千尋を見送ったあと、ハクはなくしてはいけないと思い直し、懐の時計を腕へはめた。ハクはたいてい太陽の位置で時を数えるので時計を身につけたことはなかった。他の神々が悪戯半分でするように、人間に化けて生活したことこそないものの、人間に関する表面的な常識はもっていた。昔、琥珀川に蛍がいたころに遊んでいた子供達は、千尋のように時計や傘なんて持っていなかったが、今ではそれが普通らしい。
ハクはある戯れを思いたち、大木の脇から森へ入って行った。その奥に水の気配を感じたからだ。行くと、足元の土がしめり、踏むと草履にしみ入ってきた。目当てのヤマイモの葉があった。茎と垂直の方向に大きな円形の葉を広げる草だ。
「葉を一枚いただくよ」
ハクは群生している葉の中から頃合のに手を伸ばした。ぷつっと健康そうな音をたて、茎は折れた。太い茎の中ほどを持って葉を上にすると、ちょうど傘のようになった。時計と傘を持ったハクは、人の子のまねをしている自分の姿を思った。
洗面所で紫の髪留めをつけた千尋は、鏡の中の自分を見つめた。ハクに言われたとおりにこの髪留めをしているけれど、昨日のことが夢だったらどうしよう。ハクは本当にいたのだ。そういう男の子がいたことを、ぼんやりと思い出しかけたことはあったが、漫画や夢でみた登場人物だと思っていた。同年代の男の子の中で思い出のイメージに合うような、おとなびた、清かな人がいるはずなかったからだ。でも、昨日のことははっきり覚えている。
ハクは連絡すると言ったけれど、いつだろう? それを聞いておけばよかった。今日? 明日? 一週間後? 何ヶ月も後だったらどうしよう。待ちきれない。昨日は久しぶりに会えたのに、少ししか話せなかった。
「千尋! いつまで顔洗ってるの。早く朝ごはん食べちゃって」
お母さんの声がして、千尋はあわてて食卓へ向かった。朝食はパンとベーコンエッグだった。
「じきおじいちゃんが来るわよ。もうすぐ学校始まるんだから、千尋はそろそろ早起きの癖つけないと」
「うん」
朝食のとき、たいていお腹はすいていないが、千尋は無理してでも食べるように心がけている。朝食を食べないと力が出ない、と実感したのはつい最近だった。背を伸ばしたいので毎朝牛乳も飲む。
千尋がトーストをかじっていると、お母さんはパンの粉を散らさないようにしながら、他の食器を流しに重ねた。
「食べ終わったら自分のお皿くらい流しに出して、マーガリンは冷蔵庫にね。洗濯物干してるからおじいちゃんが来たら声かけてちょうだい」
千尋は、そう言って素早く立ち回るお母さんの足音を聞きながら、牛乳を飲み干した。お母さんは出て行った。
外は昨日より涼しそうだ。素足を椅子の下で動かすと、床のひんやりした面に触れて気持ちがいい。家の中から日差しの鋭い外を眺めるときや、蚊取り線香の匂いを嗅いだときの、夏の気持ちが終ってしまうのは残念だった。一年前に神隠しに遭ったのもちょうど初夏だった。千尋は食べ終えて皿を流しに出すと、部屋のテレビをつけた。おもしろくないので部屋から漫画を持ってきて、ソファーで読んだ。
「千尋もたまには手伝いくらいしてよ。じき中学生になるのにいつまでも子供みたいに」
お母さんが2度部屋を往復して、洗濯物を運んだ。千尋の読んでいる漫画は怪奇物で、夏に旅行へ出かけた男女がお化けと戦う話だった。神隠しといい、やはり怪奇現象は夏に起こるのだろうか。
千尋は、漫画の中の、元気がとりえで自分では全然可愛くないと思っているが、端からみたらありえないほど美人のヒロインと、二枚目のヒーローに、自分とハクを重ねて読んだ。お化けの出る館に、ヒーローとヒロインは仲間とはぐれて2人だけで迷い込んでしまった。ヒーローが「何があっても君だけは守り抜く!」といったとき、玄関のチャイムが鳴った。
「はーい」
