連載中の評価について、対称的な二つの意見があったので紹介する。
五木寛之の『青春の門』は、現在、筑豊篇・自立篇・放浪篇の三部六巻が単行本として刊行され、第四部堕落篇が『週刊現代』に連載中である。『青春の門』は、作者自身が十二部・二十四巻と予告しており、完結すれば未曾有の大長編小説となるはずである。 ところで、刊行された三部までを通読してみると、五木の他の諸作品とはたいへん異なる印象を受ける。他の作品に共通している乾いた虚無感がなく、むしろ明るい健康さ、すがすがしささえ感じとれるのである。
(中略)
早稲田大学に入学した信介は、自活するためほとんど授業にも出られなくなるが、数多くの新しい友人たちに出会い、愛と性の遍歴を重ねる。信介は、「地方から、民衆の中から学園に芝居を持ち帰る」「全く画期的な民衆演劇の創造運動」をめざす緒形(原文ママ)をチーフとする地方巡回劇団に加わることになり、函館に渡る。劇団は、港を仕切る暴力団とたたかうが、たたかいは敗北に終わり、団員は解散してしまう。しかし、この敗北は、信介の心のなかに、「陰惨な挫折の感慨ではなく」「重い困難な人生の鉄の扉」に「血と肉とをぶつけて生きて行くエネルギー」を熱く感じさせるのである。
(長沢俊夫の文章―昭和五十年五月二十一日付け赤旗より)
作者の構想によれば「青春の門」は十二部二十四巻の、これまで五木氏が発表した数多い作品群のなかで最大の長編となる予定という。当初以来「週刊現代」に断続して連載、昭和四十五年「筑豊篇」刊行後、作者懸案の大河小説にふさわしくゆっくりと展開され、現在まで三部六冊が発行されている。第四部「堕落篇」も昭和五十年末に連載を終了したが、改稿の習慣を持つ作者ゆえにここでは対象から除去しておく。完結されない作品を論評するのは、当然作者への礼を欠くことになるのを配慮したうえで、既刊三部により、次第に明瞭化しつつある「青春の門」の骨格・構造を述べてみたい。
(中略)
登場以来「物語性の希求」をたえず揚言している作者のことばを借りるまでもなく、「青春の門」の主題は、作者の等身大の時間的体験を空間的物語性によって増幅させた、主人公伊吹信介の人間形成譚であると言えるが、この作品は一般に受けとられている健全な青春小説では決してないので、作品全体を支配している暗鬱な情念をまず指摘しておきたい。これは理念に裏切られつづけ、理念を信じえなかった作者の世代の、意識の反映とみるべきで、それを「負の情念」と名付けられよう。この「負の情念」が今日の読者にアッピールしたことが、この作品の成功の真因ではないだろうか。また、この作品のもう一つの要因として「物語性の豊かさ」があげられるが、これは同時にこの作品の弱点を露出してもいるので、両極を兼備していることにより、この作品は市民文学の正嫡性を有していると思われる。
(長島康の文章より―國文學昭和五十一年六月臨時増刊号)
第三部までの時点で一方が「明るくすがすがしい」という意見に対し、もう一方が「暗い負の情念」と両極端の評価を叩き出しているところが、非常に興味深い。どちらの意見が正しいかは別として、何故解釈が二分したかについて考えてみたいと思う。