6.千尋と冒険の夜
「ハク! 開けて!」
叫ぶと、ふっと体重が後ろに移った。窓に触れられなくなった。鍵がまわり、はじかれたように窓が開いた。
竜の頭は窓へ真っ直ぐに向いている。尾を鞭のようにしならせた。
次の瞬間、突風と共に突っ込んできた。どうっと音をたてて千尋たちの頭上を通った。竜の腹が髪をかすめた。千尋は振り向いた。ドアから踊り出ていく緑色の尾っぽが見えた。
風が止んだ。静かになった。置いてあった物がみんな風でひっかきまわされていた。千尋はハクを追おうと、ダンボールを乗り越えて廊下へ出た。幸子とケンジも遅れてつづいた。
「今の風…」
と幸子がつぶやいた。幸子とケンジには見えていなかったのだ。
右から速水琥珀が駆けてきて千尋の手をとり、走り出した。
千尋は、「幸子! ケンジくん」と言いかけた。ハクは強く手を引いた。「ねらわれているのは千尋だ!」
ふたりは風みたいに駆けた。千尋はときどき足が浮いて滑るのに、強い力で体重をすくわれて走った。ハクはしっかり手を握っていた。屋上への階段とドアが見えた。ハクは駆けながら片手をかざした。ドアが開いた。と同時に走り出た。
屋上だった。ハクは止まった。ふたりの息はまったく切れていない。
「ここでカオナシを待ちうける。人に術を見られなくてすむから」
「あれカオナシだったの? 知らなかった」
「安心して。きっとうまくいく」
「待って。どうするの。あの人なにかしたの」
「千尋を追いかけている。さ、こちらへ来て」
ハクはドアから離れたところまで千尋を歩かせた。夜空がひろがっていた。屋上は広かった。この大きな一枚屋根の下にみんながいるんだ、と思った。そこから見た町は、黒い山の斜面へ
へばりつくようにほんのり光っていた。
「幸子とケンジくんは? とも子たちは?」
「みんな無事だ。カオナシは千尋が目当てなんだ」
フェンスの手前で止まった。ハクはふと動きをとめ、「来た」と言った。
「ここにいて、あぶなくなったら他のことはかまわず走って逃げるんだ」
ハクは千尋をそこにとどめて数歩ドアの方へ進み出た。
ドアのむこうの闇が盛り上がり、こけしのような薄い影が現れた。階段を昇り切るときに体のすそから、小さな足のすねがのぞいた。白い仮面をつけている。仮面にはぽっかり3つ穴が空いている。卵を横にしたようなその穴は両目と口だ。頬と額に、目とは逆の方向の裂け目を表わす紫色の三角模様があった。静かで、影が盛り上がって形になったような姿だ。
千尋は、カオナシがぴったり記憶と同じ印象なのに驚いた。心のどこかでは、カオナシが実在するとは思っていなかったのだ。
黒く静かなカオナシと、白く厳しい表情のハクが向かい合った。ハクは右手を正面に向け、大きな声で言った。
「若い神よ。何の由あって千尋に憑くのか」
カオナシは縮こまるように身を引いた。うろたえて、仮面は左右を見回した。
ハクみたいな言い方じゃ駄目だ。千尋は思った。カオナシは小動物みたいに臆病なんだから、真正面からはっきりと問いただしたりしてはいけない。雨の日の物悲しい気持ちを言葉に含めて、小さな子に話すようにしなければカオナシは答えられない。
カオナシは千尋に目をとめた。
「止まれ」 とハクは言った。
カオナシは助けを求めるように、進みかけた。
ハクは掌から術を放った。見えない風が吹きつけ、カオナシの胴が、ゼリーを揺するみたいにぶるぶる震えた。もちこたえたのは2秒ほどで、カオナシは大きくのけぞると仮面から壁に押し付けられた。ジャムをパンへ塗るみたいに、カオナシを壁へひろげてしまうつもりらしい。
千尋は叫んだ。
「やめて!」
ハクに駆け寄った。
「やめて。この人悪い人じゃないんだよ」
ハクは掌を閉じてこぶしに術をおさめた。きつい目で千尋を見た。千尋はひるまなかった。
「何もしてないし…。さっき、あたしに何か言おうとした」
カオナシはぺたんこになりかけた自分の体を集め、うつむき加減に立ち上がった。千尋とハクのほうへゆっくり進んで来た。1メートルほど先で止まった。近くでみると、お父さんや西村先生よりずっと大きい。頭から肩にかけての曲線が人間じみている。ハクは真正面からにらんでいた。
千尋はハクに目で合図をして、一歩前へ出た。カオナシの面を見詰めた。目と口の穴から面の厚みがわかる。面の奥には何があるんだろう。
「どうしたの。なんでここにいるの?」