と千尋は漫画を伏せて玄関へ走って出た。ドアをあけるとおじいちゃんが立っていた。
「いらっしゃい!」
「おー、千尋。元気にしとったかあ」
家中に響くような大声で言いながら、おじいちゃんは入ってきた。お母さんもそれに気付いて出てきた。
「お義父さん。いらっしゃい。おひさしぶりです、疲れたでしょう」
「いーやいーや、元気は有りあまっとります。なあ千尋?」
何がなぁ千尋? なのかわからないが、千尋はとりあえず笑ってうなづいた。おじいちゃんは場の勢いで話す人だ。おおらかで楽観的な人柄はお父さんの家系らしい。
「これ、土産の菓子です」
おじいちゃんはどっこいしょっと部屋のソファーに座りながら、菓子折りをお母さんに差し出した。
「まあ、ありがとうございます」包み紙を見て、「カステラね。千尋、好きでしょう。よかったわね」
「うん」
おじいちゃんは帽子をとり、禿げ上がった頭をなであげて汗を払った。扇子を出して煽ぎはじめた。
「千尋、元気にしとったか」
「うん」
「学校は楽しいか? 新しい学校にゃあ慣れたか。いじめる奴がおったら、じいちゃんがぶっとばしてやるからな」
「うん。楽しいよ。おじいちゃんは? おじいちゃんちの家の庭の茄子、なった?」
「だいぶん虫がついとったけどな。それだけうまいってことだ。残ってる分送ってやろう。なあ靖子さん。今度茄子送ります」
麦茶と、カステラの皿をふだんより丁寧な手つきで配っていたお母さんは、
「ありがとうございます。楽しみねえ?」
と千尋に言った。
おじいちゃんは暑さが一段落したのか、白い大ぶりの扇子を振るテンポがゆっくりしてきた。千尋は麦茶に手を伸ばした。
「元気にしとったらそれでいい。なあ? 元気にしとったか」
おじいちゃんは誰に言うでもなく、自分のリズムをととのえるためにそうつぶやいた。
お母さんも洗い物を終えると、ソファーへ来て座った。おじいちゃんはテレビで野球を観ていた。おじいちゃんを放って自分の部屋で遊ぶわけにもいかないので、千尋はソファーに寝そべったり、カステラをつまんだりしていた。「カステラ、おじいちゃんの分も食べるか?」と訊かれたが、朝食を食べたばかりでいいかげんお腹がいっぱいなので断った。
千尋は、今度おじいちゃんに会ったら訊いてみようと決めていたことを口にした。
「ねえ、おじいちゃんの家の近くにコハク川ってあったよね」
「ん? あったな」
「どうして埋め立てられたの」
「スーパーが建ったからだ。マンションだったか? 便利にはなったけどなぁ。昔は駅から家まで10軒ほど民家があるだけだったが」
「川の神様って竜なの?」
「川の神様信じてるんか」
おじいちゃんは扇子を閉じ、エラのはった顔いっぱいに笑った。
「布袋様とか、菅原道真神社なら近所にあるけどな」
「それって川の神様?」
「いやちがう。あれ、千尋、さっき何て言った?」
「川の神様は竜なの?」
このくらいの押し問答、年寄りとはよくあることだ。
「川の神様は竜、って確かに言うなぁ。鯉が急流をのぼりつめて竜になるって話も中国にあるけどな」
「川を埋めたら竜はどうなるの」
「…そうだな。川魚とかは皆死んじまうんだから、川の神さんも一緒に死んじまうんじゃないか。じゃなきゃ地元にほこらでも建てて、魂移ししてお祭りするか」
お母さんが、
「千尋はやけに川のこと気にするのね。4歳のとき、おじいちゃんの家の近くで溺れそうになったこと、覚えてる?」
千尋はうなづいた。
「はっきり覚えてないけど。あたしが助かったのは川の神様が浅瀬に運んでくれたからだ、って言う人がいたの」
「ずいぶん迷信深いこと言うのね。誰が言ったの?」
「えーと、友達」
正確には友人が言ったことではなかったが、面倒臭いのでこの際構わない。
おじいちゃんは、ふむ、と座りなおした。
