5カナンである。 ただし、ハーリの知るあの凛々しい女戦士ではない。 女性であった。 ――――つまり、女性の格好をしていた。 華美なわけではなく、そこら辺の遊女のようにやたらと媚体を誇示するものでもなく、やたらと可愛らしく飾り立てた少女趣味の代物でもなく、布地から色合いからデザインから、ほどよく上品にまとまったドレスを身につけている。 耳飾り、ネックレス、白手袋といった装飾品のひと揃い。短い髪はどうしようもないが、金髪に映える赤い髪飾りをひとつ、斜めにつけていた。 タイトなスカートには膝までのスリットが入り、足回りも普段の軍靴ではなく、ドレスと合った白いサンダルだ。 長身で体格のいい自分に何が似合うのか、きちんとわきまえた衣装である。さすがに宮廷でとまではいかないが、上流家庭で男性とダンスを踊るぐらいにはまったく問題ない。 しかし…………。 店内は大乱闘の後で惨憺たるもの。 テーブルや椅子がなぎ倒され、ぐちゃぐちゃになって散らばっている。 倒れている男が数人。中には防具を身につけ得物を携えた、明らかに店の用心棒とおぼしき者も混じっていた。壁際に身を寄せ合って震える客たち。あちこちから上がるうめき声、酒と料理と煙草と反吐とが入り混じった最低最悪のにおい。 そのど真ん中に、カナンは愛用の棒を握って仁王立ちしているのだった。 激しい動きをすることなどまったく考えられていないドレスは、スカートから上着からあちこち裂けてひどい有様。右脚が太腿まであらわになっている。 それだけなら、カナンの力量を承知しているハーリが度肝を抜かれ、石像となることはない。 ふところの連絡用護符に手をやったものの、それきり固まってしまった理由は―――― 「……うっ、うっ、うっ……」 聞こえてきた嗚咽だった。 カナンは泣いていた。 それも、うつむき、顔を覆うという泣き方ではない。あくまで顔は毅然と上げたまま。戦場で配下の戦いぶりを見守る武将さながらの堂々たる立ち姿のまま、表情を緩めることもなく、目から滂沱と涙を、口からは途切れることなく悲痛な嗚咽をこぼしている。 喧嘩沙汰は日常茶飯事、むしろ暴れぶりが激しければ激しいほど面白いと喜んで見物し、時には煽り、参戦さえする夜の街の住人たちが、みな一種名状しがたい鬼気を感じて立ちすくむようなカナンの姿であった。 「どうしてだ……どうしてこうなってしまうのだ…………私は……私は…………なぜ…………!」 嗚咽の狭間に洩らすつぶやき。 引きずられるように店に入っていったハーリに、カナンが泣き濡れた顔を猛然と振り向けた。 うっすらと化粧を施し、唇は紅い。頬に涙が縞模様を描いている。 ハーリと気付いて、頬が激しく引きつった。 「う…………」 「カナンさん…………その…………これは…………」 「見るなあっ!」 叫ぶなり、カナンは身をひるがえした。隅にあった階段を二段抜かしで一気に駆けのぼり、張り巡らされたテラスを走って逃げる。 ハーリも慌てて後を追う。 騒ぎを聞きつけた衛士たちが駆けこんできた。 「待て!」 ハーリを喧嘩の張本人と勘違いして、こちらも猛然と追ってくる。 二階にはいくつも扉が並んでいた。意気投合した男女が愉しむための小部屋。カナンはそのひとつに飛びこんだ。 ハーリも続こうとして、これが何の部屋かを理解して、閉じた扉の前で足が止まった。 衛士に追いつかれた。三人がかりでしがみつかれる。 「ちっ、違いま……」 喧嘩していたのは自分ではない。そう言おうとして、口をつぐんだ。自分ではないと言えばカナンが追われる。泣いていたカナンが、衛士隊によってたかって追い回される。 それはまずいととっさに判断。とりあえずおとなしくしてこの場を収めようと力を抜いた。 そこへ、 「少年、動くな!」 扉の向こうから鋭い声がかかった。 次の瞬間、扉板を貫いて六角棒が襲ってきた。三突きで正確にハーリを捉えていた衛士を全員悶絶させる。薄い戸板とはいえ、音だけで相手の位置を察したカナンの技倆こそ恐るべし。 だが衛士は基本的に分隊単位、六人一組で行動する。階下にいた残る三人が、上階の異変に気付いた。 「仲間がいるぞ! 応援を呼べ!」 笛が吹き鳴らされる。 あたふたするハーリを、扉を粉砕してあらわれたカナンの腕が室内へ引きずりこんだ。 「逃げるぞ!」 カナンは例の女性らしい服装に棒を携え、大きな包みを背負っていた。それが何なのかを訊ねる暇もなく、カナンはハーリの腕をつかんだまま窓へと走り、ためらうことなく虚空に身を躍らせた。 「うわあああ!」 体勢を整えてなら二階の窓から飛び降りるぐらいは何ともない。だがいきなりでは。体がほとんど水平になっている。制御できない落下感と地面に叩きつけられる恐怖で、ハーリの頭は真っ白になる。 だが下にあったのは地面ではなく、水だった。ターフェル河の水を市内に引きこんでいる、運河。そこに浮かべてあった小船に飛び降りたのだ。 水しぶきを浴びながらカナンは素早く櫓に取りつき、猛然とこぎ始めた。窓から衛士が身を乗り出して怒鳴ったが、すぐに遠くなる。 そのままターフェル河まで行くのかと思いきや、黒い水の上を少し行っただけでカナンは小船を岸に寄せた。 無言で小船を降り、川岸の階段を上がる。