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5.ハク竜の長い夜

「えっ。何?」と千尋が聞き返したのは、土曜の夕方だった。
 幸子ととも子、千尋は一足先に学校へ来て肝試しのメンバーがそろうのを待っている。
 幸子が言った。
「とも子が、速水くんを好きなんだって」
 とも子は視線をそらして恥かしそうにしている。千尋は思いっきり突き飛ばされたようなショックを受けた。それでも平静を装って、
「へえ…ハクを。どうして? このあいだプールで助けてもらったから?」
「それもあるけど…。あのあとお礼言いに行ったら、速水くんすごく親切に喋ってくれて、やさしくて、いいかんじだったの」
 ハクがとも子を助けた事件はその後少しだけ話題になった。特に女子の間では、溺れかけた女の子を助けたというシュチュエーションから、ハクはドラマのヒーロー視された。
 とも子の”好き”なんて当てにならない。千尋は思った。たしかとも子は休み前には1つ年下の宮本という子を好きだと言っていた。少しいいと思ったら自己暗示をかけて、それを恋と呼ぶタイプだ。ハクのことだって、周りの雰囲気に飲まれてヒロインを演じたくなったのだろう。ハクはきっと とも子を相手にしない。とも子のひとりよがりだ。
 千尋はハッとした。悪口をたくさん言ったあとと同じ気持ちだった。
 幸子が言った。
「千尋は速水くんのことハクって呼ぶんだね。いつ知り合ったの」
「速水くんが転校してきてすぐ…かな」
 幸子ととも子の口調には期待と疑いが含まれていた。その意味はすぐ分かった。
「家が近くて、たまたま友達になったの。なんでもないの。ほんとよ…時々、宿題いっしょにするくらい」
 何を言っているんだろう。”友達”であることを強調したあとで”仲良し”を自慢したりして。千尋は自分がどうしたいのかわからなかった。
 3人はしばらく体育館の渡り廊下でうろついた。体育館の屋上はプールだ。屋上への通路には錠がおりている。プールの季節は終っていた。
 車で、西村先生が来た。そのあと”速水くん”が正門からやってきて、「こんにちわ」と4人に向かって言った。集合時間の10分前だった。日は沈みかけている。速水くんは千尋を見なかった。学校で親しげにするとからかわれる、と教えたのは千尋だった。
 急に太陽の光が真っ赤になった。ハクの白い顔も緑がかった目も紅一色に塗りつぶされて、色が抜けたみたいに見えた。
 ケンジともう一人、クラスの村上という男子が来た。赤い日光が消えた。まだ空は暗くない。それでも夜だ。赤い光がなくなって、初めてケンジの着ているTシャツが真っ青だということに気付いた。
「じゃあ行こうか」
 先生が言った。旧校舎の前へ来ると、思ったより周りに草が茂っていた。生徒を近づけないようにしているからだろう。校舎は遠くで見るより高く感じられて、頑丈そうだ。
 空は紺色で、いつのまにか近くのものも暗いトーンに飲まれている。
「中はガラスが落ちてたり、昔のものが置いてあったりするかもしれないが、触らないように。特に割れてるガラスとかな」
 先生は管理用のアルミサッシの裏口を開けた。ケンジからはしゃいで入っていく。扉の奥は真っ暗だ。細い通路で、流し台が横にあった。先生方がお茶を煎れる場所だったらしい。変なにおいがしたが何の匂いかはわからなかった。ケンジの背中を見て進むと、急に通路が広くなって部屋へ出た。
 机は隅に寄せてあって、何の教室だかわからなかった。大きな壁に月間予定表と書かれた黒板があった。職員室だった。引き戸を開けて廊下へ出た。木でできた床は足音でゴンゴンと響いた。靴を履いたまま校舎に入るなんて変なかんじだ。
 千尋は楽しかった。夜中にみんなとこうしているなんて、わくわくした。
 先生が立ちどまって懐中電灯を3つ出し、1つを幸子に、1つをケンジに渡して残りを先生自身が持った。それから言った。
「今、教員用の裏口から入った。これから西階段で2階へ上がって、通常教室と特別教室前を通って、北階段で3階へ行く。3階の東階段で屋上へ出る。…まぁ、口で言うと分かりにくいが、行けばわかる」
