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4.いたずら

 朝日が差し込んでいた。まぶしくて、顔にかけていた大きな葉を引き上げようとして、ハクは飛び起きた。大きな木の上で寝ていた。枝に立って空を見ると太陽は昼の明るさを帯びはじめている。カエルの腕時計をみると、時刻は8時15分だった。15分! 学校には30分までにはいらないといけない。ハクは両足をそろえて足から飛び降りた。垂直に落ちていき、地面へつくまえに、風が迎えに来てハクを拾った。突風が葉と枝をはじく。大きな茂みの一塊を裂いて、風は森から飛び出た。風は後から追ってくる風に飲まれて、太く力強くなり、町の上を滑って行った。
 雲より低く飛んで町を鳥瞰すると、白い消しゴムで作ったような小学校が見えた。1ヶ月前まで、自分が人の子のように”遅刻”するなんて大慌てで学校へ向かうことになるとは、思いもよらなかった。学校はそれなりの賑やかさだが、油屋の10分の1ほどの規模だ。全校生徒も少ないし、生徒はクラスごとに束ねられて同じことをするので油屋ほどの活気もない。ハクはその規律のよさに現代を感じる。
 今ではほとんどないが、川が埋め立てられ、その上に墓標のように大きなマンションが建ったことを思い出す。あの時の燃えるような憎しみは、時を経て、もう体の中に残っていない。乾いた諦めが時折うずくだけだ。夜はどはよく、失ったものの大きさや自分の行動が無意味だったことを思う。新しい希望がないわけではない。それでもやはり、人間を手放しで受け入れるというわけにはいかない。
 故郷を取り戻すために力を学びに行った先でも、だまされ、盗みをはたらき、身を汚した。いくつか魔法は手に入れたが、長い間魔女のもとで学んだことは、やはり故郷を取り戻すことはできないという事実の裏づけだった。世界の中で自分の存在は何と小さいのだろう。自分のできることは何とわずかなのだろう。今できるのは、恩人であり大切な人である千尋を守ることだけだ。それが終ったら……ハクはもう結論を出していた。千尋を守る役目を終えたら、その時は―――。
 ハクは学校の裏門の、キンモクセイの木へ舞い降りた。木は激しく前後になぶられ、やがて落ち着いた。ハクは―――速見琥珀はランドセルの片方のベルトを持ちながら、もう片手をランドセルの中へつっこんで中身を確かめた。算数、理科、家庭科…。大丈夫、忘れ物はない。ランドセルは、千尋のもらった折り紙で袋を折って魔法をかけたものだ。なかなかしっかりしていた。裏門に一番近い、教員が出入りする玄関から校舎に入った。ハクは運動靴のかかとを持って児童玄関へ向かった。靴箱に靴を入れ上履きを履いた。そして6年2組のある階上へ階段を昇っていった。
 途中、廊下の真ん中に吊ってある時計が目に入った。8時25分だ。一番後ろの自席へ鞄を置くか置かないかのうちに、いきなり、野村健二が声をかけてきた。
「速水、お前なに下履きはいてんだ!」
 え? とハクは靴を見た。一瞬、魔法の手違いでそうなったのかと思った。どう見ても上履きだ。ケンジが大笑いした。
「あははは。ひっかかっとる」
 そういう冗談だったらしい。ハクは苦笑して席についた。
「なんだ。リアクションうっすい奴だな。お前B型だろ。それかAだ」
 ケンジは子供らしい驚き方をしないハクが面白くて仕方ないらしい。まくしたてて周囲をふりむかせる口調で言った。さらに言いかけたとき、8時30分のチャイムと同時に先生が入って来た。
「おーい、日直。号令」
 起立、の号令と共にケンジはいなくなった。
 授業はハクにとって難しいものではなかったが、新しい発見も多かった。今日の午前の授業の中では理科が一番面白かった。朝顔、油菜、紫陽花、花弁、がく、おしべ、子房の図を、ノートへ丁寧に描いた。給食は机をむかえ合わせにして食べる。ハクは人の食べ物を口にしてもあまり意味はない。きれいな空気か山の朝霧に包まれていたほうが体にはよい。しかし、小学校の給食にそれを望むことはできない。
「村上くん」ハクは隣席の男子に声をかけた。「僕の給食で好きなものがあったらあげるよ」
「まじで? ありがとう」