ハーリも続くしかない。 「…………少し待て」 ぼそっと言われ、何やらごそごそ音がして、いいぞと言われて見てみると、カナンはドレスを脱ぎ捨てて、動きやすい洋袴姿に着替えていた。包みに入っていたのは着替えだったようだ。 包みそのものはなおカナンの手にある。ドレスと装身具類、靴まで一式しまいこまれたらしく、前より大きくふくらんでいる。 「こんなもの……!」 それを運河へ放りこもうとして――――寸前でやめ、自分の行動に恥じ入るようにうつむいた。 「う…………うう…………」 「カナンさん…………みんな、心配してます。帰りましょう」 ハーリはそれだけ言った。涙顔を見てしまったあとでは、かける言葉が思いつかない。 カナンは首を振った。 「少年。…………すまないが、もう少しだけでいい、つきあってくれないか…………」 沈痛な声音に、ハーリは断ることができなかった。 護符でマリエに連絡することもせず、手近の酒場に入る。 カナンはテーブルにはつかず、店の主人に金を渡して酒の壺を受け取ると、酔客たちの好奇の視線もハーリの困惑も一切無視してすぐに階段を上がっていった。 つくりは先の酒場と似たようなもので、こちらも上階には小部屋が並んでいる。 その中はお世辞にも綺麗とは言い難く、饐えたにおいのする古びた寝台がひとつと丸椅子二脚、それとちょっとした小物を入れる小棚があるだけで、そのがらんとした感じがこれまた、この部屋の目的をかえって強く意識させ、ハーリはひどく赤面した。 「あ、あの、カナンさん」 「気にするな」 カナンは寝台に腰を下ろして足を組む。棒は握ったままである。 遠慮して自分は少し離れて丸椅子にかけたハーリに、ややあって、低くぽつりと口にした。 「迷惑をかけたな」 「い、いえ…………それは別に。でも、隊長が」 「フィンが?」 「ええ。カナンさんを見つけないと大変だって、いつもの隊長らしくなく、すごくてきぱきと。本当に心配してるんですよ」 「ふっ……」 とカナンは嘲笑ぎみに唇を歪めた。 「あいつらしい」 「?」 「あいつはぐうたらだが、半端じゃない、筋金入りのぐうたら者なのだよ」 「……と言いますと?」 「あいつは常に、目先の安楽ではなく、全体的に見てより沢山自分が楽をしていられる方を選ぶのだ」 ハーリは首をかしげた。よくわからない。 「私を放っておいたら、必ず騒ぎになり、衛士隊に面倒をかけ、恐らくジシュカ将軍の耳に入る。将軍は多分私の釈放を貸しとして、フィンに何か難しい任務を押しつけてくる。そうなると何日、何月間働かなければならなくなるかわかったものではない。だから、すぐに動いて私を見つける――――半日で全部すませる方を選んだのだろう。そういう時のあいつの動きは信じられないほどに速い。逆に言うなら、あいつが素早く動く時には必ずそういう損得計算をしている。日常のことには全然知恵が回らないくせに、自分のぐうたらに関わることにだけは文字通りの神算鬼謀を発揮する」 「………………」 「お前のことだ、てきぱき指示するフィンを見て、やはり隊長は我らの隊長、やるときはやると感動したのではないか?」 「はい……」 「あいにくだが、あいつはそんな甘いやつではないよ。下手な希望を抱くと必ず裏切られる。大汗かくのはいつもこっちだ」 「はあ」 「……でも、お前はそれでいいのだろうな。あいつに迷惑をかけられるならむしろ本望だ、と」 「それは」 「いや、いい。やめよう」 また沈黙が落ちた。 カナンはうつむいたきり動かない。 と―――― その瞳に涙があふれ、膝の上、棒を握っている拳の上に一滴、二滴としたたった。 「私は…………どうしてこうなのだろう…………」 6「私が男であれば問題はなかったのだ」 涙を流しつつ口にする。 「私は、世の大抵の男よりは強い。フィンのように剣を持てば天下無双であっても剣なしでは童女同然というのではなく、筋骨そのもののつくり、その頑丈さが、尋常のものではない。 武芸の才能もある。武略も並の武将ごときにひけは取らなかった。 死も恐れない。今でも恐れていない。戦いの果てに命を落とそうともまったく悔いることなく、完爾と笑って死神の抱擁を受ける覚悟はできている。 そう、私が男でさえあれば、押しも押されもせぬ一将として父祖の領土を守り抜き、現コーネリア皇帝クレアドールの幕下に入り武名を謳われていたやもしれぬ。 だが私は女だ。これは運命神が授けられた、どうしようもない定めなのだ。……」 こうしたことを、カナンはいつものような怒濤の勢いではなく、途切れ途切れに、訥々としゃべる。 窓の外は星がきらめく夜空だというのに、その低く沈んだ声を聞いていると、ハーリは何だかシトシトと陰鬱な雨に降りこめられているような心地に陥っていった。 「少年。長話になるが、いいか」 ひとしきり泣いた後、カナンは重い口調で告げた。 「私はナルク州……コーネリアの東部地方に代々続く小領主の家に生まれた。 その地では伝統的に男尊女卑、男は戦、女は家庭と決まっていてな。私は幼い頃から武器に触るのが好きだったのだが、やはりドレスを着て、楽器やら裁縫やらダンスやらの稽古をさせられたものだ。――――笑うな。今はこうでも、その頃の私は可憐だったのだ」 「はあ」 「だが、父が急死した。