ルイス・キャロルの『鏡の国のアリス』がエピグラフに引用された、その悪魔的な物語を、私はなんと説明してよいのか分からない。
友人に面白い本あったら教えて?と聞かれたときなどに、まっさきに紹介したいけれど、どういった類の本なのか説明するのがひどく厄介なので、ついつい紹介しそびれる。
冒頭を抜書きしてみる。
「一日のはじまりがはじまる。
昨日がどこで終わったのか、わたしにははっきりとした記憶がすでにない」
一日の「はじまり」が「はじまる」。
この一見、人をくったような言葉遊びのようで、実は意味深長にも思える、不思議な出だしは、すでに、この物語の混乱の予兆だ。
金井美恵子著「愛の生活」。
破綻と、秩序。倒錯と冷静。
人生は狂気。人生は正気。
私は、アルミシートからぷつりと白い錠剤を抜き出す。
こんな小さな白い薬が私の正気を保っている。
あれは春。絶望に満ちた逃避行。
夜行バスの中、私は5本目の缶ビールで、睡眠薬を大量に服用した。
どうどうと雨が降っていた。
ガラス窓の雨滴に、オレンジ色の外灯が閉じ込められてぷるぷるとゼリーのように、一斉に揺れ動く。
高速道路は一本の川。
バスは眠りを閉じ込めた一艘の箱舟。
闇夜の奔流を、バスは疾走した。
私は朦朧と、眠りに落ちる一歩手前で、その美しく輝く夜の景色を、なんだかみちたりて眺めていた。
その後、到着した先で、悪友らと昼間から横浜で死ぬほど飲んで、中華街でどっかのおばさんに「あなたたち酒くさいわよ」と顔をしかめられ、夜は夜で、私はズブロッカを壜のまま1人で二晩で一本空けてしまうという、世にも恐ろしい愚行を働くのだが。
いやはやすさんでたなぁ。でも楽しかったなぁ。しんそこ。
死の一歩手前くらいのところで、でも死ぬほど「生きてる」って実感していた日々。
あれはなんだったんだ?
モンサンミッシェルから、パリの旅行会社に無事バスは到着。
Hさんが夕食が決まっていないならご一緒しませんかと誘ってくださった。
パリのどまんなかで、夜だしもう売店はしまってるし、どうしようかと思って私には願ってもないお誘い。
「せっかくだからムール貝を食べにいきましょう」
とHさん。
シャンゼリゼ通りにある、賑やかなお店へ案内してくれた。
おお!店内には長い回廊が続き、その両側にもテーブルはあるのだが、長い待ち人の行列ができている。
長らく待って通された席は、店の奥の、落ち着いた場所だった。
ジョッキのビールを注文。小壜ビール「1664」の呪いからとかれて、びっくりするほど巨大なジョッキが運ばれてきた。
メニューはムール貝オンリー。色々な味付けになってるらしいが、フランス語は皆目分からない。
適当に選んだものを注文。
バケツみたいなホーローの鍋に、どかんとやってきた。
ビールを飲んでは貝を食べ、ビールを飲んでは会話する。。。。
食べても食べても貝は減らない。すごい量。
Hさんは、全日程フリーで、フランスに1週間滞在中とのことだ。
好きな絵画を見るのが目的でやってきたという。
こうやって年に1度ほど、長い休みをとって海外旅行をするのが趣味なのだそうだ。
私も旅の目的を、ぽつりぽつり話した。
休職期間中に、突発的に決めた旅行であること。
なぜヨーロッパ、フランス・イギリスなのかといえば、普段読書の中で親しんでいる街をこの目で見てみたかったという単純な理由、などなど。
そこへ花売りのおばさん登場。
Hさんは、赤い薔薇を一輪贈ってくださった。
男の人から花を贈られたのは生まれて初めてだ。
しかもパリで。
満腹になった私たちは、小雨まじりのシャンゼリゼ通りをぶらぶら散歩した。
樹木に絡んだイルミネーションや、まちの色とりどりの明かりが、雨にとけて、にじんで、それは幻想的な眺めだった。
地下鉄に乗せてもらい、Hさんとお別れ。
本当に楽しかったです。素直に告げた。
こうしてフランスの自由行動の長い1日が終わった。