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3.夏の終わり

 ハクはドアを開けてくれて、千尋は机に麦茶のコップをふたつ置いた。
「千尋はたくさん本を持ってるね」
 ハクは本棚の前に立った。
「そんなことないよ。たいてい漫画だし、お父さんが無理矢理くれたのもあるかな」
「見てもいいかい?」
 ハクが手にとろうとした”別冊マーガレット”を見て、千尋は慌てた。
「だめっ。それはだめ」
 千尋は少女漫画が好きだが、ハクにはわかってもらえないだろう。少女漫画が好きでない人が少女漫画を読むと決まって、馬鹿みたい、と言うのだ。
 ハクは千尋の勢いに驚いて、
「そんなに嫌ならよしておこう。すまない」
 と手を引っ込めた。
「ごめんね。これは、女の子向きっていうか…ハク向きじゃなくて、きっとつまらないと思うの」
 恥かしくて、部屋の隅へ押しやった。こんな説明ではハクも納得しないだろうと思ったが、ハクはそれ以上気にする風も見せない。千尋はほっとした。
 しばらく、ハクがここにある本は誰のものとか、どんな内容かとか尋ねて、千尋はできるだけ答えた。
「ハクは本が好きなの?」
「油屋に行く前は、川を見回りがてら外で本を読むか、絵を見るのが好きだった。油屋ではとてもそんな暇はなかったけど。本の話ばかりして、つまらない?」
「そんなことないよ。油屋に行くまえ、川を見回って本を読んで、それから何してたの? 神様の仕事ってどんな?」
 ハクは昔を思い出すようなそぶりは見せずに、
「川を見回るといってもいろいろあるんだよ。田にいきわたるように水を調節する。魚の卵を守ってやる。増水しそうになったらできるだけおさえなくちゃならない。それでもおさえきれずに、鉄砲水になったら、たくさん動物や人が死ぬから、その者たちの冥福を祈って花を流していた」ハクは笑って、「その一連の働き、水の流れだけでなく、それに関わってくる全ての動きが”川”なんだよ。幾年もやっていたが飽きることなんてなかった」
 千尋は、神様の仕事を訊いたことを後悔した。ハクは千尋よりもずっと昔から強く生きてきたのだ。ハクの言ったことに、よかったねとか、辛かったねとか、言うべきではなかった。ハクが千尋にわかりやすいようにずいぶん話をはしょって話してくれていることぐらいわかったし、正直、大人と子供くらいの差を感じた。
 ハクはそんな千尋の気持ちを感じ取って、彼にしては、明るい声で言った。
「千尋みたいに落ちて溺れそうになった子も助けるから、なかなか忙しいんだよ? この本…”日本の歴史”と”理科自由自在”、借りて行ってもいいかな。すぐに返すから」
「いいよ。どうせ参考書なんかあっても勉強しないしね。えへへ」
 階下から、また、お母さんの声がした。
「幸子ちゃんが来てるわよ! 今いるお友達って幸子ちゃんじゃなかったの?」
「はーい! 今いく!」
 千尋も大声で答えて、
「もうこんな時間…忘れてた! 幸子が、友達が来るの」
「私は帰ったほうがいいね」
 ハクは本を懐に入れた。
「ごめん。また今度遊びに来てね」
 ハクはうなづいた。
「今度は千尋のやる遊びを教えておくれ。私は勝手に出ていくから、千尋も行って」
 窓に手をかけるハクの背中を見て、千尋は部屋を出た。階段を降りていると、部屋からつむじ風のふく音がして、すぐ静かになった。
 千尋は玄関に出た。
「いらっしゃい」
 大きめの手提げ鞄を持った幸子がいた。
「おじゃまします。さっきおばさんが私のこと何か言ってなかった?」
「ううん。幸子ちゃんが旅行から帰ってきたのねえ、とかなんとか」
