1朝食後、ハーリはすぐに外に出て剣の素振りをはじめた。 レンカと同じ場所にいることに気後れしてしまう。雑用を言いつけられてもこれまでと同じように接することができそうにない。 「おっ、やる気になったか、少年」 カナンが寄ってきた。得意の棒を手にしている。 「落ちこむ一方だから心配していたが、復活したようだな。よしよし。とにかく体を動かすのが心身の健康には一番だ」 棒を振るう。風切音が耳を打った。まったく力みがなく、それでいて棒の先から峻烈な気がほとばしっている。 見とれたハーリは、思わず口にしていた。 「……カナンさんは、レンカが怖くないんですか?」 「む」 カナンは、一瞬だけ鋭くハーリを見た。 その目つきで、自分が重大な秘密を明かしてしまったのだと気がついた。レンカに口封じで殺されるかもしれない。血の気が引く。 するとカナンが、ふうとため息をついて、緊張を解いた。 「なんだ、知ってしまったのか」 「あ、あの、このことは、誰にも…………」 「みなまで言わずともよい。わかっている、私たち相手なら大丈夫だ。ただし、他の者に口走った時は、私でも一切手助けはできぬぞ。それにここだからまだいいが、他の場所で明かした時は、私でもその場でお前を処分しなければならぬ。心しておくのだな」 「う…………気をつけます……」 「それで。お前が知ったことを話してみろ」 「………………」 ためらいつつ、見聞きしたことを話す。ボフミル大隊長殺しの犯人がレンカであろうことは言わなかったが、カナンの方で察したようだった。 「やけにレンカを避けていると思ったら、なるほどな。あいつなら確かにやるだろう」 「ぼくが殺されるならまだいいです……下っ端だし、役に立たないし…………。 それより、その………………隊長は………………隊長の方こそ、大丈夫なんでしょうか」 「フィンのやつが、か。ふむ」 カナンは、何から話したものかと迷うように、凛々しい美貌を傾けた。 「まあ…………その件に関しては、あまり気にするな、とだけ言っておこう」 「気にするなって言っても! あの気配は、本気でしたよ! 本気で、隊長を切り裂いて、ばらばらにしたがって……!」 「レンカが変態だということは私も認めるが」 悠長に言われて、ハーリはかっとなった。 「なんでそんなにのんびりしてられるんです!? 隊長が危ないって言うのに! 見たんですよ、すごい目つきで、刃物持って、隊長の枕元でぶつぶつ言ってるとこ!」 「落ちつけ、少年。私は、お前よりはもう少し、あいつとフィンのことを知っている。その私が言うのだ。聞け」 「………………」 「レンカは確かに本気だ。それは間違いない。あの殺気は本物だ」 「だったら!」 「落ちつけと言っただろう。人の話は最後まで聞け。私は決してお前にとって無益なことをのべつまくなしにしゃべり続けて時間を浪費するつもりはないのだから、私の話をきちんと聞いて正しい知識と認識を得た上であらためて自分の取るべき行動を決定するのが結果的には最も早く確実な方法と言うものであろう」 ハーリは押し黙る。このままだとカナンの恐るべき言葉の洪水があふれてくる。棒を握っている限りカナンとは会話が成立するが、それも時によりけりなのだ。 「で、だ。 いいか、少年。お前はひとつ、大事なことを忘れている」 「なんです?」 「レンカは確かに化け物だが、レンカを化け物とするなら、フィンのやつはそれ以上の大化け物なのだよ」 「隊長が…………ですか?」 「お前にとっては違うようだが、私から見れば、レンカよりもフィンの方がよっぽどたちが悪い」 「隊長の方が…………って…………?」 「己の変態性欲と暗殺者としての誇りの両面からやる気満々になっているあのレンカが、出会ってから三年間、今日までまったく手を出せないでいる。どうしてだと思う?」 「やっぱり…………レンカが、隊長のこと、本当は好きになってて、殺せなくなって…………」 「若いな。人間についての知識がまだまだ浅いぞ、少年。好きだからこそ殺す、殺すことこそ愛の証。そのような、一般の基準とは違う愛情表現を行う人間というものもこの世には存在するということをおぼえておくといい」 「…………」 「レンカは本物の殺人淫楽症だ。私も人を殺すが、あくまで武人として、だ。敵なら容赦なく倒すが、そうでない相手の命を絶ちたいわけではない。けれどもレンカは違う。やつは、相手が無抵抗であろうが何であろうが、人を殺すことに対してひとかけらの禁忌も持ち合わせていない。 では何故、フィンは今日まで生きながらえているのか」 「わ…………わかりません…………」 「隙が、ないんだよ」 カナンは困ったように言った。 「は?」 「だから、隙がないんだ。あの二人が出会った時の話は聞いただろう? フィンのやつは『気づかれないように』自分を殺すならいいと言い、レンカはそれを受けた」 「はい」 「まともじゃない」 否定できないハーリである。 「夜が来る。レンカはフィンの寝顔を見つめ、手にした刃を振りかぶる。もちろん殺気は極限まで抑え、気配もほとんど消している。大抵の者は、何が起きたかさえ気づかずに刃を突き立てられておしまいだ。 だが、刃が迫った瞬間――――フィンは目を開けるんだ。 どれほど隠密に、あるいは迅速に事を運ぼうとしても、必ず気づく。寝ていたら目が開く。後ろを向いていたら振り向く。毒を盛れば勘づく。どれほど秘術を尽くしても駄目らしい。殺すだけなら簡単らしいが、気づかれずにという約束をしてしまった以上、レンカは気づかれたところで手を止めるしかない」 「そんなことが…………あるんですか…………?」 「信じがたいのはわかるが、現にフィンがああしてぴんぴんしている以上、信じるしかない。フィンを観察していると心当たるところもある。 私が化け物と言ったのはそういうことだ。わかったか?」 「………………」 「化け物同士だ、放っておけ。そもそも、今のお前にはあの二人をどうこうする力がない」 「う…………」 「わかったら、稽古を続けろ」 カナンは言って、棒を振るった。 轟音を感じた次の瞬間には、眉間にぴたりと棒の先端が突きつけられていた。 鋼をはめこんで強化してある六角棒。冷たいものが脳天に食いこんでくる。ハーリは極端な寄り目になり、数回まばたきしてから、どっと汗を噴き出した。 「いついかなる時でも、誰が相手でも、油断するな」 カナンは棒の向こうで微笑した。 不意打ちで、胸が大きく高鳴る。 ハーリよりも背が高く、立ち居振る舞いはまるきり武人のそれであるが、カナンもやはり美女なのだ。 「少年。怖がりたくなければ、早く強くなるのだな。