秦・漢時代史 |
【秦】 周代の侯国で、中国最初の統一王朝。はじめ甘粛省東部にあり、周の諸侯となり、渭水に沿って東進。春秋の五覇、戦国の七雄として勢力を伸長し、紀元前二五六年周室を滅ぼした。紀元前二二一年、政(始皇帝)のとき韓・趙・魏・楚・燕・斉を滅ぼして統一王朝を形成したが、紀元前二〇七年、三代一五年で楚の項羽、漢の高祖らの反乱軍に滅ぼされた。 【始皇帝】 秦の皇帝(在位前二四七〜前二一〇年)。荘襄王の子。姓は<エイ>。名は政。韓・趙・魏・楚・燕・斉の六国を滅ぼし天下を統合し始皇帝と自称した。郡県制による中央集権による政治政策をとり、焚書坑儒による思想統制や、車両の幅、度量衡、貨幣の統一、文字の簡略化、万里長城の増築、阿房宮など荘厳な宮殿の築造などを行い、また一方で、全国に巡遊して、自賛の刻石を建て、不老長寿の薬を求めたりしたが、性急苛酷な専制政治のため、その死後数年で秦が滅びることとなった。(前二五九〜前二一〇) 【李斯】 秦の政治家。韓非子とともに(儒家の)荀子の門下で、法家思想による中央集権政治を主張。始皇帝の丞相として、郡県制の実施、文字・度量衡の統一、外征の立案など、統一帝国の確立に貢献した。始皇帝の死後、二世皇帝を擁立して権力を発揮したが、趙高の讒言によって失脚、処刑された。(〜前二一〇) 【呂不韋】 戦国末の商人で秦の宰相。趙の人質となっていた秦の荘襄王を庇護、その功により丞相となり、始皇帝に仲父(父に次いで尊敬する意)と尊称されたが、密通事件に連座して失脚、自殺。学者を優遇し、諸説を折衷して「呂氏春秋」を編纂。始皇帝の実父という説もある。(〜前二三五) 【咸陽】 秦の始皇帝が都を置き、漢代には、渭城と呼ばれた。 【郡県制度】 中国の中央集権的な地方行政制度。全国を皇帝の直轄地として三六の郡に分け、その下に県を置いた。中央から役人を派遣して治めさせた制度。 【焚書坑儒】 秦の始皇帝が行った、主に儒家に対する言論統制政策。法家の思想家李斯の建言により、医学・卜筮・農事などの実用書以外を焼き、儒生四六〇余人を咸陽で坑殺したといわれる事件。 【万里の長城】 中国の北辺に建設された長大な城壁。遼東湾西岸の山海関から甘粛省の嘉峪関に及ぶ。春秋戦国時代の諸国が築いた城壁を利用して、秦の始皇帝が構築し、匈奴に対する防御線とした。現在のものは明代に整備された。 【匈奴】 中国古代、北方の遊牧民族。紀元前三世紀から紀元後五世紀にかけて活躍。首長を単于と称し、冒頓単于(紀元前二世紀頃)以下二代が全盛時で、漢民族をおびやかし、後漢の頃南北に分裂した。フンヌ。フン族。 【陳勝】 秦末の武将。字は渉。秦の二世皇帝の時、呉広と共に農民を率いて挙兵して王と称し、劉邦・項羽らの挙兵のきっかけを作った。(〜前二〇八) 【項羽】 秦末の武将。名は籍。字は羽。叔父項梁とともに挙兵し、漢王劉邦と呼応して秦を滅ぼし、「西楚の覇王」を名乗る。のちに、劉邦と天下の覇権を争ったが、垓下の戦いで大敗し、烏江で自殺。(前二三二〜前二〇二) |
【漢】 前漢。紀元前二〇二年、高祖劉邦が長安で即位してから一四代、二一〇年間続いた。都は長安にあったので西漢ともいう。 【劉邦】 漢の創始者で初代皇帝の高祖(在位前二〇六〜前一九五年)。沛の出身。秦末に挙兵して項羽とともに秦を滅ぼし、さらに項羽を打倒して天下の統一に成功、即位して国を漢と号し、長安を都とした。秦の政治制度の多くを継承しつつ、それらを独自に発展させて、漢の基礎を築いた。(前二四七または前二五六〜前一九五) 【郡国制度】 漢代、郡県制度と封建制度とを併用した制度で、皇帝直轄の郡県と諸侯を封じて治めさせた国とが併存する。高祖が制定したが、武帝の時には有名無実となった。 【三公】 官名。最高の地位にあって天子を補佐する三人。秦・前漢は丞相・太尉・御史大夫で、時に大司徒・大司馬・大司空ともいい、後漢では太尉・司徒・司空という。 【九卿】 漢代の九つの高官の名称。太常、光禄勲、衛尉、太僕、廷尉、大鴻臚、宗正、少府、大司農。 【郷挙里選】 漢代に行なわれた官吏登用制度。地方長官に官吏となる人物を推薦させる方法。実際には郷里に勢力のある豪族の子弟が多く推挙された。 【冒頓単于】 前漢の頃の匈奴王(在位前二〇九〜前一七四年)。父の頭曼を殺して単于となる東胡・月氏を破り、漢の高祖を白登山に包囲したため、漢は和親策をとった。(〜前一七四) 【呉楚七国の乱】 漢代に呉王「水鼻」(び)を中心に楚など七王の起こした反乱。漢初、各地に封ぜられた諸侯王の勢力をおさえるため、景帝が寵錯を用いて領土を削減したのに対して兵を挙げた事件。