 村上はハクの盆のジャムへ手を伸ばした。
「ちょっと待った!」 ケンジがわざわざ自席から走ってきて、「そりゃあフェアじゃねいな。ジャンケンだ! ジャム欲しいやつ、ジャンケンだ!」ジャムを高く差し上げた。
 数人の男子でジャンケンをしたあと、ジャムは誰かに、唐揚げはケンジの手に渡った。ハクは千尋の脇を通って盆を教卓へ返しに行った。千尋が恥かしがるので、学校では他人のふりをしている。プラスチックの食器を重ねて返した。先生がその様子をみて言った。
「速水、また少ししか食べなかったのか。だからそんなに細い体なんだぞ。好き嫌いが激しいと年とったときに響いてくる」クラスの皆に教訓を聞かせるときの大声で、「先生のおばさんも魚が嫌いで若い頃から食べず嫌いだった。今、骨粗しょう症で病院通いだ」
 ハクはそのおばさんが生れる前からこうして生きてきたのだ。
「宗教上の理由で肉は口にしないんです」
 とハクは言った。
「宗教? うん、まぁ、そりゃ、…仕方ないな。パンは持って帰るように」
 ハクは手を洗いに教室を出た。他のクラスはまだ食事中で廊下に出ている子供はいない。教室の前方の扉からもどると、一番早食いのケンジが食べ終えて、周りとおしゃべりしている。何か空気が違う。席につこうとすると、隣席の村上が期待に満ちた目でハクを見ていた。
 何だろう。机に手をやると、指先に何かついた。黒いインクだった。机の角がインクで汚れている。いたずらだろう。誰がやったんだい、ハクは机に手をかざして尋ねた。野村健二、野村健二がやった、あいつはふざけてやったんだけれど、まだ他にもいたずらが残っている。そう返ってきた。
 ハクは声に出さず礼を言って、机をふくため雑巾を取りに立った。雑巾のある手洗い場は後ろの扉のほうが近い。扉の前で立ちどまった。残りのいたずらはこの扉に仕掛けられているのかもしれない。今男子の間で扉に細工をして人を驚かすのが流行っている。前の扉へ向きを変えたとたん、ああーっと落胆の声があがった。
 ケンジが、
「なんでわかるんだよっ、エスパーかお前」
 ハクは目だけ微笑んで、
「何となく」
 先生が、また悪さしてるのかケンジ! と声をはりあげた。ハクは前の扉から廊下へ出た。誰かが被害にあうといけないので、後ろ扉のいたずらは外しておかなければいけない。そう思ったとき、人が廊下側から当の扉に手をかけるのが見えた。女の子だ。ハクは言った。
「開けてはいけない!」
 間に合わない。右の掌を向けた。1間先の黒板消しがはじけて飛んだ。落ちて廊下をすべりながら、花火のように派手な音をたてた。女の子は何が起きたのかわかっていない。おびえて周囲を見回している。
「何だ今の音」
 クラスの男子が廊下側の窓から上半身を出し、教室に中継した。
「あー、ケンジの仕掛けが落ちてる」「速水がひっかかったの?」「ううん、1組の女」「女子?」「大丈夫かよ」
 ケンジが廊下へ飛び出してきた。
「あっ。ごめん…ほんと。吉村へいきだった?」
 女子は吉村というらしい。ケンジの問いにうなずいた。この女子にどこまで見られたろう。手をかざしたとき、目があったから魔法を放った瞬間は見られた。人間に魔法を見る力があればの話だが。
 ケンジが、離れたところに落ちていた黒板消しを拾った。
「もち手のプラスチックが割れてら。廊下にあたったのかな」
 ケンジはきまりわるそうに黒板消しを体のうしろへ隠した。おかしい、とハクは思った。黒板消しが割れるほど強い力を放った覚えはない。すると、誰かが黒板消しに別の力を加えたことになる。それがハクの力とぶつかり、はじけてあんな大きな音が出たのだ。
 廊下には他に人はいなかった。この子供なのか。ハクは吉村カオリへ向き直った。この少女が自分で何かしたのか。
 吉村カオリはハクより背が高く、黒い艶やかな髪を肩へたらしている。子鹿みたいに愛らしい顔をしていて、雰囲気は子供というより娘だ。
「でもなんであんな離れたところに落ちたんだろ」
 ケンジが扉の上の壊れた仕掛けを見ている。
 この娘ではない。ただの人の子だ。何かがこの子に憑いているのかもしれない。ハクがじっと見るので吉村カオリは慌てた。人が集まり始めている。先生が、「どうした?誰か怪我したのか」と出て来たのをしおに、ハクはその場を離れた。