「そういうこともあるかもしれん。じいちゃんが子供のころ、遠出して帰れんようになって困っとったらあの川が見えた。コハク川な。川いっぱいに蛍が飛んでたから藪の中からでも見えたんだ。川をたどって無事家に帰れた」
「おじいちゃんは、神様っていると思う?」
「そうだな。千尋が”神隠し”に遭ったくらいだし、いるんじゃないか? ははは」
おじいちゃんは、自分がうまいこと言えたのが嬉しいらしく、よく笑った。おじいいちゃんは千尋に小遣いをやり、靖子さんせがれをどうぞよろしく、と言って帰って行った。
その日、千尋は早起きして、いつもより丁寧に髪を結った。きゅっと頭がしまった感覚を確かめ、食卓へついた。早い時間(といっても7時半)なので、食べ終わったお父さんがネクタイをしめている。
「あっ、おれ書類持ったかな。書類書類」
「あなたももうちょっと早く起きるようにしたら?」
どたどた居間から出て行くお父さんを追いながら、お母さんは声をはりあげて、
「寝室は探してみた?」
千尋は落ち着いて朝食の焼き魚をほぐしていた。今日はハクに会いに行こうと決めていた。午後には幸子が遊びに来るので午前中に下の森へいくつもりだ。ハクが下の森にいるとは限らないが、他にしようがなかった。昨日おじいちゃんが帰ったあともずっと玄関に注意していたが、ハクは訪ねてこなかった。だいたい、千尋の家を知っているのだろうか。知っていたとしても家の玄関から入ってくるとは限らないし、鳥やトカゲに化けてくるかもしれない。千尋は、水干姿のハクが「ごめんください。千尋はいますか」と玄関から入ってくるところを思い浮かべた。
お父さんを送り出したお母さんが居間に帰って来た。
「今日は早起きなのね」
「うん。これから遊びに行くの」
「これから? あなた最近遊びすぎじゃない?」
こういうときは何も言わないに限る。千尋は急いで食べ終えて牛乳を飲んだ。
「ごちそうさまっ」
靴下を取りに2階へ行った。クリーム色のたんすを開けて靴下を選ぶ。飛び跳ねて片方履いたところで、窓から音がした。
ガタガタガタッ
千尋は動きをとめて窓に注目した。窓と窓枠のぶつかり合う音の向こうに、風の、笛に似た高い音が聞こえる。片方の手に靴下を持ったまま窓に近づいた。空と道路の見える、いつもの景色だ。窓は台風の日みたいに揺さぶられつづけている。千尋は意思を持っているかのような、窓に手をかけ開け放った。突風が正面からふきつけた。頬がぴりぴり震えた。窓の脇にどいたあとも、数秒の間つむじ風は部屋にふきこみつづけた。カーテンが水平に痙攣するような動きでなびいた。風は部屋の中空で素早くうずまき、千尋は目を開けていられなかった。すっと風が凪いで目を開くと、そこにハクが座っていた。
「乱暴な訪ねかたをしてすまない」
ハクは立って、揺れている蛍光灯の紐を押さえた。千尋は、
「待ってたよ! …」
と言いかけて、靴下を片方しか履いていないのに気付き、落としていたもう片方を拾った。決まりが悪いので急いで靴下を履きながら、
「空を飛んできたの?」
「風になってきたんだ」
「飛んでるところを人に見つかったりしなかった?」
「それは大丈夫だと思う」
ハクにくらべて千尋は興奮していた。人に見つからないように会うなんて、かっこいい! そんな風に思った。
ハクは薄桃色の絨毯の上に、軽く膝頭を開いて正座した。千尋が貸したカエルの時計を、ちゃんと腕にはめていた。正面に座るのも変なので、千尋はベッドに腰掛け、首だけハクを向いて話すことにした。
「ハクは一昨日からどこに住んでるの。御飯は食べてる?」
「心配はいらない、私はきれいな水があれば立派な食事になるし、千尋のように毎日食べなくても生きていける。いまはトンネルの傍で見つけた池に住んでいるんだ」
「池? 寒くない?」
そこまで言って、一昨日のハクの言葉を思い出した。”私は川の神だ。濡れても病気になったりはしないから”。
