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ぐうたら騎士伝





血の誓約(承前)



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「ハーリ、ちょっとつきあって」
 そんなことがあってから数日たったある日、レンカがいきなり言ってきた。
 有無を言う暇もなく引きずり出される。
 街にゆくらしい。

 衛士隊総本部の正面門ではなく、横手にある小さな通用門から外に出た。
「ここの門番さんだけはあたしたちのこと知ってるの。ここ以外から出入りしたら身分証明だのなんだの面倒なことになるから、なるべくしないように」
 なるほど、あれほどに目立つ面々がほとんど人目につかないでいたのはこのせいかと納得。

 石畳の道を並んで下ってゆく。
 ハーリは横を歩くレンカをしげしげと見下ろした。
 赤い髪を編んだ輪が、歩くに連れてぴょこぴょこと揺れている。
 ひだの多い白のスカート、あちこちフリルのついた水色の上着。その上から薄手のマントを羽織っている。裕福な商家の令嬢といった趣だ。
“あなぐら”にいる時とはまったく違う、最初に会った時ともまた違う、幼い顔立ちに似合わぬ色気を漂わせた、小悪魔的な微笑を浮かべている。道行く人みなが自然と目を寄せ、はっと我にかえって慌てて目をそらす。

 レンカはハーリの腕に腕をからめてきた。
「わっ!」
「いいからいいから。それともあたしとじゃいや?」
「べ、別に……いいけど……」
 ハーリの腕はかかえこまれる形になった。手首に胸の感触。わざと触れさせている。赤くなるのを面白がって、レンカはますます強くしがみついてきた。
 今でさえこれなら、あと数年たって十分に成長したあかつきには、流し目ひとつでどんな堅物でも道を誤らせることができるようになることだろう。
(そう言えば、いくつなんだ、レンカって?)
 気になっているが、わからない。小隊の誰も教えてくれないし、カナンの言葉が気になって、訊ねることもできないでいた。
 それはともかく……。

 この街で生まれ育ったハーリは、大抵の場所は知り尽くしており、少しくすんだ色合いの石材でできた建物がずらり連なる街並みを見ても、今更これといった感慨を抱くことはない。
 そのはずなのに……こうして可愛らしい赤毛の少女と腕を組んで歩いてゆくと、慣れ親しんでいるはずの景色が、まったく知らない彩りに満ちた、知らない街のもののように感じられてならなかった。
 この甘い気持ちは危険だと、あらためて自分に言い聞かせる。何と言っても相手は年端もいかぬ少女なのだ。
 だけど、あけすけな笑顔、この胸の感触は…………。
 それに何と言ってもレンカは、本性を見せさえしなければ、文句のつけようのない美少女なのだ。

「街に…………何の用?」
 次第に高まってゆく鼓動を悟られないように、固めの声でハーリは訊ねた。
「仕事なの?」

 第一独立捜査小隊――――“ぐうたら小隊”は、衛士隊の命令系統とは全然関係のない、総本部の片隅に住みついているだけの居候である。
 しかし、居候であっても、暮らしてゆくには金がいる。
 その金は、フィンの伯父ジシュカ将軍のポケットから出ている。
 あいにくというか、当然というか、それは無償ではなく――――ジシュカが言いつけてくる任務を果たしてはじめて、報奨金という形で支払われることになっているそうだ。先日フィンが東の大国コーネリアへ赴いていたのもその一環。何のことはない、歩合制で雇われる傭兵と同じようなものだ。
 ハーリはまだ、みなが“仕事”をする所を見たことがない。
“双つ角”のヤンを討ち果たしたことでかなりの額の報奨金が出たもので、しばらくのんびりするつもりらしい。
「ま、ここでもうひとつぐらいあたしが仕事引き受けて、ジシュカおじさまからたっぷりせしめておけば、当分の間おねーさまに楽させてあげられるんだけどね」
「じゃあ…………もしかして、これから…………?」
 喉が鳴った。ハーリたちは戦士。戦士の仕事とは、剣を振るうこと以外にない。つまり、血が流れる。
「まさか」
 と、レンカはあざ笑った。
「そうだったら、あんたみたいな役立たず連れてくわけないでしょ」
「…………」
 口ごもったハーリだったが、悲しいことに、罵倒されることにはもう慣れてしまっていた。
「じゃあ…………なに?」
「そのうちわかるって。うん、いい天気」
 レンカは上機嫌に空を見上げた。
 よく晴れているが、上空に強い風が吹いているらしく、切れ切れの筋雲が次から次へと形を変えていった。

