1冬が近づいている。 遅く昇った朝陽が窓から射しこんでくる。雑巾をしぼった。桶の水は手を切るように冷たい。 ごしごし。拭き掃除はハーリの日課だ。まずは朝食後のテーブルまわり、それから椅子、窓板、窓枠、柱と順々に拭いていく。 ビシッ! 鋭い音がして、ハーリの尻に痛みがはしった。 「………………………………」 ハーリは寒さで感覚の鈍った爬虫類のようにのろのろと振り返る。 その顔には生気がない。眠いとか寒いというレベルではなく、根源のところで、人を活性化させるものを失ってしまっている。 視線の先には、赤い髪。細い鞭を手ににやにやしている邪悪な幼女、レンカ。小さな体に似合わぬ豊かなふくらみを持ち上げるようなかたちで腕組みして、ハーリが怒るのを待ち受けている。きらきらしている目は、弱い者いじめをする子供のまさにそれ。 しかし、肉体的にも年齢的にも自分の半分もない相手に、ハーリは尻尾をまいた犬のような目を向け、また拭き掃除に戻ってしまった。 レンカは拍子抜けしたように肩を落としたが、すぐにまた意地の悪い目つきをして、ハーリの肩やら頭やらを鞭でぴしぴし叩いて回る。 それでもハーリが無視していると、あきらめたか、腕組みして見守る姿勢に戻った。 ハーリは自動人形さながらに、無表情無感情に掃除を続ける。 「……はあ、下手だねえ、あんた」 レンカが、赤い髪の輪を揺らして歩み寄ってきた。 テーブルの隅につつうと指をはしらせる。 「埃が残ってる。やり直し」 「…………」 「なに、その目。おねーさまに、あんたの面倒はあたしが見るように言われてんのよ。だからあたしの命令は隊長の命令。隊長の命令はすなわちあたしたち秘密部隊の大事なお仕事。まさか反抗するわけじゃないわよね?」 「…………いえ…………」 答えるハーリの目つきはうつろだ。言われるままに、のろのろとテーブル掃除に戻る。 「うん、そうそう。それでこそ秘密部隊の隊員よ」 レンカがまたにやにやしながら言った。 ※この“あなぐら”での新しい生活が始まってからしばらく経った。 その間に、ハーリがそれまで信じていたものは一切合切破壊されてしまっていた。 真っ先に粉砕されたのは、やはり剣の腕への自負である。 初日、フィンが寝入ってしまった直後。 息を吹き返したカナンが房から飛び出してきた。 「むっ私はなにゆえこのような体勢でそうかあいつか気配も感じさせずに人の背後を取るとはまったくああいう時だけ動きが速いあれを普段から見せろある程度実力を誇示して周囲の余計な口出しを阻み最も望んでいるところである平穏安寧なる生活を保持するのも知恵というものだといつも私があれほど口をすっぱくしてむむっお前は誰だそうかハーリかハーリと言えば今回やってくる新入隊員と同じ名前だな何お前がハーリか本人かいつの間に現れたそれにしてもなかなかいい男ではないかいやいやそれはこの場合関係ない少年よ私は決してこの赤毛の化け物が言うような男ひでりの無節操尻軽女などではないのだ信じるなまあそれはいいとして早速腕を見せてもらおう外へ出ろ痛いようにはせぬお前の腕が悪ければ痛いと感じる暇さえなくあの世行きだからまあ心配するなわはははは」 ――――かくしてハーリは“あなぐら”の外へ引きずり出され、手合わせさせられる羽目になった。 カナンに続き、レンカ、マリエ、オグも連れ立って出てくる。 地面は固く、草一本生えていない。 何千、何万回と強く踏みしめられたからだということに、稽古用の剣を投げ渡されて初めてハーリは気付いた。 この空き地は、鍛錬場なのである。 俄然、燃えた。フィンに失望させられた反動で、いつになく凶猛な気分が芽生えていた。刃引きしていない、実戦用の剣でやりあってもいいとさえ思った。 