8.千尋とハク
ハクは一人で、大きな木の根と根の間に座っていた。約束の時はとうとう来た。同じ森の中では、こけむした蛙人の石像が静かに時を数えているだろう。
昨日の夜が、これまで過ごした他の夜と全く同じなのを不思議に思った。ハクは自分が未熟であるのは知っていたが子供であるとは思っていなかった。だから自分が、いままでと全く違う印象の時を期待していると分かったとき、自分の中に子供を感じて、おかしく思った。あるいは人の子の間で過ごした2ヶ月がハクに新たな何かを吹き込んだのかもしれなかった。
日暮れまであと一時間あった。大体のことに整理はついた。整理しきれなかったことは割り切った。傘のように拡がった枝が視界にかぶさっていて、まばらな光がハクの肌を照らした。空が綺麗だ。草の匂いも好ましかった。残りの時を過ごすにはいい場所だった。故郷の、コハク川として生きた場所で最期を過ごすことも考えたが、埋められた川を見るのはいたましかった。ごまかしのようだが、ここは昔のコハク川ににている。
なぜあの少女にここまでこだわったのだろう。ハクは思った。確かに千尋は恩人だ。しかし自分の感情には恩義以上のものが含まれている。元の世界へ返ってきても、自分の場所がなかったから? 少女を守るという名目で自分の存在を守っていた? そうではない。自分のためにやったことではない。自分の未来に対する執着は、晩年の老人のように弱かった。いつか、川が元通りにならないと悟ったときから、そうなったのかもしれない。あるいはわずかしかない生へのこだわりがこんな最期を呼び寄せたのだろう。
自分の生に無頓着になったぶん、千尋の生活に強いあこがれを感じていた。人の真似をしてすごす自分が、滑稽で、生きている感じがした。死にかかっているコハク川ではない、新しい人間としての自分が生れたような、楽しい錯覚を起こしたのだ。そのなかで千尋は変わらず道標であり、新しい風だった。
サク、と草を踏み分ける音がした。ハクは顔をあげた。空耳だろうか。
「ハク? ハク」
千尋だ。見送りはいらないと、昨日あれだけ言ったのに…。仕方なかった。ハクは呼んだ。
「千尋、こっちだ」
枝をもちあげて、千尋があらわれた。千尋はハクをのぞきこむような姿勢になった。
ハクは手で木の根っこの平らになった部分を軽く叩いた。
「ここに座りな」
手の感覚がにぶってきている。
千尋はハクの隣に座った。ハクのいつもと違う面持ちに気付き、千尋も話そうとはしない。ハクは千尋の手を握った。
「ねえハク、あとどのくらい一緒にいられる? あとどのくらいで出発するの?」
「今日の日暮れまで」
「きっかりに?」
「きっかりに」
「連絡をちょうだいね。電話か手紙か…無理なら、なんでもいいよ」
しばらく、ふたりは両足を投げ出した姿勢で座っていた。今度はハクから口を開いた。
「実は、千尋に嘘をついていたことがある。私は人間として暮らすことはできない。といって、千尋に言ったように川のそばへ引越したりもしない。まったく別の場所へ行くんだ」
ためらいがちに、千尋はハクの手をぎゅっと握り返した。もっともハクの手足の感覚は鈍くなっていて、かすかに力をこめた程度にしか感じられない。
「油屋をやめるとき、釜ジイのとりはからいで、湯婆婆から退職金をもらうことができた。元の世界へもどって私が身の振り方を決めるまで、好きなときに湯婆婆の魔力を借りて魔法を使うことができる、という退職金だ。(湯屋から出ても生きていけるほど、力がのこっていなかった。形をとどめるのもやっとだったんだ。)今日の日暮れに、魔法が解ける。湯婆婆に借りていた魔力が切れると私はいなくなるんだ。」
「どうなるの? どこへ行くの?」
「千尋が知ると悲しむだろうから、言うつもりはなかったのだけれど。私はまだまだ弱いね」
「どこへ行くの?」
もう千尋は答えを知っていて、おびえた、信じられないという目でハクの顔を覗き込んでいる。ハクは空を見ている。
「千尋が何も思うことはないよ。そばにいて、見送ってくれるとありがたい」
「そんなの駄目だよ! ああ、なんで!? 湯婆婆に言って、なんとかしてもらいなよ!」
「もう決めたことなんだ」
「おかしい! 絶対おかしい! なんで? ずっと学校に行ってればよかったのに! 一緒に中学へ行こうよ、ねっ」
