1
大都会の繁華街。
ネオンの洪水が押し寄せる大噴流の中、その中に一際輝く存在があった。
それは、一人の少女。
その少女は、とにかく可愛かった。
ツインテールにした髪型は、ウィッグやエクステンションを使っていたとしても気にさせない見栄えだったし、
顔立ちだって最近のアイドルなんか眼じゃないくらいに、愛くるしいものだった。
服装こそ、最近のストリートアイテムを決め込んでいたが、
彼女なりの個性が随所に散りばめられていて、レザーアイテムを多用している様が、センスの良さを見せている。
レザーのロングブーツで華麗に地面を鳴らしながら、酒臭くなってきた繁華街を歩いていても、
気後れなんかしていない様子だった。むしろ、自分の家、もしくは庭感覚で歩いているように見える。
レザーアイテムが反射する繁華街のネオンも、今は少女の事を艶やかに彩っていた。
少女は、アメリカで言うと「ロリポップ」風な姿で、今も、スティック・キャンディーをくわえ、
何処と言わず眺めながら、アスファルトの上を歩いていた。
フレアスカートの下には黒のスパッツを履いていて、酒で酔った男達の「スカートの中を知りたい」願望を、見事にうち砕いていた。
それでも少女の側を通り過ぎる男達は、酒に酔いながら、己の性欲に従い、
少女の股間に、辺りもはばからず無遠慮に視線を張り付ける。
そんな男の一人に、少女は気まぐれで近づき、目の前2センチまで可愛らしい顔を寄せると、男に天使のような微笑みを送った。
酔っているため、サラリーマン風の若い男は、少女が自分に好意を持って近づいたモノと勘違いし、
自分も間抜けなことに不細工な笑顔を送り返した。
(このガキ、俺の男らしさに惚れやがったな)などと、妄想もいい加減に耽っていた男は、
自分の鼻の穴にチクッとした痛みが走るのを感じた。
「お兄さん。私を見るときは、ちゃんとチケットを買うことね」
瞬間、男の鼻は激痛に襲われた。
少女は、何処から瞬時にして出したのか、バタフライナイフの刃先を男の鼻の穴に入れ、
言い終わると同時に、ナイフを一気に横に引いたのだ。
小鼻を切り開かれた男は、一瞬何が起こったのか分からずに立ちつくしていたが、
やってきた激痛に耐えられず、その場で鼻を押さえて転げ回った。
男の鮮血がアスファルトを濡らし、男の同僚も、少女に目を合わす事が出来ずに男を介抱している。
その少女の戦慄は、その時そこにいた全員に、伝わった。
通りを普通に歩いていた女性ですら、戦慄を感じて顔を向けないようにしている。
そして同時に、少女の可愛らしさの裏に存在する残虐性、凶暴性なども、全員が感じ取っていた。
少女は、男の鼻を切り開いた後、何事もなかったように、また繁華街を歩き始めた。
歩きながらナイフを片手で畳み、左手首袖口から飛び出た金具に取り付け、肘あたりのスイッチを押すと、
カシャンという金属音と共に、ナイフはレザージャケットの袖の中に隠れた。
一瞬にして現れたナイフは、左腕の袖の中に格納されていたらしい。
少女の名前は、ミズキと言った。
この界隈では、知られている者には「リッパー(切り裂き魔)」と呼ばれていた。
2
地下に続く薄暗い階段を下りたところに、そのバーはある。
バーの名前は、「イノセント・ブラッド」。マスターが思いつきで付けた名前らしい。
入り口はシンプルに出来ていて、重そうな木の扉だけがあるので、そこをくぐれば店内だ。
中は、ブルーの照明とシルバーメタルで統一されていて、外の扉とは逆に、近代的なデザインにまとめられている。
カウンター席が五つ、テーブル席が三人掛けが二つ。緻密に計算されたように配置されたテーブルは、
テーブルごとに一本の照明が真上から当たり、テーブルの中央だけを照らしている。
薄暗いブルーの店内を、テーブルの照明が反射させるメタルプレートが、妖しい色と光を演出している。
装飾らしい装飾も無い店内で、唯一壁を飾っている絵があった。
それは、闇夜に浮かぶ、マントを翼のように広げた吸血鬼の絵だった。
・・・その辺から、店の名前が導き出されたのだろうか。
客はそこそこに入っていて、空いてる席を数えた方が早いくらいだった。
マスターは初老の男で、今はカウンターの中でグラスを磨いている。