後継ぎの弟はまだ六歳だった。その頃のコーネリアは内戦状態にあってな、周囲の領主たちがこの機会にとばかり我が領地に兵を進めてきた。主立った騎士は逃げ出してしまい――――私が兵を率いるしかなかった。 私はその初陣で敵の首を三つ取り、倍の敵軍を追い散らしたものだ」 「……その時、おいくつだったんです?」 「十三歳」 「…………」 ハーリがフィンと出会ったのと同じ年齢だ。その頃の細っこい自分を思い、ため息をつく。 「それ以来、堂々と武芸の稽古をすることができるようになったのは嬉しかったな。自分で言うのもなんだが、腕はぐんぐん上がった。戦場はもちろん、稽古でも、女に負けてたまるかと相手は死力を尽くして向かってくるのだが、それでもなお、めったなことでは遅れを取ることはなかったよ。 だが、楽しかったのはそれだけだ。 苦労ばかりの日々だった。我が領土にはいささかも敵の侵入を許さず、どんな恐ろしい敵が相手でも負けることは許されず。人材を集め、領民の中から見込みのある者を育て、組織を整え、必死に父祖の領土を、領地の民を守り続けた。 戦に次ぐ戦のうちに、十年が過ぎていた。年ごろの女らしいことは何一つできないうちに、少女の時期は終わっていたよ。 それでも、成果はあった。領地をいささかも失うことのないまま、弟が成人する時を迎えられたのだ。 だが、それは――――私の人生が終わった時でもあった」 カナンは沈痛にうつむいた。 「想像はつくだろう。弟に、全てをもっていかれたのだ。 女が陣頭に立っているなんて、カンティラン家にはまともな男がいないらしい。そんな風にあざけられたくないから――――軍務を退いて屋敷でおとなしくしているか、どこか私でもいいと言ってくれる相手のところに嫁いでくれないか。弟は直に私にそう言ってきた」 「それを…………受けたんですか……?」 「弟ばかりでなく、周囲の誰もが、十年間生死を共にしてきた部下たちさえもが、それを望んだのだ。女に率いられるより、私よりも弱くても男に指揮される方がいい。みなの目がそう語っていたよ」 「………………」 「受けるしかなかった。戦があればまだしも、それもほぼ終わりかけていたからな。 コーネリアは現皇帝クレアドール四世の手で統一される寸前。我がカンティラン家も宮廷貴族の一員となることがすでに決まっていた。 平和はすぐそこにあり、それと共に私の存在価値もなくなっていたのだ。 …………いや、私も結局狭い土地しか知らず、そこでの常識にとらわれてしまっていたから、他の道はないのだと、あきらめてしまったのだな。 今から思えば、私も少しおかしくなっていたのだろう。 与えられた屋敷で、それから一年近く、誰ともまったく口をきかずに過ごした」 「カナンさんが…………ですか」 「ああ。言ったろう、おかしくなっていたのだと。 私が屋敷に逼塞してからほどなくして、内戦は完全に終結し、コーネリア全土に平和が訪れた。 けれどもそんなことはどうでもよかった。 私を心配して来てくれた相手にも一言も返さずに追い払い、孤独に溺れ、心中によどむどす黒いものが日一日と膨れあがってゆくのをどうすることもできずに、かといって発散する方法も知らず、ただひたすらに鬱々としているだけだったよ。 そうしたある日――――フィンとレンカがやってきた」 思わずハーリは息をのむ。 「まだマリエとオグはいなかった。フィンは、レンカと出会ってから、東へ旅してきて、我が領地に足を踏み入れたんだ」 「それで…………?」 カナンは苦笑した。 「路銀が尽きて、何とかして稼ごうとしたそうだ。 だが我が領地では、女剣士に仕事を与える者などいない。 フィンに剣以外の仕事ができるはずもなく、レンカは何かしたのかもしれないがその辺は私にはわからない。 ともかく、結局二人は食うに困って――――畑の作物を盗んだ」 「…………」 ハーリのあごがかくんと落ちた。 土まみれの野菜を小脇にかかえて走ってゆくフィンとレンカ。想像するにも情けなさすぎる。 「で、見つかり、追われて、とある家に立てこもる羽目になった。 ところが、わかるだろう、あの二人が相手だ。女二人と侮って押しこんだ連中が、片端から叩きのめされた。とうとう武装した騎士団さえ出動して、それでも埒があかなくて、私が呼ばれた。 私は、殺すつもりだった。棒を握って乗りこみ、私に勝てば城から食料でも金でも好きなだけ持っていくがいいと持ちかけた」 「隊長は、それを……?」 「受けた。一騎打ち、レンカの助勢はなし、あくまで一対一の勝負ということでな」 「そ、それで――――」 「負けた」 端正な顔立ちには一片のこだわりも浮かんでいなかった。 「今でも、あいつが本気を出していたのかどうかわからない。だが負けは負け。私はあいつに棒を触れさせることもできないまま倒された」 「それから……?」 「あの二人は城ではなく、私の屋敷にやってきた。城ではいざというときに逃げられないからな、当然の選択だ。 それから広間に山と食べ物を持ってこさせて、私の目の前で、それはもうものすごい食いっぷりを…………ついつい私もつられて、やけ食いを」 ハーリはげんなりした。