カオナシの横長の口が、かすかにひろがった。カオナシは液状のマントをまとったような体から、黒い両手を出した。マントの切れ目は、仮面の近くまで上がっていって腕の根元まであらわれた。人間と同じ筋肉のつきかたをしている。水をすくう形の手の上にはピンクの編物がのっていた。カオナシは、背の低い千尋に合わせてうつむきかげんのまま、更に手を突き出した。
「くれるの?」
ときくと、カオナシはうなずいた。
千尋は手を出した。カオナシは千尋の手に触れてはいけないと思ったのか、ひとつづつ、つまむように千尋の手へ置いた。千尋はそれをひろげてみた。きめの細かい、ピンク地に白いラインの入ったマフラーと、おそろいの手袋だった。
「かわいい。本当にもらっていいの?」
カオナシはうなずいた。
「ありがとう。わざわざそのために来てくれたの」
面の横長の口が、さらに、少しひろがった。
千尋はミット型の手袋をはめて、マフラーはさすがに暑いので首にひっかけた。千尋はハクへふりむいた。
「これを渡しに来てくれたんだって!」
ハクはだまっていた。
千尋はカオナシに、
「少し季節は早いけど、大切にするね」
カオナシはうれしそうに揺れた。
ハクが言った。
「みんなが心配してる。帰ろう」
「うん。でも、この人どうしよう。一人で帰れる?」
カオナシはうなずいた。
「じゃあ、一緒に下まで降りよう」
千尋とカオナシを先に通して、ハクはドアを閉めた。階段を降りながら、千尋はカオナシの器用さを褒めた。でもいきなりやってきて人を脅かしてはいけない、ともさとした。1階でカオナシとわかれた。ちゃんと銭婆婆の元へ帰れるだろうか。トンネルを通って、電車に乗って。カオナシは暗闇へ溶けて行った。
千尋と速水琥珀はクラスの友人たちと合流した。とも子と幸子は駆け寄ってきて、「大丈夫!?」と千尋の手をとった。先生はずいぶん怒って、長いお説教をたれた。マフラーからは爽やかな木の香りがした。
日曜日、千尋は早く起きて台所に立っていた。お母さんのエプロンは膝下まであった。ホットプレートを出した。
これからクレープを作る。卵、ミルク、粉、塩、バニラエッセンスを本に書いてあったとおりの分量で混ぜると、しゃばしゃばの生地が出来た。いつもはホットケーキを焼くだけなのでそう感じるのかもしれない。生地を10分ねかせる。その間、椅子に座って少女コミックを読んでいた。その話はある女の子が子供のころからずっと男の子を待ち続けている話で、とうとう男の子が迎えに来ず大人になってしまったころ、生地を取り出しオタマにすくって、こぼさないようにプレートの真ん中へひろげた。
お母さんがやって来て、
「2、3枚一気に焼けばいいのに」と言った。
おかげで気が散って、円くならなかった。分厚さもまちまちでこれではホイップを乗せたらもれてしまう。失敗作を皿によけておいて2枚目をひろげた。今度はうまく行った。ひっくり返すと、ペタ、と薄っぺらな音がした。待つ間、失敗作をかじってみた。なかなかだ。
結局4つのクレープができた。それぞれホイップとカスタードをのせて、バナナの輪切りをならべて、キウイものせて、三角の形にたたんだ。2つは冷蔵庫に入れておき、もう2つは持って行く用にする。持ちやすいように綺麗な紙で包む。随分手間はかかったが達成感があった。千尋はそれをタッパーに入れ、手さげ鞄にしまい、家を出た。
玄関でお母さんが、
「千尋、お昼はどうするの。お友達のところでご馳走になるの?」
ときいた。
千尋は、「ううん、違うけどいらない。クレープ作ってたらお腹いっぱいになった」と答えた。
千尋は下の森への道を急いだ。ハクのところへ遊びに行く。クレープが、手さげ鞄じゃなくてバスケットに入っていたらもっとおしゃれな気持ちになれたのに。それでも胸は躍っていた。
ハクは何というだろう。お菓子を持って行ったら食べてくれる? ときいたら、うんと言ってくれたのだ。
県道に出て、下の森の入り口まで来た。見上げると自分の家が森の上の斜面に小さく見えた。鳥居のある大きな木を過ぎて、石のほこらもすぎた。ハクはどこにいるんだろう。下の森と言ってもそれなりに広い。
「ハクー!」
思い切って呼んでみた。見えるものは木ばかりだ。返事はなかった。いないのだろうか。ハクがいそうなところ、と思って、木を見上げた。もしかしたら空を散歩しているのかもしれない。そんな行き先の心配が出来る友達を持つのは、素敵だった。
視線を落とすと、すぐ目の前にハクがいた。
「よく来たね」 と言った。
