「千尋ちゃん、25メートル泳げるなんてすごーい」
ぼんやり飛行機雲を見上げていた千尋は、カナヅチの友人に声をかけられて、
「あはは。あたしも去年は全然泳げなかったよ。今だってちゃんと泳げるわけじゃないけど、できるだけがんばろうと思ってばたばたやってるだけ。ともちゃんも泳げるようになるよ」
と水泳キャップをかぶりなおした。
「あたし15メートルしか泳げてないし…、なんでだろ? もうプールも飽きちゃったしなぁ。吉村さんみたいにちゃんと理由があれば休めるのに」
とも子はプールサイドにもたれながら、アーケード下で見学している吉村カオリを見た。隣のクラスの吉村カオリは肌が弱く、プールの塩素が駄目なのだ。
「むかし溺れかけたのがトラウマになっちゃって泳げないんです…なんてかっこよくない? 過去に傷のある女! ふふ」
「あ、溺れかけたことあるよ、おじいちゃんの家の近くで。すごい苦しいんだから。そのあとお昼に食べたもの全部もどしちゃった。今日で夏休みのプールは最終日なんだから、我慢しなよ」
千尋はどぼんと頭のてっぺんまで潜った。体を丸めて固くしていると、プールの水を排水している音が聞こえる。水の底には波の陰が落ちていた。きれい―――前は泳ぐのが苦手だったのに、どうして泳げるようになったんだろう。どうしてこんなに水が好きになったんだろう。泳ぐ辛さは、水の中にいられる懐かしさでかききえてしまうのだ。神隠しにあったとき、何かあったのかな。
荻野一家が引越しの途中で失踪したのは、この街でささやかなニュースとなり、千尋が3ヶ月おくれで転入した直後は教師にまでそのことを尋ねられた。もっとも、千尋はほとんど忘れていて答えられなかった。それから、一年が経った。
「千尋ちゃん。どこ?」
とも子の足が見えた。
「きゃあ! あはは、やめて!」 とも子が叫んだ。「いやだ千尋ちゃん! くすぐっ、あはははは」
とたん、とも子は足を滑らせて水に飲みこまれた。入れ替わりに千尋が水面に飛び出し、顔の水を切った。とも子も出てきて顔をぬぐった。
「千尋ちゃん! このお、やったな!」
はげしい水のかけあいっこがはじまった。
おかげで、ふたりともすっかり疲れてしまい、文房具を買いに行く約束はまた明日になった。
「じゃあ、バイバイ。また明日!」
と、千尋は分かれ道で手を振った。とも子の家はもう少し学校から離れたところにあるのだ。街は丘陵の中に拡がっているので、学校から千尋の家までは等高線をたどるように進む。
「ばいばい」
とも子も手を振り返す。
髪と、ビニールのプールかばんの中にはまだ塩素の、夏の匂いが残っていた。8月の太陽に照らされたアスファルトは目玉焼きが焼けそうに熱かった。靴の裏からそれが伝わってくる。―――早く帰ってアイスを食べよう。冷たい風でもふかないかな。
後ろから柔らかな風が流れた。はっとして千尋はビニールバッグを抱きしめ、振り向いた。そのまま風は通りすぎて、脇の家の庭木を揺らした。葉っぱが風にのって真っ直ぐ道を通り、崖から空へ飛び立った。そのままくるくる、大きく小さく螺旋を描き、とうとう落ちずに行ってしまった。千尋は崖へ近づいた。ガードレールに手を置き、熱さにびっくりして、ビニールバッグをガードレールにあてた。そうやっている間に葉っぱはもうみえない。風は行ってしまった。
ふと真下に目をやると、ブロッコリーみたいな大木の頭が見えた。覚えている。”神隠し”にあったとき、お父さんが運転してて通ったところの木だ。あの根元を車で通って神隠しあったのだ。その先には変な石の小鳥箱みたいな(お母さんの言うには”ほこら”らしい)ものが道の脇に置いてあった。その先にはずんぐりした石像があった。その先には…
「トンネル」
トンネルの先がどうしても思い出せなかった。お母さんに聞いても、お父さんに聞いても気味悪がって思い出そうとしないのだ。気付けばガードレールに直接手を置いていて、掌が赤くなっていた。