「西村先生、おもしろいから好きだけど、字をもうちょっときれいに書いてくれたらいいのに」
 とも子は黒板を指しながら言った。
「そうだよね。あの先生のカタカナのンなんかつながってレになってる」
 千尋が言った。先生の字は男の子の字がそのまま大人風にアレンジされたようなものだ。汚いは汚いが力強くて自由な字だ。千尋の字はちまちましてて見にくい、とよく言われる。
「幸子の字はきれいだよね」
 とも子は、ノートの表紙に名前を書いている幸子に言った。
 幸子は手元から目を離さないまま答えた。
「私?そんなことないけど、習字はやってたな。私より上田くんとか中島くんとか、速水くん。速水くんの字、すごいよ。カキカタの教科書みたいな字かくんだ」
 千尋は知っていた。一緒に宿題をやったときノートを見せてもらった。筆で書いたらもっと美しくなるような、曲線の美しい字だった。おかげで自分のノートを見せるのが恥ずかしかった。
「話変わるけど、土曜の夜、肝試しの下見に行くことになったんだ。千尋もいこうよ。場所は学校の旧校舎。西村先生がきてくれるって」と幸子。
 千尋はとも子を見た。とも子は、
「あたしも行くよ。先生がいるなら行ってもいいって、お母さんが」
「ふうん…じゃああたしも行きたいな。多分大丈夫だと思う。面白そう」
 お父さんは、千尋の遊びが軟弱だと言って嘆いていたのだ。肝試しなら軟弱とは言われない。
 幸子が言った。
「それから、メンバーは私たちだけじゃないよ。肝試しを企画したのは私だけじゃないの。ケンジと、2人くらい男子が来るって」
「よかった。あたしたちだけじゃ心細いもんね」と とも子が言った。
「賑やかだったら肝試しにならないじゃん」と幸子。
千尋はいいことを思い付いた。話をきいたときから思っていたが、口にするのをためらっていた。
「ねえもう一人、速水くんを誘ってもいいかな」
「速水くん?」と幸子。
「こういうの好きなんだよ、速水くん」
「別にいいけど…うん、いいよ。千尋仲よかったんだったね」
 断られなくてよかった。夜中に友達と集まって遊ぶだけでも嬉しいのに、ハクも来るのだ。秘密の遊びにさらに大きな秘密が加わってきたようで胸が躍った。ハクもきっとOKする。
 午後の授業が終ると、千尋は廊下でハクを呼び止めた。
「ハク!」
 ハクは振り返った。遠くから見るとハクの体はスラリとしていて実際より背が高く感じる。均整がとれすぎているくらいだ。ハクの顔も手足も、柳のように弾性のある、しなやかな曲線でできている。ハクのような人間の男の子はいない。もともと大空を駆ける美しい竜がたまたま男の子の形におさまっているだけなのだ。その証拠に竜のときも人のときも、瞳の中のエメラルドの虹彩は同じ輝きで人を射る。
 千尋はハクに駆けよった。
「土曜日の夜に友達と旧校舎で肝試しの下見をするんだけど、ハクもこない?」
「旧校舎?」
 ハクの静かな声を聞いて、初めて、自分の興奮に気が付いた。気持ちが先走っていた。千尋は深呼吸して言った。
「うん、西村先生も来てくれるの。幸子とともちゃん、ケンジくんも。ハクも行こうよ」
「あまりそういう危ないことはしてほしくないな。夜になるとあいつは昼より活発に動けるのだから」
 千尋は驚いた。ハクが反対するなんて思ってもみなかった。友達と大勢で遠足みたいな気分を味わうのは、ハクにとって初めてだから、きっとすごくいいイベントになると思ったのだ。
「ええと…ハクは、行きたくないの?」
「千尋は行くんだね」
「うん」千尋はうなづいた。
「じゃあ私も行こう。…いや、気にしなくていいよ。千尋が制限されるいわれはないんだから。こんなことずっと続くわけじゃない」
「ハクは? あたし、ハクが楽しいだろうと思って誘ったの」
 ハクはなだめるように優しく言った。
「私は楽しんでいるよ。学校へ通ったり、千尋の家を訪ねたり…土曜日の夜も楽しみにしている」
「千尋ちゃーん」と とも子の声がした。
 千尋は教室を振りかえってから、
「あ、呼ばれてる」
「早く行きな。私は寄るところがある」
