さくら文庫さんに「お母さんの手」を掲載していただきました。
「お母さんの手は」はダウンロード版を用意していませんので、
縦書きで読まれたい方はさくら文庫さん(本棚の中の「第二の棚」)をご利用ください。



お母さんの手

作:よもぎの森


 いつもは六時半に起こしに来るお父さんが、その日に限って七時を過ぎても起こしに来なかったから、少し変だなとは思ったんだ。
 三月に入ったばかりの朝はまだ寒くて、あたしはお父さんが来ないことをいいことに、ぬくぬくとした布団の感触をいつまでも味わっていた。
 だから、考えもしなかったんだ。
 一階の和室に、半年振りにお母さんが帰ってきていたなんて。

 「びっくりしてはダメだよ。」
 七時半を過ぎて、ようやくあたしを起こしに来たお父さんの顔は、何かをこらえている時のような怖い顔になっていた。
「お母さんが死んだよ。」
 言葉を途切れないようにするためか、お父さんは一息にそう言ったが、それでも語尾は嗚咽にまぎれて消えていた。
 と同時にあたしの目からは、大粒の涙があふれ出ていた。自分でもビックリするくらい、涙はいきなり、大量にあふれてきた。
 お母さんが死んだ。意味をはき違えるほど複雑な言葉じゃない。簡単な言葉だった。だから「うそだ」とは思わなかったのか?
 なぜあの時一瞬でも「うそだ」と思わなかったのか、自分でも不思議。
 今までに見たことないようなお父さんの怖い顔が、あたしに否定することをやめさせていたのかもしれない。
 あたしは九歳だった。まだ子供だった。お母さんが居なければ何も出来ないと思っていた。
「ほんの一ヶ月くらいよ。」
 そう言ってお母さんが家を出て行ったのは、ほんの半年前の出来事だ。体の調子が悪くなって、我慢していたけれど我慢しきれなくなって、町のお医者さんに行き、「ここでは手に負えないから」と医者に言われて大きな病院を紹介された。
 紹介されたのは市内の大きな国立病院。行ったその日に入院することが決まり、その日から突然お母さんの居ない生活が始まった。最近になってようやくそういう生活にも慣れてきたところだった。
 洗濯機の動かし方、お米のとぎ方、大根のみそ汁の作り方、掃除機のかけ方、あたしは色々と覚えた。
 朝食用の食パンを買いに行ったり、おふとんを干したりして、近所のおばさんや学校の先生達から「えらいね」と言われるようなって、少し誇らしくもあった。
 でもお母さんが死んでしまうなんて、絶対に思ったりしなかった。
 お母さんが死ぬなんて、ありえないことだったから。

 「末期ガンだったんだよ。お医者様に診てもらった時は、もう手おくれでね……」
 お母さんが死んでしまってから、あたしはお母さんの病名を知った。入院した時からお母さんの死が決まっていたことだったなんて、なんだかあたし一人だけ騙されていたような気がして、くやしくなった。大人は勝手だ。と、その時思った。
 お葬式が終わり、四十九日とかいうものが済んでも、お母さんは入院しているのだとあたしは思い込むようにしていた。だってあたしの生活は、お母さんが入院していた時と、ぜんぜん変わらなかったから。お母さんが家に居ないことは同じでも、入院しているという方のが何倍もいい。
 そんな風に自分を騙しながら一日を過ごすようになったある日、学校から帰ってきたあたしは玄関のドアを開けて、耳を疑った。
「おかえり」という声が、家の中から聞こえてきたからだ。 
 あたしは心底驚いて、玄関に靴を乱暴に脱ぎ捨てると、声の聞こえてきたキッチンに一目散に駆けていった。だけど、やっぱりそこにお母さんの姿はなくて、すっかり冷たくなったキッチンが、さびしさだけをあたしに投げつけてきた。一瞬でも気を抜いてしまったあたしの背中に、”お母はもういない”という現実が重くのしかかってきて、立っていることも嫌になり、あたしはその場に座り込んでしまった。

――今日は体操着が必要だって言っておいたじゃない。なんで乾かしておいてくれなかったのよ!
――昨日突然持って帰ってきて乾くわけがないでしょう。ここのところ天気だって良くないんだから。
――先生に怒られるのはあたしなのよ。全部お母さんのせいよ。お母さんなんて大嫌い!