「そういえば、新学期のお楽しみ会でやる肝試し、すごくいい所借りれることになったの。あとで言うね」
 千尋は部屋に案内した。ハクはもういない。窓は開かれて、カーテンがゆるやかになびいていた。
「あれ私の分? 用意がいいのね」
 幸子は窓の横の机にある、汗をかいたふたつの麦茶を指差した。




 千尋の小学校の校舎は、つい4年ほど前に建てなおされた。千尋が転校してくる前のことだ。前の校舎は木造で、せまかったそうだ。
「それでもね、雰囲気があったの。廊下ももちろん木だから走るとガンガン音がするし、柱の節穴に昔のテストが押し込んであったりしておもしろいの」
 幸子が熱弁していた。千尋はとも子と登校して朝会を待っていた。3人は同じクラスだ。
「だから学校の七不思議はひととおりあるよ。歩く二宮金次郎の像と、音楽室の目が動くバッハの肖像、トイレの花子さん、学校が建つ前は墓場だった説。これだけそろってるのい旧校舎を使わない手はないね!」
 今度の肝試しの計画を話しているのだ。ハクに会い、リンを思い出してすぐわかったことだが、幸子はリンに似ている。面長で大きな口を開けて笑うところや、男ぶってはすっぱな喋り方をするところは特にそうだ。
 今日は2学期の初日だ。クラスの皆は大なり小なり日焼けして、久しぶりに友達と会えた喜びで目を輝かせている。しかし、やっぱりグァムに行った幸子と、野球部の男子連中は飛びぬけて小麦色だった。
 男子が3人、廊下から飛び入ってきて、「来たっ、来た、来た!」と叫んだ。
「何が来たの?」と とも子。
「先生じゃない?」
 と言いながら、千尋は窓際の席についた。
「先生くらいであんなに騒ぐかな」と幸子が言った。
 皆も自分の席につこうとするが、夏休み中に自分の席を忘れてしまった子、宿題を家に置いてきたと焦る子、どれにしてもいつもよりはしゃいでいる。
 男子の8人ほどが廊下側の窓にへばりついて廊下を覗いていた。先生が入って来た。
「おらぁ、先生が来てるんだから座れよ」
 前の教卓から先生に指を指されると、男子連中は笑いながら散った。それでも窓際の子は無理に廊下をのぞいている。何があるのだろう。千尋は一番廊下から離れた席なのでまったくわからない。
「はい、みなさんおひさしぶりです。夏休み中に一人の怪我もなかったそうで、こうして全員の元気そうな顔をみれたことはなによりです」
 西村先生が言った。この男の先生は明るくて、おもしろい話をたくさんするので、生徒に人気があった。以前、一番高い鉄棒で体操選手みたいにきっちり足をそろえて、いくつか技を見せてからは、クラスの皆から一目おかれている。
「そして皆が楽しみにしている宿題提出です。ケンジ! 宿題やってきたか!」
 教室の真ん中に席がある、野村健二に言った。
「ヘチマ、枯れたからヘチマの観察すごい楽だった!」
 とケンジが答えたので、クラスはどっとわいた。
「あほか、枯らしてしまったら観察にならんだろうが。まあ、そういう者には特別の漢字練習でもやってもらうとして…」
「ええーっ!?」とケンジ。
「今日は転入生が来てる。さ、入って」
 と先生はドアに向かってうながした。引き戸のドアが開いて、男の子が入って来た。男の子は物怖じしない態度で教卓へあがった。千尋の学校は私服だが、前の学校の名残か、白いカッターに黒いズボンをはいている。おそろしく姿勢が正しい。髪はぼっちゃん刈りよりは短く、背は中くらいだ。
 先生に挨拶するように言われて、男の子は、
「速水琥珀です。慣れないことも多いと思いますが、よろしくお願いします」
 と言った。
 千尋は驚いて、全体でなく顔に注目した。どう見てもハクである。斜め前の席のとも子が千尋に話し掛けた。