まずはカナンが前に立つ。 愛用とおぼしき棒を手にしている。六角形で、鋼条を埋めこんで補強してある。相当の使い手であることは、ヤン一味を軽く片づけてしまったことでも明らかだ。 それでも……。 体格こそ自分より上でもそこはやはり女性、油断せず本気でかかれば、そうそうひけはとらないだろう。 そう思っていたハーリである。 しかし――――。 「では、参る」 あれほどしゃべりまくっていたカナンの口が、棒を構えた途端にぴたりと閉じた。 恐るべき迫力。どこにも隙がない。それどころか、向かい合っているだけで圧倒される。立っていることさえつらくなるほどの、凄まじい気が押し寄せてくる。 ハーリの満面がたちまち冷や汗に濡れた。 次の瞬間、手に鈍い痛みがはしり、握る剣が吹き飛ばされていた。 「ふむ。次はそちらから来い」 余裕しゃくしゃくで言われ、かっとなって、全力で打ちこんだ。 棒に受け止められる。つばぜり合いの状態。 ハーリは渾身の力をこめ……すぐに愕然となった。 動かない。 それどころか、じりじり押し返されてゆく。 ふっとカナンの力が抜けた。 ハーリがバランスを崩した一瞬、棒が鞭のようにくねってハーリの剣を巻きこんだ――――ように見えた。 何が起きたのかもわからないうちに衝撃を受け、目の前が暗くなり、気がつくと冷たいものに頬を押し当てていた。地べたに倒れているのだった。 カナンはすでに背を向けていた。 「よろしい。筋は悪くない。鍛えればそれなりのものにはなりそうだ。明日からみっちりしごいてやる」 完璧な敗北にショックを受ける暇もなく、続いてマリエが前に立つ。 魔法か。ハーリは緊張して身構えた。 魔導士相手の場合、とにかく気合いを充実させることだ。 魔法というのは、炎の魔法なら炎の神の力を、水の魔法なら水の神の力を現世にもたらす術である。 とは言え直接神から力をもらうわけではなく、大気に充満している精霊を操り、神の力を媒介させるのだ。 精霊とは神々のおわす天界と人間界の中間に属する存在であり、人間の感情にわずかながら影響を受ける。 つまり、こちらが気合いを充実させていれば、いくらかは魔法の効力を弱めることができる。 そうしておいて、魔法が効力を発揮するより早く踏みこみ、斬る。それが魔導士相手の場合のセオリーである。 しかし、マリエは魔法を使う気配は見せなかった。 しゃきんと鋭い音を立てて、腰の後ろにたずさえていた剣を抜く。 二本。短剣というよりはもう少し長い、真っ直ぐな刃の小剣だ。 左右に握ったそれを、体の前で十文字に組みあわせた。 「な…………」 赤青黄黒四色の髪と、頬の赤い刺青と、青い衣装と、ところどころにのぞいている白い肌と、きらめく刃と――――様々な色彩が渦を巻いて襲いかかってきた。 速い! はっとした次の瞬間には、ハーリの剣は跳ね飛ばされ、足を引っかけられて倒されて、喉にぴたりと冷たいものが押し当てられていた。 自分に馬乗りになっている艶麗な女体を、ハーリは信じられない思いで見上げた。 「やっぱり強いわね、あなた」 青い瞳が冷たく見下ろしてきた。 もちろん逆の意味。 魔導士に、剣で負けるなんて……! 「マリエは魔法だけでなく、体術も相当なものなのだぞ。……と言ってももう遅いか。油断したな、少年」 カナンの声が余計にハーリの胸を突き刺した。これが実戦だったら、マリエはこの体術に加えて魔法を用いてくる。自分が ずんと、地響きがした。 ――――オグ。 鍛えているハーリでも両手で、全力で持ち上げなければ扱えそうにない大剣を、片手で軽々と握っている。 異様なうなりが耳を叩いた。素振りしたのだ。細剣なみの速度だった。姿勢にまったく揺らぎがない。