日本の政治とリーダーシップ |
| Index>Article>日本の政治とリーダーシップ 日本の政治とリーダーシップをどのような立場で論ずべきだろうか。私は次のような立場にたって論を展開することにしたい。それは、国家とは国民共通の利益を代表するものであり、日本の政治とリーダーシップの関係は、この役割を果たすためのものとして考えられなければならないというものである。 このような立場以外にも、この問題を考える立場はある。それは、国民国家の役割は小さくなりつつあるという立場である。この立場にたてば、国家による政治の役割自体が小さくなるのだから、当然そこで発揮されるリーダーシップは限られたものであるべきだという結論が導き出せる。私はこのような立場を否定はしない。ただ、私はこのような立場で論を展開することはしない。なぜかというと、次の理由による。多くの労働者にとって国家間の移動は困難なことであり、国家の構成員が大幅に変わることは少ない。このために、国家の構成員である国民は安定した存在であり、その共通の利益を主張することの意義は薄れていないからである。 それでは、どのような形で政治にリーダーシップを関わらせれば、日本において国民の利益を代表させることができるだろうか。このことを考える前に、日本の政治を考える上での前提となる事実を示したい。それは、日本の政治においても、数多くの政争があったということである。明治政府の成立過程においては、戊辰戦争と呼ばれる内乱があったし、その成立後にも西南戦争と呼ばれる内乱があった。そして太平洋戦争を経て、サンフランシスコ平和条約が調印された後においても、日本の政権党である自由民主党の総裁の座を巡って激しい政争が幾度となく起こり、数人の代議士の投票行動によって総理大臣が決定したことも何度かある。このような事実は、日本の政治が古代から続く調和の精神によって安定して運営されているという通説を否定するものである。 また、日本では、政争の際に、慣習法より成文法の方が優先される。日本には議会で第一党を占めた政党が、たとえ過半数を満たしていなかったとしても、政権を担当するという憲政の常道と呼ばれる慣習法がある。これは戦後の政治に大きな影響を与えていたが、国会における多数決を優先する日本国憲法の規定を踏みにじるものではなかった。自民党は、国会における過半数を占めていたことによって政権の正当性を付与されていたのであり、第一党を占めていたことによって政権の正当性を付与されていたのではない。1993年に行われた国会で、少数党である日本新党の細川護熙が、国会の多数の賛成によって、首相に指名されたのは、このことを裏付けるものであろう。 以上のようなことから、次のことが言えるだろう。すなわち日本の政治は、古代から続く調和の精神によって運営されるものではなく、また慣習法よりも成文法が優先される、極めて合理的な形で運営されているということである。このような前提に基づいて、国民の利益を代表させる日本の政治とリーダーシップの関係を具体的に考えることにしてみたい。 近年、首相を選出するにあたって、直接選挙を導入すべきだという議論がある。私は、首相を直接選挙によって選出することによって、首相が国民を直接代表させることができるようになることを指摘したい。このことは、国家が国民共通の利益を実現するうえで、重要な意味を持つ。国民を直接の政治的基盤とする総理大臣は、国民共通の利益を代表せざるを得ないのである。 ただ、この制度にも限界はある。先に私は日本の政治は合理的に運営されていると述べたが、これは、日本国民が常に正しい判断を下せるということを示すものではない。民主主義には、多くの人間が政策決定に携われば正しい判断に近づくという前提があるが、集団でヒステリー状態に陥り、冷静な判断力を失うこともあるのである。第二次世界大戦前に、ナチスが民主的な手続きのもとでドイツの権力を掌握したことは、これを裏付けるものであろう。 次に、完全な比例代表制を導入するという案を検討してみたい。現在の比例代表制は地域を単位として行われており、また全ての議席が比例代表制によって選出されるわけではない。このために現在の議会は国民を直接代表するものではなく、各地域を代表するものとなっている。この制度を、国民全体を代表するものに作り変えようというものである。 ただ、このような制度では国民が政党に所属する個人を判断することはできない。政党は綱領を示すことで国民に対してその政策を示すことはできる。しかし、国民は政党内の人間同士の力関係―たとえば名簿順位―に関与することはできず、政策は支持できるが、そのなかにいる人間を信用することができないといった事態が起こることになるだろう。 以上のように、首相の直接選挙と完全な比例代表の導入を検討してみたが、首相の直接選挙は、国民が政策のみならず個人の資質をも判断できるという意味において、有効なものだと言うことができるだろう。政治の方針を示すことと、具体的にどのような手段によってその政策を実現するのかということは異なる。そこでは個人の資質が問われるのである。 どのような政体であれ、常に正しい判断を下しつづけることは不可能であろう。なぜなら、制度を扱うのはあくまでも人間であり、その人間によって判断は変わりうるからである。ただ、日本の文化は特殊であり、論理的な思考によって考察された、制度が意味を持たないということはない。そのような考察を行う際の最終的な目的は、国益を実現することである。そのような立場にたって、どのような制度が良いのかを論理的に考察していく必要がある。 Hirokazu Nakagawara, all right reserved.
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