強くなっても怖いものは怖いが、恐怖とのつきあい方がわかってくる。それを身につけることこそが鍛練の真の目的と言ってもいい」 「は、はい……」 「顔が赤いぞ。この程度でそんなに驚いたか。未熟者め」 「いえ、こ、これは……」 「まあいい。ではまず、素振り千回! これまでの怠慢でゆるんだ体を引き締めるのだ。はじめ!」 ハーリは猛然と剣を振るった。 落ちこんでいた間、鍛練は怠り気味だった。体がなまっていることがはっきりわかる。レンカの件ですくみ気味だった心も、カナンの激励でよみがえった。初心に戻って素振りを繰り返す。 「振りが鈍くなってきているぞ! 気を抜くな!」 慌ててハーリは全身に力を入れた。 「力むのではない。集中するのだ。漫然と数をこなせばいいわけではない。気の抜けた素振りなど何千回やったところで、一振り一振りに真剣な気迫のこもった百回の素振りに劣る。己の体の動きを自覚しつつ、目の前にいる敵へ刃をくいこませる覚悟と共に、この一振りが自分の力量を上げてゆくのだと心から信じて振るうのだ」 「はいっ!」 「まだ鈍い! 一振りごとに、目の前に敵がいて、その脳天に向けて叩きつけるところを思い浮かべろ。すぐに気が抜けるようなら、お前には武の才能がないということだ。強くなるにはそれなりの代償が必要だ。運命神エル=ムの天秤皿に、お前の命を乗せろ。乗せた命に見合っただけの強さをエル=ムはくださる。乗せれば乗せるだけ強くなる。強くなりたいのなら、それにふさわしいものを乗せる以外に途はない!」 ハーリは、先日のヤン一味を思い浮かべた。あの時感じた恐怖、相手の動き、フィンに助けられてしまった屈辱。自然、素振りに力がこもる。全神経を集中しての素振りは、体力の消耗がきわめて大きい。すぐに苦しくなる。だがやめるわけにはいかない。強くならねばならない。もう二度とあんな恥辱は受けたくない。 カナンは満足げにうなずくと、並んで自分の得物を素振りしはじめた。 今カナンが握っているのは、棒ではなく、剣である。カナンは剣や弓、素手での格闘も相当にこなす。すべてにおいてハーリは歯が立たない。単純な腕力さえ、筋肉量では勝っているはずなのに、劣る。 女性に武芸を教わることについては、元々フィンに憧れて強くなろうと思いたったハーリにとってはまったく抵抗がない。 それでもやはり、手も足も出ないというのは悔しい。自分が大汗を流しているというのに、同じペースで稽古を続けているカナンは涼しい顔というのも業腹だ。 「遅い! 気を抜くなと、何度言えばわかる!」 「はいっ!」 しかしここまで地力の違いを見せつけられると、何ひとつ文句は言えず、従うより他にない。 基礎訓練が一段落したところで、向かい合っての稽古に入る。 そこからが地獄だった。 「ゆくぞ!」 カナンは手加減しているのだろうが、それでも容赦なく叩きのめされ、打ちのめされ、何度も地べたに這った。 「安心しろ、マリエがすぐに治してくれる。彼女の治癒魔法は強力だ。死にさえしなければまず大抵の怪我は何とかなる。もっとも彼女が所用で留守にしていたらどうなるかはわからぬが、とりあえず今日は用事はなかったはずだ。気まぐれでふらっとどこかへ行ってしまうこともあるから確証は持てぬが、なにその場合でもせいぜい半日地獄の苦しみを味わえばいいだけだから安心しろ」 カナンがしゃべり終えると同時に打ちこんできた棒の一撃で、ハーリの右腕はぽっきり折れた。 「ぐああああっ!」 「生死を分けるのは、そこからどれだけ踏ん張れるかだ」 脂汗を噴くハーリに、カナンはさらに攻撃をしかけてくる。肋骨が砕け、耳がちぎれかけた。カナンの顔が悪鬼に見えた。なまじ顔立ちがすばらしく整っていて、しかも特に感情をあらわしていないだけに、冷酷無惨ぶりが倍増して感じられる。 意識が飛び、気がつくと、マリエがかがみこんでいた。四色に染め分けられたその髪が、これほど美しく見えたことはなかった。 治癒魔法は体内の生命力を強引に引き出して傷を治す。したがって怪我は元通りになっても体力は著しく消耗している。ハーリは立ち上がるのもやっとという状態に陥ったが、そのままさらに稽古を続けさせられた。 次第に自分が立っているのかどうかさえわからなくなり、やがて完全に意識が途絶えた。 2そんな稽古が何日も続いた。 その日も、陽が傾きカナンが今日の稽古はここまでと宣言するまでに、ハーリは三回反吐を吐き、五回気絶し、体に十数本のアザを刻まれていた。マリエが留守にしていたので厄介な怪我は負わされていないが、それだけに意識を失うこともできずに、呻きながら苦痛に耐えるしかないのがつらい。 指一本動かせずに地べたに横たわる。夕暮れの空は怖いくらいに赤い。血の色だ。 全身、至るところがじんじんうずく。内出血しているのだろう。熱も出ている。汗と、気絶した時にぶっかけられた水で服はびしょ濡れ。風に冷えて気持ちいいことだけが救いだ。 「言っておくが、私はこれでも随分優しくしているのだぞ。オグが相手でないだけましだと思え」 言いながらカナンは棒を素振りした。延々体を動かした後だというのに少しも疲れた様子がない。これも一種の化け物だとハーリは内心呻く。 いや、カナンだけじゃない。マリエもオグも、レンカも、この隊の連中はみんな化け物だ。 負けてたまるかと思った。自分も必ず肩を並べてみせる。 だけど、体が動かない。指一本動かせない。人間、気合いだけではどうしようもないことがある。こうしてものを考えていられるだけでも、自分はまだましなのだろう。衛士隊では、訓練中に体力の限界に達して、倒れたまま動かなくなった新人を何人も見た。すでに心が先に死んでいて、あらゆる生気を失った、ガラス玉のような目をしていたものだ。 「それにしても、思っていた以上に頑張るものだな、少年」 カナンが嬉しそうな顔で見下ろしてきた。 「正直、途中で逃げ出すものとばかり思っていた。見くびっていたかな。すまぬ」 「逃げても…………衛士クビになってるぼくに、行くところなんてありませんから…………」 「家は。親がいるのだろう?」 「兄がいますし…………それに…………」 憧れの人はそこにはいない。 「む。少し、悔しいかな」 「?」 「フィンのことを考えていただろう?」 「う」 「赤くなるだけの元気はあるのだな」 「いや、その」 「ふむ…………」 と、カナンは考えこむ素振りを見せた。 「前から訊きたかったのだが…………あんなぐうたらの、どこがいいのだ? やはり見た目か? それとも剣の腕か? あるいはもしかして、お前はあのぐうたらぶりをたまらないと感じる、千に一人万に一人の変わり者なのか」 「……ぼくにもわかりません」 ハーリは正直に答えた。 