怪力なだけでなく、剣士としても凄腕であることが、その一振りだけでいやというほどわかった。 せめて一矢報いて、自分がそれなりのものであることを示したいと思うハーリだが、相手がこれでは、勝つどころか、五体満足ですむかどうかさえ怪しい。 (くそっ…………勝てるわけないよ、こんなの……) カナン、マリエと連続で女性に負けた気落ちもある。 かなわないのを承知で、やぶれかぶれで突っこんだ。 と、その瞬間、ハーリの全身を戦慄が貫いた。 ――――衛士隊に正式入隊する前、半年間の訓練期間。 時折、ジシュカ将軍はじめ、猛者ぞろいの幹部たちが調練の様子を見に来ることがあった。 大抵は全体の動きを見回しているだけだが、時には自ら剣を取り、新人の相手をする。天狗になっている新人は例外なく叩きのめされる。ハーリもそうだった。 そんな中――――今のハーリと同じように、最初からこれはかなうわけがないと、表情も態度もあきらめきって、無気力に剣を振り上げた訓練生がいた。 確か、あの時相手をしていたのはジシュカで―――― 訓練生の脳天にジシュカの剣が轟音上げて振り下ろされ…………訓練生は即死した。 「ブルンターク衛士隊員たるもの、最後の最後まであきらめるな、一瞬たりとも気を抜くな! 気を抜いて戦う者の末路がこれだ、忘れるな!」 怒号を浴びせられた新人たちは彫像のように固まったままで、次に動き出した時には、目の色が明らかに変わっていたものだ。 ――――その時見た赤いもの。その色、そのにおい……血と脳漿の色。死の気配をハーリは瞬時に感じ取った。 踏みこむ足を止め、文字通りの死力を尽くして防御の体勢を取る。 轟音。 ハーリは紙切れのように吹っ飛ばされた。 十回近く地面を転がり、大の字になって止まる。 …………気絶していたのはわずかな時間だったらしい。 目を覚ますと、空が見えた。青い。 赤いものがゆらめいた。 「おーい、生きてる?」 のぞきこんでいるレンカの髪。 「見込みはある。あれを受けられただけでも大したものだ」 オグに引っ張り起こされた。腕が脱臼しそうになった。この巨人は、片腕でハーリを頭上まで持ち上げることも簡単にやってのけるだろう。人間を相手にしている気がしなかった。 レンカが言ってくる。 「順番からいうと次はあたしだけど……どーする? まだやる?」 「う…………」 いくらなんでも、レンカのような小さな女の子に負けるはずはない。 だが、自信が持てない。 この隊の一員である以上、間違いなく恐るべき技倆を身につけているだろう。ヤン一味を相手にしたとき、一人はこのレンカが仕留めているのだ。 全身の痛みがひどくなってきた。自分はこんなに弱かったのか。情けない思いで胸がいっぱいになる。泣きたい思いにかられた。 立ちすくんでいたところへ―――― 「おねーさま!」 レンカが旋風のように背を向けた。 “あなぐら”の戸口に、あの黒い剣を手にしたフィンが姿を見せたのだった。 やっぱり眠そうではあるが、さすがに服を着て、靴を履いている。長い黒髪が重たげにぶらぶら揺れていた。 その姿を見た途端、消えかけていたハーリの胸の炎が、轟然と音を上げて燃え上がった。 「隊長! お相手お願いします!」 「………………」 薄ぼんやりとした黒瞳が、場をゆっくりと見回した。 状況を理解したのかどうかはわからないが、土まみれのハーリにじっと視線を注いでくる。 「お……お願いします」 その視線にひるみながらも、再度言った。 答えも待たずに前に出た。 フィンと直に手合わせしたい。やはり言葉ではなく、剣だ。自分が磨いてきたのは言葉の使い方ではなく、剣なのだ。剣を交えて、この五年間抱き続けてきた思いを伝えたい。 