男がやるならまだしも、フィンとレンカとカナンという並々ならぬ美女三人、それが床に座りこんで肉をがっつきワインをむさぼり飲んでいる光景など想像するだけで気が滅入る。ハーリはまだ女性に幻想を持っていたいお年頃である。 「そして、気がつくと――――私は、一年間心にためこんでいた言葉を、ありとあらゆる感情を、鬱憤を、泣きながら猛烈に吐き出していた。 フィンもレンカもろくに聞いていなかったが、そんなことはどうでもよかった。言葉を連ねることだけしか私の頭にはなくなっていた。何もかもしゃべりつくさなければ気がすまなかったんだ。思いつくままに話して、話して、話し続けた。 途中でフィンは眠り、レンカはどこかへ消えてしまい、それでも私の口からは言葉が噴き出し続けて――――とうとう朝を迎え、息が切れ、喉が嗄れ、私の中に渦巻いていた言葉を紡ぐ力がきれいさっぱりなくなった。 そして見た、朝陽の色…………あんなに綺麗な光は見たことがない。 以来、私もフィンと旅を共にしている」 「もう一回あの朝の光が見たくて、ですか?」 ロマンチックな気分にひたって、訳知り顔でハーリは言う。 しかし、カナンは微笑してかぶりを振った。 「いや。死に場所を探して、だ」 「死……っ!!」 「気にするな、少年。別に命を捨てようというわけではない」 「でも!」 「心配してくれるのか?」 「当たり前です!」 「そうか」 カナンはぐっと顔を近づけてきた。 真っ向から見つめられる。視線を逸らしてもずっとそのまま。ハーリは居心地悪さに身じろぎした。 「お前のような男に、あのころ出会えていたらな」 「………………」 「今すぐ死にたいわけではないよ。しなければならないことがなくなったから、いつ死んでもよくなったというだけのことだ。 人はいつかは死ぬ。だがどうせ死ぬにしても、満足して死にたい。あの時……フィンと一緒に行けば、いつかどこかで納得できる死に場所に巡り会えるだろう――――そう直感したのだ。 ………………今では、あの最低最悪のぐうたら女のどこをどう見てそんな風に思ったのか、まるっきり理解できぬのだがな。あれは人生最大の勘違いだった」 「うう…………」 ハーリとしては胸に刺さる一言である。 だがそこで、カナンは優しく微笑んだ。 「しかしお前は、まだ勘違いとは思っていないのだろう?」 「それは、まあ…………」 「うらやましいな。私も、そのような恋をしてみたいものだ」 カナンは自分の両手を広げ、それからゆっくりと胸にあてた。 「確かに私は男なみの肉体を持っている。だが私は女なのだ。男ではなく、女だ。女として生まれ、心はまさしく女以外の何者でもない。戦場で雄々しく駆け回り、命知らずに暴れ回って敵を蹴散らしはするが、いくさそのものはあまり望むものではなく、もちろん女が好きなどということはなく、誰かよき男とめぐりあい、その者と愛をはぐくみ、結ばれ、幸せに暮らすということを夢見ている。 そう――――私は恋がしたいのだ。夫とまではならずともよい、わずかな時を共に過ごし、めくるめくような幸福を味わうことのできる男と出会い、熱い想いに身を焦がしてみたい。こんな年をくった大女でも、そう願って何が悪い。昔から夢想していたことだ。故郷では戦、戦でそんな暇はなかった。これはと思う男と出会ったことも少なくなかったが、頼りになる人材が自分以外にいない状況では、私が恋にひたって己を見失うわけにもいかず、そうしているうちに相手は命を落とし、あるいは去り…………そして私は空しく歳を重ねてしまった。 もはや私に故郷はない。帰るべき場所はなく、守るべき民もなく、ただ己の命をどこでどのように燃やし尽くすか、それのみを常々思いつつ生きている。 だからこそ、だ。 男の死に場所が戦場にあるように、女の死に場所は恋の果てにある。そうだろう」 カナンの手が酒壺に動いた。ずっしり重い真鍮の容器を軽々とかかえ上げ、コップなど使わず、直に口をつけ、喉を鳴らして飲みはじめる。甘酸っぱいワインの匂いがあたり一面に満ちた。 「ぷはあ」 鯨飲という言葉がまさにふさわしい飲みっぷり。 カナンの瞳がみるみる朦朧となった。 まぶたが腫れぼったく垂れ下がって、そのくせ妙にぎらぎらした光を放ちだす。頭が不安定に揺れる。 「男勝りであっても大女であっても年増であっても、恋をするくらいいいではないか。二十五歳で何が悪い。男を早く知ることがそんなに貴重か。たまたま運命の巡り合わせでこうなったにすぎぬというのに、何故堂々天に恥じることなく生きてきた私がこのような引け目を感じねばならぬのだ」 口調が急激に変化してきた。目つきは完璧に据わって、猛獣が喉の奥で剣呑なうなりをたてているような雰囲気がにじみ出てくる。 ハーリはまずいと思ったが、もはや手遅れだった。今席を立ったらどんな目にあわされるかわからない。 「レンカのやつ、どうせひとのことを色情狂のように言いおったのだろう。見損なうな。確かに私は男が欲しくてたまらなくなった。だが、だからといって見境なく男を誘って回るような真似など誰がするものか。ひとを蔑むのも大概にするがいい。女から声をかけるなどという破廉恥な真似をこのカナン・カンティランがするわけなかろうが。