自分の心を確かめながら、言葉を探して口にする。 「隊長って、もちろん美人ですし、剣はすごいし………………憧れです。 でも、そうじゃなくても…………剣があんなに強くなくても、あれほど美人じゃなくても、やっぱり気持ちは変わらないんじゃないかな、って思います」 「弱くても」 「はい」 「あの外見でなくても?」 「はい」 カナンはあざけるように鼻を鳴らした。 「雛鳥だな。卵から孵って、最初に見た者を親と思う。恋愛などではない」 「そう………………なんでしょうか?」 反発気味に問い返すと、カナンの眉が不快げに寄った。 「ああ、そうだとも。お前は、自分の幻想を追っているだけだ。フィンが剣を志すきっかけで、お前をここまで連れてきた原動力であったからこそ、実際のあいつにひどく幻滅していようとも、そうと認めることができず、盲目的にあいつの後を追うと口にし続けている。もし認めてしまったら、お前のこれまでの数年間が無意味になってしまうからな」 「違います…………」 「いや、違わないな。認めろ。誰にとっても、己の過ちを正視するのはつらいものだ。お前が認めようとしなくても、それによってお前自身の存在価値が傷つくということはないから安心するがいい」 「………………」 突然の態度急変にハーリは戸惑う。どうしてこんなにつっかかってくるのか。 ただ、うなずくわけにはいかないことだけははっきりしていた。 レンカにも言ったことだ。 幻滅したのは確か。 フィンは、ハーリが夢想していたような、完全無欠の美剣士などではなかった。 でも、それでフィンを嫌いになったかと言うと…………そんなことはない。 自分でも不思議なのだが、身の回りのことは何もできない、不器用で怠け者で、ぐうたらもいいところのフィンのことが、前にも増して気になるようになっている。 転んだところを助け起こしたり、アメ玉を口に押しこんだりしてやった時、たまに目尻を下げ、微笑を向けてくれる。 それを見るたび、ハーリはその場で転げ回りたいほどのたまらない気分にとらわれるのだ。 憧れるとか恋するとかそういう、我を忘れさせるような、強く蠱惑的な気分ではなく。 見ているだけでふわっと体が浮かび上がるようになり、顔が自然と笑みを作り、暖かいものが頭の中いっぱいになる………………そんな優しい、やわらかい感覚だ。 「………………何か言いたそうな顔をしているな」 「いえ…………」 「ならば言えるだろう。フィンの、どこがいいのだ?」 「それは…………」 言葉にできるようなものではない。どう言っても伝えることはできないだろう。そういう“好き”のありかたもあるのだということが、カナンにはわからないのだろうか。 それが目つきに出てしまったようだ。 カナンの瞳に稲妻がよぎった。 「ふざけるな!」 爪先が脇腹に入った。呼吸ができなくなり、ハーリの顔色は一気に紫色に変わった。 「理由も言えないのに好きだなんて、そんな馬鹿な話があるか! 何かあるはずだろう! 言え、隠すな、言ってみろ!」 さらに蹴られた。立ち上がり逃れる体力はとうに尽きている。転がることさえできず、身を丸めて激しく咳きこみ、脂汗を流しながら苦悶するだけだ。 ――――気がつくと、一切の音が途絶えていた。 異様な緊張感があたりに充満している。 カナンが、自分の方を見て、ものすごい顔をしていた。 いや、ハーリを見ているのではない。 ふわりと、やわらかいものが肌に触れた。視界の端を黒いものがよぎった。 自分のかたわらに、人がいる。 マリエかと一瞬思ったが、違った。 「た…………隊長!」 フィンだ。 相変わらずの黒装束を身にまとい、黒鞘の長剣をかたわらに、両膝をそろえてしゃがみこみ、行き倒れをつつく子供みたいな顔をしてハーリの頬に手を伸ばしていた。 黒髪の間からのぞく美貌、白い手の感触に、ハーリは体の芯に火がつくのを感じた。今のやりとりの後だけに、動揺は普段の数倍だ。 「動くな。もう少し寝ていろ」 少しかすれ気味の、物憂い声。ハーリを心配しているのか、それとも自分が眠いだけなのかは判別不可能。 「そーそー。起きたって無駄無駄、おねーさまが言ってくれてるんだから、寝ときなって」 赤い髪がちらつく。レンカ。いつも通りの意地悪い笑顔だったので、ハーリはかえってほっとした。 「…………何の用だ? 珍しく起きてきたということは、稽古の相手をしてくれる気になったと考えていいのか?」 カナンが棒を構えた。全身から炎のように気がたちのぼっている。その頬はこちらも、いつになく赤い。 「隊長らしいところを見せてくれるなら、大歓迎だぞ」 しかしフィンは、やっぱり緊張感のかけらもない目つきをぼんやりカナンに向けたかと思うと、 「………………面倒くさいから、やだ」 ハーリの気力を根こそぎにするようなことをあっさり言ってのけたのだった。 「では何の用だ? まさか、少年の腕前を試しに来たというわけでもあるまい。それならもっと早く起きてこい」 「…………ちょっと、いいか? …………あー……お前……その…………」 「ハーリです」 「そうか」 このやりとりはもう十回を超す。まだ名前を覚えてもらえていないのである。 「で、ハーリ」 「はい……?」 「よいしょ」 いきなり、首に腕がからみついた。 黒い麗姿が真横に横たわり、しがみついてくる。 「な、な、な、な、な…………!?」 「こら、動くな。くっつきにくい」 「く、くっつくって…………!」 ハーリの動揺をよそに、フィンは体を密着させてきた。 首筋に顔が埋まり、ハーリの視界はつややかな黒髪だけになる。フィンの体は子猫のように熱く、少し汗じみた肌のにおいは、かえって濃厚な女性の体臭となって、蜜のようにハーリを包みこみ、とろかせた。雲の上を漂う心地。全身の痛みが薄れてゆく。 「ふむ」 「た、隊長…………」 「おねーさま、どう?」 「なるほど。悪くない」 「あ、あの、あの……」 「だから、動くなと言っているだろうが」 「……何の真似だ」 ぞっとする声でカナンが言った。気温が一気に下がる。迫り来る冬の冷気がこの辺りにだけいち早く呼び寄せられたようだ。 ハーリは氷水を浴びたようになって、フィンのぬくもりも忘れてがちがちに硬直した。一瞬のちの、間違いない死を予感する。 「いや、レンカから、男と一緒に寝ると気持ちいいと聞いたので」 一方のフィンは、のほほんと言い放った。 「下が硬いな。中で寝よう。行こう」 「は、はあ……」 フィンは先に起きあがり、ハーリの腕を取った。目が合った。