さっきははぐらかされてしまった。今度はそうはさせない。ハーリ・ミロシュという男がフィンの後を追ってきたのだと、はっきり知らしめたい。 自分は全然強くない。でも、それがなんだ。フィンに会わなければ、あの臆病で線の細い子供のままだった。元々素質などなかった子供が、彼女の前に、剣を握って立てるまでになったのだ。 今の自分の全てを見せたい。ハーリはその思いだけになった。 「お願いします!」 詰め寄る。ひどく挑戦的な顔つきになっていることが自分でもわかる。気合いが暴走しかけていた。握っている剣を、勢いまかせに黒い麗姿に叩きつけてしまいそう。いや……やろう。彼女ならいきなり斬りかかっても大丈夫なはず。自分が追い求めてきた剣の女神は、その程度でどうにかなる相手じゃない。信じている。 よし、まずは意表を突いて、下から薙ぎ上げて―――― 手首に力が入った瞬間。 視界の隅に赤いものがちらりと動いた。 (レンカ) 胸ぐらをつかまれ、天地がひっくり返った。 衝撃。見えるものが、空だけになる。仰向け。倒れている。投げられたと理解したのは数瞬たってから。 「このバカ…………何するつもりだったのよ」 ぞっとするような声音。 「あんた程度でおねーさまとやり合おうなんて千年早い。あたしたち全員に勝ってからにしな、役立たず!」 罵倒と共に、脇腹に爪先が蹴りこまれた。 狙いも、威力も、少女のものではなかった。硬い靴先が急所に正確にめりこんだ。 一瞬で意識が途絶えた。 2こうして、まずは腕力への自信を根こそぎにされたハーリである。 それに続いて、寄って立つ精神的基盤が突き崩された。 ハーリの新たな配属先、第一独立捜査小隊。 ここは普通の衛士にはできない任務を果たす、表には出ない、影の部隊。 ジシュカから聞かされたのはそういうものだ。ハーリもそのつもりでやってきた。覚悟も決めていた。小隊の面々の実力は身をもって知った。確かにケタ外れの凄腕ばかり。これなら納得だ。鍛えに鍛えて、自分も必ず追いついてみせる。影の衛士にふさわしい腕前になってやる。 だが、そのことを口にするなり、 「バカ」 とレンカに一刀両断された。 「いい、表…………悪者を取り囲んで、剣抜いて、斬り合って、片づけるって仕事やるには、とにかく腕っ節だけは強く、あまり物事を考えないで、上の命令を素直に聞ける人間が向いてる。つまりあんたみたいな単純バカ。衛士やってるやつなんて大抵そうよね。 でもね、裏…………悪者がどこにいるかを探し出したり、怪しいやつの後をつけたりする、地味で時間がかかって面白みもない仕事やるには、全然違う資質がいるわけ。強さはもちろん必要だけど、他にも観察力とか、記憶力とか、演技力とか、変装の技術とか、色々な特殊技能。 その中でも一番大事なのは、目立たないってことなの」 「目立たない」 「当たり前でしょ。衛士隊に目をつけられたって気付かれたら、どんな悪党だって隠れるか、逃げるかしちゃうに決まってる。気付かれないように近づけなきゃ意味ないのよ」 「なるほど……」 「感心してんじゃないの。だからバカって言ってんのよ」 「………………」 考えてみれば、確かにこの隊のメンバーは目立ちすぎる。 隊長、宵闇の女神フィン。 副隊長、おしゃべり長身美女カナン。 赤毛の美少女レンカ。 四色頭の魔導士マリエ。 巨体の超戦士オグ。 誰をとっても、一目見ただけで一生忘れられない個性的な面々ばかり。 これで隠密任務などできるわけがない。 「そーゆーこと。この程度のこと一々説明させないでよ、まったく。あたしたちが裏の仕事なんてしてるはずがないって、見ただけで察してほしいわね」 ぐうの音も出ない。 