「ハクは風邪ひかないって言ったけど、どうして。油屋では御飯をたべてたし、怪我したりしたじゃない」
「あちらの世界の食べ物と、こちらの世界の食べ物は、似ているようで違うんだ。あちらのは神や妖怪が食べるのに都合よくできている。それに油屋での怪我は魔法で攻撃を受けたからだ、物理的なことでは、少なくとも人間が傷つくようなことでは、私は傷つかないよ」
「体が強いのね」
「少しちがうけれど、まあ、そんなところかな」
「ねえハク…あっ、あたしハクハクって呼んでるけど、コハクだよね、本当の名前。これからコハクって呼ぶね」
「千尋が呼びやすいほうでいいよ。どっちが呼びやすい?」
「そりゃあ、慣れてるから…ハクのほうが」
「じゃあハクだ」
千尋は立ち上がった。階下からお母さんの呼ぶ声がしたからだ。
「千尋! 遊びに行くんじゃなかったの?」
千尋はドアにもたれかかるように、首だけだして答えた。
「やめになったの! お昼から幸子が家に来るから」
振り返るとハクがいなくなっているんじゃないかと思った。振り向いたが、ハクはそこにいた。
「ここは千尋の部屋?」
ハクはゆっくり立ち上がって見回した。千尋は急に、この部屋をハクの目の前から隠してしまいたくなった。ハクは暗い森の中ですごしているのに、千尋は机やベッドに囲まれて暮らしている。家で一緒に暮らそう、なんて、小学生の千尋の一存ではとても両親に納得させることはできない。お母さんとお父さんはハクが恩人だと知らないのだ。犬か猫を育てるみたいに、下の森へ食べ物や毛布を届けるくらいでは解決にならないことも、千尋には分かった。
「ごめんねハク。あたし、ハクの力になれそうなこと、できないかも」
ハクは机の上の、幸子の土産のイルカのキーホルダーを手にもって見ていたが、千尋がそう言ったので驚いて振り向いた。
「力になるって?」
「だって、コハク川はなくなっちゃったし、ハクには、そのぅ。住むところがないじゃない」
「いいかい。私は野宿しているわけではないんだよ。千尋がお父さんとお母さんと暮らすのが一番幸せなように、私も草木や水のそばで暮らすのが幸せなことなんだ。私の故郷もそんな風だったしね。油屋では部屋をもらって生活していたが、あれは油屋で仕事をするためだった。下の森は虫や鳥がたくさんいるし、良い匂いの草花もたくさんある」
「夜、寂しくなったりはしないの」
「しないよ。森には多くのものがいる。にぎやかなくらいだ」
「よかった」千尋はほっと胸をなでおろし、「それでも寂しくなったら、あたしのところへ遊びに来てね」
ハクは微笑んだ。
「そうするよ」
それから、千尋の机の、社会科の教科書に手を伸ばした。
「この本、見てもかまわない?」
「いいよ」
ハクが見たいと言ったのがノートでなくてよかった。字は汚いし、落書きがあったり、友達とやりとりした手紙がはさまっているかもしれない。
「ハク、麦茶もってくるけど飲む?」
気を利かせたつもりだった。
「いただくよ」
「じゃ、とってくる」
千尋は教科書を眺めているハクを残し、部屋を出て台所へ向かった。ガラスのコップに氷を入れて、麦茶を注ぐ音が心地良い。まったく、ハクと自分のお茶を入れる日が来るなんて考えたこともなかった。麦茶を冷蔵庫にしまった。机の上におけば雫が垂れても大丈夫だから、お盆はいらないだろう。廊下に出ようとすると、あやうくお母さんとぶつかるところだった。
「なに、もうお友達来てるの?」
と言うお母さんを迂回して、千尋は答えた。
「うんそう!」
千尋は2階へ上がって行った。
「ハク、ドア開けて。手がふさがってるの」
(お母さんの名前は安易に靖子や)
つづく
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