フィンの漆黒の瞳には、意識を吸いこんでしまうような、妖しげな力があった。まどろみにも似た快感にとらわれつつ、ハーリはよろめきながら立ち上がる。それまでの怪我も体力の消尽も消えて、軽々と立つことができた。体重がなくなって、雲の上を歩いているようだった。 一転、背筋に氷気を感じた。 「!」 ハーリはとっさにフィンの手を振り払う。 次の瞬間、その空間を棒が突き刺していた。危うく手の甲を砕かれるところだった。 「……よくぞかわした」 カナンは、血走った目で告げた。 「よくぞここまで人を愚弄できるものよ…………今日という今日はもう勘弁ならぬ。そこになおれ! 二人そろって我が棒の餌食にしてくれるわ!」 「二人? 私もか?」 と、そもそもの原因であるフィンは他人事のように言って、唇を尖らせる。 「お前の相手は疲れるから、やだ」 「そーそー」 レンカが火に油を注ぐ。 「オトコ取られたからってひがまないひがまない」 カナンは激しく湯気を噴き上げた。 「だっ、誰がひがんでおるか! 取る取られるなどという低劣な話をしているのではない! そもそも私が問題にしているのは!」 怒濤の勢いで話し始めたカナンをよそに、レンカはにまっと笑ってハーリの腰にしがみついた。ふっくらした頬をきわどい所に押しつけてすりすり擦る。 「なんならあんたも一緒にどう? 若い男の肌はいいわよ〜」 「そ、そのようなふしだらな真似ができるか!」 「な〜に赤くなってんのよ、いー年こいて、まさか男知らないわけじゃなかろーに。おっ、ますます赤くなったぞ。図星? うわ耳まで真っ赤っか。大女の塩ゆで一丁上がり! きゃはははは」 「きっ、貴様…………!」 「男ひでりは放っといて、ほらハーリ、寝よ寝よ。おねーさまにも教えてあげる、昔習った房中術っての、これがなかなか面白いんだから」 「ふ――――ふざけるなああああっ!!」 カナンの金髪が一斉に逆立った。 突進。その目は血走っている。棒は殺気のかたまりだ。 レンカが本性を発揮した。大の男並みの力でハーリを突き飛ばし、反動を利用して大きく後方に飛び逃れる。着地した時にはすでにその手にはナイフがあらわれている。 ハーリは、元々立っているのがやっとの状態だったので、ひとたまりもなくバランスを崩し、襲い来る狂戦士の前に身を投げ出すことになってしまった。 背後にフィンをかばうかたちになったことだけはかすかに自覚した。 「あっ!」 フィン、カナン、レンカ。三人の声が重なった。 凄まじい衝撃が前後から全身を貫く。 ハーリはなすすべもなく気絶した。 3闇の中で漂っていたのが、突然ガンと衝撃を受けた。 刺激的な臭気が鼻孔を刺し、せきこむ。 身を折ると、火傷したような痛みが脊髄を突っ走った。 ぜいぜい言いながら目を開ける。薄暗い。自分の寝床だ。 「よしよし、生きてた」 レンカの声。 しかし、赤い髪は思ったより遠くにあった。壁に寄りかかっている。ハーリの上にかがみこんでいたのはマリエだ。強烈な臭いのする瓶を手にしていた。気付け薬らしい。 「何度でも治してあげるから」 もちろん、意味は逆。青い瞳は冷たい炎を宿している。かなり怒っているようだ。 「あんたがあんまり怪我するもんで、いい加減にしろってさ。大事な薬草もけっこう使っちゃったし、大迷惑だって」 「次は死なないでね」 死ね――――だ。 マリエはぷいっと背を向け、カーテンをめくって独房を出て行った。 「あ、あの、マリエさん……!」 「なんだ、十分元気じゃない。マリエのお尻に見とれてる余裕あるなら大丈夫ね」 「だっ、誰が!」 「あんたの目線、まるわかり。どスケベ」 「う……」 レンカはけらけらと笑った。 「でもまあ、生きててよかったよかった。右腕、動くでしょ?」 言われて、ハーリは肩を動かしてみる。 鈍い痛みがはしったが、何とか持ち上げることはできた。 すりつぶし調合した薬草のにおいが漂ってきた。肩や体のあちこちに包帯が巻かれている。口の中にも苦い味があった。意識を失っている間に薬を飲まされたようだ。 「マリエがいなかったら、二度と使い物にならなくなるところだったわよ。骨が粉々になってたんだって」 「こ、粉々……」 「あのバカ、手加減ってもの知らないんだから」 ぞっとして、手足や指をひとつひとつ動かしてみる。大丈夫、全部ちゃんと動く。 安堵したところへ、激痛がきた。背中だ。 「あ、そっちはおねーさまね。マリエが手こずってたわ。剣の鞘であんたの背中打っちゃったの。おねーさまもとっさのことで止められなくて……単純な切った折ったの傷じゃないから、魔法の効きも今ひとつなんだって。これからしばらく痛むわよ。覚悟しとくのね」 木剣や棒で打つ場合、下手な者の打撃は表面を痛めるだけだが、名手にやられると体の芯に響いて、その場では肌が赤らむ程度だが、後から痛んできて、何日も腫れがひかなくなる。ベテラン衛士を相手にした稽古で何度か経験があった。 「感謝しなさいよ。もしおねーさまが抜いてたら、あんた今頃二つに分かれて墓の下だったんだから」 「う、うう……」 うめき声しか出せなかった。痛みを感じられるのは生きているからだと思って、耐えるしかない。 苦痛の波が薄らいでから、訊ねた。 「そ、それで…………隊長と、カナンさんは…………?」 「二人そろってオグに説教くらって、げんこつごちん。二人とものびてるわ」 「大丈夫だったの?」 「そりゃもちろん」 レンカの目尻が下がった。 「でもあんた、自分よりそっちの方が気になるんだ」 「……悪いかよ」 「いや、悪くないよ。いい根性してる」 レンカは腕組みして満足げにうなずいた。 「あんたには謝っとかないとね。おねーさまのさっきのアレ、あたしが狙って焚きつけたの」 「アレって…………抱きついてきたこと?」 「そ。ちょ〜いとカナンの馬鹿をつっついとこうと思ってね」 「つっつく?」 すると、レンカはいやらしい微笑を浮かべた。 「あのバカ、あんたのことすんごく意識してるから」 「意識って…………え、え?」 「あー、いい気になるんじゃないよ、お坊ちゃん。別にあんたに特別な魅力があるわけじゃないから。男なら誰でもいいの、あれは」 「誰でもって…………」 「変なこと考えてるでしょ。でも、それで当たり。ああ見えて、あいつってものすごいスケベで、男に飢えてる」 「うっ、飢え……!?」 「だから、言った通りの意味」 レンカは意味ありげに自分の胸をまさぐった。卑猥な仕草にハーリはまた赤くなる。 ひとしきりそれをからかってから、レンカは真顔に戻り、腕を組み直した。 「……あいつさ、さっぱりしてるように見えて、結構屈折してるのよ。