それにしても、どう見ても一桁台の年齢でこんなことを熟知しているレンカは、一体何者なのか……。 「で、でも、じゃあ…………ここは……どういう……?」 「あたしたち、衛士なんかじゃないわ。自分の好みでおねーさまにくっついて旅してきて、たまたま今ここに住んでるだけ。居候ってとこね」 「衛士じゃない……?」 ブルンターク衛士隊の一員であることを何よりの誇りにしていたハーリにとっては、その一言は強烈な衝撃だった。 「でも、カナンさんは……」 「制服着てるじゃないかって? あれはあいつの趣味よ、趣味」 「趣味?」 「あいつ、けっこう堅苦しい家の出身なもんで、てきとーな状態ってのは落ち着かないんだってさ。それで、ジシュカおじさまに制服もらって、あいつの頭の中だけ、あたしたちはこの街を守る名誉あるブルンターク衛士隊の一員ってことになってるの。あたしもマリエもオグもそんなつもりは全然ないけどね」 「じ、じゃあ、ぼくは……みんな衛士じゃなくて、ここも衛士隊じゃないなら、ぼくの身分は……?」 「衛士をクビになったってことでしょ」 「ク、クビ…………?」 足の下の床が崩れて、奈落の底に落ちてゆくような心地がした。 自分は腕を見込まれ、認められて、ここに配属されたのではなかったのか……? 「でも……ジシュカ閣下がぼくをここに…………辞令だって……」 「あれ、全文おじさまの手書きだったでしょ。正式な書類だったら秘書が書いて、印章とサインだけがおじさまのもののはず。つまりあんたがここに送りこまれてきたのはきちんとした人事手続きを踏んでのことじゃない。でもおじさまの意志であることには間違いない。おねーさまが面倒だって言ったのはそのあたりを察してのことなのよ。受け取ったところで気付きなよ、バカ」 ハーリの全身が冷たい汗にまみれた。 「ジ……ジシュカ閣下は、どうしてそんなことを……?」 「さあね」 レンカの返答はにべもなかった。 表情はそれ以上に冷たかった。 「そのくらい自分で考えな。あたしには大体察しがついてるけどね。ジシュカおじさまって、あんたらが思ってるよりずっと悪戯好きで、人が悪いんだよ。それを忘れないでいればそのうちわかるでしょ。わかんないならあんたはそこまでの人間だってこと」 「…………」 レンカの目が鋭くきらめいた。 「念のため、忠告しとく。ジシュカおじさまのところに押しかけてどーゆーつもりですかって訊いてみようなんて考えてんだったら、やめときな」 ぎくっとする。まさにその通りのことをするつもりだったからだ。 「どうせ途中で止められるだろうけど、もしそんなバカなことやったら、その程度のやつって思われて、この先一生浮かび上がれないで終わるよ」 それでもハーリは、その後ひそかに総本部の人事課事務室へ行き、隊員名簿の中の自分の履歴を確認してみた。 「ええっと、ハーリ・ミロシュ…………先月末日付けで罷免となっておりますね。罪状は……衛士隊誓約第四条違反」 危地にある仲間を見捨てた罪……だ。 ヤンを討ったのがフィンではなく衛士たちだとされたのと同じように、ハーリは殺される仲間を見捨てて一人逃げ出した臆病者だと……公的にそういう扱いにされているのだった。 受付の女性衛士は名簿を閉じると、汚らわしいものでも見るように眉をひそめ、虚脱しているハーリを丁重に部屋の外へ追い出した。 そして、フィンだ。 女神の素性。 「両親を失い、ジシュカ・シャファーリクの元に引き取られたのが十歳ぐらいの頃だったらしい」 教えてくれたのはカナンである。 「見てくれこそあの通り周囲から大きく抜きんでて優れていたものの、頭は悪い、不器用、怠け者と全然いい所がなくてな。