諦めたような気持ちになって、千尋は家へ帰った。ひんやりした家の空気を吸いながら、台所へ行き、冷凍庫を開けた。台所ではお母さんが夕飯の仕度をしていた。
「千尋、もうすぐ御飯だから食べ過ぎないようにね」
「はぁい」
千尋はイチゴ、チョコ、バニラのアイスのうち、バニラを選んでくわえた。
「ねえお母さん、明日ともちゃんと幸子と遊ぶの」
「へえ、何時から?」
「お昼食べてから。でね、下の森で遊ぶの」
ばたんと冷凍庫を閉めた。下の森、というのは、あの大木のある、荻野一家が神隠しにあった場所だ。
「下の森で?」
見る間にお母さんの表情が険しくなった。ふだんでもお母さんは厳しいのに、怒ると、千尋はびっくりして悲しくなる。だが、今回は簡単に引きさがらなかった。
「そう、下の森。だってともちゃんと幸子が誘うんだもん」
「あそこは危ないから駄目って言ったでしょう」
「大丈夫」
「大丈夫じゃありません。引越しの日にあそこへ行ってどうなったか知ってるでしょう。中は普通の草原だったけど、外に出たらちょっとした浦島太郎になってたじゃない。また超自然現象だとか言って騒がれるの、いやよ。お母さん」
「でも」
「でもじゃない。千尋がいなくなったらお母さんとお父さん困るわ」
「いなくならないよ。奥まで行かないようにするから。みんなあそこで遊ぶのにどうして千尋だけだめなの?」
これは嘘だった。荻野一家の事件があってから、小学校ではあそこを”危ない区域”として児童に教えていた。下の森で遊ぶのはクラスの悪ガキだけだ。
「よそはよそ…あそこは危ないって、千尋がお友達に教えてあげなさい。駅のほうで遊んだら?」
もう言うことが見つからなかった。千尋はしょげて、2階の自室へ上がって行った。
バッグを置き、アイスをかじりながら、千尋は蒸した部屋の空気を入れ替えた。その間ベッドへ座るのは暑くていやだし、千尋は部屋をうろうろした。残り5ページになった夏休みのドリルを手にとってパラパラめくる。机に置く。それから、プールで濡れたのを乾かすため、ひとつくくりにしている髪をほどいた。
千尋の部屋の机は窓に面していたが、そこからは下の森は一部しか見えない。空はずいぶん綺麗に見えるのだが。髪留めの輪ゴムを振って乾かし、机の左端の小箱へ入れた。この小箱の中はふたつに仕切られていて、片方には普段よくつかう髪留めがいくつか入っている。もう片方にはおばあちゃんからもらった可愛い生地のお財布と、自分で買ったおもちゃの指輪が入っていた。おばあちゃんにもらった可愛い、赤いがま口の財布を手に取り、開けた。中にはとっておきの髪留めが入っているのだ。
神隠しに遭ったあの日、いつのまにか付けていた紫の髪留め。これが一番綺麗で気に入っていた。最初のうちはそれで髪をくくっていたが、なくしたり弱ったりしたら困るので小箱の中にしまってある。神隠しの唯一の思い出だった。
千尋はそれを元のとおりにしまった。部屋の空気はずいぶん爽やかになった。そのとき、やはり明日は下の森へ行こうと千尋は決めた。
翌日の午後、千尋の母はろうかを走って玄関へ向かう千尋に声をかけた。
「千尋! 下の森は行っちゃだめよ」
「はーい! 駅のほうで新しいふで箱買うことにした」
「そう。それから、さっきおじいちゃんから電話があって、明日来てくださるんだって。晩から天気が悪くなるからあんまり遅くならないようにね」
「はぁい」
玄関のドアを閉めると同時に、千尋はそう返事をして出た。日差しはゆるかったが晴れていて暑かった。
白いTシャツにオレンジのキュロットスカートが映えて、千尋は満足した。待ち合わせ場所の学校へ向かった。昨日プールへ行ったばかりの道だが、一人で行くとまたちがった風に見える。この街は新開地も多いが、全体的にゆったりとした道幅で自然も多かった。子供を育てるにはよい環境だけど車でないと買い物にいけないのが手間で仕方がない―――と、これはお母さんが言っていた。唯一都会らしい店が出ているのが駅の周辺、学校の向こうだった。