水干姿のハクを見るのは久しぶりだ。
「ハク、よかった。いないかと思った」
「こちらへおいで。いい場所がある」
ハクは道をそれて森の奥へ入って行き、
「この上だよ」
と大きな木の幹に触れた。
「木のぼり?」
千尋も木の肌に触れた。ごつごつしているのにひんやり湿り気があった。あたりは緑と土の匂いに包まれていた。ハクは千尋の目を見て、かすかに笑った。千尋の左手をとり、地面を蹴った。
「わあ」
と千尋は声をあげた。
木の枝と葉が目の前を流れていく。いくつもの小さな風が、あとからあとから2人の体を押し上げていく。ハクと千尋のジャンプは徐々に速度を失い、ジャンプの頂点ではふんわりとして、周りをみる余裕が出来た。大きな葉の塊につっこみ、千尋は一度目をつぶり、つきぬけてから地面を見た。やっぱり飛んでる! ずいぶん高い。足が宙を掻いた。水中に浮かんでいるみたいだ。ハクはときどき、飛ぶことを”泳ぐ”と言ったが、こういうことかと思った。
ひときわ大きな枝に降りたハクは、ていねいに手を引き寄せて、千尋を立たせた。風がおさまりかけ、千尋はスカートのすそを押さえた。風がなくなった。急に体が重くなった。同時に、高い枝に立っているのが少し怖くなった。
「すごい。飛んだね!」
千尋はうれしくて笑った。
その瞬間、前にもハクと空を飛んだことがあったのを思い出した。千尋は、ハクと再会してから、カオナシのこと、油屋のことと徐々に記憶を取り戻してきていた。何気ない瞬間、前にもこんな風だったと思ったり、突然人の顔が浮かんできたりする。今もそのひらめきがやってきて、ふれまわりたいくらい
いい気分だった。
千尋とハクは枝へ座った。落ちそうで怖いので、幹の近くへ座らせてもらった。ハクはまるで地面を歩くように枝の上を歩いた。千尋は幹に触れた。それは下で触ったところより皺が増えていた。この幹の、この場所に触れた人は他に何人いるだろう。
「ハク、あたしお菓子作ってきたの。さっきのジャンプでひっくり返ってないといいけど。ヘタクソの言い訳じゃないからね」
クレープは無事だった。千尋は形のいいほうのクレープを手渡した。もうひとつは自分のだ。こんなに見晴らしのいい場所で食べられるとは思っていなかった。
「今日のハク、ピーターパンみたいだね?」
千尋は足をぶらぶらさせた。
「ピーターパン? おとぎ話の?」
ハクは千尋が食べるのを見てから、確かめるように少しかじって、クレープを食べ始めた。千尋のお菓子作りの腕を信用していないから、というより、クレープを食べるのは初めてらしい。口に合うかどうかドキドキしながら、千尋はハクと話していた。
「手をつないで飛んだとき、小さいときに思ってたピーターパンとおんなじだった」
「そう」
とハクは、クレープを膝頭のあたりへおろした。
「ピーターパンは、少女ウィンディをないない島へさらっていき、楽しく時を過ごす。そこでは永遠に年をとらない…」
「うん」 千尋は相槌を打った。
「いや…このお菓子、とてもおいしいよ」
「本当? 初めてだからうまくできたかわからないけど、味見はちゃんとしたし。ハクの元気が出るように、おまじないをかけて作ったの!」
ハクは笑った。
「それは嬉しいな。どうりでおいしいわけだ。私は元気がなさそうに見えた?」
「そういうわけじゃないけど。最近、難しい顔してるなぁと思って」
「だめだな。千尋に心配をかけるようでは」
ハクは前を向いて何か考えている風だ。風がふいた。木の枝に座っているので、葉っぱのすれあう音がすごかった。しばらく話し出せないほどだった。ハクは、そんなもの聞こえないかのように一点を見つめている。音が止んだ。ハクは手首へ手をやり、今気付いたという様子で言った。
「そうだ。この時計を返しておこう。もう、用はすんだから」
「あ、いいよ。それハクにあげる」
もらってほしかった。「ぼろっちい時計だけど、よかったらもらって」
いいのかい? とハクは目でたずねた。
「ありがとう。大切にするよ」
それから、先週の肝だめしの話をした。結局、クラスで肝だめし大会をする案はなくなったが、あれはあれで楽しかった。カオナシとも会えたし、カオナシが理科準備室に入ってきたときの、ケンジと幸子の慌てた顔! でも、ケンジは千尋と幸子を守ろうとしていたようだし、なかなか勇敢だった。そんな話で盛り上がった。
「来週ね」