私はただ、なるたけ清純に装い、見目良き男性、我が恋情を捧げるに足る殿方との出会いを期待して、つつましやかに、静かに待っていただけだ。 それなのになぜ、あのような目で見られねばならん!」 7普段の調子が戻ってきた――――きてしまったカナンの言葉を圧縮してみると、以下のようになる。 ――――熱病のように「恋がしたい」「男が欲しい」という思いに冒されたカナンは、我を忘れて“あなぐら”を飛び出した。 服やアクセサリーは、いつか身につける時もあるだろうと、ひそかに仕立屋に足を運びあるいは装身具店を訪れて買い集めていたものだった。 あの地下通路の出口の家で着替えたカナンだったが、いざ出陣というところで、急に不安になった。武装した剽悍な敵兵百人の前に出てゆくよりも、今これからスカート姿で街に出てゆくことの方がはるかに恐ろしく感じられた。 それで、愛用の棒を携え、すぐ着替えられるようにいつもの服も持ってゆくことにした。 それからしばらく、人の多いところをうろうろしたが、まずスカートで足を出していることがどうにも恥ずかしいし、見る男見る男すべてが自分の運命の相手であるように感じられてきて、これまた日頃の自信満々な様子が嘘のように(どうせ自分はダメなのだ)(私などがもてるわけがない)と劣等感にとらわれ、顔を伏せて物陰に引っこんでしまった。 日が暮れると、街にはもっと露骨な欲望があふれ出す。盛り場には淡い恋より即物的な肉欲の充足を求める男たちが群がり、また開放的な気風のあるブルンタークの場合には、若干のスリルを求めて背伸びしたがる少女から夫に飽きたらず熟れた体を満たしてくれる相手を求める熟女まで、女性もまたそれぞれの欲望を胸に吸いよせられてくる。 カナンはその渦の中に身を投じた。今日こそは、今夜こそはと強く思い定めていた。今度“あなぐら”に戻る時にはこれまでとは違う自分になっている。男がどれほど素晴らしいのかレンカとマリエにたっぷり自慢してくれる。…………男とするのは素晴らしいことのはずだ。これまでに得た知識からすると多分そう。きっと。 期待半分不安半分。はたから見れば決闘に赴く武芸者のような顔つきで微醺(びくん)を帯びた街に踏みこむ。 だが―――――美人には違いないが、並はずれた長身、鍛え上げられた肉体に、親の仇でも捜しているような目つき、ふくらんだ荷物を背負い使いこまれた棒を固く握りしめて猛然と道を行くカナンに、人々は我先に道を譲り、盛り場の人波も左右に割れ、ようやく踏みこんだ酒場でも、みな遠巻きにしてちらちらうかがうばかりだった。 それでも、待っているうちに、来た。 「やあ」 と、見るからに軽薄な、愛敬だけを武器に世を渡っているような若者が声をかけてきたのだった。 カナンの頭脳は一気に沸騰し、どんな受け答えをしたのかよくわからないうちに、階段を昇り二階の小部屋に連れこまれていた。 男がまず自分の服をはだける。 長い間戦陣暮らしを続け、男の裸など見慣れているカナンであった。その男の体は、今も起居を共にしているオグをはじめこれまで見てきた筋骨隆々たる偉丈夫に比べるとあまりにも貧弱で、カナンが抱きしめるだけできゅっと潰れてしまいそうだった。 けれども、その男がその手がその肌がこれから自分に触れてくるのだと思うと、カナンの心臓はそれまでに倍する鼓動を打った。目の前が真っ赤になり、天井と床がぐるぐる回った。 男の手が伸びてくる。カナンの胸や腰を這い回り、服の中に忍びこんでくる。 カナンはがちがちに硬直し、ますます惑乱して―――― 「そそそ、そう言えばもうじきこれまでのコーネリア領事に変わって本国より新しい領事が着任するそうだな私はとある事情から当人を存じ上げているのだが押しも押されぬ大貴族の息子でまだ若いが将来を嘱望されている有能な武将でもありいずれは皇帝の姫君との婚約もありうるとかなんとか噂されている人物でそのような一国の中枢近き人物が赴任してくるというのはコーネリアがブルンタークを重く見ているという何よりのあかしと見るべきかそれとも何事か含むところがあってのことか……………………………………………………………………………………………………………」 この場には関係ないことをしゃべりにしゃべりにしゃべりにしゃべり続けた。 さすがに相手も鼻白む。 「少しは黙れよ、うるせえな」 罵られると、これまた誰にも見せられない気弱な顔でカナンは、 「あ、す、すまない」 と、棒を手に取った。得物を握っていれば言葉が止まる。カナンにとっては文字通りの制御棒である。 男がそれを喜ぶはずがない。 しかし棒を手放すと怒濤のように言葉があふれてくる。 「いい加減にしろ、このアマ!」 男はとうとう怒鳴って、カナンに猿ぐつわをかませようとした。 さすがにそれは嫌で―――― 気がつくと、男は扉を突き破って外に吹っ飛んでいた。 店の用心棒が駆けつけてくる。 無様に転がる男は、呆然と立ちつくすカナンを指さし、あいつが悪いと唾を飛ばして怒鳴りまくった。 かくして…………ハーリが発見した時の、あの状態へとつながるのである。 「いつもこうなんだ…………いつも私は失敗してしまうんだ。やっぱり私には恋など無理なのだろうか……こうしてひとり寂しく歳をとってゆくのが私の運命なのだろうか」 寂しげに語るカナンにハーリは深く同情した。 