もうじき学校だ。ゆるやかな坂を登って校門をくぐった。全校生徒が300人の古い小さな小学校だが、千尋は気に入っていた。校庭には誰もいない。早く来すぎたのかな? かえるの形の腕時計を見ると、1時10分だった。千尋は校庭を見回し、校舎よりの池のあたりへ走って行った。
池のふちに昇って覗き込むと深緑の水の中に鯉が見えた。とん、と地面におりて左手の児童昇降口に目をやると、とも子と幸子が見えた。
「ともちゃん! 幸子!」
千尋は駆けて行った。
最初にとも子が振り返り、
「千尋ちゃんだ」と幸子に示した。「ちーひろちゃん」
「おう、ひさしぶり」と幸子は千尋の肩をたたいた。幸子は夏休みの最初から昨日まで家族でグァムに行っていたのだ。
「ひさしぶり、幸子。日焼けしたねえ」
「へへ。お土産買って来たよ。千尋の分」
もう とも子には渡した後のようだ。
「ありがとう」千尋は5センチ四方の平べったい紙袋を受け取った。膨らみからしてキーホルダーのようだ。「後であけるね」
「うん、そうして」
昇降口の玄関は陰になっていて、下は全面詰めたい石のタイルなのですごしやすかった。
とも子が幸子に説明し始めた。
「千尋ちゃんとの約束では、これから駅前で文房具買ってプリクラとろうってことになってたの」
そこに千尋が割って入った。
「そう言ってたんだけどやめにして下の森へ行かない?」
「ええっ」と幸子。「あそこ、危ないから行っちゃだめだって先生が言ってたとこ」
「でも行ってみたくない?」
とも子は、
「千尋ちゃんが神隠しにあったとこでしょう。そういうの怖くないの? オバケが出てきたら、あたし…」
幸子が目を大きく見開いてとも子へ向き直った。
「ばかだなぁ、あんた、小6にもなってお化け信じてんの」
「だっているかもしれないじゃない。千尋ちゃんは神隠しにあったんだよ」
「そりゃあそうだけど…」
幸子は何か上手い言い方を探した。
「あんなの何回もあるわけないよ。あたしは怖くない」千尋は大きな声で言った。
幸子はそんな千尋を見て、ニッと大きな口で笑った。
「あたしだって怖くないよ。行ってみる? 一回何があるか見てみたかったんだ。もしかしたら9月のお楽しみ会で肝試しに使えるかもしれないよ」
とも子は不安げに身をすくめた。
「みんなが行きたいなら行ってもいいけど。あたしがいなくならないように見ててね?」
20分後、3人は大木の脇にいた。県道の脇道は終わり、ここからは土の道だ。道は林の中へ続いており、真ん中は車に踏まれないので草が茂って盛り上がっている。とも子は幸子の影に隠れるように進んだ。
「大丈夫。クラスの男子がここへよくカブトムシとりに来るって言ってた」
と幸子は声をかけてやるのだった。
同じような林に囲まれた道をしばらく行くと、先に石のほこらの群があった。
「ね、石の箱がある」幸子が言った。
「あれは”ほこら”。神様を祭ってるんだって。お母さんが言ってた」
道が急に細くなってきた。逆に空を覆うははどんどん増えて、千尋たちの頭をなでるくらい低い。とも子と幸子は右手に、1メートルくらいのずんぐりした、気味の悪い石の像を見つけたが、千尋が先に行ってしまうので目を見合わせただけでまた歩き出した。
「千尋、そろそろ帰ろう」と幸子が言った。
「もう少しだけ。奥に何があるか見たいの」
「そんなこと言っても…」
幸子も少し怖くなってきたのだ。蚊に刺されちゃった、と
とも子は腕を掻いている。
千尋が前を指差した。
「あ!」
「なに、なに」あんまり驚いた風なので幸子は慌てた。「何かあった?」
「ない」
「何が?」
「あそこに赤い建物があって、トンネルになってたの。どうして?」
石像が道の真ん中にあったのでそれが分かった。千尋は石像に近寄った。前と後ろの両方に顔のある、気持ちの悪い石像だ。間違いなかった。それにここまで一本道だったから間違いようがない。