 転校生である千尋と速水琥珀以外は、先生のいった道がわかったようだ。懐中電灯で教室の曇りガラスを照らして、「なつかしいね」などと言い合っている。
 突然、ハクが近づいてきてささやいた。
「気をつけて、何かいる。私のそばを離れないで」
 千尋は胸をつかれたような思いでハクを見た。ハクは懐中電灯のちらつく闇の中に、潜んでいるものを見極めようと、瞳をこらした。
 その速水琥珀に小学生らしいところはない。ハクの横顔は、夜に彩られてひどく清らかだった。千尋は綺麗だと思った。湯屋にいたころもこんな風に言ってくれて、こんな風に緊張したのを思い出した。
 千尋はうなずいた。余計ワクワクしたが、ハクに悪いので、真剣な顔で体をすくめて歩いた。
 皆、先生の後ろへ寄り集まって進んだ。ケンジだけは勇敢なところを見せたいのか、はしゃいで先生の斜め前にいる。とも子は幸子にしがみつくようにしている。千尋はとも子のポニーテールが揺れるのをみながら行った。
「この階段をあがる」
 と先生は言って、正門の横に面した西階段に懐中電灯をあてた。楕円になった光が階段をひとなでした。
 先生とケンジが階段に昇りかけた。最後尾のハクが、素早く後ろを振り返った。
「どうかした? ハク」
 千尋は言った。
「いや…」
 ハクは千尋の右手に自分の指をすべりこませて、握った。「気をつけていこう」手をはなした。
 木の階段は中が空洞のような音がする。2階へあがり、北棟へ向かおうとしたとき、幸子が一番手前の教室を照らした。
「ここ、2年のときの教室だ」
「本当だ」村上が言った。「まだ机残ってるかな」
 先生はズボンのポケットに手を入れて、
「机は片付けただろう。いや、あるかな? 黒板はあるだろう。入ってみようか」
 鍵束を引っ張り出した。拍子に別の鍵が床に落ち、先生は拾った。
「なにしろ校舎全部の鍵だから、重いったらないな」
 先生がもたもたしている間に、千尋たちは散らばって、廊下の窓から校庭を見た。夜空の下に白い砂をしきつめたみたいな校庭があった。何一つ動かず、固く、静かなながめだ。風の音だけ聞こえる。
 昼と夜だけで景色はこんなに違う。ハクのように、”見えないものを感じる眼”があったら世界はどんな風に見えるだろう。風はあたたかく、夏の匂いが残っていた。
 「先生! こっち、開いてる」
 と村上が大声で言った。もうひとつのドアが開いたままだったようだ。鍵の必要がなくなった先生はきまり悪そうに、「無用心だな」とつぶやきながらそちらへ向かって行った。千尋はまだ頬と髪をなでる風を感じていたかった。




 近づいてきた。いよいよだ。ハクは気をめぐらせた。すぐそばにいる。
 左側の窓には千尋とケンジと幸子がはりついている。右では先生について、とも子も教室へ入りかけていた。とも子の後ろに影が見えた。ふいに影の色が濃くなって黒い体が現れた。
 ハクはとっさに走り出し、掌をカオナシへつきつけた。黒い球状の煙がカオナシの仮面をとらえた。カオナシは体をそらせた。動きがのろくなり、急に眼が見えなくなったかのように体を揺らした。
 これ以上派手な術を使うわけにはいかない。カオナシはまた身体を透明にして、廊下と教室の敷居を越え、教室の暗闇へ溶けて行った。ハクは教室へ入り、後ろ手で扉を閉めた。取手をなでて簡単な封の術をかけた。
 カオナシを千尋に近づけるわけにはいかない。薄暗い教室は雑巾の匂いがする。後ろにいくつか机が積んである。先生と村上と とも子はてんでな方向を見て楽しんでいた。
 どこだ。どこにいる。隅から順に眼を凝らした。空間がゆらめいた。ゆらめきはとも子へ滑っていく。
 ハクは駆け出しながら、掌へ短く息を吹いた。ゆらめきを追い越してとも子の肩をつかまえ、机の下へ引きずりこんだ。
 とも子は「あっ」と声を出した。
「落ち着いて。今は危ない。できるだけ息をしないでこれを持っていて」
 ハクは掌の3分の1ほどのウロコを渡した。