彼の背後に並ぶ酒の種類は、どんなカクテルでも作れそうなほどだった。それほど、膨大なのだ。
ジン、ウォッカ、ブランデー、ウィスキー、そして、各種のリキュール。
ベースだけでも軽く百五十種類はありそうだ。
静かな店内に流れる曲は、ジャズだった。マスターの趣味で流しているので、
マイルス・デイヴィス以外の曲は流れたことが無い。
その中で唯一、マイルス・デイヴィスが最後に出したアルバム、「ドゥー・バップ」だけは、異色な存在だった。
そのアルバムだけは、ジャズという枠組みには入らず、どちらかというと「ヒップホップ」調の音だったからだ。
しかもマスターはそのアルバムを大層気に入っているようで、他のどのアルバムよりも、流れる頻度は高い。
普通にジャズに酔っていた客にしてみれば、落ち着いた雰囲気の店だったのに、
いきなり若者向けの店に変わってしまうような感覚を覚えさせられ、少々戸惑うこともあった。
それでもさしたる混乱も無いのは、ひとえに店の雰囲気と、マスターの人の良さを、客側が理解しているからであろう。
その店内に、突然険悪なムードが乱入してきた。
入り口の扉を激しく開け、まるで自分達が独裁者にでもなったような傍若無人ぶりを発揮し、騒ぎながら数人の若者が入ってきた。
さも薬物でおかしくなったように笑いながら、下卑た口調でカウンター席を奪っていく。
席を奪われた客達は、嫌そうな顔を隠しながら、早々に勘定を済ませようと、財布を捜し出した。
その客の中の一人の女性が、自分のカバンから財布を取り出そうとした時だった。
乱入してきた若者の一人が、その女性に絡み始めた。
黒眼鏡を掛けたその男は、その女性が持っていたカバンを取り上げ、中を漁りだした。
「止めてください!」
女性が突然の若者の行動に抗っていると、若者は酒の勢いも手伝ってか、更に漁りだし、女性のことをからかおうとする。
一緒にいる男は、おそらく「連れ」なのだろうが、オロオロするばかりで、助けようともしない。
「何、気取ってんだよ!これからその男とヤルんだろ、どうせ」
一迅の風が吹いた。
店の最奥から入り口に向けて。
その速さ、雷光のごとく。
仲間連中からの下卑た笑いもそのままに、黒眼鏡が大笑いを立てると、一瞬にして空気が変わった。
黒眼鏡の動きが不意に止まったのだ。
その仲間連中も、黒眼鏡の動きが止まったことで動きが止まった。
不思議そうな顔で眼を丸くしていた若者達は、黒眼鏡がたった一人の「女」に動きを止められていることに、やっと気付いた。
店の奥にいたのだろう、その女性は黒髪のショートヘアーで、世の女性が羨むほどの美貌を持っている。
まるで豹のようなしなやかな筋肉と躰を持っているようで、余分な脂肪は付いているように見えない。
全身黒ずくめの服は、エナメル素材のパンツとブーツが存在感を強調していた。
その女性は、店の奥から一瞬にして間合いを詰め、黒眼鏡に接近していた。
それは、一般人には信じられない光景だった。
日本刀を持った女性は、居合いのような踏み込みで、鞘から刀身を完全には抜かず、
刀の全身を押さえた形で、刃を黒眼鏡の首筋、頸動脈に当てていた。
その女性は、静かに言った。
「なあ、お兄ちゃん。これ以上酒を不味くするようなら、一生酒が飲めないようにしてやりたいんだけど」
女の無表情の眼に、黒眼鏡は恐怖を覚えた。
(この女、本気だ)
触れるか触れないかでピタリと止まっている刃から、尋常じゃない殺気を感じ取ったのだ。
ジリジリと後退し、黒眼鏡は背を向けて店外へ逃げた。
続いて、他の連中も居づらくなり、変な愛想笑いを浮かべて、我先にと出ていった。
「やぁ、すいませんね。お騒がせしまして。私から一杯、皆さんに奢りますので、変わらずお楽しみ下さい」
カウンターの中で、マスターがニコニコと笑顔で言った。
それを聞いた客達は、徐々に落ち着きを取り戻していった。
客の中には女性の刀に視線を注ぎながら席に戻る者もいたが、「輩を退散させた」という事実が、
この国の法律の「銃刀法違反」という事実を暗黙の了解としていった。
マスターは豊かな白髪をオールバックで流し、見事に蓄えられたサンタクロースのような白髭も、人柄の良さを示すには充分すぎた。