「どうして?」
トンネルのあったあたりはずっと先まで道が続いていて、50メートルほど先で完全に獣道になり、消えていた。道には建物を崩したあともなかった。千尋は言葉をなくして立ち尽くした。確かに一年前、神隠しにあったのだという事実を、強く感じた。”あるはずのない”トンネルを通って、千尋は神隠しにあったのだ。
「…帰ろうよぉ…」
とも子が心細い声を出した。鳥の声が遠くで聞こえた。草と腐葉土の匂いが蒸し返すように3人を包んでいた。雨が近い。
「そうだね、帰ろうか」
残念だったが納得した。それに少し怖かった。ひょっとしてと思い、何度も振り返ったがトンネルは現れなかった。元の道を逃げるように通り、3人はほっとして森を振り返った。下からはわからなかったが森はこんもりと大きく高く盛り上がっている。なるほどあんなに大きな木のある、人の入らない森なら不思議なことのひとつやふたつ、あるかもしれない。千尋はそう思った。
とも子と別れ、下の森から離れると、幸子は笑顔を見せた。
「まったくとも子も大袈裟だよなぁ。帰ろうよォ、なんて泣き声出して」
「ははは」
千尋はすっかり強がっている幸子のほうがおかしかった。
「千尋、ヘチマの観察おわった?」
「うん。終ってるよ」
「お願いっ、うつさせて」
幸子は手を合わせて軽く身をかがめた。
「他のは旅行中に終ったんだけど、帰ってきたらヘチマが枯れてて」
「どうしようかな」
「お願いお願い。幸子のは絵が下手くそなんだよ」
「いいよ。でもあたし、計算ドリル残ってるんだよなぁー?」
「わかった! あたしのドリルうつしなよ。明日千尋の家に行っていい?」
分かれ道まで来たのでふたりは立ちどまった。
「明日はおじいちゃんが家に来るから」
「じゃ、あさって…は私がピアノの日だ。しあさっては?」
幸子がこんなに急いでいるのは、夏休みがあと一週間しかないからだ。
「その日でいいよ」
「決まり。じゃーね」
「ばいばい」
千尋は幸子と別れて家へ入った。
「ただいまー」
家の中に目をやっても緑色の残像が見えたりしなかった。外が曇っているせいだろう。千尋は靴を足にひっかけてくつを脱ぎ、テレビの音がする部屋へ顔を出した。
「ただいま」
お母さんがいた。
「お帰り」ワイドショーがちょうどコマーシャルに切り替わったので、お母さんは千尋に話し掛けた。「楽しかった? 何買ったの?」
「何も買わなかった。気に入ったのがなかったから」
千尋は柱にかかっている時計を見た。午後4時だった。それから何気なくポケットへ手をやって、
「ないっ」
叫んだ。
「どうしたの」
お母さんがテレビから目を離して千尋を見た。
「忘れ物しちゃった…。とってくる!」
「雨が降るから傘もっていきなさい」
「はい!」
千尋は自分の水玉の傘を手にとると、外へ出た。雨の匂いがした。幸子のお土産のキーホルダーは、下の森へ行ったとき、確かにポケットにあった。帰り道で落としたのだ。まだ中身も見ていないのに落としたなんて学校でとても言えない。雨が降ったら汚れて駄目になるかもしれない。千尋は小走りに、注意深く地面を見ながら進んだ。とも子の家の前を通り過ぎ、県道へ出ても、目に入るのは空き缶と雑草、雨にさらされた雑誌ばかりだった。大木の根元まで来た。曇り空になって森はさっきよりいっそう深く感じられる。
千尋は迷った。さっきは3人でもおっかなびっくりだったのに、今は一人で、しかも雨が降りそうだ。あきらめようか? 千尋は自分に問い掛けた。キーホルダーぐらいで危ない目に会うのはやめたほうがいいかな。けど、やめたらきっと後悔する。それに今度こそ、一人で行けばトンネルが見つかるかもしれない。こちらの方は半信半疑だった。
尻ポケットに手をやった。今日、神隠しにあった場所へ行くので、何かあった時のためにと用意しておいた、紫の髪留めが入っていた。
―――これをつけていれば勇気が出てうまくいく、ような気がする。おねがい!