「女の子みたいな顔の子だね」
 先生は、「後ろに用意してある席を使って」と言い、転校生は言われたとおり席に向かった。机と机の間を通るとき、皆が期待と好奇を隠そうともせずに見たが、その子は恥かしがったり視線を泳がせたりしなかった。ずっと後ろの席へ行ってしまったので千尋からは見ることができなくなった。
 後ろばかりみたり立ち歩こうとする子がいたので、先生は手をたたいた。
「おーい、これから始業式だ。廊下に並べ!」
 式の間、千尋はできるかぎり転校生を見ていた。横顔や姿勢は確かにハクだった。髪を切って、人間の服を来て、どういうことだろう? ハクは人間になるつもりなのかな。話し掛ける機会もないまま、始業式が終わり、宿題を提出して、帰りの会も終ってしまった。
「千尋ちゃん、帰ろう」
 とも子が言った。幸子は帰る方向が違う。千尋はランドセルの閉じがねをいじるふりをしながら、転校生を目で追った。その子は教室を出て行くところだった。
「ごめんねあたし、落し物のことで先生に呼ばれてるの」
 と千尋は言った。嘘だった。
「職員室? あたしもついてくよ」
「いいよ、大丈夫。ともちゃん、これから親戚の家に遊びに行くんでしょう? 待たなくていいから」
「親戚の家に行くのは3時からだもん。気にしなくていいよ」
「ええと……、実は、図書室の分厚い本、なくしちゃって。多分先生怒ってるから、あたし、怒られてるところ見られたくないの…」
 ちょっと目を伏せてみせた。
「えっ。…そうなの? ごめん。それじゃあ、あたし、帰ったほうがいいかな。ごめんね」
「ごめんね」
 とも子をおいて教室を出ると、転校生は、ちょうど職員室のほうの階段へ行ったところだった。ちょうどいい、とも子に怪しまれずにすむ。千尋は後を追った。周りには誰もいない。
「ねえ、ちょっと! 速水くん」
 ランドセルをがちゃがちゃ揺らして、千尋は男の子に近づいた。階段の踊り場で速水くんは立ちどまり、降りてくる千尋を見上げた。近くに立って目の色を確かめようと思ったのだが、真正面から見るのが恥かしくてできなかった。
「速水くん、人違いだったらごめんだけど、ハクだよね?」
 早口で言った。緊張して汗が出た。ふだん千尋は、必要以上男の子に話し掛けたりしない。
「そうだ。やはりわかった?」
 今は目を見ることができる。瞳は深い緑色だし、声もハクだ。水干は広がって体をゆるやかに包むつくりだったので、カッターシャツを着たハクは思っていたより細い。髪も短くなっているので、丸い頭の形がよくわかる。
「わかるよっ、どうして学校にいるの? なんで小学生なの?」
「とりあえず、一緒に帰らないか。帰りの会が終ったらもう帰ってもいいんだろう?」
 その時、上の階から、千尋のクラスの男子連中が降りてくる気配がした。
「ハク、ちょっとこっち」
 千尋はハクのカッターシャツの袖をつかんで、階段から見えない壁の後ろへ駆け込んだ。ハクは黙っていたが、男子連中が通り過ぎてから、
「何故隠れるの?」
「えっ、それは、からかわれたりしたら、嫌じゃない」
 ハクは千尋から少し離れたところに立って、
「僕、どこか変なところ、ある?」
 と尋ねた。その口調がずいぶんあどけなくて、”僕”なんて言うので千尋は唖然とした。
 ハクはいつもの話し方にもどって、
「小学生についてひととおり学んでからきたつもりだけど、不自然なところがあったら言って。なおすよ」
「ちがうよ、ハクと一緒にいるのが恥かしいんじゃなくて、男の子と一緒にいるとからかわれるの」
「…へえ」
 ハクが気にするといけないので、千尋は、
「一緒に帰ろう。ハク」
