二人」
「俺と同じじゃん」それでも山中は明るかった
俺の部署では月初めの朝礼に成績順で並ばされる。
初めは小学校みたいでとても嫌だったが、今は大して何も感じない。
俺も山中も、大抵が左端の方に位置していた。
出来る奴は出来る奴と、そうでない奴もまた同じように、次第に話す相手や
多く行動を共にする相手というのが決まっていった。
何回か並ばされていく内に、山中とは自然に話すようになっていた。
「どうなん、いけそうか」
「さぁなー、いつもこんな感じだしな」
部署内では明らかに下の方だが、俺も山中もかろうじてこれまでノルマはクリアしていた。
順位は毎月同じようなものだったが、それも今月位までだろう。
次第に伝手もつきる、毎月上位に居る奴の中には明らかに焦っている奴もいる。
俺も焦っていた。
「けどさぁ、カード契約だから,ダチも使えるけど。
ほんと俺、車のディーラーとかにならなくてよかった」
「それは言えてる」ほんとにそう思った。
最初は両親に頼んだ。
「まぁ、カード位なら」と母親は苦笑しながら書類にサインしてくれたが、
父親は何も言わなかった、元々そう言う性格なのだが、俺の願いをすんなり聞いてくれた。
既に退職したが彼も営業だった。
昔の自分を思い出していたのかも知れないし、俺に同情してくれたのかも知れない。
「まぁ、頑張りなさい」
母親の言った言葉よりも、その時の笑顔を俺は妙に思い出す。
「一年目でコレだもんなぁ、来年の今頃は俺どうなってんだろ」山中は言った。
確かにそうだった、もう頼れる人はいない。
使える者は誰でも使え、恥なんて捨てろ、上司はそう言う。
隣の家、学生時代の恩師、見合い相手、とにかく自分の知人を総動員しろ。
俺なんて、昨日、居酒屋で隣にいた奴から取ってきたぞ。
上司は自慢気にそう語った。エアコンの効く社内でさえ、いつもうっすらと汗をかいていた。
彼にもノルマはある。俺が入社してから、彼が達成できなかった事は一度もなかった。
これまでもそうだったんだろう。
上司として素直に尊敬できる人だと思う。誰にでも同じように怒り、そして肩を叩く。
一つ上の先輩から彼の年齢を聞かされたときは正直驚いた。
外見はもっと若かった。その事を本人に言ったら、彼は何も言わずに笑った。
彼に成りたいか、そう言われて俺は未だ頷く事が出来ない。
笑った顔が山中に似ている、そう思った。

「おはよう高橋君、はいお茶」
デスクに着くと、新人のマリちゃんこと、長井麻里子がお茶を運んできた。
女性にお茶くみをさせるという習慣に俺は疑問を感じるのだが
眠い朝のこの一杯には正直、助けられている。
「ああ、長井さん、おはよう」
長井さんはとても明るい性格で、器量も悪くない、
上司のつまらない冗談にも心から声を上げて笑っている。
どんな会社にも一人はいて欲しい人物だ。
こんな彼女が男性社員からモテない訳がないのだが、誰にでも平等に明るく振る舞いすぎるというのも
男性陣を本気にさせない一因でもあるのだろう。
「高橋君、あれ気付いた?」
急に真顔に戻った長井さんは自分にしか聞こえないような小声でそう言い、
お盆を胸に抱えたまま、目線だけ向こうへとやった。
列違いのデスクの一番端、普段は誰も使っていない書類の山積みされた机に、見慣れない顔の女性が居た。
「えーと、あれ誰」
「忘れたの、戸口さん、憶えてない?、私たちと同期の」
彼女は、どうやら引き出しの私物をかたづけているようだった。
「顔だけなんとなくは」
「私も、ついさっき名前思い出した」
「あそこ、彼女の机だったんだ」
「失礼ね」
「彼女、片づけてるみたいだけど。こんな時期に異動?」
「さぁ、訳ありかもね」少し意地悪そうに笑った長井さんは、スタスタと給湯室の方へと戻っていった。
仕事の合間、少しずつ彼女の方を伺っていたところ、どうやら本当に訳ありらしかった。
部屋を出たと思えば、すぐに戻ってきて、今度は上司のデスクの前で頭を下げていた。
上司も、怒っている風ではなかった。

そして俺は、昼休みのあと、その上司に呼び出された。
机には役職の後ろに「横田〜」と書かれたプレートが置いてあり、書類が整頓されることなく散らかり、
昼食の容器がそのまま残っていた。
冷房の真下にあるこの席でもやはり、横田は汗をかいていた。
彼は俺を呼び出したあとしばらく何も言わなかった。
「何の、用でしょうか」
俺がそう言うと、横田は一度深呼吸をしてから太い腕を組んだ。
デブではない、かなりがっちりした体型だ。学生の頃にはきっと柔道でもしていたのだろう。
横田は何も言わず後ろに張られているグラフへ目をやった。
見る事さえ嫌な、あのグラフ。
真ん中よりやや上の所にはノルマを示す赤ラインが引かれてあり、
俺のグラフはそのラインを少し割ったところにあった。
驚いた事に、山中のグラフは、赤ラインをとうに越え、上位に食い込んでいた。
山中に目をやれば、彼は朝と同じように満面の笑みでVサインをした。あいつ、嘘ついていたのか。
横田の咳払いで我に返った。
「山中君は午前中に大口の契約を結んできてね」
「そうですか」
横田はもう一度咳払いをした、言いたい事は分かっている。
「ええと、これで今月まだノルマ達成していないのは誰かな」
「俺です」
「高橋、お前だけだぞ」
「はい」
「毎年、新人はこのころによくつまずくんだが。君は大丈夫か」
「はい」