と千尋は話を転じた。「学校で、進路相談の三者懇談あるの、知ってた? 私立行く子はそろそろ大変らしいよ。幸子も私立組だから毎日塾に行ってるんだって。ハクはどうするの」
「ああ。プリントを見た」
「お父さんかお母さんが学校へ来て、中学のことを決める懇談だから」
「三者懇談には出ない。考えたけれど、中学校にも行けないよ」
「なんで!?」
千尋はてっきり、公立の中学へ一緒に進学できると思っていた。ハクが何も言わないから、無言の肯定だと受け取っていたのだ。
「中学校へは行かない」
ハクはもう一度言った。「速水琥珀はまた転校する」
「ほんとの、本気で?」
「前から決めていたことなんだ。学校に転入するときから決めていた。もう、用事は済んだから。カオナシがどう出るかわからなかったので、千尋のそばで見張るため、学校に入ったんだ」
千尋は何と言っていいかわからなかった。ハクが来てから学校へ行くのがうんと楽しくなったし、充実ってこういうことを言うんだな、とさえ感じていた。ハクだって学校生活が楽しくなかったはずがない。ハクはいつだって、千尋には理解しがたい大人びた事情を抱いていて、それを話したがらなかった。
「待って。なんで? 学校、飽きた?」
「いいや」
「何かしんどいことでもあるの」
「私は嫌でやめるんじゃない。本当に、やるべき事をすませたから出て行くだけだ。むしろ、学校は楽しかった。思っていたより、ずっと。皆もよくしてくれた」
「じゃあ、もっといなよ」
「そういうわけにはいかない」
「なんで…」
「私の居場所はここじゃない。いいところだけど、やはり、違うんだ。それははっきりしてる」
「ずっと一緒にいられると思ってた」
もどかしくなって、千尋は、「出て行くのやめなよ。一緒に中学校へ行こう!」と言った。必死だった。
ハクは首を横に振った。
「だめだ。理由を言おうか。私は人のふりをするために、何人か魔法で誤魔化した。だまし続けていいはずはない。学校をやめて、風と水のそばで、できるなら川で暮らそうと思う」
「そんな嘘なんでもないよ! ハクが人間になるためなら、小さな嘘くらい、許されるよ。誰にも迷惑かけてない」
「千尋。私は人間にはならない。人が勉強して、働いて生きるように、私も川のそばで生きなくては。私の役目はここにはない。私のたのしみのためだけに人の生活を乱してはいけない。人間のふりをしたり、人の子をさらって育てたり、…昔は、ピーターパンのようにきまぐれな神もいたらしいがね。人が強くなった今では、そんなこと許されないよ」
千尋は、ふいに、ハクが人間を憎んでいるんじゃないかと思った。ハクの口調が柔らかなだけに、強い意志を感じた。かたくなな態度の中に、わずかに、やけをおこしたような、そんな印象を受けた。
「ハクは人間が嫌いになったの?」
「そういうことじゃない。本当に。川を埋められたときは苦しい思いをしたけど、今はそんな気持ちはないよ」
「嫌だから行くんでしょう」
「あるべきところへ帰るために行くんだ。来週中には転校する」
「そんなに早く…」
千尋はすっかり元気を失った。ハクのところへ遊びに行って、とも子よりずっとハクのことを知ってると思うことも、ハクの周りの澄んだ雰囲気に触れることも淡い喜びだったのに、全部消しとんでしまった。
「あたし、帰る」
千尋は言った。このあと千尋の家へ行って一緒に遊ぶはずだったが、とてもできそうになかった。ハクの言ったことを受けとめきれていなかった。
ハクは木にのぼったときと同じように千尋の手をとり、木から下ろした。気持ちが違うと手から伝わってくる感じもこんなに変わるのか、と千尋は思った。
ハクは、下の森の入り口まで送ってくれた。
千尋は県道を出て、ひとりで坂道をのぼりながら思った。やっぱりハクは人間が嫌いなんだ。だって本当に好きなら、人間と暮らすのを楽しいと感じたなら、ずっと一緒に暮らそうと思うはずだ。人をだますのがいけないとか、いるべき場所じゃないとかはあとからつけた理由で、ハクが本気で人間になろうと思えば、いけない理由なんてない。ひとりの男の子が幸せに生きたいと願って、それを駄目だと言える人がどこにいるだろう。
こう考えるのはあたしが子供なせいかな。多分それもあるだろう。
坂をのぼりきり、家に着いた。
「ただいま」
と、千尋はつぶやき、玄関へ入って行った。
(一話ごとに題をつける瞬間が一番楽しい)
つづく
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