身長は高めで、190以上はありそうだ。がっしりした体格も、スポーツ選手を彷彿とさせる。
黒眼鏡にカバンを漁られた女性客は、連れの男がだらしなかったのに気分を害したのか、
マスターにさっさと勘定を済ませると、早足で店を出ていった。
連れだった男は、慌てて自分の分の支払いを済ませ、彼女への言い訳のために後を追いだした。
「カタナ。店の中でそれはマズイ。他の客が飲みづらくなるだろ?」
マスターは、先刻、黒眼鏡を撃退した女性に、そう声をかけた。
刀身を鞘に納めた「カタナ」と呼ばれた女性は、空いたカウンター席に座り直した。
カウンターに刀を立て掛け、「コロナ」と、小さな声でビールを注文する。
マスターは「やれやれ」といった顔で小さく首を振り、カタナの前の空瓶を片づけ、冷蔵庫から同じラベルの瓶ビールを出した。
ビールの栓を開けると、ペティ・ナイフで切ったライムを、飲み口に差し込んだ。
「ほら、コロナだ」
カタナは、カウンターに出された瓶ビールを取り、ライムを指で押し込んで、一口飲んだ。
飲んで、一息つく。
ポケットからクシャクシャになったタバコ、「キャメル」を出し、同時に取り出したマッチで火を点け、一本吸い始める。
「酒が不味くなったら、マスターは責任をとってくれるの?」
キャメルの甘い煙を吐き出しながらぶっきらぼうに言ったカタナは、煙を燻らせてマスターを見る。
マスターは表情を変えずに、小皿に出したナッツをカタナの前に差し出すと、こう言った。
「取りあえず、刀を出すのはやめろ。警察に捕まったら面倒だ。それと、他の客のことも考えろ」
「・・・はいはい、分かったよ」
小皿のナッツを手に取り、ガリッと囓ったカタナは、後は静かに飲んでいた。
静かにジャズが響く店内。
しかし、マスターはこういうときに限って、「ドゥー・バップ」を流すのだった。
カタナと呼ばれた女性は、名を「キリコ」と言った。
そして、マスターは名を「ナナツサ」と言った。
「カタナ」と「マスター」の方が名前として通っている二人は、ある共通の仲間だった。
3
夜も更けてきた。
外灯も点き始め、徐々に闇を生んでいく空が、夜を主張していた。
住宅地でもそれは例外ではなく、壁や屋根が黒に染まってきている。
帰宅していたサラリーマンの数も減り始め、そろそろ人通りも少なくなる頃。
この時間に小学生がいるとしたら、塾帰りか、おつかいを頼まれた子だけだろうが、この時は違った。
俗に言う、「いじめ」の現場が、そこにあった。
一人の男の子を囲み、よってたかって、4人の子供達が殴る蹴るの暴力を行使している。
いじめる側のリーダー格の男の子が、地面に這いつくばっている眼鏡をかけた男の子の顔を、足で踏んだ。
メリメリと音を立てる眼鏡が、フレームが歪んで壊れた。
「お前、今日『クラッシャー・竜』の2巻を持ってこいって言ったジャン。何で持ってこないの?」
一人だけ体格の良いこの男の子は、どうやら足下にいる男の子に、漫画を持ってくるように言いつけていたらしい。
それに従わなかった男の子への、「制裁」という事のようだ。
「そうだ、そうだ!お前、『将軍様』が持ってこいって言ったんだから、ちゃんと持ってこいよ!」
取り巻きの一人らしい出っ歯の男の子が、這いつくばったままの子へと、唾を吐きかける。
その他の取り巻きも、暴行が終わったら、「将軍様」の後ろに引き下がり、笑いながら成り行きを見守るだけだ。
笑いながら、出っ歯が「将軍様」に近づき耳打ちした。
耳打ちされた「将軍様」は、含み笑いになり、そのまま足を離した。
足を離された眼鏡の男の子は、泣きながら地面に土下座し、額をこすりつけて謝り続ける。
「ごめんなさい!ごめんなさい!明日、必ず持ってきますから!ごめんなさい!」
壊れた眼鏡を掛けたまま、流れる鼻水も涙も気にすることも出来ないくらい、眼鏡の子は謝り続けた。
今度は、顔面を蹴り上げられた。
その衝撃で口の中を切ったらしく、顎を押さえて転げ回っている口から、大量に出血している。
眼鏡は地面に落ち、誰かに踏まれ、もう掛けられる状態ではなかった。
出っ歯が、蹴り上げた「将軍様」の後ろから出てきて、笑いながらこう言った。
「明日?持ってきても遅いだろ?遅くなったお詫びに、5000円持ってきたら許してやるよ!」
