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富貴佳器銘漏彩碗
この碗は、本来金襴手の装飾が施されて完成するが、その金襴手の装飾が省略されたまま(これを漏彩と呼び明代に初出がみられる)出荷されたものと思われる。金襴手は明代中期頃から盛んになり、金彩のある五彩磁につけられた呼称であるが、「江西省大志」巻七「陶書」によると「市は価を憚(はばか)らず、・・・十余金、当(まさ)に家の産に中(あた)る」とある。
金襴手は富裕層向けに作られたが、一般向けには赤地、緑地の上絵や金襴手の装飾をせずに安価に流通した品々があったことを物語っている。つまり意識された漏彩といえる。
平凡社刊『中国の陶磁H・明の五彩』に萌黄地金襴手の碗が紹介されているが、この碗の内側口縁には四方襷、見込み中央には二重円圏内に月下の菊と蝶を慣れた筆使いで描かれている。それに対して入手した写真@の碗の内側口縁には四方襷が同じように描かれているが、見込み中央は二重円圏に菊と蜻蛉が描かれ、僅かながら違いがある。高台内には「富貴佳器」の青花銘が入っており、外側面に土銹跡があることから発掘品である。口径は12.2cmで日本の伝世品と同径である。
この碗はチェンマイ滞在中に、メオ族のチャイワットさんから入手したものである。彼の郷里は、中西部のミャンマー国境の町メーソトから20km程南下した、バン・チェディコー村である。メーソトまではチェンマイから飛行機もあるが、当時は週2便でスケジュール調整の対象にものぼらない。従って国道106号を南下し、途中国道1号に合流して更に南下すると、タクという町に着く。その町の交差点を右折して、ミャンマー国境方向に向って西進するとメーソトに着く。
チェンマイからバスでメーソトに向かい、シーロ(4輪の乗合)に乗り換えてバン・チェディコー村に着くまでに8時間かかると云う。
チャイワットさんから入手した漏彩の富貴佳器銘碗は、バン・チェディコー村の畑から出てきたとのことである。彼によると時たま畑から、皿や碗の磁器が出てくるとのことだった。
メオ族は中国南西部から東南アジア諸国の北部地域に分布している。メオ族は自称モン(Hmong)といい、焼畑耕作を行いながら雲南より、山伝いにゆるやかな移動をつづけ、18世紀頃にタノン・トンチャイ山脈中(ヒマラヤ最東端から南へ連なる山並でタイ-ミャンマー国境となっている)にたどりついたとするのが定説となっている。以下勝手な推測ながら、チャイワットさんの何世代か前の先祖達が、これらの磁器類と共に中国から移って、このバン・チェディコー村に居を構えその先人達の足跡の証が発掘されたと思うと、これらの皿や碗それぞれに歴史が宿っていることになる。
そのチャイワットさんからメオ族の正月祝いに是非きてくれと、誘いを受けた。来てもらった時には、まだ2〜3点の発掘品があるので見て欲しいとのことであった。
当時のタイ西部国境は、カレン族開放戦線やミャンマー政府軍がタイへ越境しての戦闘はなく、比較的落ち着いていたので、彼の郷里へ行ってみることには何の不安もなかったが、メオ族の正月はタイの祝日でも何でもなく、結局3〜4日の休みをとることができず断念した。
誘いを受けたとき、数々の写真で正月祝いの様子を説明してくれた中に歌垣の様子が写っていた(写真B)。日本でも万葉集にでてくるように、男性と女性に分かれて歌を掛けあっている写真である。
男性の服装は洋服が多いが女性はメオ族の民族衣装である。写真を見て面白かったのは、服装は民族衣装で履物は西洋式の靴、このアンバランスが何ともいえない。何故伝統的な履物を履かないのかと、彼に聞いてみようと思ったが、日本人の考え方による質問は愚問かと思い、聞くのをやめた。
結局4年半の赴任期間中に、このバン・チェディコー村を訪れることができず、発掘品も見れずにおり、残念な想いが残っている。この話には続きがある。記憶が定かではないが、'98年頃に知人のタイ人から”また国境近くの山中から中国古陶磁器が発掘されたらしいですよ。新聞に載っていました”とのこと。
よく聞くと、メーソトで'84年のソンクラーンの時、ある寺院での露店にメオ族の人が、山で掘った赤土まみれの焼物を広げていたと云う。これが宋・明の青磁や青花磁器であった。後で分かったことだが、この焼物を掘り出したメオ族の村はメーソトの南、ウンパンへ向う道路沿いのムーサーというところ。今回の新聞記事の場所がその場所と同じかどうか聞き漏らしたが、それが最近また発掘されたとの記事だったらしい。
この話を聴いて早速地図をみると、ムーサー村は載っていない。ウンパンという町は、チャイワットさんの故郷より南である。以上の話しは、チャイワットさんから漏彩の富貴佳器銘碗を入手した当時は知らず、後日聞いた話であるが、それを聞いて益々何とか機会をみつけてバン・チェディコー村訪問の想いはつのっている。
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