「大丈夫です。カナンさん、きれいですし…………年齢なんて関係ないですよ。魂が輝いている人には、必ずふさわしい相手とめぐりあう運命が用意されているって聞いたことあります」 こんな風に落ちこんでいるカナンなど見たくなかった。カナンには、棒を変幻自在に振るって揺るぎない、太陽のように堂々とした姿のままでいてほしかった。 「元気出してください。カナンさんに釣り合ういい男はどこかにいますよ、絶対」 すると。 「………………」 酔眼がハーリにひたと据えられた。 「…………少年…………」 やけにねっとりした声でカナンは呼んだ。 8「…………なあ少年…………その…………ひとつ、訊きたいのだが…………」 どこか粘着物めいた声音。一言一言が歯の間から練り出されてくるようだ。 身をずらす。寝台から立ち上がることはしないが、じわりじわりとハーリに近づいてくる。ハーリは逃げられない。捕らえられた獲物の気分。蜘蛛が迫るが、どうすることもできない状態。 「男から見て……自分より強い女というのは……どうなのだ?」 「どう、と言われても…………そんな……」 カナンは身を乗り出し、今にもハーリの膝に手を置いてきそうな姿勢。 鼻筋通った凛然たる美貌がすぐ目の前。白皙の肌にはなんとも色っぽい血の気がのぼっており、目はとろんとして、そのくせ視線はぴたりとハーリに吸いついて離れない。 「少年、では、その……そのだな、お前から見ると……明らかに現段階のお前よりも体が大きく、力も強く、武芸の腕でも圧倒的に上で……しかも年上である私のような者は…………女性としては魅力に欠けるのではないか?」 「いっ、いえ、そんなことは……」 正直にハーリは答えた。この場合、他に答えようがないのも事実だ。 カナンは、安心したように微笑み―――― 「そうか…………それなら…………抱いてくれ」 いきなり言ってきた。 「はい…………って、ええっ!?」 カナンは目を伏せた。 「お前がフィンを想っているのは知っている。お前は、どちらかと問われたら、必ず私よりもあいつを選ぶのだろう。それならそれでいい。私は別に、あいつと張り合いたいわけではないのだから」 切なげな声音にハーリははっとする。心が揺らぐ。 だが、とカナンは続けた。 同時に眉がきっと吊り上がった。 「今、魅力的だと言ったな」 「いや、その、確かに言いましたけど……」 「私に女の魅力を感じてくれているのだろう? 私も、お前のことを、結構いい男と思っているのだ。それなら相思相愛ではないか」 「そっ……!」 「そうだろう?」 恐るべき眼光がハーリを射抜く。違うと突っこんだらその場で撲殺されそうだ。言っていることも無茶苦茶だが、それも指摘できない。酔っぱらいは無敵である。 「こっちに来てくれ」 寝台の、カナンの隣を示される。 女性から男を誘うのははしたないという道徳観の持ち主のせいか、ハーリを無理矢理思いのままにするつもりはないようだが、その言葉は実質的に命令だ。 ハーリはどうしたらいいのかわからないまま寝台に腰を下ろした。 早速カナンが身をすり寄せてくる。ワインくさい息が髪に吹きかけられる。 何とも肉感的な芳香と熱い肌。ハーリの心にはフィンがいるのだが、男の本能は向こうから誘ってきたこの機会を逃すなと遠慮なくハーリを煽りたてた。昨夜のこともある。十七歳の肉体は次に起こる展開を期待して、主の意思を裏切って猛々しく鎌首をもたげた。 しかし―――― そこで、カナンの動きがぴたりと止まる。 「…………?」 「何をしている」 と、不満げに言われた。 「何と言われても…………」 「こういう場合、男の方から動くべきであろう」 「は、はい…………」 ハーリはカナンの体に腕を回した。 固く引き締まってこそいたが、そこはやはり女性、幅も厚みも思っていたよりずっと細く、抱きしめた手応えはやわらかく、しかも相手の方が自分より座高が高いので、開いた胸元をもろにのぞきこめる体勢になり、これはフィンもマリエもましてレンカごときは到底及びようのない大ボリュームのふくらみ、その谷間がありありと目に飛びこんできて、ハーリの脳髄は沸騰し、その熱蒸気の彼方にフィンの姿は薄れていった。 常日頃の温厚な性格に似合わず、情欲のままに押し倒し、むしゃぶりつきたくなったハーリだったが―――― 「早くしろ」 居丈高に言われて、おのれを取り戻した。 こういう時ぐらい色っぽい声を出してみせたらいいのに。そんなことをチラリと思う。 けれども、すぐにその思いは消えた。 「は、早く」 カナンの声がかすかに震えたからだ。 脂ののった柔肌ばかりに意識を奪われていたハーリは、その時はじめて、カナンが激しく緊張していることに気がついた。 体格から腕力から気迫根性に至るまであらゆる意味で男勝りのカナンが、はるかに年下、少年のハーリに抱きしめられただけで半ばパニックに陥り、めちゃくちゃにわめいて暴れだしてしまいそうな自分を抑えるのが精一杯になっているのだった。 不機嫌そうな声音はひどく取り乱していることを悟られまいとしているからであり、つり上がった眉はどういう顔をしたらいいのかわからないからだ。 そうと気づいて――――笑いがこみあげてきた。 