 とうながした。
 ハクは他の男の子みたいにいじわるしたり、かっこつけたりしないところがいい。2人は一緒に学校を出た。
「どうして小学校に入って来たの? もしかして、人間になるつもり」
「人間になりはしないよ。私は人間の真似は出来ても人間にはなれない。学校へ来たのはカオナシをつかまえるためだ。きっと千尋のそばに出て来るだろうから」
「なんだ、ハクが人間になるんだったら楽しいのに。髪の毛切っちゃったの?」
「いや。今の姿は魔法で作っているだけだ。元の童子の姿だって本当の私ではないから、まあ、どれが本当とも言えないけれど。水は本来形のないものだから」
「ふうん」
 ハクは千尋が、ランドセルの肩のベルトを握って背負っているのを見て、自分もそうした。
「じゃあハクはこれからあたしの学校へ通うんだよね?」
 千尋はうきうきして言った。
「ああ。術で惑わせた先生方には申し訳ないけど」
「やった! きっと楽しいよ。何か困ったことがあったら、言ってね」
「そうだな。さしあたって」 ハクはズボンのポケットに手を入れて、「懐が小さいことかな」




「速水って、感じいいけど変な奴だよな」
 昼休み、ケンジは机に座って男子の輪の中心になっていた。ハクが話題になって、教室にいた千尋は聞き耳をたてた。
「給食も肉は絶対食べないんだ。僕にくれるんだから、別にいいけど」
「おれ、あいつがトイレ行ってるところみたことないぞ」
「ウノも知らないって言ってた」
「言葉づかいもときどき変だよな。方言かな」
「漫画の読みすぎじゃねぇ?」
「あっ、ちょっと待て…」とケンジ。
 男子たちは急に静かになって、教室のドアに注目した。
 その時、教室に男の子がひとり入って来ようとして、ドアを開けた。途端に上から黒板消しが落ちてきて、ケンジたちは教室がはちきれそうな歓声をあげた。
「やった! 引っかかった」
「はははは」
 獲物になった男の子は、「なになにこれ?」と言いながら、自分のスポーツ刈りの頭をはたいている。肩まで真っ白だ。古典的だが、よく利くいたずらだ。ケンジはいじめっ子ではない。こういう、ひどくない悪戯を仕掛けるのが趣味なのだ。
「次、誰が来そうだぁ?」
 廊下を見張っている男の子に尋ねながら、ケンジは黒板消しにチョークをなすりつけて再設置しはじめた。
 また馬鹿なことしてる、と幸子はあきれている。
「女にやると泣くからな。女子が入りそうになったら後ろのドアから入るように言ってやれ」
 と、ケンジは見張りの男の子に言った。
「アイアイサー。…あ、次の標的が来ました!」
「ム、誰だ!」
「速水!」
 ドアの外に気配が来たので、皆、息をひそめた。
 千尋は気が気じゃなかった。教室を出て行って教えてあげたかった。やっと学校に慣れてきたハクに、嫌な思いはしてはしてほしくない。でも、今から止めるのでは間に合わない。ドアが、最初はゆっくりと、後は素早く開いた。つっかえ棒がとれた。黒板消しが落ち、床で音をたてた。男子連はさっきと同じように歓声をあげた、が、すぐおさまった。
 ハクは足元の黒板消しを拾った。
「ちぇっ、なんでよけるんだよ」
「運動神経いいなぁ、速水」
 それを見ていた幸子が言った。
「速水くんの時計、千尋が持ってたのと同じだ」
「そう?」
 千尋は話題をそらそうかと思った。
「ほら、あのカエルのやつ」
「ああ、あの時計……実は速水くんにあげたの」
 言ってしまった。幸子になら話してもいいだろうか。ハクと仲がいいということを、秘密にしたいのに、一方では誰かに自慢したくて仕方なかった。
「あげたの? 千尋、速水くんとそんなに仲よかったっけ」