……これは本人が言っているのだし、知り合ってから今日まで観察を続けた結果私もそうであろうと確信しているところであるからまず間違いないであろうが」 以下べらべらしゃべり続けた中から重要な部分を要約すると、 『けれどもひとつだけ、剣の腕に並はずれた そこでジシュカの秘蔵っ子としてひそかに、徹底的に鍛え上げられ、十七歳の時、初めて衛士として任務に出た』 ……どうやらそれが、ハーリの運命を決めたあの夜だったらしい。 『だが――――元々ひどい怠け者であるから、それから先、任務のほとんどをまともにこなせなかった。それで、諸国を巡って剣技を磨くという名目で旅に出された。厄介払いされたも同然だ。 私、レンカ、マリエ、オグと出会ったのはその旅の途中。皆それぞれの理由からフィンと同行するようになった。 ここブルンタークに戻ってきたのは昨年。 自分を厄介払いしたジシュカのところに意地もプライドもなく「伯父上、寝る場所をくれ」と転がりこみ、衛士隊総本部の一隅、この“あなぐら”を与えられ、居着いている。 さすがにまったく何もしないわけではなく、たまにジシュカに依頼されてその剣を振るうこともある。この間は依頼を受けて東の大国コーネリアに行き、戻ってきたところだった。依頼内容は私も知らぬ』 となると……ハーリは疑問をおぼえた。どうしてフィンはあの夜、あんなところで行き倒れていたのだろう? 激烈な言葉の奔流がわずかに途切れた隙をついて訊ねると、カナンはぴたりと言葉を切って、大きな大きなため息をついた。 「……途中で路銀を落としたそうだ」 「はあ…………」 「あちこちにいるブルンターク商人に頼んでいくらか都合してもらうなり、あの美貌と剣技を生かして一稼ぎするなり、いくらでも方法はあったはずなのだが…………面倒くさいと、ひたすらに歩き続ける方を選んだ。あの黒い剣を手放さなかったのだけはほめてやろう。伝説の魔剣という話だが、あいつは一国の運命を左右する手紙さえ平気で鼻をかむのに使いかねんからな。 で、ブルンタークにはたどりついたものの、夜の街中で、道に迷った。あいつの方向音痴ぶりは見た者でないと信じられんが、ここから一人でジシュカ将軍の所に行かせたら、多分この“あなぐら”には戻ってこられないだろう、そのくらいにひどい。ゆえに、夜の街で迷ったことに何の不思議もない。ついでに言うと、帰れないならそれでいい、とにかく暖かい所に潜りこんでのんびり寝ようと、本気でそう考えるやつだ」 「………………」 ヤン一味と対峙したあの時、現れたカナンが「保護者」と言った意味がようやく理解できた。 「で、でも…………ぼくを助けてくれたわけですし…………強いし……」 何とか弁護しようとしたハーリである。 そこへ、奥の方から、 「…………はらへった…………」 やっぱり下着姿でフィンがふらふら出てきた。 「おねーさま、ごはんの時間までもうちょっとですから、我慢してくださいな」 その日の食事当番で、エプロンをつけてかまどに向かっていたレンカが慌てて駆け寄り、きょろきょろする。 「ハーリ! あれ!」 怒鳴られ、ハーリは慌てて例のアメ玉袋を差し出した。 「はい、おねーさま、あ〜ん」 「あ〜ん」 エサをねだる小鳥みたいに口を開け、アメ玉を押し込まれると、もごもごやって、不機嫌そうだった眉がすとんと落ちた。 「じゃ、おとなしく待っててくださいね〜」 「ん…………」 赤ん坊みたいにつぶやいて、またふらふら奥へ戻ってゆく。 「……その…………ええと…………まあ、ああいうやつだ。がんばれ」 五年間憧れ続けてきた凛々しい女神像を完膚無きまでに破壊されて真っ白になったハーリに、さしものカナンもかけるべき言葉が見つからないようで、気の毒そうにそうつぶやくだけだった。 