今度は、金銭を要求してきた。
この場にいる少年の数が、虐められている眼鏡の子を抜いて4人。一人1000円だとしても、多い。
ということは、先刻、出っ歯が耳打ちしていたのは、余った分を「将軍様」にという話しでもしたのだろう。
漫画ばかりか、金銭まで要求された眼鏡の子は、泣きながら呆然としていた。
5000円なんて無理だ、そう言おうとしても、恐怖が躰を支配し、口が少しも動かなかった。
(5000円なんて、何処から持ってくればいいんだよ!・・・まさか、お母さんの財布から持ってこいっていうんじゃあ・・・)
眼鏡の子の恐怖が満ちたとき、いじめっ子達の後ろで、「ドサッ」と音がした。
明かりになっているのは外灯が一本だけなので、すぐには何があったのか分からない。
「将軍様」と出っ歯が振り向いたときには、既に2人の「配下」が倒れていた。
その倒れている二人の前に、一人の少年が立っていて、「将軍様」と出っ歯に背を向けていた。
その少年がゆっくりと振り向く。
半ズボンに黒いトレーナー姿だが、ごく平凡な顔の作りなのに、無表情なのが不気味だ。
その少年の手には、金属質の平たい輪が握られていた。
見ると、その平たい輪には、外側の部分に血が付いているように見えた。
暗がりの中で、血の付着したモノを持って立ちつくす少年は、小学生の子供を脅かすには、充分だった。
それを見た「将軍様」と出っ歯は、途端にきびすを返し、そのまま逃げだそうとした。
まさか、その逃げだそうとした方向に、さっきの少年がいるとは思わなかったらしい。
無表情のまま、少年がきびすを返した方向に立っている。
「ひぃっ」と、小学生にしては切迫した大人のような息をもらし、一瞬にして逃げる方向に回り込んだ少年に恐怖した。
出っ歯が、少年に対して、口を開く。
「お、俺達はな、こいつが約束したモノを持ってこないから、いけないんだぞって教えてたんだ!」
「将軍様」、出っ歯の言葉に続けて。
「そ、そうだ!・・・お、お前も、同じ目にあわせてやるぞ!」
陳腐な大人でも使わないような脅し文句を堂々と言ってのけた「将軍様」は、出っ歯を盾にして、自分は出っ歯の後ろに回り込んだ。
沈黙を守ったままの少年は、何も言わずに眼鏡の子を助け起こした。
起こされた少年は、無言で泥を払ってくれる少年に、礼を言うことも忘れていた。
壊れた眼鏡を少年が拾ったとき、またも戦慄が走る。
その眼鏡を持った少年の眼が、「将軍様」と出っ歯を捉えたとき、初めて、表情を出したのだ。
静かに、口の端だけで笑っていた。
「将軍様」と出っ歯は、それを見て恐怖した。
口々に叫びながら、別々の方向に脱兎のごとく逃げていった。
倒れている配下の二人を置いたまま。
いざとなると「トカゲの尻尾切り」のように上層部の人間が下層部の人間を切るのは、子供でも大人でも変わらないようだ。
少年は、眼鏡の子に眼鏡を返した。
眼鏡を受け取った少年は、いつのまにか割れたはずの眼鏡が直っていることに気付いても、もう不思議を感じなかった。
目の前の少年自体が、不思議の固まりだったからだ。
眼鏡の子と倒れた小学生を残し、少年は立ち去ろうとしていた。
その少年の手に握られた平たい輪。それは、古代インドの武器で、「チャクラム」という武器だった。
金属で出来ていて、外側が刃になっている。投げて使う武器なのだが、何しろ円形の武器のため、扱うのが非常に難しい代物なのだ。
それを扱うのは、相当の手練れと考えて良い。
少なくとも、自らの拳しか武器を持たない小学生が相手なら、敵ではない。
眼鏡の子は、不安に駆られて少年に声をかけた。
「ねぇ!みんな、殺しちゃったの?!」
少年は止まり、静かに振り返った。
その顔は笑顔で、チャクラムとは反対の手で、胸ポケットから何かを取り出した。
それは、普通のケチャップの入ったチューブだった。
よく見ると、チャクラムに掛かっている朱も、血と言うよりは粘液質の鮮やかな朱・・・ケチャップらしい。
眼鏡の子は、ホッとした。
(良かった・・・死体だらけでどうしようかと思った・・・)
しかし、ホッとしたのも束の間。
(・・・だったらどうやって、一瞬にして二人を倒したんだろう?そして、一瞬で移動したのはどうやって?)