 カオナシは、ハクの放った短い魔法に翻弄されていた。数秒後には自分を取り戻し、あたりを見回した。ハクはその様子を見ていた。
 とも子は何が起きたのか分かっておらず、目を白黒させた。
 おそらくカオナシは、同じひとつくくりの髪のとも子を千尋と間違えてたのだろう。ハクは思った。いよいよ時が来た。千尋を守るのだ。カオナシが何を考えているのかハクにはわからない。以前、湯屋の従業員を飲み、千尋までも食おうとしたと話に聞いただけだ。千尋のそばを離れてしまったのは失敗だった。いざとなったら人前で魔法を使うこともやむをえない。”残り”を全てかけてでも、絶対に千尋を守る。絶対に。ハクは一瞬のうちに誓った。
 とも子が不安げにハクを見た。ハクは目でうなずいてやった。
 カオナシは千尋の姿を求めて教室の前の方をうろうろしている。黒板のほこりを確かめていた先生が、ボョンとカオナシの寒天状の胴を突っ切って、扉に手をかけた。
「あれ、なんだ」先生は腕に力をこめた。「開かないぞ」
 それを聞いた村上が後ろの扉を確かめに来た。机の脚の向こうに村上が見えた。
「こっちも閉まってる、先生! もしかして僕ら、閉じ込められたの!?」 うれしそうに笑った。
 先生が、
「そんなわけあるか。鍵は持ってるんだから。なんで閉まってるんだろう。壊れたんかな」
 先生の真後ろにカオナシが着いた。ハクが封じたほうの扉なので、鍵が開いても扉は開かなかった。そうだ、そのまま時をかせいでくれ。息を殺したままハクは思った。
 先生はあきらめて、もう後方の扉へ移った。カオナシもそれについていき、村上の横で止まった。先生と、村上と、カオナシの足元が並んでいた。
 扉が開いた。廊下は教室より少しだけ明るい。先生と村上について、カオナシは出た。ハクは机の下から飛び出した。村上を押しのけて廊下へ出た。
 千尋は? いなかった。ケンジと幸子もいなかった。2階の廊下にはハクと先生と村上、それに慌てて教室から出てきたとも子がいるだけだった。
 とも子が言った。
「速水くん。いま、どうしたの。なに」
 ハクは千尋を探した。腕時計に集中して千尋の気を追った。脳裏に、無人の階段、教室と廊下の映像がいくつもひらめいては流れ去った。3階の奥に集中しようとしたとき、とも子が袖を引っぱった。
「速水くん?」
 映像は四散した。ハクは現実に引き戻された。
「何でもないよ。さっきは、そう、危ない…大きな蜘蛛がいたんだ。上に何匹もいた」
「ほんと? えっ、いやだ! ええーっ?」とも子は小刻みに飛び跳ねた。「虫、きらいなの。本当にありがとう。…ところでこの貝殻はなに?」
「それは虫除けのお守りだ。しばらく持っていて。それと、虫がつきやすいからその髪もほどいたほうがいい」
 とも子は慌てて髪をほどきにかかった。
 先生が、
「まったくケンジたちは勝手にどこ行ったんだ、はぐれて何かあったらコトだ」
 と階段を見にいったりした。
「妖怪にさらわれたんじゃない」と村上がはやした。
「しょうもないことばかり言って、お前も迷子になるなよ。おーい! ケンジ! 荻野ー!」
 先生は声をはりあげた。校舎中に響いたと思われる。返事はない。
「まいった。どうするかな。よし、とりあえずお前らを外に出して、先生だけ旧校舎でケンジたちを探そう。おまえたちまで無闇に連れ歩くのは危ない。迷子が増えたら手に負えないから」
 そんなわけにはいかない、とハクは思った。
「皆で探したほうが見つかると思います」 ハクは言った。
 村上は、
「そうだ! こっから面白くなるんじゃないか」と茶化した。
「いや、駄目だ」
 先生は束ねるように3人の背中を押した。「肝だめしはまた今度だ。ケンジを首輪でつないでおけばよかったな」
 4人はかたまって下りの階段まで来た。ハクは昇り階段へ駆け出した。
「速水!」
 と後ろで呼ぶのが聞こえた。ハクは風をまとって跳んだ。階段中央の手すりを飛び越え最短距離で3階へ出た。千尋に近づいたのを感じた。やはり3階にいたのだ。ハクは北棟へ向かって走った。風がその足元を助けた。もう足は地についていない。廊下の窓が、ハクの走り抜けるそばから順にびりびり震えた。