自分の中に色々かかえこんで、かかえこみすぎてどうにもならなくなって、壊れちゃうんだ、放っておくとさ」 ハーリは目を白黒させた。 カナンが屈折していると言われても、まったくぴんと来ない。ハーリから見る限り、カナンはどこの宮廷に出仕してもおかしくない、折り目正しく毅然とした、明朗闊達な騎士である。 「色々、あるのよ」 「………………」 「たまにああやって痛いとこつついて、爆発させてやらないと、ただでさえ歪んでる根性がますますヒネ曲がっちゃうわけ。それでおねーさまに手伝ってもらった。あ、おねーさまが承知してるかどうかは別の話ね。おねーさまの頭ん中ってあたしにもよくわかんないから。でも、まさかあそこまで爆発するなんて思わなかった。どうやらあんたのこと、あたしが思ってた以上に気に入ってたみたい。あんたが怪我するのは計算外だった。失敗」 「前から聞きたかったんだけど……カナンさんって…………何してた人なの?」 「コーネリアの、いいとこのお嬢様。代々続いた武人の家柄、幼い頃から武芸を仕込まれて、堅っ苦しく育つ。たまたま訪れたおねーさまとあたしに出会って、家を捨てて旅に出た。……ま、そんなとこでしょ?」 ハーリはうなずいた。この“あなぐら”で暮らすようになってから一月あまり、今わかっているのはその程度である。 「それ以上のこと知りたかったら、本人から聞くのね。あいつがあたしのこと教えなかったように、あたしもあいつのことは教えない。自分で調べなさい。聞き出せないなら、あんたはその程度にしか受け入れられていないってこと」 「う………………」 「ま、せいぜい頑張んな、しょーねん」 カナンの口ぶりを真似て言うと、レンカはひらひらと手を振り、独房を出て行った。 一人になった途端に痛みがぶり返してきて、ハーリは他人のことなど考えていられなくなった。 ※夜になったと思うのだが、わからない。 マリエかレンカか、とにかく誰かが用意しておいてくれた痛み止めを必死で飲み下し、うとうとして、気がつくと暗くなっていた。 まだ痛みは消えてはいないが、先ほどまでに比べるとずいぶん楽だ。 独房内は暗く、かろうじてものの輪郭が見える程度である。 「………………!?」 ぎょっとした。 影が、すぐかたわらに立っていたのだ。 長い黒髪が闇に揺れ、なじみのある甘いにおいがかすかに流れてきた。 警戒心は一瞬で霧消した。 「隊長…………!?」 「うん」 言うなり、フィンは寝台に上がってきた。 「あ、あ、あの?」 「痛むか?」 「い、いえ、その、あの」 「痛そうだな。すまない」 詫びの言葉に、頭が冷えた。 いたわってほしい気持ちはあるが、それ以上に、またしてもみっともないところを見せてしまった羞恥が湧く。 「いえ…………あれは、僕が未熟だったからで…………」 「で、続きだが……いいか?」 「恥ずかしいところを…………って、続き?」 いいとも悪いとも言えないうちに、暖かくやわらかなものが体にかぶさってきた。 長い髪がはらりと顔に降りかかる。 ハーリの中からあらゆる言葉が消え去った。夢心地。指一本動かせないくせに、神経ばかりは信じられないほど過敏になって、体に触れてくる女体のあらゆる感触を鮮明に伝えてくる。長い脚、引き締まった太腿、充実した腰まわり。首に巻きついてくる腕、肌をくすぐる髪と、甘いにおい、熱い吐息。押しつけられてむにゅっと形を変えた、やや小振りな胸のふくらみ……。 「ふむ。なるほど、確かに、暖かくていい感じだ」 動転のきわみにあるハーリをよそに、その気だるげな語り口にはまったく羞恥の気配はない。 「お前ぐらいが丁度いいな。今は薬くさいけど、雪が降る頃には治ってるだろう? その時にはぜひとも頼む」 「はあ…………」 どうやら、まるきり男性とは見られていないようである。 「オグは大きすぎるし、マリエは体に色々魔法の仕掛けがあって面倒だ」 「はあ」 「レンカも抱くにはいいけど、あんまりよく眠れないから」 確かに、レンカを抱きしめて眠ったのでは決して安眠できないだろう。 「カナンは………………嫌がるからなあ」 「それは……当たり前だと思いますが……」 きょとんとした声が返ってきた。 「そうなのか?」 「普通、女の人は女の人と一緒に寝たいとは……」 「私は平気だが。レンカも気にしないと言っているぞ。気持ちよくするやり方も色々心得ているから、今度教えてくれるそうだ」 「それは……その……あのですね、あまり詳しく知らない方が」 「なぜだ」 真面目に訊かれ、返答に困った。冗談だと思いたいが、ここまでの言動を見ていると、もしかすると本当にわかっていないのかもしれない。 「いつも迷惑ばかりかけてるから、せめて気持ちよく寝られるようにしてやりたいのだが」 「……別に、カナンさんはそんなこと望んでいないと思うんですけど……」 「でも……」 「隊長は隊長らしくしていて下さればいいんです。迷惑なんて」 「でも……」 まるで子供のように繰り返す。 どう言ったものかと頭を悩ませていると、フィンはハーリの胸板に顔を乗せてきた。 「隊長……?」 「お前は、私のこと、嫌いか?」 「そそそ、そんなこと!」 慌てて言った声に、かすかな息が応えた。笑ったようだ。 「レンカもカナンも、私のこと、嫌ってるんだ」 「え?」 「だってそうだろう。あんなに迷惑かけていて、いつも怒らせてばかりで」 どうやら自覚はあるようだ。 「そんなこと――――」 「望むとおりにしてやればいいのかなあ。だけど面倒くさいしなあ。私はのんびりしてたいだけなんだが…………どうすればいいと思う?」 「どうすればって……そんなこと言われましても…………」 「…………ぐぅ…………」 「え? 隊長?」 返事の代わりに、寝息が聞こえてきた。 どっと疲労感が押し寄せてくる。 「はあ…………何なんだよ、まったく…………」 レンカではないが、何を考えているのかさっぱりわからない。根本のところで感覚が常人と違っているようだ。どうしてこの相手のことが好きなのか、不思議に思った。 それでも、そのまましばらくじっとしていると、幸せな気分が芽生えてきた。 暗がりで、美女に抱きつかれているのだ。この状況で嬉しくないわけがない。 若い肉体が目覚めはじめる。体の奥底からむらむらと熱いものが沸き立ってくる。 一度意識しはじめるともうどうしようもない。 本能が傷の痛みに打ち勝った。 そろそろと手を動かし、胸に近づけてゆく。喉が鳴る。直接手の平に触れたら、どんな感触がするんだろう。誘われても夜の遊びに加わろうとしなかったハーリは、まだ女性を知らない。 しかし。 