 自分が悪いことも、全部お母さんのせいにしていた半年前の自分。何もかもがお母さん任せだった。あの時のあたしと、今のあたしに、何の違いがあるというのだろうか。
 あたしは何も変わっていない。半年前と同じ甘ったれなままの自分だ。だけどお母さんは、もういないんだ……
「……これからは体操着をきちんと持ち帰ってくるから。ハンカチにアイロンがかかってなくても怒らないから。通学帽や名札も決められた場所に置いて、二度となくさないようにするから。だから戻ってきてよ。」
 もし戻ってきてくれたら、二度とわがままなんか言わないのに。
 ボロボロ、ボロボロ、たまらなく涙があふれてきた。体中の水分を全て出し切るまで泣いてやる! と本気で思った。

 風が窓を叩く音であたしは顔を上げた。すると目の前にお母さんの姿があった。あたしは驚いて飛び上がってしまった。
「ど、どうしたの、お母さん。」
「あなたが余りに泣いてばかりいるから、心配で帰ってきちゃったのよ。」
「帰ってきたって……どこから?」
 あたしがたずねると、お母さんは困ったようにほほえんで、そばにあったソファーに腰を下ろした。その時ソファーがギシッときしんだので、これが夢じゃないことを証明してくれた。念のため腕をつねってみると、ほんの少し痛かった。あたしはうれしくなって、お母さんに抱きつきたくてたまらなくなった。
「少しお話ししましょうか。」
 静かな声でお母さんは言った。
「そう。少しだけよ。あまり長くはいられないから。」
「ずっと、いてはくれないの?」
 お母さんがうなずくと、あたしの中のうれしさが突然怒りに変わった。
「どうしてよ! ひどいじゃない。あたしさびしかったんだよ!」
 頭に血がのぼり、体がかぁーっと熱くなった。泣きはらしてヒリヒリした目に、また涙が浮かんできて、次々とこぼれていった。涙をぬぐおうとしたお母さんの手を、あたしは憎しみをこめて振りはらい、「お母さんなんて、大嫌い!」と大声で叫んだ。みるみるお母さんの顔が悲しそうになっていくのを見て心がズキンとしたが、その感情を押しこめてあたしはお母さんをにらみつけた。
 戻ってきたらわがままなんて言わないと誓ったのは、ついさっきのことだったのに。その誓いをもう破ってしまっていたことを、あたしは気付きもしなかった。
「お母さんだって、ずっとあなたのそばにいたいけど、もうダメなのよ。分かっているでしょう、お母さんは死んだのよ。」
「うそだ!」
 あたしは初めて声に出して、お母さんの死を否定した。だって、お母さんは目の前にいる。
「聞いて、お願いだから。あなたはもう大人なの。お母さんがいなくても大丈夫なのよ。」
「あたし、まだ子供だよ。サエちゃんだって、アッちゃんだって、キヨヒト君だって、みんなみんな子供だもん。」
「そういうことじゃないのよ。人はね、大人になろうという気持ちが一番大切なのよ。まだ子供だからというのは、単なる甘えでしかないの。生まれた時から人間は、大人になるという試練を背負って生きているのよ。」
「でも、だからって、あたしだけそうしなきゃいけないなんて不公平じゃない。クラスの子で、あたしみたいに家のことしている子なんて一人もいないもん。みんな子供だし、あたしだって子供だ。」
 他の子の何倍もさみしさを味わったし、色んな我慢もしてきた。だからもう充分だとあたしは思うのだ。
「お母さんがいない代わりに、あなただけが手に入れられるものが、きっとあると思うわ。」
「お母さんがいないのは何よりも不幸なことだよ。お母さんよりいいものなんて、あるわけがない。お母さんが死んで、あたしは世界中で一番不幸になったんだ。」
 あたしは両耳をふさいでみせた。けれど、お母さんはかまわず近づいてきて、あたしの前でかがみこむと、右手を包みこむように握りしめてきた。
「お母さんの手を、あなたにあげるから。」
 あたたかい手だった。それだけのことが、たまらなく嬉しく感じてしまった。
「あなたの手になじむまで少し時間がかかると思うけど、そのうちに何でも出来るようになるわ。」
 あたしはお母さんを、あらためて見つめた。あたしの前で、こうしてかがみこんでいるお母さんの存在が不思議でたまらなかった。何ヶ月も離れていたせいなのか。前は絶対にこんなこと感じなかったのに。
「お母さん……本当に死んじゃったの?」
 あたしはお母さんの顔を覗き込んだ。お母さんはちょっとだけ笑ってから、小さく頷いて見せた。
「じゃあ、時々こうしてあたしの所に帰ってきてくれる? それだったらあたし、我慢できるかもしれないよ。」
「残念だけど、それは出来ないの。今日は特別にお許しを貰って来ているだけだから。」
 あたしはこらえ切れずにお母さんに抱きついた。お母さんの体は柔らかくて、心地良い匂いがした。ずーっとこうしていたくてお母さんの胸に深く顔をうずめた。そんなあたしの頭を、お母さんは優しく撫でてくれた。
「ごめんね……」
 お母さんの声は、あたしを余計に悲しくさせる。お父さんの口からお母さんの死を告げられた時と同じように、いきなり大粒の涙が吹き出してきた。涙の出すぎで目の奥がつーんと痛かった。
 その時、あたしの手を包み込むお母さんの手から、熱いものが流れ込んできたような気がした。あたしは驚いてお母さんを見上げた。
「今、お母さんの手があなたの手の中へ流れ込んでいるのよ。これでリンゴの皮もジャガイモの皮も上手にむけるようになるわ。ミシンだって使えるようになる。お母さんの手は、なんだって出来る手なんだからね。」
 お母さんはまるで子守唄を歌うように言いながら、あたしの手を更に強く握り締めてきた。
 その時あたしは、なぜだか全部理解してしまった。
 お母さんは、あたしに手をわたすためだけに帰ってきたんだ、ということを。
 あたしがお母さんの手を受け取ってしまえば、お母さんの用事は済み、ここにいる理由もなくなるのだ。
 それが分かって、あたしは慌ててお母さんの手を振り払おうとした。けれどもお母さんは決してあたしの手を放そうとはしなかった。
「いやだ、お母さん止めて。あたしはもっとお母さんと一緒に居たいよ!」
 あたしは必死になってお母さんに訴えた。けれども、あたしがどんなに訴えても、熱湯のような熱いものは、どんどんどんどんあたしの手の中に流れ込んできた。
 あたしはそれを止めることも、拒否することもできなくて、声を上げて泣きじゃくった。
 