 風が凪いだ。千尋は窓から身を引いて、あたりを見回し、
「ねえ幸子」と声をかけた。「先生と とも子は?」
「この教室へ入ってったよ。私らも行く?」
「うん」
 幸子はドアに手をかけた。「あれ、開かない」
「うそ、本当に」
 千尋も代わって思いきり力をこめたが、びくともしなかった。ケンジが懐中電灯を脇に置いた。
「おれがやってやんよ」
 胸をはって、ポパイみたいに肩で風を切った。ケンジはドアに両手をかけた。「んぎぎぎぎ……」
 開かなかった。
「どうして閉まってるんだろう。中に先生と ともちゃんと ハ…、速水くんと、村上くんがいるんでしょ」と千尋。
「わかんねえ。もしかしたら誰もいないんじゃないか。静かだし」とケンジ。
「そんなはずない。私見てたもん、先生たち入ったっきり出てきてない」と幸子。
 ケンジが、
「お前、窓から下の木がどうとか言ってたじゃん。ずっと教室見張ってたわけじゃないだろ」
「そりゃ、そうだけど…」
「鍵かけて、おれらを置いて行っちゃったんだ」
「先生がそんなことする?」
「すぐついてくると思ったんだろ」
 聞いていて千尋はハラハラした。そばを離れるな、とハクに言われたのに。置いていかれた不安がうっすらと3人を包んだ。打ち破るようにケンジが言った。
「ちょうどいいや。おれらだけで旧校舎探検しようぜ」
「えー?」と幸子。
「怖いのか?」
「そんなことはないけど…」
「どうせ先生たちを追っかけなくちゃいけないんだ。ついでに教室みてまわってもいいだろ。道はわかってるし」
 人数が半分になって話し声すらずいぶん寂しく響いた。暗くて、静かで、無人の廊下が待ち受けていた。暗いくらい、なんでもない。振り払うように千尋は思った。暗くて怖いくらいなんでもない。じっと元気を固めていれば悪いものは寄ってこない。そう信じるしかなかった。ハクはどこにいるんだろう。ハクの、清冽な横顔を思い出した。
 言い出した責任上、ケンジを先頭に、3人は北棟へ歩き出した。教室の窓に自分たちが映った。千尋は自分と目が合った。気配を感じて振り返ると、いま過ぎたばかりの廊下が、人を一度も通したことがないという空気を抱いている。
 北棟への曲がり角へ来ると、ケンジは懐中電灯を渡して、ズボンの大きなポケットからお菓子の袋を取り出し、すすめた。
「いらない」 幸子が言った。
「あたしも」 千尋は首を振った。
 ケンジはひとりでポテトチップを食べた。かわるがわるの3人の足音、ポテトチップの袋に手を突っ込む音が全てになった。3人は北棟の置くへ歩いて行った。北階段を上り、東階段へ向かった。ケンジが、「これが”学校の階段”だ」とくだらないことを言った。幸子があちこち教室を照らすので、千尋はケンジの懐中電灯で3人の足元を照らした。
「あ、ここ」と幸子が立ち止まった。「理科室だ」
 ケンジは青シャツのすそで手をなすって、
「入ってみるか」
「入るの?」 千尋は不安になった。「やめとこうよ。先生もいないのに」
 ケンジは無視して、ドアに鍵がかかっているか確かめに行った。
「幸子」と千尋は言った。
「怖くないよ。いこう」幸子は千尋の手を引いた。「肝だめしの下見にきてるんだから、理科室は押さえておかないと。定番でしょ」
 ケンジは窓から教室へ入って内側から鍵を開けた。
「開いたぞー」
 幸子に引かれて、千尋も理科室へ入って行った。ケンジは千尋から懐中電灯を受け取り、壁と、天井を順に照らした。ほぼ正方形の教室の広さが分かった。理科室の机は床に備え付けのものなので、他の教室のように机が片付けられて中央が寒々としている、なんてことはなかった。1クラスが6班に分かれることができる、畳一枚ぶんの大きな机が6つあった。
 机の間を通るとき見たが、どの机の角も磨り減ってまるくなっていた。ケンジは棚を見て、
「なんだ、なにもないや」
 と言った。
 幸子は机上を念入りに見た。