「…………楽しいか?」 あと少しというところで、突然言われた。 すぐそこで、猫のように、色濃い瞳がきらんと光った。 「い、いえっ、これはっ!」 「そうか。寝ておけ。明日も疲れるぞ」 平然と言われる。 すぐにまた寝息が聞こえてきた。もしかすると今のは寝言だったのかもしれない。 ハーリは空しく息をついた。 不埒な思いは、驚いた瞬間に吹っ飛んでいた。もうよこしまな手を伸ばす気になれない。 レンカに対する時もこうなのだろう。何かしようとすると必ず勘づく。怒りもしないし、拒みもしないが、冷静に対応されると、何をするにもやりにくい。カナンが化け物と表現したのもわからないでもない。 しかし、悪い気はしなかった。むしろ感心した。さすがだと思った。憧れた相手が、憧れるにふさわしい、鋭いところを見せてくれたのだ。顔が自然と笑みを形作る。 そのまま、滑り落ちるように意識が眠りの海に沈んでゆき―――― 気がつくと、闇の中、一人きりだった。 思わず手探りしてやわらかな体を求める。しかし寝台にはハーリだけ。ずきんと背中が痛み、これが現実だと教えてくれる。夢だったのかと落胆し、次の瞬間、甘い残り香をかいだ。 胸をなでおろす。 あらためて思いだし、頬が熱くなった。フィンの方はまったく気にしていないだろうが、ハーリにとってはまさに夢のようなひとときだった。今死ねと言われたら喜んで命を投げ出せるだろう。 その時。 突然、気配が動いた。 薄闇の中、カーテンを背に、人影が立っていた。 ハーリは息をのむ。先ほどと同じシチュエーション。だが、相手が違う。かすかに見えるシルエットは、フィンよりずっと大柄だ。 「カナンさん!?」 いつからそこにいたのか。 「た、隊長とは別に、何も変なことは…………」 焦るあまり、言わずもがなのことを口走ってしまう。 しかしカナンは一言も口をきかず、突っ立ったままだ。 こんな時間に何の用なのか。どうして無言なのか。そもそも何をしに来たのか。ハーリはひとつも訊ねることができない。あのカナンが、棒を握っていないのに一言も発しないというのは尋常なことではない。緊迫し、息が詰まる。冷たい汗がじっとりと肌着を濡らす。今日は何回冷や汗を流したことだろう。疲れと痛みの汗にまみれて呻きながら眠った昨晩が懐かしくなった。 「あ、あの…………カナンさん…………?」 呼びかけても、やはり返事はない。 蛮声あげて襲いかかってくる荒くれ者相手の方がよっぽど楽だと心の底からハーリは思った。対処法がわかっていれば話は簡単。一方こちらは、どうすればいいのか見当もつかない。 ゆらりと、影が動いた。 まったく音を立てず、滑るように、長身が近づいてきた。 ハーリの動悸は今や最高潮。 手が触れてきた。 「あの……………………痛っ!」 「痛むか。すまない」 先ほどのフィンと同じ言葉。 だが、ぶっきらぼうだが暖かかったフィンとはまるで逆に、言い方こそ柔らかいが、いたわりとは全く異質な、ねっとりと肌にへばりついてくるような薄気味悪い響きを帯びている。 肩を中心に、両方の手がハーリの腕や胸へ、探るように、なでるように動きまわる。闇にまぎれて表情は見えない。 「痛っ…………痛いです、やめてください!」 しかしカナンは逆に、手を服の内側へ忍びこませてきた。 「うわ、わ、わ」 「痩せたな」 「そ、そりゃ、毎日しごかれてますから……だから、痛いんですって!」 「今は耐えろ。鍛練を続けていくうちに、まず余計な肉が落ち、それから本当の筋肉がついてくる」 見当違いのことをつぶやきながら、カナンはハーリの肌をまさぐり続けた。 間近に聞く息づかいは異様に荒く、熱い。 ハーリは愛撫に動転するどころか、激しい痛みに、悲鳴をこらえるのが精一杯。 ようやく手が離れていった。 「やはり、お前は――――私ではなく…………張り合うつもりは…………私は、私の…………私とて決して…………」 カナンはきれぎれに口にすると、突然身をひるがえした。 やはりほとんど音を立てずに独房から消える。フィンと違って、後には何も残らない。渦巻いた風だけが彼女がそこにいた証だ。 沈黙に包まれ、耳が痛くなった。 ハーリはわけがわからないまま、とにかく安堵の息をついた。 (あいつさ、結構屈折してるのよ) レンカの声が耳の奥によみがえってきた。 翌日、カナンは失踪した。 4「ったく、あのバカ…………おとなしく目の前のエサ食ってりゃいいものを」 外出支度を調えながら、レンカが腹立たしげにつぶやいた。 「目の前のエサって?」 「もちろんあんたに決まってるでしょ。他に誰がいるのよ、バカ」 「おい…………」 「あいつがあんたを食ってくれりゃ、おねーさまはあたしのもので、マリエは元々オグ一筋だから、みんな幸せ、万々歳。こんな簡単な理屈もわかんないの?」 「食うって、その、それは…………その場合、ぼくの意志ってのは……」 「あんたに意志なんて上等なものあったの。へえ、知らなかった」 レンカの憎まれ口はいつものことだが、それにしても悪辣だった。本気で苛立っている気配がある。 「あんたも、早くしな! 何モタモタしてんの、殺すよ!」 レンカは、あの団扇(うちわ)剣こそ背負っていないものの、羽織ったマントの下に胸甲をつけ短剣を帯び、戦にでも出向くような物々しさである。 マリエとオグも、完全装備とまではいかないものの、防具をつけ武器を携え、さながら戦いに赴く気配。 「なんで……?」 「へえ。あんた、暴れるカナンを丸腰で止める自信があるんだ」 「暴れる?」 「発情期のケダモノに言葉なんて通じるわけないでしょ」 「は、発情って……」 「言ったでしょ、スケベなんだって。半年に一回ぐらい、頭ん中男のことでいっぱいになって、爆発するの。だけどあのバカ、経験ないくせに突っ走るから、うまくいったためしがないのよね」 「………………」 「だけど――――ああもう、折角お膳立てととのえてやったってのに、どうしてこうなるかなあ! あんたも悪い、目の前に飢えてる女いるってのに、何で手ぇ出さないの! 情けないったらありゃしない!」 「無茶苦茶だ!」 「まだ間に合う、その調子で押し倒せ! よし決定! 花嫁は花婿よりでかくて強いけど、情けないダンナに引かれる女もいるから問題なし!」 「勝手に決めるな!」 「決めたんじゃない、決まってるの!」 「だから!」 怒鳴り合うハーリとレンカの頭上から、オグが声をかけてきた。 「俺とマリエは新市街、お前たち二人は旧市街だ」 「……はい」 この巨漢には隊の誰も逆らえない。穏やかな物腰の奥に、逆らう気を起こさせない圧倒的な迫力がある。 「準備はいいな。