 泣き叫びながら、目頭に浮かんでくる光景があった。
 黒と白に彩られた、見覚えのある光景だ。
 初めて袖を通した黒いワンピースの、ひいやりとした感触を思い出す。
 呆然としているうちに過ぎ去っていったあの二日間のこと、今の今まで一度も思い出さずに過ごしてきたけれど、本当はあたし、細かいところまで全部覚えている。
 出棺前に、最後のお別れだからといって、せまい箱の中に横たわったお母さんの頬をさわったこと。
 お母さんの頬は驚くほど冷たくて、まるで石のようだった。
 死んでしまった人間は、こんなにも冷たくなってしまうものなんだと、初めて知ってショックを受けた。
 
 「ほら、お母さんが天国へのぼっていくよ。」
 火葬場の煙突から立ち上る灰色の煙を、いつまでも見ていたあたしの耳元で誰かが言った。
 お父さんと二人きりで眺めた、白い布の上に置かれた小さな頭蓋骨と、のど仏。
 親戚の人たちみんなで拾った骨のかけら。
 あたしもこの手で、お母さんの骨を拾って壷の中へ入れた。
 お箸でつかむ骨は重たくて、落としてしまいそうで怖かった。
 あの大きな骨は、そうだ、右側の手の部分のどこかだった。
 
 そう。お葬式は、とうに終わっている。


「行かないで!」
 思わず叫んでしまうと、シャボン玉がパチンとわれるようにお母さんの姿が消えてなくなった。
「……お母さん?」
 あたしの声は、夕闇につつまれた冷たく静かな家の中に力なく吸いこまれていった。右手が燃えるように熱かった。それと同じくらい目が熱くなっていて、ずっと泣いていたということを思い出した。涙の出しすぎで、喉がカラカラに渇いていた。
 夢だったんだ……。
 強張った体が急に脱力していくようだった。
 目が醒めれば、待っているのは冷たい家と冷たい現実。どんなに怒っても、どんなに悲しんでも、お母さんが帰ってくることは永遠にないことだ。それを認めることがあたしの第一歩なのだ。
 そんなこと、とうに分かっているけれど。
「どうした電気もつけないで。」
 いつのまにか夜になっていたのだ。会社から帰ってきたお父さんは、暗闇の中で座りこんでいたあたしを心配そうに見つめて言った。けれども返事は期待していないようで(というか泣きはらしたあたしの顔を見れば聞かなくても分かったのだろう)、背広の上着をイスの背にかけるとエプロンをつけてキッチンに立った。
「おなかへっただろう。すぐに夕飯つくってやるからな。」
 冷蔵庫をあけて中をのぞき込むお父さんの後ろ姿は、あたしの知っていたお父さんとは全然違っていた。ちょっと前までのお父さんは、会社から帰ってくるのがいつも遅くて、たまに早く帰ってきても座ってばかりいて、ご飯が出来るのをひたすら待っていた。そんなお父さんを見て赤ちゃんみたいだと思った時もあった。
「お父さん、あたしも何か手伝おうか。」
 お母さんの愛用品だったピンク色のエプロンをつけたお父さんが急に気の毒に見えてきて、思わずあたしは言ってしまった。お父さんはとなりに立ったあたしを、きょとんとした顔で見下ろすと、「どうした?急に」とたずねてきた。
「さっきまでお母さんが来てたの。あたしはもう大人だから何だって出来るはずだ、なんて言ってたわ。頭にきたから、出来るわけない!って怒鳴ってやったの。そしたらお母さん、あたしに手をくれるって」
「手?」
「うん、お母さんの手」
 あたしはお父さんの前で右手を広げて見せた。さっき見た夢がもしかしたら本当にあったことかもしれないし、お父さんには、あたしの手の中のお母さんの温もりが見えるかもしれないと思ったからだ。あたしはドキドキしながらお父さんの言葉を待った。けれどお父さんは、
「そうか、よかったな。」
 と言っただけだった。そしてお父さんは笑った。それを見てあたしも笑った。あたしたち二人、久しぶりに笑ったような気がした。


おしまい

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