分からないことだらけだった。
一番の疑問は、「どうして彼は、見も知らぬ眼鏡の子を助けたのか」ということだ。
それを訊こうと、眼鏡の子が少年のいた辺りを振り返ると、もう彼の姿は無かった。
彼の名前は、シュウ。
あの「リッパー」ことミズキの、たった一人の弟だった。
4
夜になると、ファミレスは閑散としてくる。
特に、真夜中ともなれば、客層は決まっているようなモノで、殆どが男だ。
そんな中に、コートを着た長身の男が居た。客だ。
一人で本を読みながら、テーブルに着いている。
読んでいる本は黒革の本で、タイトルは読めそうもない。
テーブルに置かれたワインを優雅に飲んでいる様を見ると、ファミリーレストランでくつろいでいるようには見えない。
モデル顔負けの顔立ちと身長、そして見事な体格を見れば、誰だって気圧されてしまう。
優雅な身のこなしも、育ちの良さを出しているように見える。
女性ならば、その姿に、少なくとも一瞬は見とれてしまうのではないかと思われた。
そんなファミレスに、一時の喧噪が生まれた。どうやら、若者同士のケンカである。
奥の多人数用のテーブルを占拠していた連中だ。
男女入り乱れての列席だったが、何が原因なのか、少年二人が胸ぐらをつかみ合っている。
よく見ると、テーブルには酒瓶が載っていた。
アルコールの勢い。それが、引き金にもなっているようだ。
「・・・酒を要求されたのか・・・」
優雅な男が呟いた。
一応、ファミレスなどでは、店によって様々だが、深夜は酒を提供しないというところもある。
ここは提供する方の店だったらしい。
しかし、法律で未成年には飲酒が認められていないし、提供も認められていない。
それなのにテーブルに酒瓶が載っているということは・・・。
「・・・負けたな、従業員・・・」
本に眼を落としながら、男は小声で呟き続けた。
周囲の状況分析をしながらの独り言が、趣味らしい。
ケンカを始めた途端、店の奥から気の弱そうな男が飛び出てきた。
少年等のテーブルに入り、ケンカを止めようとしている。
それでも胸ぐらをつかみ合っている少年達は従業員に見向きもせず、ケンカを続けている。
それどころか、仲裁に来た従業員をも巻き込んで、騒ぎ立てている。
「・・・ゲームセットだ・・・」
男は本を閉じて立ち上がり、まっすぐに少年達のテーブルへと優雅に向かった。
少年達は、側にやってきた男を見て、動きが止まった。
取っ組み合っている二人も、今は男を見ていた。
男は、ニッコリと笑顔でこう告げた。
「どうせ楽しむんなら、静かに楽しむ気、無い?」
少年達は、動きが止まったまま、「はい」とだけ口を動かして、その場に座り込んだ。
その光景に男は満足したようで、身を翻して自分の席に戻った。
来るときと変わらず優雅に戻っていった男を、少年たちは、ただ口を開けたまま見送った。
少年達は、男の言葉だけに素直に従ったわけではない。
男の着ていたロングコートの内側に、鈍色の銃を二丁、両手で握っているのを見たからだった。
その男は、コートを肩から羽織り、その内側で銃を握って、二人の少年に向けていたのだ。
腰の両側に一丁ずつ銃を携え、ホルスターに納めている男を知っているのは、少年達のみ。
男は悠々と自分の席に戻り、また本を読み始めた。
ワインを一口飲んで、ページを一枚捲る。
そんな、静かな夜が好きな男だった。
彼の名は、ノブナガ。
通り名では、「バレット(弾丸)」と呼ばれていた。
5
老婆の一人歩きほど、見ていて危ういモノはない。
それが、人の良さそうな顔をした、着物を着たお婆ちゃんなら尚更だ。
この御時世、安全な場所を探すことの方が難しい。
だから、この老婆が例え歩道を歩いていたとしても、決して安全とは言えない。
車道側は車の往来が激しい状態。しかも、老婆は銀行で大金を下ろしたばかり。
孫に机を買ってやろうと、多めの現金を下ろした直後だ。
そこへ、近づいてくる原付バイクがあれば、予測されることはただ一つ。
原付バイクは、静かに近寄った。
老婆は気付いていない。
その距離、10メートル。
バイクには、黒い布で口元を隠し、サングラスという変装をしただけの人物と、フルフェイスのヘルメットを被った男が乗っていた。
お粗末な変装ではあったが、身元を隠すには事足りる。この場を乗り切るだけなら、充分だろう。
老婆とバイクとの距離、5メートル。
バイク、一気に加速!