 幸子が怪訝な表情で言った。この年頃にありがちな、男の子への反感が見える。千尋は、髪の生え際から汗が出るのを感じた。言わなければよかった。
「友達になったの」
「ふうん」
 チャイムが鳴って、昼休みが終った。千尋は自分の席についた。ハクは黒板消しを黒板の下の溝に返して、千尋の横を通って行った。先生がはいって来て、「日直、号令」と声をかけた。
 やっぱり言ってよかったんだ。算数の授業中、千尋はそう思った。なんでもない会話の中で口を滑らせただけなのに、すごく嬉しい。ハクが千尋の時計をしていることなんて、幸子はきっとそのうち忘れてしまう。千尋にとっては何十倍も大事で、ずっと覚えているだろう。時計の一件をこんな風に受け止めているのは自分だけだということを、不思議に思った。
 窓の外を見た。まだ日は長く残暑は厳しいが、真夏の攻撃的な日差しはない。
 先生は鶴亀算を教えていたが、生徒のひとりが全くわかっておらず話が進まなかった。授業が終った。今日は5時間目までの時間割なので、あとは帰りの学級会を済ませて帰るだけだ。先生が今日の日直の仕事を評価し、明日の日直の名前を言った。学級会が終った。
「千尋ちゃん、トイレいかない?」
 とも子が声をかけた。
「いいよ」
 千尋ととも子がトイレから帰るのと入れ違いに、ハクはケンジたちと教室を出て行った。千尋は目で追ったが、階段を降りていくまで、ハクは一度も振り返らなかった。




 建て売りの一軒家がある。特別大きくはないが、2階建てで、小さな庭に木と、東向きの玄関がある。一人っ子の家庭には充分な広さだ。千尋の自宅である。2階の東に面した窓が千尋の部屋だ。
 青いたてがみの竜はその上を旋回していた。千尋の家の屋根に見当をつけると、稲妻のように急降下した。前半身の動きをたどって尾はムチのようにうねり、自分の腹を軽くたたいた。ハクの癖だった。
 ぐんぐん屋根に近づき、棟にぶつかる! という所で方向転換した。瓦をかすめながら飛び、屋根の端で、下の庭に向かって急降下した。後に続く胴体は頭の軌跡を狂いなくたどっていく。庭に降りた頭部は塀と木の間を駆け抜けた。木がびりびりと踊る。塀と家の間をぬけて敷地内を一周し、自分の尾が見えると空まで急上昇した。尾が追いついて数秒後には、また同じように急降下する。それを3度繰り返したところで、千尋が学校から帰って来た。見えているはずはないが、ハクの風に気付いたのか空を見上げている。竜は近くの潅木に目をとめ、それめがけてつっこんだ。潅木が大きくひと揺れしたあと、木の後ろから人間の姿の(つまり速水琥珀の)ハクが出てきた。
「ハク、なにしてたの」
「千尋をたずねてきてたんだ」
 ハクはあたりに薄く気を張り巡らせた。人でないものの気配が千尋の家の結界に近づいたので、結界を強化しにきたのだが、それは巧妙に隠れていてどこにいるのかわからない。まだ近くにいる。カオナシのものとは違うようだが用心にこしたことはない。
「宿題を一緒にやらないか」
 ハクはランドセルを揺すりあげた。
「いいよ、やろう。入って」
 千尋は先に立って玄関を開け、靴を脱いでいる。ハクはあたりの屋根を見回して、電信柱にカラスを見つけた。目をとめるとカラスは飛び去った。
「どうかしたの。入って」
「おじゃまします」
 ハクが運動靴を脱いでいると、奥から千尋の母親の声がした。
「千尋? 帰ったの」
「うん。ただいま」
 母親は玄関の見える位置まで出てきて、
「あ、お友達。あなたたち大丈夫だった? いま外がすごい風だったんだけど」
「大丈夫」と千尋。
 ハクは千尋の母親に向かって一礼した。
「おじゃまします」