「決まってるんだ」
鳥や虫の声、そして出来れば穏やかな千尋の声を聞いていたいと思った。
千尋はハクの肩を掴んで揺すりかけた。ハクの手は草の上に垂れたが、湿っぽさもくすぐったさも、手の甲には感じられなかった。そでから下を動かすことはもうできないだろう。尻の感覚もなかった。
「千尋、ひざを借りてもいいかな」
千尋はうなずき、ハクは寝そべって千尋のひざまくらに頭を乗せた。おかっぱの髪がふたつの膝頭にひろがり、丸みにそって滑った。
「いい気持ちだ」
頭がすっとした。ハクは最後の魔法をどうしようか迷っていた。小さな魔法だ。千尋の額に手をかざして、自分のことを忘れるようにするだけでいい。千尋につらい思い出を残さなくてすむ。自分が存在したという記念に、速水琥珀の記憶だけ残しておくのだ。人間の、同級生の、速水琥珀を。それで充分だ。
決めた。ハクは義手のように重くなった腕をあげた。
「なに?」 と千尋が言った。
「千尋がこれから暮らすのに、邪魔な記憶を消すんだ」
「いやだ、絶対いや。ハクのこと忘れるなんて」
「そのほうがいいんだ」
千尋はハクの手を両手でつつんでおろした。
「ハク、どうしても行っちゃうの? どうしても?」
ハクはうなずいた。千尋の膝の上で髪が滑る音がした。
「きいて、ハク。あたしハクのこと絶対忘れたりしない。ハクに比べたら全然子供だけど、いろんなこと知って、ハクのことわかろうと思って勉強したの。同じものがみたかったの。一緒にいるってそういうことでしょう? どうしてもだめなの? ハク。消えちゃうなんて言わないで。おねがい! 一緒にいてくれるよね。おねがい!」
ハクは自分の声を確かめながら、言った。
「私はずっとそばにいるよ。千尋がみるものと感じるものの中に私はいる。千尋と共に生きるんだ」
ハクは最後の魔法をあきらめた。もうそれだけの力が残っていないのを知った。
「そんなこといわないで。なんで…」
「忘れないで。私がいつも共にいること」
さよならより、そう考えるほうがどんなにいいか。もしそうならどんなにいいだろう。千尋が描いた夢のとおり、一緒に中学へあがり、一緒に生きるのだったら。ハクは今、千尋の行く先に自分を重ねて、同じ夢をみていた。
千尋は泣いていた。涙はぼろぼろ頬を伝って、ハクの額にもこぼれた。
「泣かないで」
ハクは言った。千尋のすすりなく声が聞こえる。
「ハク、目をあけてて。おねがいだから。ハク、ハク、ハク、ハク」
「千尋」
目をあけても一緒なのだ。ハクはもう見る力を失っていた。それでも千尋を安心させるために、まぶたを開いた。緑の瞳は何の光もとらえなかった。体中がだるい。自分がどんどん”モノ”に近づいていくのを感じる。人間のように悪臭を放ったり、わめいたりする最後でなくてよかった。
竜の魂は消えつつあった。その存在は風のように出来ている。風は空気の動きであり、動きがとまると、それは空気であって風ではない。ハクの魂の運動もとまりかけていた。かすかにふるえるたましいが、まだ、自分はここにいる、と知らせていた。いまさら、とハクは自分を笑った。もう自分は充分生きた。人間のふりをして暮らした2ヶ月を楽しみ、学び、精一杯生きた。他人の魔力で形だけつくろったにしては、まともな時を過ごせた。納得しなければいけない。
頭の芯以外、何も残っていない。遠ざかっていく。何も聞こえない。何も感じない。死ぬとはこんな風なのか。
それでも千尋がそばにいる。確かにそこにいる。そのほかはもういい。道標を追うように、階段をのぼるように、ハクは唱えた。
千尋、千尋、ちひろ、ちひろ…………。
ハクの唇が自分の名の形をとるのをみた。千尋はハクの背をささえ、手をとり、泣いていた。泣き声は大きくなって、小さな子供がするように、わんわんとみっともなかった。日が暮れた。突然、軽くなって、ハクは露になってしまった。千尋の服の前はぐっしょり濡れていた。
ハクにあげた腕時計が、手の中に残されていた。
おわり
(ここまで読んでくださってありがとうございました。読み返していて、至らない部分も多く感じるのですが、「同じ夢をみよう」はひとまず完結です。02.07.18)
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