「何がおかしい」 睨まれたが、その顔もまた可笑しく感じた。こわくないもんと精一杯の意地を張って暗い夜道を歩いてゆく幼女のようにも見えた。 「何がおかしいと訊いているんだ!」 カナンは真っ赤になって怒鳴る。それがさらにハーリの笑いを誘う。 「ええい、笑うな! 黙れ!」 とうとうつかみかかってきた。押し倒されてもまだハーリは笑い続けた。止まらない。 カナンは拳を振り上げた。 らしくもなく、隙だらけだった。ハーリはたやすく二の腕を押さえ、体をずらして上体を引きこみ、体を入れ替えてカナンを押さえつける姿勢を取ることができた。猛烈な鍛錬の成果である。 カナンは武人の顔になった。 「この……!」 これでカナンを自由にしては、今度はハーリがひどい目に遭う。一度得た優位を手放すまいとハーリは必死になり、カナンも激しくもがき、二人はしばらく猛烈にもみ合った。 「………………」 「………………」 抱き合った姿勢のまま、どちらともなく動きを止める。 血の気をのぼせ、汗ばんだカナン。 その瞳に、もう緊張の色はない。 逆に、はっとするほどに澄みきった、穏やかな光がたたえられていた。 「少年。………………私では………………いやか?」 ハーリの胸が高鳴った。それまでにまったく感じたことのない種類の動悸だった。 顔がみるみる熱くなってくる。 これは止められない、止まらないという予感めいたものが脳裏にきざした。 すぐ目の前で、カナンの唇が甘やかな言葉を紡ぎ出す。 「お前なら…………いい。 フィンのことが好きでもいい。 今だけだ、今だけ…………………………頼む…………」 寝台の上で、二人、視線を重ねる。 自然と体が動いた。 互いの腕に力がこもり、体を密着させてゆく。 すぐそこにカナンの顔が来た。 カナンは目を閉じ。 ハーリもまた、まだうっすらと口紅がついている、淡い色合いの唇だけを脳裡に結晶させながら、ゆっくりと目を閉じた。 唇と唇が重なる―――― 瞬間。 「待てーーーっ!!」 カナンが金切り声を張り上げた。 ものすごい力でハーリは突き飛ばされ、寝台から転げ落ちる。 「ま、待て、頼む、待ってくれ、ダメだ、ダメ、やっぱりダメだ!」 カナンは絶叫すると、寝台の上に体を丸めてぶるぶると震えた。 「私、わっ、私は、まだ、その、お前のことが嫌なわけでは全然ないが、やはりまだ、心の準備が、その、家があるわけでもなく、育ててくれる乳母もおらぬし、手配するにもこの街で今の我々の立場ではおいそれとはいかずそもそもいつどこへ赴くことになるかもわからないというのにそんなわけには」 「痛てて…………どうしたんです」 身を起こしたハーリに、今度こそカナンはまぎれもない恐怖の目を向けた。 そして言う。 「すっ、すまない、だが私は、どうしても、まだ子供は作りたくないのだ!」 「…………子供?」 確かに、ハーリはカナンとそういう行為をするつもりになっていた。 だが、まだ服も脱いでいないのに……。 と、そこで気がつく。 おびえるカナンは――――裸にむかれた女が、せめて乳房や秘所を隠して男の獣欲をそそるまいとするかのように――――口を、両手でふさいでいる。 (口?) ひらめいた。 ハーリの顔が、引きつった笑みに埋め尽くされる。 「あ、あの…………まさか……………………まさか、カナンさん………………どうやったら子供ができるか、ご存じですよね?」 「あっ、当たり前だ!」 と、ふさいだ手の平の下からもごもごとカナンは答えた。 「おっ、男の、違う、愛し合っている男と女が、その…………なんだ、口と口とを合わせたら……!」 「………………」 深い深い沈黙が落ちた。 「ぶわーっはっはっはっはっは!」 扉の向こうから、ものすごい笑い声が響き渡った。 「ぎゃはははは、あーっはははは、死ぬ、死んじゃう、笑い死ぬぅ! 最高! わははははは!」 「この声は!」 ハーリは扉に飛びついた。 開くと、そこに―――― 床に丸まってひくひくのたうっているレンカの姿があった。 その後ろには同じく腹をかかえているマリエ。岩のような顔つきをかすかにゆるめて、懸命に笑いをこらえている風のオグ。 そして長剣をたずさえたフィン。何故かガラスのコップを持っている。いつも通りの無表情だが…………コップは盗み聞きにもってこいの道具になるのだ……。 総身に冷や汗が噴き出した。 「なっ…………隊長………………どうして……!」 懐の護符に手をやる。連絡はしていない。 レンカが涙をぬぐいながら言ってきた。 「バーカ。あんだけの騒ぎ起こしたんだもん、人に訊いたらすぐに、棒持った大女だったって教えてくれたわよ。あとはマリエとオグ呼んで、ちょっと歩き回るだけ。すぐここにたどりついたわ。 そしたらあんたがまた面白いことやってるじゃない。これはじっくり見物しなきゃって。そしたら、そしたら………………ぶわーっははは!」 また腹を押さえてへたりこむ。赤い髪の輪がぐらぐら揺れる。 「カナン、あんた、なに、これまで口づけで子供できるって本気で思ってたわけ? あたしとハーリがちゅーしちゃったら、あたしのお腹ぽんぽこりん? いやあ、頭ん中だけ恋に恋するお年頃だと思ってたら、そっちの知識も乙女なみ! あはははは、ははは、ははははは!!」 