三か月で平定され、中央政府の統制力が強化された。 【武帝】 前漢第七代の皇帝(在位前一四一〜前八七年)。廟号は世宗。匈奴を撃破し、張騫などを西域に遣わして東西交通の道を開いた。中央集権に力を入れ、儒学を国学とした。(前一五九〜前八七) 【董仲舒】 前漢の儒学者。武帝に仕え、儒家思想を政治の根本思想にすることを説いた。以後、中国の政治に儒教が重要な役割をしめることになる(儒教の国教化)。著に「春秋繁露」「董子文集」。(前一七六〜前一〇四) 【五経博士】 五経の文義に精通している学者。中国、漢の武帝が任じたのが始まり。 【五経】 儒学で尊重する五部の経書。易・書・詩・礼・春秋。これらを五経と総称することは、「五経博士」に始まる。 【均輸法】 漢の武帝がはじめた経済政策。各地方の負担する貢物と輸送費を平均化しようとするもので、商人の利益を制限し、中央集権による経済統制を目的とした。 【平準法】 前漢武帝の紀元前一一〇年に施行された財政政策で、政府が全国の物資を事前に購入して貯蔵、物価が高騰すると売却、下落すると購入して、物価の安定を調整したもの。次の昭帝のときに廃止された。 【大月氏】 紀元前二世紀前後中央アジアで活躍した民族。中国の戦国時代蒙古高原西半を支配した月氏の主力が、天山山脈北方に移動したものをいう。匈奴の攻撃を受けて西遷し、バクトリア(大夏)に侵入し、これを滅ぼした。 【張騫】 前漢の人。武帝の時、匈奴牽制のため大月氏と同盟を結ぼうと出発。同盟は成立しなかったが、大宛、大月氏、大夏などをまわり、烏孫にも使して、西域への交通路と知識を中国にもたらした。また、その間、匈奴征伐に従って功をたて、博望侯に封ぜられた。(〜前一一四) |
【新】 紀元八年から二三年まで続いた王朝。前漢を簒奪(さんだつ)した王莽が建てた王朝。都は長安。急激な諸改革による豪族、人民の不満と、対外政策の失敗から国勢を損い、わずか一五年で、反乱軍のために滅ぼされた。 【王莽】 前漢末期の政治家。新の建設者。字は巨君。自ら擁立した平帝を毒殺し、やがて帝位を得、国号を新と改める。漢の劉秀(後漢の光武帝)に攻められ殺された。在位一五年。(前四五〜後二三) 【赤眉の乱】 新末の、王莽の失政が誘発した農民の叛乱。山東に起こり、王莽政権崩壊後も華北に勢力をふるったが、のち後漢の劉秀(光武帝)に鎮圧された。衆徒が眉を朱に染めて目印としたところから赤眉と呼ばれる。 |
【後漢】 新が滅びたのち、西暦二五年、劉秀(光武帝)が再興した漢王朝。三代までは栄えたが、二二〇年、外戚と宦官の政治介入による混乱と地方豪族の割拠によって滅亡した。都が洛陽にあったので東漢ともいう。 【光武帝】 後漢の初代皇帝(在位二五〜五七年)。姓は劉、名は秀。字は文叔。廟号世祖。舂陵に挙兵し、王莽の大軍を撃破して、洛陽で即位。漢王朝を再興した。(前六〜五七) 【明帝】 後漢第二代の皇帝(在位五七〜七五年)。名は荘。儒教を政治思想とし教育・地方行政に努力した。外政でも、匈奴・羌を討ち塞外に威をふるった。また、仏典を求め、白馬寺を建てたという説がある。(二八〜七五) 【党錮】 (「党」は党人、「錮」は禁錮の意)中国、後漢末に宦官一派が、宦官による腐敗政治を批判した党人を禁錮したこと。以後、宦官の横暴が激化し、後漢滅亡の一因となった。党錮の禁ともいう。 【黄巾の乱】 後漢末期、張角を首領として起こった農民の反乱。黄帝老子の教えと称する太平道という一種の宗教組織のもとに困窮した農民を集め、一八四年、各地の信徒十数万を蜂起させた。農民たちは黄色の布を被り目印とした。 【太平道】 後漢末に張角が唱えた民間宗教、およびその結社。五斗米道とともに道教の源流をといわれている。神仙説を受け、呪文・懺悔・符水で病気を治癒した。河北、山東、河南に広がり、黄巾の乱を起こした。 【張角】 後漢末期の道士。のちに道教の一源流とされる太平道を唱えて、数十万の信徒をもつ宗教結社を形成。のち政府の弾圧に伴い、一八四年に漢朝転覆を図って黄巾の乱を起こしたが、その年に病死した。(〜一八四) 【五斗米道】 後漢末、張陵が蜀(四川省)で創始した宗教およびその教団。病気の原因は当人の罪過にあるとして罪の贖いを説き、祈祷による治療の謝礼に、米五斗を出させた。後漢末の動乱に乗じて多くの流民をあつめ、三代張魯の時には、四川から陜西省南部にかけて宗教王国を形成したが、二一五年、魏の曹操に降服。その子孫は江西省の竜虎山に移り、代々張天師を称した。張角の太平道とともに道教の源流とされる。天師道ともいう。 |