| 2002/7/1 24:30 |
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ブラジル優勝でワールドカップも終わり、7月。もう今年も半分過ぎたわけだ。
上半期ベストxxと総括したいところだけど、それほど本を読んだという手ごたえがない(実績もないのか何読んだかよく思い出せない)のが特徴。なんでだろ。「ひかるの碁」「BASARA」という長期連載ものを一気読みりしてそれなりにそれは面白かったんだが、これってのに出会ってない。これからに期待。
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| 2002/6/25 24:35 |
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「模倣犯」補足。
先日、何かすっきりしないんで、また、映画を見た。お台場メディアージュ。通常料金で事前に指定席がとれるし、綺麗だし、ゆとりがあって座り心地もいいんだけど、全般的にすいている。大丈夫なんでしょうか、お台場、そして映画業界。
【ねたばれ】
映画のストーリーが気に食わないんだってこと、その主な理由は、終わり方だということをはっきり認識した。
犯罪者の今後を、犯罪者の子供(?)の今後にし、しかもその未来を被害者の遺族の育て方に依存するかのようにしているところ。神のゲームの駒ででもあったように犯罪者自身はゲームオーバー、あがりってところ。家庭環境のせいで犯罪者にでもなったかのようににおわせているところ。
ピースを人間臭の薄いアンドロイドのような印象に仕立てているのはそういう他律的な要素だ。これが新しい犯罪者とでもいいたいのか?
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| 2002/6/19 26:00 |
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突発的に発生した日本サッカーチームへの愛着(?)が、昨日の負けでチームが解散した今も消えずに余韻として残っている。自分のことながらちょっと面白い心境だ。
久々に会社の帰りに映画を見に行った。見た映画は「模倣犯」。
本の映像化は難しい。映画だと約2時間という短い時間の中で本の内容を集約、表現する制約があるし、文字により喚起された読者の想像力は翼を生やしてトンでってるわけだから、具体的な映像、音声に幻滅する可能性は高い。実際、真保裕一の「ホワイトアウト」も東野圭吾の「秘密」も映画化されたが、あれはどうだったんだろう。いい予感がせず見に行かなかった。この予感はあたってるんじゃないかな。結局別物になってるわけだし。その読者のあきらめを裏切る何かがあるか、という点が評価の全てのように思う。
【注意。これ以降ねたばれあり!】
宮部みゆきの「模倣犯 The COPY CAT」(小学館:上下)。連続殺人事件を題材に、被害者、加害者のみならず、被害者の家族、加害者の家族、警察、マスコミに従事する人、マスコミという場、世間(大衆)など様々な立場から考えさせる内容になっている佳品だ。またその立場は単一ではなく、被害者でもあり加害者、第三者から渦中へなどと併せ持ち、変化していく多層構造でもある。しかし、その中で、犯罪の方法やその演出、また発覚部分は作家の別の作品〜例えば「火車」〜とは比較にならないワキの甘さが見られ、物足りなかった。結局映画を見ようという気になったのは、宮部みゆき自身が森田芳光監督を選んだこともあるが、映画の中心が、原作の中で最も描写の弱い(と思っている人は多く要る筈)部分〜ピースとその周辺〜に焦点が当たっていて、どう調理したのか見たいというところ、にあった。
で、見たわけだが、眉間にしわがよるね。
主役としたピースと重ねてpieceなのか,小説を、事件を、時間を、現実と虚像を断片化し、zappingのように映像がflush,流れていく。言葉が記号が切り貼りされて、流れていく。
声紋をわからなくするなど犯罪のレベルを上げたり、マスコミに従事する人間にもう一つの役割を追加したり、なかった交流を加えたり、ピースの処遇を加工したり、被害者の家族に次代を担う負荷を与えたり。原作を捨てて拾って変えて追加して、その効果はいかほどか。現実は小説より奇なり。「さぁショータイムの始まりだ」というピースの台詞、とうの昔の中島みゆきの「ショータイム」という歌があったくらいにちょっと陳腐だし。
中居くんが透明感あって綺麗なだけに、山崎さんも藤井さんも木村さんも津田さんも適役だと思うのに、全てが薄く、印象が浮遊する。
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| 2002/6/12 25:00 |
19時、電車で近くに乗ってた人の持つ夕刊フジの一面見出しで ナンシー関さんの急死を知った。