「く…………」 カナンが異様なうめきを上げた。 その肌に、顔に、みるみるものすごい赤みがさして、耳の先まで真っ赤に染まる。 短い金髪が残らず逆立ち、激しく煙が噴き出した。 「こ、こ、この、のぞき魔ども…………!」 棒をひっ掴み、猛然と飛び出す。 「許さん!」 「きゃあ、お子様が怒ったぁ!」 レンカはもちろん、マリエ、オグまで逃げ出した。それほどの剣幕だった。 「ええい、待たぬか、この不埒者どもめが! 今日こそ我が棒術の餌食にしてくれるわ! 待てええっ!!」 雷鳴のごとき怒鳴り声はたちまち階下に消えてゆく。凄まじい破壊音、逃げまどう人々の悲鳴がこだまする。 一人残されたハーリは呆然と立ちすくんだままでいた。 ――――その前を黒い影がよぎる。 「隊長?」 フィンだ。 ふらふらと、吸いよせられるように寝台へ向かってゆく。 肩に吊っていた剣を投げ出し、顔から敷き布団に倒れこむ。ごろんと転がり、大の字に。 「あ、あの……」 「ん」 手に持っていたコップを突き出す。 ハーリはうろたえ、それから床に置いてある酒壺に気がつき、注いだ。 フィンは上体だけ起こして葡萄酒をくいっと飲み干すと、秀麗な眉目をだらしなく歪め、また寝台に顔を埋めた。 「あの……隊長?」 「……この部屋、一晩借りてあるのだろう?」 「え、ええ…………」 「じゃあ寝ていこう」 「あの、でも、隊長、あっちは……止めないと!」 ハーリは部屋の外を振り返った。開け放しの戸口から騒乱の物音が飛びこんでくる。今頃階下は地獄絵図だろう。窓の外から、衛士が吹き交わす笛の音も聞こえてきた。 「放っておけ」 「ですが!」 「カナン一人なら危険だが、みんなそろっているなら問題ない」 フィンの声は限りなく落ちついていた。 「カナンも、あの様子ならもう大丈夫だ」 「そうなんですか?」 「ああ。ためこんでいたものを吐き出したらすっきりする。私たちでは駄目だが、お前になら全部言えるだろうと思っていた」 カナンの咆吼が響いた。どうやら店の外に出たようだ。 「絶好調」 ハーリはフィンを感動の面持ちで見つめた。 「隊長…………ぼくに単独行動させたのは、そのために…………そこまで考えて…………さすがです…………」 だがフィンは、 「いや。偶然」 「え」 「いいから、来い」 避ける間もなく腕が伸びてきて、引きこまれた。 昨夜と同じように、抱きつかれる。 今度は灯りがちゃんとある。漆黒の髪、漆黒の瞳、雪のような肌。美貌が、カナンと逆に下から見上げてくる。 からみつく腕に力がこもった。 「お前は私のものだ。カナンには渡さぬ」 「え、え、え…………!?」 「明日は冷えそうだ」 「あの……」 「ぐう」 ――――もう眠っていた。 ハーリは途方にくれた。 物事を深く考えているのかそれとも行き当たりばったりなのか、全てわかってやっているのかそれともたまたまうまく行っているように見えるだけなのか、さっぱり見当がつかない。 みんないるなら問題ないと言う先の台詞も、仲間を信頼しているというより、自分が楽をするためだけに言ったようでもある。 お前は私のもの。 ハーリの脳裏にその声は幾度となく繰り返される。 胸の高鳴りが止まらない。 だが、単にハーリを暖房器具と見なしているだけとも考えられる。その可能性の方がはるかに高い。 (どっちなんだろう) 悩み続けていると、頭がぼうっとなって、眠くなってきた。 (まあ…………いいや…………) ハーリは考えるのをやめると、とりあえずはフィンとくっついていられるこの幸福をたっぷり味わうことにして、安らかに目を閉じた。 眠りこむ直前、カナンの顔がよみがえった。 もしキスしていたら、カナンはこのような“浮気”を決して許すまい。 未遂でよかったと、心の底からハーリは思った。 ※翌日、カナンは昨日の大騒ぎなどなかったことのように、普段通りのさっぱりした態度に戻っていた。 けれども、フィンと一緒に帰ってきたハーリを見るなり、耳まで裂けるような笑みを浮かべた。 「朝帰りとはいい度胸だ。それだけの元気があるなら、まだまだ厳しくしても大丈夫だな」 外へ引きずり出される。 容赦なく叩き伏せられ、二十回近く地に這わされた後――――。 いきなり抱き寄せられた。 「フィンと寝て、どうだった?」 「う…………」 「わかっている。どうせ枕にされただけだろう? レンカが賭けをしようとしたのだが、誰ものらなかった。私もだ。あいつが眠る以外のことをするはずがない」 「いや、その……」 「そして、お前も……これも賭けにはならなかった」 「何だって言うんです」 「お前も、フィンに手を出すことはできなかった。そうだろう?」 「……………………」 「やっぱりな」 カナンはそこで優しく笑った。 「少年。フィンに飽きたら、いつでも私のところへ来い。待っているぞ。――――ただし」 笑顔のまま、カナンは腕に力をこめた。 ハーリの胴がきしみ、足が宙に浮いた。 「来るときはお前の全てを賭けて向かって来い。もし未練を残したままだったり、ちょっとつまみ食いしようなどという低劣な心持ちであったりしたら――――こうだ」 めきっ。 ハーリは二つに折れ、泡を吹いて悶絶した。 |