 ブルンタークを南北に縦断する形で、大河ターフェル河が流れている。
 その河岸に出た。
 黒い水流がとうとうと流れている。
 ブルンタークは交易の一大拠点だ。東の大国コーネリアと西のシルドをつなぐ街道の要所にあり、このターフェル河を利用して運ばれる商品も多い。
 市内の各所に船着き場があり、繋留された船から各地の産物が続々と陸揚げされてくる。あるものは倉庫に納められ、あるものは即座に馬車に積み替えられて別の地に運ばれてゆく。その場で現物を披露し、小売り商人を集めて買い手を募る者も少なくない。競り合いの激しい声が飛び交っている。
 橋にさしかかった。アーチを八つ連ねた堂々たる石橋である。ブルンターク市内には、これを含めて大小五本の橋がかかっている。
 歩いてゆく途中で、丁度足の下を、櫂を連ねた川船がくぐり抜けていった。素晴らしいスピードで下流へ向かい、小さくなってゆく。ブルンターク市街を囲む城壁、その南側の水門をくぐると、そこから先はさすがに見えない。河口の港町ジリナまで行くのだろう。ハーリも衛士になる前、小遣い稼ぎと体を鍛えるのを兼ねて、櫓をこぐ仕事を数ヶ月やったことがある。初めて海を見たときの感動は今でも記憶に鮮やかに残っている。

 中央広場に来た。
 半分は市場だ。色とりどりに飾り立てられた露店が無数に並び、珍しいものを探して人々が集まってきて、にぎわっている。
 上機嫌に行き交う人の波を見ているうちに、ハーリも浮かれた気分になっては来たが――――人混みの中に深緑色の衛士の制服を見かけ、表情が硬くなった。
 ハーリも腰に剣を吊っているが、特に奇異の眼で見られることはない。人混みの中には、胸当てをつけ槍や斧、弓矢といった得物を携えている、物騒ないでたちの者もちらほら見受けられる。傭兵だ。
 都市国家が乱立しいさかいも多いダルキアでは、傭兵の需要がなくなることはない。ブルンタークには物産と一緒に各地の情報も集まってくるから、この辺りを旅する傭兵は必ずブルンタークに立ち寄って、どこかに戦のにおいがしないか訊ねて回るのである。
 もっとも、ダルキア全土でここしばらく平和が続いており、傭兵たちの顔つきはのんびりしていた。

「ねえ、レンカ…………そろそろ、用件を教えてくれないかな」
「知りたい? おにいちゃん?」
「おっ…………」
 甘ったるく呼ばれて絶句するハーリに、レンカはくるりと回って微笑んだ。その仕草はすっかり幼女のそれである。普段よりさらに幼く見える。
「教えてほしかったら、あれ買って」
 指さす先には焼き菓子の露店。子供、親子連れが群がっている。
 続いて飲み物を買わされた。
「あのな……」
「あっ、リボン屋みーっけ! おにいちゃん、はやくはやく!」
 レンカが駆け出してゆく。港街ジリナ経由で入ってきたコーネリア製の色とりどりの布地が屋台にずらりと並べられている。
「おお、可愛いお嬢ちゃんだねえ。兄妹かい? う〜ん、それにしちゃ似てないなあ」
 人の良さそうなリボン売りが笑顔で言ってきた。
「えへへ、このおにいちゃんね、あたしのゲボクなの!」
「へえ、そりゃ大したもんだ。その歳でもう男に貢がせてるなんてねえ」
「ミツガセルってなぁに?」
「喜んでお金を出させることさ」
「へえ。じゃあ、おにいちゃん、レンカにミツイでくれるよねえ? レンカはおにいちゃんがこれとこれ買ってくれたら、すんごく嬉しいんだけどなあ。おにいちゃんも、嬉しいよね?」
「……買うよ……買えばいいんだろ……」
 ハーリはげんなりして財布を取り出した。
「毎度あり」それから男は声をひそめて、「にいちゃん、女に貢ぐ時にそういう顔してちゃいけねえな。いい子じゃないか、ありゃすげえ美人になるぞ。今のうちからうまく飼い慣らしていくんだ。頑張れよ」
「はあ…………」
 一事が万事その調子で、ハーリはそれからも延々とレンカに振り回され続けた。持たされる荷物が次から次へと増えてゆき、通りすがりの女の子たちに指さして笑われるようになった。

