住 の江の 岸による波 よるさへや 夢の通い路 ひとめよくらむ

(住の江の岸辺に打ち寄せる波のように、そっとあなたの許を訪 れたいと思うのに、
夜の夢路にさえ、人目を避けているのだろうか姿を見せてはくれ ませんね。)

≪藤原敏行朝臣 ふじわらのとしゆきあそん≫

9世紀末〜10世紀初頭の人。三十六歌仙の一人。
在原業平とは相婿(妻同士が姉妹)にあたる。



怒ってる?、よな。
いや、確かに長い間来なかった俺が悪いんだけど。
機嫌直せとは言わないから、さ、せめて話だけでも聞いてよ。
え、言い訳なんか聞きたくない。そりゃもっともなんだけど、うーん困ったな。
じゃあ、俺が勝手に話すから・・・、

半月ばかり前の夜のことだよ。
いきなり恐ろしげな鬼が俺の枕許に現れて言うんだ。
「敏行よ、お前は死んで地獄に落ちるのだ。」
気がつけば俺は、不気味な風景の中を二百人ばかりの亡者どものむれに取り囲まれ、鬼に腕を掴まれ引き立てられていた。
亡者どもは赤く血走った目で俺を恨むように睨み付けている。
「一体、これはどういうことでしょうか?」
震えながらおそるおそるたずねた俺に、鬼は横を流れる大河を指差した。
河の水はどろりと黒く濁っている。
「あれは墨の色だ。お前が人に頼まれて写した法華経二百部のな。」
「なぜ私の書いたお経の墨が・・・」
「わからぬか、お前は法華経を写す際、本来ならば精進潔斎して行うべきところを、魚を食らい、淫らな事を思い、女を抱いた。そのようにして書かれたものが 死者の功徳となるものか、あれらの者たちはそのために極楽にも行けず、生まれ変わることも出来ず、修羅道に落ちて苦しんでいるのだ。」
驚いた俺が亡者どもに目をやると、彼らは怒りをあらわにして大声をあげる。
「そいつをこちらに渡せ、一つの身体を二百に切り裂き、その一つ一つを未来永劫責め苛んでやる。」
それを聞いた俺は生きた心地もしないようになって、その場にへたり込んでしまった。
「さあ立て、あのように多くの者たちが訴えているからには逃れることはできん。閻魔大王様の裁きを受けてもらう。」
「待ってください、ど、どうかお助けください。」
俺は涙ながらに必死に頼む、鬼もその様子に哀れをおぼえたものか
「なんでもするか。」
「はい、いたします。ですからどうか・・・、」
「それならば」
「はい」
「金光明経、四巻を写経供養するとの願を今すぐ立てよ。」
「え、そんなことでいいんですか?」
「そんなこととは何だ。」
「す、すいません。えーっと『四巻経を書いてこの罪を贖いたいと思います。どうかお許しください。』、これでよろしいでしょうか?」
「うむ、あとは閻魔大王様しだいだ。」
「そんな・・・。」

大門をくぐって裁きの場に出た。
閻魔大王の手にする閻魔帳には、今までの行いや考えのすべてが載せられているという。
「それにしても、お前はまったくどうしようもないやつだな。善い事なぞ一つもついておらんぞ。」
厳しい顔の閻魔大王はそれでもたんねんに帳面をしらべてゆく。
俺は心中で『写経、四巻経の写経供養』と必死に念じ続けていた。
「ほう、最後の最後になって、ようやく善い事が出てきたな。四巻経の写経供養か、その心がけは殊勝なことだな。よしよし、娑婆に戻りその願を果たすがよか ろう。」
閻魔大王のその言葉が終わるやいなや、俺はものすごい力でどこかへ連れ去られるような感じがして、気を失った。

俺の顔を家の者が心配そうに見つめている。
慌てて体を起こすと、祈祷の僧侶が何人も部屋に詰めているのが目に入った。
話を聞くと俺は七日七晩、死んだように眠り続けていたらしい。

信じられない?
そう言うけど、その恐ろしい経験が障ったのかその後も俺の身体はなかなか良くならなくて、今日こうして出かけてくるのもやっとの思いだったんだから。
えっ、そんなことより写経しなくていいのかって。
だから、それは明日から精進潔斎してちゃんとやるつもりだから。
その前に、どうしても君に逢っておかなくちゃ、ね。



(余談)
さて天寿をまっとうした敏行ですが、案の定、四巻経の写経供養はせずじ まい。
地獄に落ち苦しむ姿を友人の紀友則の夢に現します。
友則がすぐさま写経供養を行ったところ、ようやく苦しみも和らいだとか。






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