そのあともしばらく横山に絞られたあとようやく俺は解放された。
横山は、それほど怒鳴り散らしたりする上司ではない。
どちらかと言えば、分かっている事をネチネチと言ってくるタイプだ。
出来の悪い上司に怒鳴られる事はそれほど苦にならない、
しかし、横山は違う。ある種の尊敬さえ感じる彼に叱られるのは結構辛い。
「営業は数字しか無い、どんな方法でも良いからお客を取ってくれば俺も何も言わない。
お前も決して出来の悪い社員でもなければ、ダメ人間でもないんだからな」
最後にそう言った彼の言葉を噛みしめながらデスクに戻った。
給湯室から大きな笑い声が聞こえてきた。
山中と長井さんが話しているらしかった。
勿論山中は悪くないが、なんだか無性に腹が立った。
朝から、ノルマノルマノルマ、そればかり、
思わず机に突っ伏したくなったが、横山の視線に気が付き、何とかこらえた。
その時、あのう、と後ろから声を掛けられた。
そこには戸口さんが立っていた、そう、あの訳ありの戸口さんだ。
「高橋君、だよね」
「え、うん。久し振りだね戸口さん」
「私の名前憶えてたんだ」
「あぁ」俺はとっさに方便を使った。
戸口さんは何も言わずゆっくりと一度だけ瞬きをした。少し笑った気がした。
「今まで全然顔見なかったけど、どうしてたの?
それに、今日は忙しそうみたいだったけど。異動?」俺はそう言って矢継ぎ早に質問をした。
嘘を付くといつもそうなる。
「うん、ちょっとね」戸口はそう答えた
「実家の方が色々あってね、それで今まで休んでたの」
彼女に関する記憶は入社してすぐの頃にまでさかのぼる。
まだ、慌ただしくて自分の事で精一杯だった頃、いつの間にか彼女は居なくなっていた。
それも今思いだした。
「そっか、色々大変だったんだね、今日から復帰?」
「ううん、今日でやめるの」
「え、そうなの」彼女は何も言わなかった。
「やっぱ、実家の方の事?」
「うん」下を向き再び彼女は黙った、どうも会話が続かなかった。
「短い間だったけど。みんなには私が休んでる間にフォローとかに回ってもらって、ほんとにありがとう」
「あ、いいよそれぐらい。困ってるときはお互いにあれだしね」
「ありがと、じゃ、またね」そう言うと彼女は去っていった。
フォローも何も、社内では彼女の存在は無い者として扱われていた。
戸口さんは一人一人にお礼を言いに回っているらしかった。
何回も頭を下げる戸口さんに対して、みんな笑顔で応対していた。
いったい何人の人が彼女の名前を知っていたのだろう。
その時、俺は彼女に頑張っての一言も言っていなかった事に気が付いた。
しかし、この場合その言葉が適切なのだろうか、と考えながら俺は頬杖をつき
その風景を眺めていた。

帰りの電車の中、彼女とは新入社員の歓迎会の時に話した事があるのを思い出した。
みんなで名刺を交換し合ったときだ、俺も戸口さんと名刺を渡し合い、その時に何か話した。
他愛のない事だったと思う、はじめましてとか、よろしくとか、どういたしましてとか。
財布をとりだしてあちこち探してみたが彼女の名刺はなかった、
念のため定期入れも確かめたがやはり無かった。
きっと、家の何処かにあるのだろう、それとも紙くずに紛れてもう捨ててしまっているのかも知れない。
満員だった車内も、もう乗客が半分位になっていた。
電車が駅に着き、空いた座席に俺は座った。
立っている人も数人いたが、割と車内は空いていた。
女子高生が数人並んで座り、皆が携帯の画面に必死で、とても静かだった。
ドアの横に立つ中年のサラリーマンはこんな時間から既に顔が赤く、しきりに独り言を言っていた。
俺はこんな時、身の回りの人を使って色々な想像をしてみる。
さっきから俯いたままのあのOLが戸口さんだったり、とか
車両の連結部でいちゃついてるあのカップルが山中と長井さんだったりとか。
俺の横には、自分と同じ色のスーツを来た男が座っていた、年も近い。
もし、俺とこの男が座席を交換しても多分、いや、絶対誰も気付かない。
それどころか生活もそっくり交換してみたら。
いつの間にか女子高生達は電車を降りていた。ドア横にいた中年は
座席でいびきをかいていた。


つづく。