 天頂にあった太陽が西に傾き、広場に長い影が伸びてくる。
 さすがにハーリも辛抱しきれなくなった。
「いい加減にしてくれ。まさか、買い物のためだけに付き合わせたわけじゃないだろ」
「そーだと言ったら?」
「帰る!」
「おにいちゃんのいじわるぅ」
「そんな顔したってダメ!」
「んじゃ、あとひとつだけ」
 レンカはあっさり言うと、飴売りの屋台に足を運んだ。
「これ、ちょうだい」
 ハーリははっとする。
 飴玉から、フィンを連想したからだ。
「…………」
 レンカが、それを察したようにうなずいた。
“幼女”の雰囲気が消えた。
「ま、そーゆーこと。落ちついてお話できる店、どっか知らない?」







 酒場の、窓際のテーブル席に向かい合って座る。
 酒場とはいってもまだ陽がある時間帯では健全なもので、頼めば酒は出るが酔っぱらいはほとんどおらず、酒場につきもののいかがわしい雰囲気などかけらもない。近郊の農村から出てきたらしい中年夫婦やら逢瀬を楽しんでいる少年少女やら、客層もきわめてまっとうだ。カウンター席ではマントをつけた旅人が笑顔で店のマスターと語らっている。コーネリアから新しい領事が来るとかなんとか、聞こえてくるのは気軽な世間話ばかりだ。
 いっぱいの買い物を脇に置き硬い表情をしているハーリと、足をぶらぶらさせてジュースを飲んでいるレンカ。はたから見ればわがままいっぱいに駆け回った金持ち家の女の子と、疲れ切ったそのお守り役といった図式である。

「……単刀直入に訊くけどさ」
 グラスを置いたレンカの目がきらっと光った。
「あんた、おねーさまのこと、どう思ってる?」
 返答に窮する。
 レンカは畳みかけてきた。
「あんたがおねーさまのことずっと追いかけてきたのは聞いた。おねーさまのこと、女神様みたいに思ってたってことも聞いた。んでもって、あのぐうたらぶり見てガックリきてるってのは、あんた見てればすぐわかる」
「…………」
「で、どう?」
「どうって……」
「ようやく巡り会ったおねーさまは、あんたが想像してたのとは全然違ってた。それで、二月ほど経って、大体見るべきものは見たと思うけど、今はどう思ってる? おねーさまのこと、嫌いになった?」
「それは……」

 ハーリはあらためて自分の心を探った。
 どうなのだろう。
 ハーリが思い描いていた、一生ついていきたいと願っていたフィンは、あんなぐうたらじゃなくて、もっとぴしっとして、どんなことでもてきぱきこなし、一軍の将に足る風格を備え、千軍万馬を率いるにふさわしい威風堂々たる戦女神だった。
 実際は、剣の技倆と美貌だけは確かに超絶的だが、それ以外はまるきり能なしだ。
 人の名前は覚えない、方向音痴、脱いだ服もまともにたためないとんでもない不器用で、しかもそれを克服しようとする意志が全然ない、筋金入りの怠け者――――だった。
 失望し、どん底まで落ちこんだのは確かだ。

 だけど。
 嫌い………………だろうか?

 今こうして思い返してみても…………。
 浮かんでくるのは、宵闇にたたずむ鮮麗な美貌。
(強くなれ)
(恩を受けた。返さねばならぬ)
 見惚れる、という。見て、惚れる。魂を奪われるというのはまさにあんな感じなのだろう。あの姿を脳裡に浮かべるだけで、どんな苦難も乗り越えられる気がする。フィンの正体を知った今でも変わらない。
 そして――――
(もごもご)
 アメを口に含み、頬を丸くして、目尻を垂れ下げ幸せそうにしている顔が脳裡にありありと浮かんだ。レンカよりずっと幼くすら見える、何の邪気もない、透明な笑顔。
 思いだした途端に、ハーリはおかしな動悸をおぼえる。
 くすぐったいような、切ないような…………身をよじり、胸の奥底にあるものを引っぱりだしてかきむしりたくなる、たまらない感覚。
 これを何と言えばいいのかハーリにはわからない。
 フィンのことをこんな風に感じるというのは、ハーリが望んでいたものではない。
 けれども…………悪くない。
 もっと強くこの感覚を味わっていたいとさえ思う。甘いものでもいい、お金でもいい、喜んでもらえる何かをフィンに差し出し、あのあどけない笑顔をもう一度見たい。

「嫌いじゃ…………ないと………………思う……」
 たっぷり時間をかけてから、待ち受けているレンカに、ハーリは控えめにそう告げた。
「そっか…………そうなんだ」
「うん。……思っていたのと全然違ったけど、考えてみれば、それってぼくが勝手に想像していただけで、それが実際と違うからって怒ったり、嫌いになったりするのは間違ってると思う。ぼくは自分の想像に憧れたんじゃなくて、実際にいたひとに憧れたんだから……。
 それに、どれだけぐうたらでも、すごく強くて、ぼくを二回も助けてくれたことは間違いないことだから…………恩返しをしたいし、ぼくもあんな風に強くなりたい」