39歳。心よりその死を悼む。毎週、毎月の消しゴム版画とコラムを当たり前のように享受し、テレビ見つつ、これナンシー描くかなぁ、どう評するだろうとその言葉を楽しみにしていた日々が終わった。
ひょっと飛び出た才人はこれまた突然いなくなった。なんと寂しいことだろう |
| 2002/5/26 |
やっぱ日記というのは誇大広告だった。じだらくだからなぁ。。ま、よしとしていただきたい。
本を薦めること、薦められた本へのリアクションというのは、各々が判断基準なり価値観が当然ある中での行為なだけに、食い違うと微妙で難しい。その違いを語り合えると楽しいのかな、実際解釈に正解はないわけだし。ただ好きに理由はないわけで、一番好きなんだといって薦められた本が全然気に入らなかった時ってどうすればいいのか。
紹介された本は、川上弘美の「センセイの鞄」。読後、私は川上弘美を吉本バナナや江国香織側に分類した。センセイと「私」の関係の始まりは、しみじみ、ほのぼの、のんびりで、濃度が希薄で、都合がいいように思える。元先生と生徒の関係、ほのかな好意のある関係。時折居酒屋で偶然あい、二人のつまみの趣味が似てて、センセイは姿勢は正しく規則的で、淡々としていて、「私」は30代後半のちょっと元気ででもちょっと生きる事に疲れてきている。描写してると、癒し系でいい感じなんだけど。
感想はというと、気持ち悪いの一言につきる。紹介者への公式見解は、つまみがうまそう にしといた。いやはや。うっかりしてるととんでもない目にあうよ、ほんと。 |
| 2002/4/20 |
| 明日から出張。なんか荷物まとめ終わった今もあまり実感がないけれど、行くんだよね。デジカメなどを昨日買ってみた。人と共有するという点で写真より優れていると思う。どっかにuploadしておけば、あとは各人任せだ。28日夕方に戻る予定。それまでさらばさらば。 |
| 2002/4/18 |
あてにされたいと思うことは甘え って思ってる。でもされないと寂しい。でもってあてにされたとき、心地よく人を甘えさせ自分も平常心で普通の気持ちでいることのできるくらいの度量と、そりゃだめよと断わる、その境界線を見切れることのできる状況判断力が欲しいと思ってたりする。いやだねー、なんで何かを人から与えられるのを待ってるのか。我が道をいこう。道はないけど。後ろに道ができるってだれかもいってた。自分の前には舗装された道路ばかりが準備されてると思ってた頃と前には道なんかないと知った今ではその詩への思いは違う。あのくだりは進めと脚を1歩まずは踏み出せと 高揚、鼓舞するものだったんじゃないか?
森本祥子の「ごくせん」(集英社:現在4巻まで)がドラマ化されたので見た。極道の親分の孫が学校の先生というところ以外はかなり変えている。原作のからっとしててどすがきいててかつコミカルな部分がでるのか、どうなのか。仲間のキャスティングはよしとしてもあまりにも青春、熱血教師(ふるっ)なので驚いた。ヤンクミにはもっと淡々、坦々としてて欲しいんだが。谷中霊園、谷中銀座付近が使われててちょっと感動。 |
| 2002/4/17 |
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偶然と偶然が重なったら何になるだろう。運命だといったのは鶴瓶で、偶然だといったのは上岡だった。
昔々のテレビでの言葉だ。偶然の符合を、時折、縁とか兆しだろうかと思ってしまう私は上岡派にはなりたくてなれない、鶴瓶派だ。
今読んでいる本は、橋本治の「わからない方法」(集英社新書:700)。橋本治の作家として在り続けようとする生きていく方法、今までの著作の生産現場の裏話が、「わからない」という言葉を鍵にして展開している。大体、書き出しからいって、橋本治に怠りはない。見事なキャッチコピーでぎゅっっと鷲づかみされ、どんどん読まされ、ちょっと我が身に引き換えて考えさせられといういつもの調子に巻き込まれていく。
「正解はある」は二十世紀病。二十一世紀は「わからない」の時代
よく考えてみればわかることだが、「なんでもかんでも一挙に解決してくれる便利な”正解”」などというものはそもそも幻想の中にしか存在しないものである。
人はこまめに挫折を繰り返す。一度手に入れただけの自信は、たやすく役立たずに成り変わる。人はたんびたんびに「わからない」に直面して、その疑問を自分の頭で解いていくしかないーこれは、人類史を貫く不変の真理なのである。
そして昨日の生smapxsmapでの新曲で「どこかに答えがあるのならいつか飛び回ることを忘れてしまうよ」という歌詞が聞こえてきたとき、おいおいと思った。
読んでいる本と歌の言葉を 正解をほしがっている自分が引き寄せる。一年に渡る与えられた仕事が終わり、何者でもない自分に再び向かい合う時がきて方向性を持てず多くもない時間をなぜか持て余しているそんな自分がいることがわかる。日記を書き始めるのは大抵そんなときなんだよね。ということで、じだらくにっき すたーと。
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