 数歩行ってから、千尋は振り返った。興奮して人通りのある廊下でふさわしくない話題まで口にしたこと、それにハクの、いつもより余計にふせたような喋り方―――ハクはいなかった。元から何もなかったかのように、ハクの立っていたあたりは日が差している。風が強く吹き込んだ。千尋は窓から空を見た。竜が飛んで行ったかと思ったからだ。空は白に近い青で、晴れ渡っていた。
 向かいに旧校舎が見える。木造のその建物に近づいたことはないが、一部が瓦屋根の、深いこげ茶の校舎は真夏の影のようにくっきり輪郭を見せている。あそこに、今度の土曜日、自分たちが入っていくのだ。もう一度呼ばれて千尋は窓を離れ、教室へ入って行った。




 つくつくほうしの鳴き声と同様、日差しも和らいできていた。風邪はまだあたたかいが、4日に1度くらいふと寒い日がある。その周期が短くなって寒い日の割合が暑い日の割合を食べ尽くすと、冬になる。
 千尋は最近そのことを感じた。2,3年前までは季節が変わるとはどういうことかわからなかった。気付いたら長袖を着せられて、お年玉を数えている間に桜が満開になるという具合だった。6年生になってからは、自分で暑い日と寒い日を見極めて服の枚数を変えるようになった。当たり前のことだが、季節の節目を冷静に見詰めて対応することのできる自分は去年より賢い。そして少し寂しい。大人になるとはこういうことだろう。
「でも、まだ日焼け止めはいるよねえ」
 幸子が言った。
 6年2組の女子はプールに入る準備をしている。女子更衣室は狭く、蒸し暑く、独特のにおいがあった。プールの水面を区切る、ソーセージが連なったようなウキが積み上げてあった。
 幸子はもう着替え終わって日焼け止めを腕に塗っている。千尋はてるてる坊主型にしたてたバスタオルの中で水着の肩の部分と格闘していた。
 とも子が、
「もう、プールは終わりのはずなのに、なんでうちのクラスだけあるの? 西村先生、いい加減なんだから」
 とぶつくさ言った。
 時々ドアが開いて水着に着替えた女子が出て行く。そのたび新鮮な空気が更衣室に流れ込み、出て行く人の向こうにまぶしいプールサイドが見えた。
 汗ばんでうまく肩紐があがらない。結局は幸子にやってもらった。水着は肌にべったり張り付いて汗を吸わない。あせもが出来そうだ。早く水につかりたかった。
 女子はプールサイドへ並んだ。プールサイドのつぶつぶを足の裏に感じた。真夏は暑くて立つこともできなかったが、今日の日差しでは足が温かい程度だ。
 誰もはいっていない、全く水平なプールの水面があった。ところどころに小さな虫が浮いている。
「アキレス腱しっかりのばしておくように!」
 という先生の声に従って千尋は体操した。ふと風が吹いた。水面に細かく皺がよるみたいに波が立った。向かいのプールサイドには男子が並んでいた。ハクはいるかな。千尋は鉛筆を立てて並べたみたいな男子を端から順に見ていった。男子の中で2番めくらいに色白なのがハクだった。プールは初めてのはずだが要領よく混じっている。千尋は安心した。
「女子からシャワーを浴びて、プールサイドへ座って待機」
 先生が女子を誘導しはじめた。千尋が幸子の浅黒い肌を見ながら進んでいると、ザブンと水音がした。
 女子がみんな音の方ほうを見た。先生はアッとなって男子へ駆けて行った。ケンジが回りの男子とふざけていてプールへ飛び込んだようだ。押すなよ押すなよ、と言って背中を押させるのはケンジの得意技だ。ケンジは嬉しそうに水を分けながらプールから上がった。逃げようとしたところを先生につかまった。
 その間、女子はシャワーの降りそそぐゲートを通り、プールサイドへならんだ。先生の指示に従って水を浴び、顔に水をつけた。幸子ほど泳ぎは上手じゃないが、やっぱり水の中は好きだった。あとは全部自由時間だ。1度くらいは全部自由に遊べる日をつくる、と先生は約束していた。
 幸子が、「千尋っ!」と思い切り水をかけてきた。負けじとかけ返して、疲れるとビート板を持ってきて泳いだ。幸子と とも子と別れ、人の少ないすみっこを泳ぎながら、遊ぶのに夢中のクラスを眺めた。ハクを目で探した。みんな水の中でてんでに群れたり離れたりしている。ハクは見えない。