衛士隊がからんでくると面倒だ。我々だけで見つけて、連れ戻すんだ」 「はい」 「行くぞ」 ……その声はオグのものではなかった。 ぎょっとして振り向いたハーリの真後ろに、夜の影をまとったような黒い麗姿が立っていた。 「おねーさま!?」 レンカばかりか、その場の全員が目を丸くする。 フィンが、まさか動き出すとは。 それも、いつもの半覚醒状態ではない。目尻がきりっとつり上がり、口元も凛々しく引き締まって、別人のようだ。衣服もきちんと着こんでいる。長靴の紐が全部きっちり結ばれており、肩から紐で吊っている長剣も、今すぐにでも抜き打てる位置。 ハーリは殴られたようなショックを受けた。五年前、ハーリが魅入られ、憧れたのはこの姿だ。頭の中が真っ白になる。白い世界に、黒ずくめの女神の立ち姿だけがある。黒いけれども輝いている。長剣を携え、凛と立つ、最強最美の女剣士。 「おーい」 ひらひらとレンカが手を振るが、ハーリは間抜けに口を開けたまま。 「急げ。日が暮れる前に見つけないと厄介だ。分担は今オグが言った通りでいいだろう。私も旧市街に回る。こっちの方が探すべき場所が多いからな」 てきぱき指示するフィンの声を、ハーリは夢心地で聞くばかり。 カナンのことが心配なのだ。隊長らしく、部下のことを気にかけているのだ。隊長はやっぱり隊長だった。この凛々しく美しい姿、これが本当のフィン・シャンドレン。ぼくの隊長。 ハーリの脳裏はバラ色に染まっていて、細かな思考能力は完全に失われている。 「マリエ、あれを」 マリエが、ずっしり重たい護符をみなに配った。精緻な幾何学模様が浮き彫りにされている。首から太い紐でぶら下げた。 「風の精霊を封じてある。見つけたらそれに手を当て自分の居場所を念じ、合い言葉を唱えろ。精霊がマリエの所へ飛んでゆく」 教えられた合い言葉を、ハーリは愛の言葉のようにうっとりと口の奥で繰り返した。 「伝書鳩のようなもんなわけ」とレンカ。 「うん……」 「こっちからはマリエに伝えることしかできないけど、マリエからみんなに連絡するから大丈夫」 「うん……」 「便利でしょ」 「うん……」 「あんたのアレってちっちゃいでしょ」 「うん……」 「だめだこりゃ」 「全員持ったな。よし、行くぞ」 フィンは小屋の奥へ向かった。入り口は逆じゃないかと疑問に思ったハーリだが、レンカはじめ他のみんなも続いたので、慌てて後を追う。 出入り口とは反対側、左右に独房の並ぶ通路を行き、一番奥の壁の前でかがみこむ。 ぼろ布が一枚広げてあった。それを取りのけると、床に鉄輪がついていた。そんなものがあることに今日までハーリは気がついていなかった。その布も、足拭きだろうとばかり思っていたのだ。 フィンは鉄輪に手をかけ、引っぱった。 床板が大きく持ち上がる。 ぽっかり黒い穴が開いた。階段が続いている。隠し通路だ。 「……!」 「あんたに教えて大丈夫かなあ」 レンカが皮肉っぽく言ってきた。 「この穴はね、みんなで作ったの。マリエが土の精霊使って大雑把に掘り抜いて、みんなで階段つけて、天井補強して。この抜け穴のことは誰も知らない。ジシュカおじさまだって知らないのよ」 レンカの目が残忍に光った。 「あたしたちの秘密。このこと、誰かに言ったら…………わかるわよね?」 ハーリはさすがに真顔になってうなずいた。 通路はオグの巨体が十分通れるだけの広さがあった。 かなりの急勾配で降りてゆく。所により階段となる。螺旋階段の場所もあった。地の底まで続いているようだとハーリはぞっとした。みんなと一緒でなかったら怖じ気づいてしまったかもしれない。 灯りはなく、重苦しい闇と土のにおいがたちこめるばかりだったが、床と壁の境目あたりに薄緑色に淡く光るものが一定間隔で埋めこまれていて、それをたどってゆけば、道の勾配や階段のありかなど大体の道行き具合はわかるようになっている。 途中にいくつか、いざという時この通路全体をふさぐための仕掛けらしきものがあった。武器や食料の貯蔵庫らしい、小さな扉も見て取れた。 与えられた小屋に漫然と住みついているわけではなく、これだけのものをひそかに作り上げていたことにハーリは感心させられた。この用心深さこそが、戦士としての気構えというものだろう。 しかし……。 「あの……なんで、こんな所から? 普通に門から出ればいいじゃないか」 「バーカ。門番に見られるでしょ」 「そりゃそうだけど、だから?」 「ほんとにバカね。見られたら、あたしたちの動きが報告されるでしょうが。そんなこともわかんないの?」 「報告って……上に?」 「あーもう、その当たり前のこと一々聞きかえすクセ、なんとかしな! あたしたちはジシュカのおじさまに警戒されてんの!」 「警戒? どうして?」 「……おねーさま、こいつ殺していい?」 殺気を感じ、ハーリは口をつぐんだ。 聞けば聞くほどわからない。 ブルンタークに生まれ育ったハーリにとっては、街を守る衛士隊は常に正義であり、それを揺るぎなく統括しているジシュカ・シャファーリクは一点の曇りもない英雄だ。そしてフィン・シャンドレンは彼の姪。伯父が姪を警戒しなければならないどんな理由があるというのか。 しかしレンカは口止めしてくる。レンカだけでなく、マリエもオグも、今日までこの通路のことは教えてくれなかった。してみると、この通路のことを秘密にするのは隊の総意であり、すなわちフィンの意志ということでもある。フィンの意志なら逆らうつもりはないが――――どうも釈然としない。かといって、ジシュカに告げ口するつもりはさらにないが…………そもそも、自分がどうして衛士をクビになったのかがまだ全然わかっていないのだ…………。 (………………) そういうことを考えているうちに、通路は終点についた。 こちらも隠し扉とおぼしき潜り戸を抜ける。 普通の、平均的なブルンターク市民が住むような家だった。 衛士隊総本部のある丘の麓。 外に出る。あらためて見ると、総本部の偉容を背後に控え、ずらりと並ぶうちの一軒にすぎない。ハーリはもちろんこの場所も知っている。見慣れていた場所にこんな秘密の出入り口があったことに、感心半分、違和感半分の複雑な気持ちを抱いた。 見上げた空は、やけに黒い、不吉な印象をもたらす雲に半ば覆われていた。もっとも風は乾いており、雨の気配はない。 全員、フードをつけて顔を隠す。ハーリはともかく、他の面々は目立ちすぎるのである。 「では、夜までに」 「ああ」 オグ、マリエがまず別れた。ターフェル河向こうの新市街へ行くのだ。マリエは嬉しそうにオグの腕を取った。 