 照れくさくなってうつむいた。
 何こっぱずかしいことぬかしてんのよ。そんな風にからかわれるかと思ったが、レンカはじっと押し黙ったまま。
 見つめる視線と目が合い、なぜかやけに気恥ずかしくなった。
 別種の動悸が湧き起こる。胸が熱くなるというより、下半身に響いてくるような高まりだ。
 十分に成熟した、大人の女性を前にしているような心地がした。

 レンカはハーリの動揺も見透かしたように、静かにうなずき、言った。
「――――よかった」
「な、なにが」
「あんたが思ったほどガキじゃなくて」
「ガキだったら……なんだっていうんだよ」
「あんた、いくつだっけ」
「……十七」
 それを聞き、レンカの口元がかすかにほころんだ。
「そのくらいだとさ、まわり見ないでひたすらに何かにのめりこむことができるけど……逆に、思うがままにならないことがちょっと出てきただけで、ころっと手の平返して、徹底的に嫌いになったりもするからね」
 またしても、ハーリは目の前にいるのが自分より年上の女性であるような錯覚にとらわれた。
 レンカの声音は低く、甘い。
「勝手におねーさまに惚れといて、今度は勝手に失望して嫌いになる。そんな自分勝手なクソガキだったら、あんたを追い出さなきゃならないとこだったわよ。合格。よかったわね」
「クソガキって……自分だって子供のくせに」
「あたしは子供じゃないわよ」
「子供だろ。ぼくより年下のくせに」
 言い返してから、気付いた。この流れなら、レンカの素性を聞き出すことができるかもしれない。
「大体、いくつなんだよ、レンカって。お父さんお母さんはどうしてるんだ?」
「――――カナンからなに聞いた?」
 レンカはしかしハーリの単純な誘導には乗らず、頬杖をついて面白そうに訊ね返してきた。
 ほっぺたが押し上げられて、丸っこい顔がさらに丸く、愛らしいことこの上ない。
 だが、その目は全然笑っていなかった。
 ハーリの全身に冷や汗がにじんだ。
「え……あ…………いや……別に…………」
「バカ。ウソ下手ねえ。どうせ、レンカには気をつけろとか、そんな感じでしょ。あいつの言いそうなことなんて全部わかってんのよ」
「…………」

「ま、ついでだから、ちょっと愚痴言わせてもらうわよ」
 と、レンカはまるでカナンのように話し出した。
「ここだけの話、あたしもおねーさまのぐうたらぶりには呆れてんのよね。放っておいたら本当に何もしない、着替えだってしないでずっと着たきり。第一なんで黒い服ばっかり着てると思うの。あれ、汚れが目立たなくていいからって、本当にそういう理由なのよ。いい年した女の考えじゃないっちゅーの。あんだけ美人なのに化粧どころか髪の手入れさえまともにしない、お風呂も面倒くさがる、ちょっと目を離すとすぐ寝ちゃう。宝の持ち腐れもいいとこよ。毎日毎日どれだけあたしがイライラしてるか! でももっと厄介なのは、あたしのそういう気持ちも、ちゃんとわかってんのよね。わかってて、それでもああしてぐうたらしてるわけ。ほんっとーーーーーーに憎たらしいったらありゃしない! ……それで憂さ晴らしにあんたを引っ張り出したわけ。ごめんね」
「はあ…………」
「でね、おねーさまときたら、…………」

 ハーリは目を丸くして聞き入るばかりだった。レンカの小さな口から、次から次へとフィンへの不満が噴き出してくる。
 レンカはフィンを崇拝し、全面肯定しているとばかり思っていたのに、どうやらまったく違うようだ。
 それで、訊いた。
「みんな、自分の意志で隊長にくっついてきたんだよね。だったら――――レンカは、どうして隊長と一緒にいるの?」

 すると…………。

「ふふっ」

 レンカは、笑った。
 大きな目に靄がかかった。
 いつも見せる冷笑でも、子供子供した満面の笑顔でもなく、表情全体が妖しく煙るような、ひどく官能的な微笑だった。
 ハーリはぞくりと震えた。
 直感する。これだ。これが素顔。
 豊かな感情表現の奥に隠している、レンカの本当の顔。

「約束、したの」

 薔薇色の唇がゆっくりと動く。
 またハーリは震える。
 何故だ。
 これは――――この感覚は、恐怖だ。
 レンカが怖い。こうやって向き合っているだけで全身の毛が逆立つ。本能が、今すぐ席を立って逃げ出せと叫んでいる。危ない。これは危険な生き物だ。