3その虚脱状態がそれ以来続いている。 剣の腕、戦士としての力量は皆に遠く及ばず。 衛士の身分は失われ、それどころかそれまでの友人たちにも蔑まれるような立場に落とされて。 ハーリを突き動かす最強の動機であったフィンは、女神どころか、万事いい加減な、ぐうたら者……。 もはやハーリを支えるものは何もないと言っていい。 「ほれ、掃除終わったら、外から薪持ってきといてね」 レンカに蹴り出された。 使用人さながらに扱われるのがかえってありがたい。することがあれば物事を考えなくてすむ。だから掃除も、繰り返されるいちゃもんつけも、全然苦にならなかった。 無表情のまま数回往復して、かまどの脇に薪の山を積み上げる。 「次は……?」 「ん〜、特にないわね」 珍しくレンカは表情をゆるめた。 「……あんた、頑張るねえ。すぐに嫌気がさして、逃げ出すだろうって思ってたのに」 「……………………」 どうでもよかった。それおり、次にやることを教えてほしかった。やることがないなら、またあの暗澹たる気分に戻らなければならない。 失意が顔に出たのだろうか。レンカはハーリを見上げ、何やら考える顔をした。 「そうね…………昼前だし、いいか。ちょいとお相手してもらおっかな」 「相手?」 「そう、これの」 レンカは握った両手を重ねた。剣を構える仕草だった。 “あなぐら”の前では、カナンが汗を飛び散らせて棒を猛然と振るっていた。オグも空き地の隅の方で、こちらは静かに、だが恐るべき筋力をこめて巨剣を素振りしている。 「ほれ、かかってきな」 稽古用の剣を押しつけられた。 見ればレンカは、いつの間に着こんだのか、白い上衣の上に、小さな体に合わせた胸甲をつけ、何やら丸板のような大きなものを背負っている。盾だろうか。 「よっこらせっ!」 肩越しに手をやり、かけ声と共に、抜いた。 ――――剣、だ。 剣ではある。 大きい。 剣というより、鋼で出来た大 ヤン一味と戦ったあの時、レンカが振り回していたのはこれだと気がついた。 しかし―――― 一応端に刃はついているようだが、果たしてそんなもので何が切れるというのか。そもそもレンカの体格でまともに扱えるのか。 「いくよっ! でやっ!」 ハーリが構えるのも待たず、大声をあげて打ちかかってきた。 重心が手元にあるらしく、その木の葉型の剣は、思っていたよりは速く動いた。でも、それだけだ。動作は大きいし、足運びはよたよたしている。気の強い女の子が棒きれを振りかざして闇雲に殴りかかってくるのと大差ない。 ハーリはたやすくかわした。やる気はなくともそのくらいは簡単だ。 「このっ、この、このっ!」 けっこう俊敏にレンカは攻撃を仕掛けてくるが、ハーリはこれも簡単によける。 「逃げるな、ほら、かかってきな!」 「う、うん……」 手加減した剣が木の葉型剣を叩いた。 「にゃんっ!」 それほど力も入っていなかったのに、レンカは変な悲鳴を上げて尻餅をついた。 唖然とした。この間は、不意を突かれたとはいえいとも簡単に投げられ、蹴り一発で失神させられた。どれほどの武芸が小さな体にひそんでいるかびくびくしていたのに、これではまるきり、見た目どおりの小さな女の子ではないか。 「やったな、このぉ!」 それからしばらく、むきになってかかってくるレンカをハーリはあしらい続けた。レンカは何度となく転がり、尻餅をつき、この間のハーリと逆に、真っ赤な髪も白いスカートも土まみれになった。 少女をいじめる趣味はないが、体に対して大きすぎる剣をめちゃくちゃに振り回すレンカを見ていると、少しだけ愉快な気分が芽生えた。 「やっと笑った」 「え?」 レンカは剣を地面に立て、にっこりする。 