 そのうち、男子の一角が騒いでいるのに気付いた。ふざけてではなくて、何か緊迫した雰囲気だ。男子の一人がプールサイドを走って先生のところへ走って行った。先生は千尋の近くのプールのふちに座っていた。
「先生! 浮いてこないんだ。吉田とも子と速水…。ふざけて吉田の足引っ張ったら転んで、その上から大勢でわーっとなったら速水も潜って…」
 と男子が言った。先生と男子は、男子が指差すほうへ走って行った。
 千尋も同じほうへ泳いで行った。とも子とハクが浮いてこない? とも子は水を怖がっていて、水中で驚かすとパニックになる。千尋があと少しで男子群へ着くというとき、口々に大きな声があがった。
「あそこ! 速水だ」
「大丈夫か」
 全く方向の違うプールの隅からハクが浮いて出た。両腕にとも子の両脇を抱え、水面を引いてくる。男子がプールサイドを走っていく。千尋もそれに続いた。
 ハクはプールからとも子を引き上げた。ぐったりした体を抱き起こして据わらせると、とも子の背に手をあてた。何かつぶやきながら、ゆっくり背から首のほうへなでた。先生や男子、千尋が周りを囲んだ。
 そんな場合でないのは分かっているが、とも子を抱いたハクをみて、千尋はびっくりした。それまで人形みたいだったとも子の体がせきをし始めた。
「吉田! 大丈夫か」
 先生がとも子を支えた。とも子のせきにはゴボゴボと水の混じった音がする。
 ハクは立てひざしてとも子の肩に手をおき、
「おちついて。ゆっくり息を吸って」
 とも子がそうすると水音はなくなり、ひいひいという泣き声に変わった。
 千尋は男子の間を抜けて前へ出た。
「ともちゃん」
 先生が、
「もう大丈夫だ、吉田。大丈夫だ。…荻野、吉田のバスタオル持ってきてくれ」
 千尋は急いでとも子の、うさぎ柄のバスタオルを取ってきた。戻ると とも子の息は落ち着きかけて、泣いているだけだった。先生は千尋の渡したバスタオルでとも子を包み、休ませるためにアーケード下へ連れて行った。
 先生についてまわっていた男子たちと千尋は心が空っぽになったみたいに、アーケードのほうを見ていた。もどって泳いでいろと言われたが、事件のあとですぐ日常に戻ることはできない。男子が空気をもてあましてひそひそ言うのが聞こえた。野次馬の数人がプールへ戻ったのをしおに、男子もプールへ入り始めた。先生がとも子を座らせてなぐさめ、何か言い、アーケードからこちらへ来るのが見えた。
「吉田はなんであんなことになったんだ。事情のわかる者」
 ひそひそ話の集団から、男子のひとりが突き出された。
「…おれらが女子を驚かすゲームをしてて、最初は水をかけたり水泳帽とるくらいだったんだけど、だんだんきつくなってって…」
 消え入るような声で言った。どうやらこの子がとも子の足を引っ張った張本人らしい。
 先生はうなずいて、
「あとで吉田に謝っておけよ。いや、今いけ。おまえらも行ってこい」
 男子が5人駆けて行った。
「速水、お前はどうしてた」
 ハクは一歩前へ出た。
「泳いでいたら吉田さんの溺れているのが見えました。だから、腕をつかまえて水面へ引っ張りあげました」
「うん。速水の発見が早くて助かった。ありがとう。もう行っていい」
「あの、先生」と千尋は言った。「とも子ちゃんのそばに行ってもいいですか」
 先生はとも子と千尋が仲良しなのを思い当たった。
「構わないぞ。水をはいて大分落ち着いたみたいだけど、吉田の気分悪いのが直らなかったら先生に教えてくれ」
「はい」
 千尋は一瞬ハクと目を合わせてからとも子のところへ行った。とも子に謝り終った男子がプールへ帰って行った。とも子は羽織ったバスタオルの端を握り、疲れきった表情で千尋を見上げた。
「ともちゃん、大変だったね。大丈夫…」
 千尋は声をかけながら思った。溺れたところをハクに助けられ、やさしい言葉をかけられたとも子は自分に似ている。しばらくしてとも子が元気を取り戻したころ、千尋の肌は乾いてしまっていた。授業が終った。とも子と千尋は皆に合流して、更衣室へ入って行った。

つづく

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