「や…………やくそく?」
「そう、約束。おねーさまとの、約束。それを果たすために、あたしはおねーさまと一緒にいる。その時まで、あたしはどんなことをしてもおねーさまを守る」

 舌がひらめいた。唇を舐める。異様に生々しい色合い。大きな瞳が底知れぬ不気味な光をたたえている。
 白い手が伸びてきた。
 幼女の、寸詰まりの指が、ハーリの頬に触れてくる。官能的な仕草でうごめき、くすぐる。

「ふふっ…………ハーリ、あんたは…………あたしの邪魔……する? してもいいのよ。そしたら、あたし、あんたを…………ふふ」

 頬をなで回される。  レンカの目は、ハーリを見ていない。ハーリの肌の内側にある、何かおぞましいものを、舌なめずりしながら見つめている。
 わけがわからないながら、戦慄が体の芯から全身に広がり、押さえられない震えが起こってきて、テーブルがかたかたと鳴った。

「やくそく………………って……?」
「――――」
 レンカは数回まばたきした。
 手が離れる。
 目を閉じ、一呼吸。
「ひ・み・つ」
 次に目を開いた時には、もういつも通りのレンカに戻っていた。
 ただの、底意地の悪い小さな女の子――だ。
 今の言葉は。約束とは。…………訊ねる勇気はハーリにはない。

「……なんか、雲出てきたね。雨降るかも」
 確かに、窓の外、見上げた空に、どす黒い雲がものすごい速さで広がってきていた。
「帰ろっか」
 レンカは返事も待たずに立ち上がった。
 そこへ。

「……少しよろしいかな?」
 壮年の男が声をかけてきた。







「あ……!」
 ハーリは相手の顔を見るなり、反射的に敬礼していた。
 知っている顔だった。
 ボフミル・ティルシュ。
 ブルンターク衛士隊第一大隊長。…………総隊長ジシュカ・シャファーリクに次ぐ実力者である。個人としての武勇はそれほどでもないが、戦場では実にねばり強く兵を動かすことで評価が高い。
 ひら衛士にすぎない……すぎなかったハーリにとっては雲の上の存在である。

 ハーリに向かって悠然と首を振った。この場で身分を明かすなという無言の命令だ。
 腰に剣を提げてはいるが、平服で、一見しただけではお偉方とはわからない。しかし素早く視線をはしらせると、店内には数人、明らかに彼の護衛とおぼしき男たちが散らばっている。威圧的な気配に、店の空気が明らかに変わっている。

「君たちに話がある。私と共に来てもらいたい」
「ここじゃだめ?」
 と、レンカがまったく憶した様子もなく言った。
「私は構わないが……君の方が困ると思うよ。“シア=ロス”のレンカ」
 その一言を聞いた途端、レンカの表情が険しくなった。
「どうしてそれを……」
「話を聞く気になってくれたかね?」
 ボフミルはしてやったりとばかりに微笑している。
「……いいわよ」
「シア=ロス?」
 ハーリはつぶやいた。突風を司る神の名である。
 するとレンカが言ってきた。
「ハーリ、先に帰って。……と言いたいけど、聞かれた以上、そうもいかなくなっちゃったね。あんたも来な」
 背筋が凍った。
 レンカの表情は、先ほど目の当たりにした、素顔だった。