「私たちは向こうだ」 残る三人は逆方向へ足を向けた。 ハーリの気持ちはこれ以上ないくらいに浮き立った。フィンと一緒に街を歩いている。自分は成長し、フィンより背が高くなった。しかしあの運命の夜に見上げた美貌は、まったく変わらぬままそこにある。黒装束をまとい異国の長剣をたずさえ颯爽と歩いてゆく後ろ姿。隊長とその部下。夢見た理想の状態だ。ハーリは子供に戻り、雲を踏むような足取りでついてゆく。 けれども、歩き始めてすぐ、道が二股になっているところで、レンカが意地悪い顔で見上げてきた。 「あんた、この街のことはよ〜〜く知ってるわよね」 「そりゃまあ……」 「じゃ、あんたは一人で探して。あたしはおねーさまと一緒に行くから」 「え……」 ハーリは、親に捨てられる寸前の子供みたいな情けない顔でフィンを見やった。 フィンは困ったように頬をかく。 「えー……何だ、その……」 「ハーリです」 一緒に来いと言ってくれないかと根拠もなく期待したハーリだったが、あっさり裏切られた。 「街に詳しいなら、一人で大丈夫だな」 「は……はい……」 「よし。私はレンカと行く。陽が暮れたらいかがわしい界隈を探せ。きっとカナンはそこに現れる」 「はあ……」 「ほら、あんたは向こう! 行った行った!」 邪悪な笑みをたたえつつ、レンカはハーリを蹴飛ばした。 ※ハーリは一人寂しく街を巡る。 当然、捜索に身など入らない。 二手に分かれるなら、ハーリとフィンが一緒で、レンカが単独行動という組み合わせでもいいはずだ。ハーリはこの街で生まれ育ち、衛士として働く中で巡回もしている。知らない道はない。フィンがいかに方向音痴でも、完璧な案内役を務める自信はあった。いやむしろ、フィンが方向音痴であればこそ、自分こそがフィンを適切に道案内できたはずだ。 結局、頼りにされていないということか。名前もおぼえてもらえていないし。ハーリは歩きながら、足が地にめりこむような心地に陥っていった。 衛士屯所の前を通りかかった。深緑色の制服を着た衛士が談笑している。 フードを目深くかぶり直し、背を丸めて通り過ぎた。ただでさえ衛士隊をクビになったという負い目がある上に、今は気分がひどく落ちこんでいる。きっちりと自分の任務を果たしている衛士たちを正視することができそうになかった。知り合いに会ったら泣いて逃げ出してしまうかもしれない。 空の黒雲は西から東へ流れている。これが北向きに変わるのももうじきだ。北のファンゴルン山脈から吹き下ろしてくる雪混じりの風がダルキアの地を覆うと、気温は一気に下がり、冬となる。 心に一足先に北風を吹かせつつあてどなく歩き回り、気がつくと、このところめっきり早くなった日没の時間帯となっていた。 カナンは見つからない。連絡もない。 さすがに心配になってきた。 どこへ行ってしまったのだろう。 暗くなったらいかがわしい界隈を捜せと言われたが……。 いかがわしい所で、あのカナン、文句なしの美女だけれどもどちらかというと強く凛々しくたくましい印象ばかり浮かんでくるカナンが、いったいどんなことをしでかすというのだろう。 ハーリの脳裡いっぱいを十七歳らしい純粋で刺激的な妄想が埋めつくし、慌てて近くの共有井戸で顔を洗った。 空はさらに明度を失い、あちらこちらで灯りがともる。中でもひときわ明るいのがやはり色街だ。すでにできあがっている千鳥足の酔客が行き交い、酒と料理と煙草と汗と、さまざまなにおいが入り混じった中に、時折すっと、男の官能をそそる甘ったるい香りが流れてくる。飾り窓、あるいは路傍から蜘蛛の糸のように投げかけられてくる、異性を誘う蠱惑の視線。 ダルキアのほぼ中央に位置し、通商路の要地として繁栄するブルンタークの歓楽街は、近隣諸都市のそれよりもひときわ大きく、それに応じて悪名も高い。 ハーリは、仲間に連れられてこういう場所に足を踏み入れたことならあるが、巡回任務以外で来たのは初めてで、ひとりきりで来たのも実は生まれて初めてだということに、今更ながら気がついた。 立ちすくむと、たちまち化粧の濃い女たちが寄ってきた。厚手の外套をまとっているものの、その下は肌を思いきり露出させた格好だ。胸の谷間や太腿が身動きにつれてちらちらのぞくその姿は、素裸よりもはるかにいやらしい。 「そこのひと、遊ばない?」 いつも裸同然の格好でいるマリエ、平気で下着姿でうろつくフィンにわざと目の前で着替えてみせるレンカなどなど、女性の肌ならもうかなり見慣れているから、それだけで動揺しはしないが、べたべたくっつかれるのはどうしていいかわからない。気がつくとフードを外され、なれなれしく腕を取られている。 「あら、結構いい男」 「あんたみたいなひと、好きよ……」 「どう、一晩?」 「い、いや、その、ぼくは」 「ぼくだって。か〜わいいっ!」 フィン、レンカ、カナン、マリエ。いずれ劣らぬ美女たちと同居しているハーリは、大抵の女性に対しては心動かすことはないはずだった。 それなのに押しつけられた胸にやたらと反応してしまったのは、昨夜抱きついてきたフィンの感触を思い出したからだ。 慌てて叫んだ。 「す、すみません、ぼくには、その、あの、おっ、思い定めたひとが!」 「あら、憎らしい。でも、あたしだってそう捨てたもんじゃないわよ。ね、試してみてよ」 「健気な子って、素敵。ますます好きになっちゃった」 ハーリが最後の武器のつもりで持ち出した言葉も、場慣れした相手に通じるはずがない。 本人に自覚はまったくないのだが、ハーリは背は高く体格もよく、しかも生来のお人好し、のんびりした雰囲気があって、これは結構いいところの坊ちゃんだと勘違いされやすい。強引に振りほどくこともできずに、離してくれとうろたえながら哀願するその気弱な態度もあって、自然、これはいいカモだと、まとわりつく女も増えてくる。 取り巻かれ、ついには路地へ引きずりこまれそうになったところで―――― 「!」 ばりん、どがっ、どばぎゃっ! そんな激しい物音が連続して起こった。 いくつも軒を並べている、酒場のひとつ。 前にレンカと入った昼間は料理屋夜は酒場というような健全な店ではなく、徹頭徹尾夜の楽しみのためだけにある、猥雑な雰囲気の酒場である。 そのドアから男が飛び出してきて、鼻血を振りまきながらぶっ倒れた。 続いて窓から。こちらは文字通り宙を吹っ飛んでくる。酒瓶やテーブルが後を追い、盛大な音を立てて砕け散る。 店内ではさらに激しい物音が続いていた。 衛士としての意識が芽生え、遠巻きにする人垣をかきわけてハーリは店に近寄っていった。 中をうかがう。 「!」 ――――見てはならないものをハーリは見た。 |