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自分だけは賢明でありたい、などと願うのは、狂気の沙汰だ。 (ラ・ロシュフコー) このからだがあとかたもなく消え去ることを願って しまって 錆びないおまえに触れられるだけで純化されるとしんじていた 色を帯びたまなざしを 息ができない ほど ブラックバニー 「ちょっとそこに座りたまえ鋼の」少しでも強く言われれば大人しく従ってしまうのが俺の本能だ。相当にばかなのは分かってる。だって俺は大佐の犬だから。ほんとうは聞こえないふりをして走って部屋を飛び出すことだって出来たし(帰ってきたときねちねち言われるのは覚悟のうえで)、大佐の顔を見ればまたとめどなく情念が沸いてきて指の間を握ったりやキスですんなり別れられなくなることだっていままで何度も繰り返してきて身に染みているはずなのに、俺は脆くもぐらりと揺らいだ決心と共に踵を返すとソファに身を沈めた。 「大佐、悪いけど俺もう行かなくちゃ」 「君は確か2日前に西から帰ってきたばかりだそうだな」 俺の声に被せるようにして酷く大儀そうに大佐は言った。 そしてギイ、と重々しげに椅子を鳴らすと天井を仰ぎ、何気ないゆっくりとした動作で頬杖をつく。相変わらず眉間の皺はひどく刻まれたままで露悪的だ。軍服から覗く大佐の真っ白い手首に思いがけず見惚れていた俺は、斜めな視線に伴なう非難にただ、にっこりと笑ってみせた。 「知ってたんだな」 「地獄耳なものでね」何が可笑しいのか大佐も露骨に口端を引き上げる。その表情から汲めるのは、ああそうか、こいつは俺を苛つかせようとしている。ひねくれた大佐はいつも、俺を怒らせることで変わらず関心が自分に向くことを確認して、やっと安心するから。 「帰ってきたらいちばんに私のところに来ると言っていたのに、おまえときたら顔も見せず挨拶もせず今朝になってようやく私のベッドに潜り込んで、おはようただいまそれじゃあ行ってきます。これは新しい冗談かね鋼の」 寂しかったんだ、くらい素直に言ってくれればいい、そうしたら俺もあんたを抱き締められるよ。だけど俺は、大佐が俺にだけは何があっても信頼を寄せないと決めていることくらいお見通しだ。大佐は純粋な狂人で、そのクレイジーな情緒は淋しさを埋めるためなら何度でもアイラブユーを言える。気がふれていると言えばその通りかもしれない、他人を理解することなんて誰にも出来ることじゃないし、ましてロイ・マスタングを理解しようとするなんて傷にしかならなくて、それでも、からっぽの俺にはそれが全てだった。乾くことのない痛みはヒステリックに溢れ出しては俺を満たしていつかきっとあの軌跡さえも掻き消してくれる。その残酷さゆえに憎んでいた、世界も、失われるのならほんの少し素晴らしくなる気がしていた。 褪せる間もなく過ぎ去っていくことを死ぬまで誓う。 (繰り返されぬ日々は速度を持って駆け抜けてしまえばいいのだ) だからこそ俺は恋の妄想をする。 「ちょっと、その、調べ物に忙しくてさ」 俺は小さく溜め息をつくと、凝り固まった首を鳴らして、ズボンのポケットに両手を突っ込んで肩を竦め、降参のポーズをとった。 大きな窓から差し込む陽射しは大佐の黒髪を煌かせていて、あーくそ、空が青いなー目に沁みるなーとかどうでもいいことを思ってしまう。 「へえ?」 大佐はからりと笑って首を傾げた。いっそ怖い顔で睨まれたほうがましだった。 俺は負け犬が唸るように項垂れて、どうしてか大佐を見ることが出来ない。その弱さにつけ込んでいるのは俺なのに、寂しがり屋のあんたを放っておいてごめんな。俺だっていつも側にいたいし触りたいし触るだけじゃ到底もの足りないし離れてる間中ずっと会いたかったんだ。 「ごめん」 俯いたまま俺は強く目を閉じた。ポケットの中の指先を握り締めた。背筋を伸ばせ。それから真っ直ぐに大佐を据えた。僅かに焦点の合わない視界で捉える映像は現実味を失いつつあって、なによりその希薄さが好きだ。ぼやけた大佐は、幼さの残る皮肉な笑みで俺を見つめ返していた。 「おや、靴が汚れている」 そしてふいに気取りきったいつもの仕草で、伸ばした足を執務机の上に乗せた。分厚い軍靴の下敷きになった大事そうな書類がくしゃりと音を立てて皺になった。(こいつはばかだからあとで中尉に怒られることなんて少しも考えていない) そうして俺が黙ったままでいると大佐はちょっとつまらなそうにくちびるを尖らせて椅子の背にもたれかかり、顎の先で俺を促した。そのぞんざいな仕草から明確な意思を理解して堪えきれず苦笑を漏らした俺は、かわいい恋人の赦しを請うべくのろのろと立ち上がった。 「ロイ、」 名前を呼んでやると大佐はばかみたいにだらしなく笑う。俺は引き寄せられるように、傲慢にも机の上で俺を向く軍靴の爪先に屈みこむと、そのまま丁寧にキスを落とした。 「次帰ってきたときはちゃんと真っ先にあんたに会いに来るよ」 「約束するか」 「約束する」 「当然だ」 「うん」 俺はもう一度ごめんと言おうとして、大佐の伏し目がちな目元を見上げたら、「だがわたしは何事も信じない性分でね」と目を逸らす。 「信じろとかそんな気休めは言わねえけど、時々思い出してくれよな」 「忘れられたくなければ電話でもしろ莫迦者」 「だってあんた声だけで濡れるじゃん」 「手紙は」 「苦手だよ」 大佐は目を丸めて、それから呆れたようにくちびるの片端を引き上げてちいさく首を振る。艶やかに陽射しをはじく黒髪の先があまりにもきれいで、俺は喉を鳴らして息を飲んだ。救いようのないほど汚れきっているのかと思えば切ないくらい透明な大佐は、いつだっていまにも崩れてしまいそうな危うさで俺を飲み込んでいく。 「なあ、側にいてやれなくてごめんな?」 あんたが悲しいのも苦しいのも、残らずぜんぶ、賢しく嗅ぎ取って慰める犬になりたい。 「本気にするな、冗談だ」 「じゃあ・・・ほんとにもう行くけど」 名残惜しさを必死に堪えて満面の笑顔を浮かべて、身を乗り出すようにして机の向こう側のロイに目で訴えると、渋々といった風に机から足を降ろす。そうして大佐は少しだけ腰を浮かせると俺のくちびるをそっと舐めた。 大佐は何も言わなかった。 ほんの数ヶ月離れるだけのことでうっかり泣いてしまいそうな自分の女々しさを振り切るように、俺は大佐の部屋を飛び出した。 息が出来なくなるまで駆けた。 毒々しくて最愛のきちがいで、俺はあんたを愛して止まないよ。
FIN. |