 狭い路地の奥にある扉をくぐる。
 こんなところに店があるなんて知らなかった。明らかに、密談をするための場所だ。ボフミルの護衛たちがさりげなく路地入り口に立ち、余計な者が入って来ないようにしている。
 導かれた部屋には、二人分の酒食の準備が整えられていた。ボフミルは最初からレンカをここへ連れてくるつもりだったということだ。ボフミルの意図が全く読めず、胃が縮む。ハーリはボフミルから完全に無視されていたが、その方がありがたい。
「遠慮なくやってくれ」
「それより、さっさと用件を聞かせてほしいな。あたし、まだ用事あるんだからさ」
 赤い髪をぴょこぴょこ揺らすレンカの口ぶりに、ハーリははらはらした。ボフミルを怒らせたら、この場で捕らえられ牢獄に放りこまれてしまうかもしれない。
「用件というほどのものではないよ。君と――――“シア=ロス”とこうして話をしてみたかったというだけだ」
「懐かしいな、その呼び名。それ、どこで聞いたのか、教えてくれる?」
「こう見えても私にも色々と情報網があってね。君、いや君たち、独立捜査小隊なるものについても、恐らく君たちが思っている以上のことを知っている」
「へえ」
 レンカのその声音を聞いた途端、ハーリは心底ぞっとした。
 また本能が叫んでいた。逃げろと、この赤毛の生き物と一緒にいてはいけないと。ボフミルは、彼の護衛は、気づいていないのか。
 表情だけはにこやかなまま、レンカは訊ねる。
「でも……そんなこと知って、どうするの?」
「今は別に、ただこうして顔見知りになっておきたいだけだ。君たちが自分の意志で今の立場を選んでいる以上、私としてはそれを尊重するよ。
 だが……これはおぼえておいてほしい。私は、君たちのことを、非常に高く評価している。総隊長殿は君たちを私兵のように扱っているが、それは間違いだ。君たちはもっとその能力を存分に発揮できる場を与えられるべきだと思っている」
「能力…………?」
 思わずハーリはつぶやいた。
 するとボフミルは、ハーリがそこにいることに初めて気がついたような顔をした。
「おや、一応仲間になったというのに、知らされていないのか」
 ものを持っている者が持っていない者へくれてやる時の、高慢な目つき。
「では、そのお嬢さんが本当は君より年上で、かつてはシルドで『突風シア=ロス』と呼ばれ恐れられた暗殺者であったことも知らないのかね」
「え……」
 はっとレンカに目を向ける。
 レンカはしれっとして果物をぱくついている。
「その手にかかった者は百人ではきかぬと言われている。風のように襲いかかり、通り過ぎた後には死体だけが残る。名うての犯罪者組織が育て上げた、至宝と言ってもいいほどの殺し屋なのだよ。それがどうしてこんな所で逼塞ひっそくしているのか。勿体ないとは思わないか。その能力は有効に活用されるべきだ。そうだろう?」
 ボフミルはまたぞろハーリを無視し、熱っぽくレンカに語りかけた。
「もしその気があるのなら、私には君を引き立てる準備がある。それぞれくせ者ぞろいの独立小隊の中でも、私は君を一番評価しているのだよ。そのことをおぼえておいてくれ」
「りょーかい」
 レンカは言うなり立ち上がった。
「話はそれだけね。じゃ、帰らせてもらうわ。雨降ってきそうだし」
 ボフミルはわずかに鼻白んだが、怒りをあらわにすることはなく、鷹揚にうなずいた。
「そうか。……ではまた、いずれ」
「ハーリ、帰ろ」
 レンカはボフミルをまったく無視して背を向けた。
 ハーリは慌ててボフミルに一礼し、荷物をかかえて後を追った。







 レンカは路地をすたすた歩いてゆく。
「ども。お疲れさん」
 護衛たちににこやかに手を振る。どうやら彼らはボフミルの目的を知らされていないようで、油断はないが、レンカを見る目には明らかな困惑があった。

 空は先ほどまでの晴天が嘘のようにどんより厚い雲に覆われている。遠雷がかすかに聞こえてきた。
「こりゃ、来るね。急ご」
 広場では、一雨来そうとわかって、露店が片端から店を畳みにかかっている。
 橋にさしかかったところで、ぽつりと来た。
 数条の白線が降り注いできたかと思うと、すぐに篠突く雨となる。
 街は水煙に包まれ、人の姿はたちまち絶えた。

「そこ!」
 頭をかかえて走るレンカが、とある軒先を指さした。
 二階にテラスが張り出していて、格好の雨宿り場所となっている。
 両脇にかかえた荷物を置いて息をついた。

 石畳を飛沫が叩いている。わずかに赤っぽい石の表面を洗った水は、街路の脇に刻まれている排水溝に流れこみ、やがてターフェル河へ合流する。この季節の雨は降るたびに地面から熱を奪い、秋を冬へと押しやってゆく。
「雲足が速いから、もうちょっとしたら止むよ。そしたら帰ろ」
「そう…………だね……」
 それからしばらく、どちらも無言。
「…………」
 気がつくとレンカを見つめていた。
 レンカもハーリの視線に気付いているようだ。
 振り向かず、路面に目を向けたまま、言ってきた。

「…………知られちゃったか」
「レンカ、君……年上?」
「はは、そっちの方が気になるの? あんたらしい」
「暗殺者ってのは……」
「全部、ホントのことだよ」
「…………」
「まだ教える気はなかったんだけどさ…………あそこで何も言わないで帰したら、あんた、“突風シア=ロス”について調べるでしょ? 今のあんたじゃ無理だと思うけど、もしかしたらあたしの正体にたどりつくかもしれない。そうでなくても、調べる途中で“突風”の名前をあちこちに広めてしまうのは確か。
 そうなったら、あんたはもちろん、その名を知った人間全員――――殺さなきゃならなくなる」