 母は素早くハクの身だしなみを見たあと、
「千尋に男の子のお友達なんて珍しいわね」
「速水琥珀といいます」
「これはご丁寧に」
 母親が少し笑いを含んだ口調になったので、千尋はからかわれたと思ったのか2階へせかした。
「ハク、いこう! お母さん、あたしたち宿題やるから邪魔しないでね」
「はいはい。後でお菓子もっていくわね」
 千尋はもう階段を上がりきってハクをせかしている。ハクは軽く頭を下げた姿勢で母親の横を通り抜け、千尋の部屋へ上がって行った。ハクを通したあと千尋は扉を閉めた。
「ハクが速水君の格好でうちに来たの、初めてね」
「そうだな」
 ハクは窓に寄って外を見た。もう例の気配はない。ハクは千尋へ振り返った。
「宿題しようか」
「うん」
 千尋は壁にたてかけてあった、組み立て式の机を動かし始めた。ハクも手を貸して机はベッドの横に組み立てられた。ハクはランドセルから算数のノートを出した。
「ハクは学校にいるときとそうじゃないときは話し方が全然違うね。まるでふたりいるみたい。すごいなぁ、あたしだったらそんな使い分け絶対できない」
 千尋も同じ教科書をひろげて言った。
「その気になれば人間のふりをすることなんて難しくない。自分ではちゃんとやってるつもりだけど、速水琥珀が人間離れしてないか心配だな。なにか目につくところはない?」
「うーん」千尋は頭の上方に目を泳がせて、「ウノ知らないところとか」
「うの?」
 そういえば同級の野村健二がそんな遊びに誘ってきたことがあった。
「トランプか花札の一種だろうけど、知らないな。最近の遊び?」
「最近…なのかな。あたしが小さいときからあったけど。あとでやりかた教えてあげる」
「ありがとう」
 小学校へ通ってみて、正直、遊びの種類の多さには驚いた。トランプの類だけでも、流行った漫画が独自の規則で札遊びになり、売り出された。テレビの遊びや携帯型のものを含めると種類はゆうに100を越える。それを知ったとき、ハクはある程度以上の遊びを覚えることを諦めた。本当に楽しめるものはわずかだ。
 ハクは人間の規律の中で生きるのも、刺激があっていいと思いはじめていた。それは庶民の夏祭りに、普段は禁じられて来ることの許されないお姫様が、町娘の衣装を借りて繰り出すのと似た気持ちだった。
 ふたりは協力して宿題を片付けた。ハクは油屋の帳簿を預かっていたので数字には強いが、簡単な常識を知らなかったりして、千尋に驚かれた。例えば電卓の使い方や、シャープペンシルがそうだ。宿題が終盤にさしかかったころ、千尋の母親が菓子を運んできた。
「ゆっくりしていってくださいね」
 そう言って、麦茶と最中の皿をテーブルに置いた。
「お気遣いなく」
 ハクは一礼して顔をあげ、母親を見た。こちらは油屋でのことはほとんど記憶にないらしい。まるい顔の輪郭と、目が、千尋に似ている。
 脇で落ち着かない様子だった千尋は、やっと母親が出て行ったのでほっとしたようだ。ハクはそんな千尋をほほえましく思った。ふたりはウノを始めた。差し向かいでは相手の手がすっかりわかってしまう。それでもくやしがったり喜んだり、なかなか面白かった。千尋の星座の本をみていて、気付くと、帰る時刻だった。
「千尋、また何か本を貸してくれる?」
「うん。好きなの選んで」
「絵の本はある?」
「花か、古い建物の写真集ならお父さんの部屋に」
 千尋は一階の父親の部屋から大振りな本を持ってきてくれた。ハクはそれを借りて帰った。

(転校生がハクだった→ありがち! (゚Д゚)/
つづく

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