マックとチベット仏教  マックを扱った人ならば自明の事だが、フロッピー・ディスク等を吐き出させるときは、画面から「片付ける」を選択しなければならない。即ち、ソフトウェアで指示しないと、イジェクト機構(すなわちハードウェア)が働かないようになっている。これは極めて密教的である。密教では、精神と肉体とは不可分であるとされる。「病は気から」の教えのごとく、現世では精神(ソフトウェア)と肉体(ハードウェア)とはひとつのものとして扱われるのが密教である。  またマックは、開発の初期からネットワークを念頭に置いてきた。パーソナル・コンピュータ1台が、あくまでも世界の中の一部であることを、マックは教えてくれる。この点もチベット仏教の影響が見られる。チベット仏教では、人は、単独では存在しえない、他者と交流して初めて十分な働きをする、と教えている。  オープン・ドックは、アプリケーション・ソフトや、OSの違いを超えた作業環境をめざしたものであった。  チベット仏教は、さまざまな宗教を自らの中に包括しているのが大きな特徴だ。例えばイエス・キリストは、菩薩の一人が姿を変えたものであるとする。異教の徒を他者として排除せず、自らの中に包括しようとする。これは、人類史の中で最も精神的に進化したこころのありようである。  マックのめざしているものは、深く広い。  一方、Windows 95はどうか。フロッピー・ディスクは、ソフトウェアがどういう状態にあってもイジェクトできてしまう。たとえそれがアクセス中であっても。CD-ROMドライブも同様である。このことの裏にあるのは「精神は、肉体とは無関係に存在する」という思想である。フロッピー・ドライブはあくまでも部品でしかない。そこには協調が感じられない。  キリスト教が自らを世界最高の宗教と位置づけ、異教徒は排除する、あるいは改宗させようとしてきたこととWindowsとは思想的につながっている。ビル・ゲーツがアクティブ・ウィンドウでブラウザさえもMicrosoft社のものをつかわせようとしているのも、異教の排除を繰り返してきたキリスト教文明を暗示している。異教徒との争いは戦争や貧困、あるいは多くの難民を生み出してきた。また、ネットワークについては、MS-DOSの頃にはほとんど考慮されていなかった。Windows 95では共有設定が可能になっているが、思想的背景あってのことではない。
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