 雨が強くなった。

「だから、あんたをつき合わせたの。勝手に探られるくらいなら、あたしから知らせた方がまだましだから」
「…………」
「今のあんたにはまだ早いと思ってた。あんた、何にも知らないもの。もっと強くなって、色々なこと知って、知るべきこととそうでないことの区別ができるようになってから、裏の世界に踏み込んできて…………それであたし、レンカ・シア=ロス・ドゥルイード・シェリクフィンゼルの名前にたどりつくなら、どうこう言う気はなかった。
 でも、あのバカ、あんなところで思いきりばらしてくれちゃって…………まったく、これだから田舎者は嫌い」
「バカって…………ボフミル閣下のこと?」
 レンカはあざけるように鼻を鳴らす。
「あいつ、ジシュカおじさまの後釜狙ってんのよ。見え見え。それであたしたちを取りこもうとしてるわけ。真っ先にあたしに目をつけたのもまあ当然ね。仮想敵がジシュカおじさまなら、オグやカナンよりあたしの方が役に立つもの」
「あ……暗殺?」
「そう」
 赤い髪が動いた。
 振り仰いできた表情には、笑みのかけらもない。

「あいつの言ったこと、全部本当。
 あたしはね、生まれた時から暗殺者として育てられたの。おもちゃの代わりに凶器。遊びの代わりに殺しの稽古。寝る前に聞かされる昔話の代わりに、人体の構造と人間心理の解説。人を殺すことなんて何とも思ってない。今もそう。弟がいたけど、あたしが殺した。顔もおぼえてない。初めて人を殺したのは…………五歳だったかな」
 絶句するハーリに、レンカは腕を広げて体を見せつけた。
「あたしの体。小さい方が忍びこむには便利。子供の外見なら相手を油断させやすいってのもある。だから、成長止めてるの。あんたより年上ってのも本当よ」
「…………」
「本当に、あいつ、よく調べたもんだわ。“突風”を知ってそうなやつは残らず片づけたはずだったんだけど…………誰か生き残ってたのね」
 その言葉に含まれる恐ろしい意味。
「片づけたって……?」
 レンカはその問いには直接答えず、遠回しに語りはじめた。
「……おねーさまと初めて会ったのは、三年前。仕事終えて、引き上げようとしたところで、見られたの」
 ハーリは何となく、自分の時と同じように、その時のフィンは路地裏に座りこんでうたたねしていたんじゃないかなと想像した。
「それで、消そうとした。だけど、失敗した。殺すどころか、こっちが殺されそうになって、逃げるしかできなかった。
 悔しかった。
 初めてだった、そんな感情。
 それで、まだ街にいたおねーさまを、もう一回襲った。
 だけど…………また負けた。手も足も出なかった。
 それで、ついていくことにしたの」
 レンカはちょっと言葉を切り、にっと、あの妖しい笑みを浮かべた。
「あたし、いつか必ず、おねーさまを殺すつもり」
「なっ…………!」
「それ、言ったのよ、おねーさまに。そしたら、『好きにしろ』だって。隙があったらいつでもいいって。
 どうせ人は死ぬ、私もいずれ死ぬ。でも痛いの、苦しいのはいやだし、今すぐ死にたいわけでもない。自分でも気がつかないうちに死んでいるというのが一番いい。だからそうしてくれ、だって。
 …………馬鹿にしてるわ」
 そう言いながら、レンカはどこか楽しそうだった。
 羽織っていたマントを開いてみせる。
 黒いものが縫いつけられていた。
 革のケース。収められているのは、指の長さほどのナイフだ。投擲用のもの。すぐに抜き出せるようになっているものが、五本。
「ほい」
 かけ声と共に、その中の一本が消え失せた。
「あれっ?」
 レンカが指さす先を見る。石畳の隙間にナイフが突き立っていた。
 いつ抜き、投げたのか。見ていたはずなのにわからなかった。
 レンカは雨の中に出て行ってナイフを抜き取った。
 ようやく理解できた。
 あの非実用的な、身の丈ほどもある木の葉型の剣は、目くらましのためのものなのだ。
 あれを振り回し、よたよたすることで相手を油断させ、その陰から神速のナイフを飛ばすのがレンカの戦い方だ。
 ヤンの部下はそれで倒した。カナンが言った、自分が五回殺されているというのも同じこと。
 レンカはナイフをもてあそびながら、世間話のように続けた。
「で、あたしはおねーさまについていくことに決めたわけ。そしたら、組織のみんなに止められた。振り切って逃げてもどうせ追ってくるわ。それが掟。あたしも、逃げたやつを追って、五日間かけて切り刻んだことがある。追われるのは追うのよりずっときつい。だから――――あたしの邪魔しないように、これでみんな殺してやったのよ。仲間も、弟も、頭目も、育ててくれた連中も、全員」
「な…………」
 ようやくすべてがつながった。
 レンカ。シア=ロス。暗殺者。ナイフ。……切れ味鋭そうな、その刃。
 自分の欲望のためだけに、自分につながるあらゆる人間を殺してきた少女。
 これからも、誰であってもためらわずに殺すのだろう。
「…………さて、あんたはどうしようかな」
 舌なめずり。
 ハーリがその瞬間感じたのは、殺気どころではない、鬼気だった。
「ひっ……」
 ハーリは動けなくなった。逃げようとした途端に、体のどこかにナイフが突き刺さるに違いない。足の甲。股間。腹。首筋。眼球。――――それから、ハーリは解体される。誰なのかわからないように、徹底的にばらばらに。雨が血を洗い流してくれる。排水溝は薄赤く染まり、ターフェル河に赤い汚水が流れこむ。
「ふふっ、そんな顔しないの。何もしないわよ。…………あんたが余計なこと言わない限り、ね」
「…………」
「今の話、誰かに言うつもりなんてないわよね?」
 ハーリは首を猛烈に振った。骨がおかしくなってしまいそうなほどに振りたくった。
「よろしい」
 レンカは腰に手を当てうなずくと、身を乗り出して雨天を見上げた。
「もうちょっとで止みそうね。…………」
妙な沈黙。
 それから言った。