千尋はぎゅっと髪留めを握りしめてから、今までくくっていた髪留めを解いて”勇気の出る髪留め”で束ねなおした。気合は入った。千尋は足を踏み出した。
道が暗くなっていた。見上げるとさっきは葉を通して緑の光が注いでいたのに、今は葉の黒いくっきりした輪郭が見えるだけだ。空気が重く湿っていた。
千尋は地面を見詰めて歩き続けた。ここは人が通らず、ゴミが少ないので余計なものを気にせず進めた。さっきは鳴いていた鳥が今は静かだ。草木から発する青臭い匂いをしきりに嗅いだ。石のほこらと一つめの像を通り過ぎると道に草が増えた。木の板が落ちていたのでひっくり返してみたが、小さな虫がいただけだった。
ふと顔をあげると赤いものが見えた。
―――トンネルだ! 千尋は体中にぞっと怖気が走るのを感じた。石像の向こうに、赤い壁の瓦屋根の建物が、両側の木に埋もれるように立ちはだかっている。しばらくその場に足がすくんだ。帰りたい。帰りたい帰りたい帰りたい帰りたい。
しかし後ろも横も暗い森だし、確かめなければならなかった。せっかくここまできたのに、もしトンネルのすぐ前にキーホルダーが落ちているとしたら、あきらめきれない。怖いが、トンネルの中も確かめたい。あそこを通るとまた神隠しに遭うのだろうか。
一歩一歩近づいた。やっぱりそれはそこにあった。壁はしっかり地面へ入っていたし、土が掘りかえされたような跡もない。
千尋は傘を両手で持ち、おなかの前で強く握り締めた。ふたつ顔のある石像の右側を通ってトンネルへ近づいた。怖くてトンネルの中へ入ることはできなかった。壁へ手を触れてみた。薄赤い、ところどころ色がはげてざらついたモルタルの壁に、ひびが入っていた。目を凝らしたがトンネルは真っ暗で、吸い込まれそうな錯覚さえ起こした。風はなかった。前にここへ立ったときは、トンネルが風を吸い込んでいた。
「ひゃっ!」
突然後ろから何か肩に触れた。千尋は飛び上がった。一瞬、誰かわからなかった。毛先が完璧にそろったおかっぱの、着物みたいな―――そう、水干を着た男の子が立っていた。
「…ハク!?」
「驚かせてすまなかった。千尋、元気そうで何よりだ。本当に」ハクは千尋を上から下まで眺めてから、「少し背が高くなったね」
「どうしてあたし、ハク。どうしてハクのこと忘れてたのかしら! 今思い出したの」
ハクは微笑んで言った。
「違う世界には記憶を持ち出しにくいものなんだ。魔法なしで思い出してくれてよかった」
ハクは懐に手を入れ、
「これ、落としていったよ。千尋のものだろう」
例の紙袋を出した。
「ありがとう…」
千尋は受け取った。
「千尋、いま時間はあるか。そなたに話があって来た。歩きながら話そう。それから、もしまたここでトンネルを見つけても通ってはいけないよ。トンネルは油屋の町へ通じているけれど、千尋の行くべきところではない」
「うん」
ハクは静かな声で、はっきりと、流れるように言った。ハクの話し方だった! 千尋の胸は懐かしさと嬉しさでいっぱいだった。あの夏へ帰ったようだ。
「ハク、ハクとまた会えて嬉しい」
千尋にはそれが気持ちを表す精一杯の言葉だった。ハクは表情を変えずに「私もだ」と答えた。ふたりは、千尋が元来た道をたどりはじめた。
つづく
|