「まったく、ずっと暗い顔されててさ、鬱陶しくてたまんなかったのよね、あんた。役立たずでもいいからとにかく笑ってな。そうしてりゃ物事っていい方に転がってくもんよ」 「…………」 思いがけない暖かい言葉。 胸の奥に新鮮な風が吹きこんで、灰に埋もれて消えかけていた火がよみがえったような心地がした。 「さあ、もう一本、勝負よ! 勝ち逃げなんて許さないからね!」 レンカは服の土を払うと、また木の葉剣を持ち上げ、打ちかかってきた。 「よし…………来い!」 ハーリの体はそれまでとはうって変わって軽く動いた。右に左に動いてレンカを翻弄した。小さな胸甲の脇からのぞいている、体つきの割に大きなレンカの胸や、ひるがえるスカートからのぞく白いふくらはぎを鑑賞する余裕さえ出てきた。 「……まあ、この辺で勘弁しておいてあげるわ」 しばらくして、木の葉剣を杖にしてレンカは言った。大汗をかき、編んだ赤い髪は乱れ、肩で息をしている。 「あたしの勝ち」 「はいはい」 適当にあしらう。ハーリにとっては稽古というほどのものではなく、軽くじゃれあった程度だが、鬱屈していた気分がすっかり晴れていた。 「レンカ……」 「なに?」 「その…………ありがとう」 「ふん、あの程度で何を偉そうに。ああもう、すっかり汚れちゃったじゃない。まったく……」 ぶつぶつ言いながら“あなぐら”に戻ってゆくレンカに、ハーリも笑顔で続こうとした。 そこへ、 「待て」 見物していたカナンに止められた。 「これからレンカは服を着替えて汗をぬぐうのだぞ。遠慮しろ」 「あ」 「あたしなら構わないけどな」 レンカはころっと愛くるしい笑顔を作ってみせた。 「ハーリおにいちゃん、レンカの着替え、手伝ってえ♪」 「え、や、ぼくは…………その…………」 「きゃーっははは、赤くなってる赤くなってるハーリのすけべえ!」 レンカは遠慮なく大笑いしながら小屋の中に消えていった。 その仕草、表情は、間違いなく年齢相応の少女のものだった。ハーリはまた胸に涼しい風が吹きこんでくるような気分になった。 「で…………だ、少年」 扉が閉まったところで、カナンが声を低めて言ってきた。 ひどく真剣な顔だ。 「ひとつ言っておく。あまりレンカに心を許すな」 「は?」 きょとんとする。 「……どうしてです?」 「見た目にだまされるな。あいつは化け物だ」 「化け物?」 「正体は、私の口からは言えぬ。明かす必要が出てきた時、あいつが自分から教えてくれるだろうが…………うかつに近寄ると危険だということだけはおぼえておけ」 「はあ…………」 よくわからない。レンカが普通の子供ではないことはよくわかっているが…………化け物というのは? 「少年、気付いているか? 今の手合わせの間に、レンカには五回、お前を殺す機会があったのだぞ」 「五回…………え?」 自分よりちょっとだけ上にあるカナンの目を、ハーリはまじまじと見つめ、何度かまばたきした。 「その顔だとまったくわかっておらぬな。それがわかるようになったら、自然とあいつの正体もわかる。鍛錬するのだな」 「………………」 そういえば……。 あの夜。レンカはあの非実用的な木の葉剣を振り回してヤン一味と戦い、何がどうなったのかわからないうちに、間違いなく今のハーリより腕の立つ剣士を、あっさり倒していたのだ……。 頃合いを見計らって“あなぐら”に戻ると、レンカは髪から服からきちんと直し、一番奥のフィンの房、寝台の脇に座りこんでいた。 「はあ…………おねーさま、素敵…………」 フィンの寝顔にうっとりと見入っている。 その性癖はノーマルとは言えないにしても、お尻をぺたんと床について寝台に肘を乗せている愛らしい姿は、どう見ても化け物とは思えなかった。 |