「……やっぱり、今のうちよね」

 くるっとハーリに向き直る。
「雨やんだら、先に帰って。買い物濡らしちゃだめよ。
 あたしは――――忘れ物思いだしたから」
 言うなり、雨の中に駆け出していった。
 元来た方へ突っ走ってゆく。
 すぐに小さな姿は雨煙の彼方に消えた。

“忘れ物”。
 それが何なのか、ハーリはおおむね察することはできたが、恐ろしくて意識の表層にはのぼせず、ひたすら雨が止むことだけを願っていた。






 雨は上がり、重たい湿気を含んだ空を鈍い赤に染めて日が沈みゆき、夕食どきとなった。

 五人が“あなぐら”のテーブルについた。フィン、マリエ、オグ、ハーリ。
 そしてレンカ。
 いつの間にか戻ってきていて、何事もなかったような顔でフィンの給仕役を務めている。

「大変だ」
 カナンが飛びこんできた。
「ボフミル・ティルシュ第一大隊長が殺されたそうだぞ。南水門で、流れてきた死体が見つかったらしい。死因は刺殺。首筋に短刀で刺した痕があったとか。今あちこちで大騒ぎになっている」
 ハーリの血の気が一気に引いた。
「へえ」
 とレンカはまったく興味なさそうに言う。
 それまでの衛士隊上層部の確執とボフミル暗殺についての自分の見解を猛烈に喋り続けるカナンを止めもせず、幼児に食事させる母親みたいにフィンに寄り添っている。

 ……ふと、ハーリと視線を合わせた。
 その目に妙な光がよぎると――――上着の合わせ目を、ハーリにだけ見えるようにちらりと開いた。
 一瞬だったが、はっきり見えた。
 ナイフケース。
 ――――収められているナイフの数は、一本減って、四本だった。



 夜、ハーリは眠れなかった。
 気配を感じ、音を殺して房を出る。

 一番奥、フィンの房から灯りが漏れていた。
 忍びよると、ごくごくかすかなつぶやきが聞こえてくる。
 レンカだ。
 カーテンが少し開いていて、見えた。
 寝台に眠るフィンの枕元にいつもと同じように座りこんでいる。
 蝋燭の炎が、整った横顔に不気味な陰翳を刻んでいた。
 血の色の髪は編まないで背中に長く流されている。
 その手にはナイフがある。鋭い先端が、小さな灯火を映して星のようにきらめいている。肌を裂き、肉を断つための、手練の道具。
 ハーリに気づかないはずがないのに、まったく無視して、恍惚とつぶやく。
「あぁ……素敵……。
 おねーさまの命はあたしのもの…………この寝顔はあたしだけのもの。こんな無防備な姿、見ていいのはあたしだけ。誰にも渡さない…………おねーさまを殺すのはあたし。おねーさまの肌…………おねーさまの血、おねーさまの肉…………骨…………内臓…………きっと、すごくきれい…………ああ…………たまらない…………見たい…………」

 震えがはしり、ハーリは自分の房に逃げ帰った。
 とろけるようなおぞましい声は、いつまでもハーリの脳内でこだまし続けていた。


続く




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