「標本とかはかたずけられたんだろうね。机もきれいだし、管理する人がちゃんとしてるんだ」
 ケンジは棚に飽きて別の場所を探しはじめた。
「やっぱカエルの酢漬けの瓶とかないと、感じ出ないよな」
「ねえ」と千尋は声をかけた。「古いポスターならあるよ」
「どれどれ」
 ケンジと幸子がやってきて、棚の下の方にあったポスターをひろげた。電灯で照らすと、日に焼けてすっかり色あせているのがわかった。
「”植物のつくり”…って全然怖くねえ!」
 ケンジはあきれて行ってしまった。幸子は手早くポスターをしまいながら、
「やっぱり人体模型とかないと、雰囲気でないよね」
 部屋の壁にそって、廊下側へ行っていたケンジが声をあげた。
「おい! こっち来てみな」
 千尋と幸子はケンジが手招きするほうへ行った。
「ここ、理科準備室だ」
 ケンジが指差した。準備室は、ふつう教室よりずっと小面積でたくさん物が置いてある。
「きっとカエルの酢漬けの瓶がたくさんあるぞ」
 とケンジはドアの取ってをまわした。ガチャ、と音はしたが、開かなかった。
 幸子が、
「中を片付けられてなかったらね。あと、酢漬けじゃなくてホルマリン漬けだよ」
 ケンジの手元で破裂音がして、細かなビスか何かが床に転がる気配があった。
「うわ」ケンジは手元を照らして、「とれた」
 ケンジの手の中にアルミの取手があった。千尋は幸子から渡されていた電灯でドアの取手部を照らした。ぽっかり5センチほどの穴があいていて、向こうが見えた。真っ暗だ。
 ケンジがドアを押した。あっけなく、スーッと開いて止まった。奥に窓が見えた。外は薄青い夜が広がっている。それでも準備室の中よりは、外のほうが明るい。かなり狭い。押し詰められた闇の濃さでそれが分かった。
 ケンジは電灯で照らした。円い光が物の表面を滑るごとに、物の形は、わざとらしい色合いで陰影を引き立てた。
 両脇に棚が置いてあって、右の棚と床にはダンボールに入りきらなかったのだろう、実験器具や紙束が見えた。置いてあるもののせいで部屋は筆箱みたいに細長かった。一番奥がさっきの大きな窓だ。
 ケンジと、千尋と幸子は、ひとかたまりになって窓へ進んで行った。途中、ゴムみたいな物を踏んだし、棚から突き出ていた定規に肩が触れた。
 ケンジが立ちどまった。
「カエルの標本、ありそうだけどないなぁ。これフラスコだ」
 棚の上方を照らした。ケンジにつかえて千尋たちも止まった。
 不思議と千尋は怖くなかった。さっきまでの不安はどこかへ行ってしまった。ケンジと幸子がおっかなびっくりなのを楽しむ余裕さえあった。”神隠し”に比べたら肝だめしは子供の遊びにすぎなかった。暗い未知の広がりは、説得力を失って、千尋の心の底まで怖がらせることはできなくなった。
 人の声が聞こえた。
「ねえ」千尋は言った。「先生の声がしない?」
 3人は耳をすました。言葉はわからなかったが、声の響きは確かに西村先生だ。声がやんだ。
「あたしたちを探してるんだよ」 千尋は言った。
 ケンジが「そろそろ行くか」 と出口へ電灯を向けた。
 ドアの脇の棚の、チューブがはじけて揺れた。その床の埃が脇へよけた。
「なに?」
「わぁ」
 千尋たちは後ずさった。
 ”何か”が近づいてくる。ダンボールが動いた。床で花みたいにひろがっていた紙束がぺたんこに押しつぶされた。
「いや!」
 幸子が叫んだ。
「くるなっ、くるな!」
 3人は一気に窓際へなだれた。ケンジが懐中電灯を振り回した。幸子は電灯をとり落とした。
 出口はない。千尋はとっさに窓へ手をかけた。
「あ! だめ、鍵が紐でしばってある」
 両手で引いたりひっかいたりしたがびくともしない。ケンジが幸子と千尋を身体で隠すようにしてがんばっていた。
 窓を割ろう! 千尋が懐中電灯を逆手にとった、そのとき、
「ハク!」
 窓の外に白い竜がいた。千尋は窓に張りついた。
「ハク! 開けて!」


(夏がいちばん好きや)
つづく

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