その直後、老婆の手にしていたバッグが大金ごと持ち去られた!
「ど、泥棒!!」
バッグを奪われた時に転んでしまった老婆は、そう言うのがやっとだった。
そして、老婆は見た。
一瞬にして、奪われたはずのバッグが、目の前に戻ってきたことを。
「え?」
老婆の呻きは、それだけだった。
後に目撃したことは、かなりの刺激だったに違いない。
老婆のバッグを奪った原付バイクが、まるで見えない糸に引っかかったように、倒されたのだ。
勢いが止まるはずもなく、倒れたままのバイクは、火花を散らしながら向かいのガードレールに激突して止まった。
乗っていた二人の男は路上に投げ出され、転倒しながらも、立ち上がってその場を逃げ去ろうとしていた。
しかし、サングラスが、その場から動けなくなった。
まるでビデオの一時停止のように、ピタリと動かなくなってしまったのだ。
フルフェイスは、それを目撃して驚いたが、それよりも逃走本能の方が僅かに強く働いた。
サングラスを見捨てて、反対方向へと踵を返したのだ。
しかし、逃走は出来なかった。
続いてフルフェイスも動けなくなったからだ。
全身を動かす筈の、脳からの電気信号は正常に各神経に到達している。
しかし、動けないのだ。
強制的に、動作を封じられている以外に無かった。
そしてフルフェイスとサングラスは、動けないまま、悟ることになる。
「こいつが俺達を動けなくしたのか」と。
老婆ですら、二人の動きを封じた者の正体を感じ取っていた。
サングラスとフルフェイスの前に、女性が立っていたからだ。
幅が広いヘアバンドを後頭部にかけて絞めているところは、70年代のファッションセンスが見える。
しかし、だからといっておかしな格好をしているわけではない。
むしろ、それが新鮮に見えるくらいに、洗練されたファッションセンスを持ち合わせていた。
ウェーブがかかったロングヘアは、腰に達している。
全身をエナメルに包んだ体躯は、豹のようなしなやかさを感じさせる。
そして、しなやかさ以上に美しさが全身を包んでいた。
その美しさは、世の女性の全てを敵に回すと言っても過言でないくらいのモノだった。
両手は胸の前で組み、二人の賊を冷ややかに見つめていた。
老婆は不思議だった。
自分のバッグを取り戻してくれたのは彼女らしいが、どうやって取り戻してくれたのか。
見たところ、両手を組んでいて、武器やそれ以外の道具などを持っているようには見えない。
どうやって賊の動きを封じ、バッグを取り戻したのか?
答えは、この女性しか知らないのだろう。
「他人の力だけでしか生きていけないようなら、さっさと命を消す事ね」
冷ややかに言ったのは、女性だった。
その声を聞いたサングラスが、目を見開いた。
「ま、まさかアンタ・・・」
サングラスは、女の正体を見抜いた。
そして、自分達では太刀打ちできない相手だということを悟った。
フルフェイスは、それがまだ理解できない。
それを感じたのか、女はフルフェイスに近寄り、乱暴な動作でヘルメットを外した。
中からは、まだあどけなさの残る少年が顔を見せた。
老婆は少年の顔を見て「こんな若い子が」と驚いたが、次に起こった事を見て、更に驚いた。
女は、少年の顔を両手で挟み、自らの唇をゆっくりと近づけた。
老婆は自らの年を忘れ、頬を染めた。
しかし、老婆が考えたそれとは、違う事柄が展開された。
女は、自分の唇を少年の唇に触れるか触れないかの距離で止めると、静かにこう言った。
「私の声、覚えていた方がいいよ。・・・どこで聴くか分からないだろうからね」
女は、そう言うと少年の頬に自らの犬歯を当てた。
鮮血。
女は、少年の頬肉を、静かな動作で食いちぎったのだ。
絶叫と共にその場でのたうち始めた少年は、それでも自分の躰が動かないことに気付いた。
それを動けない躰で見ていたサングラスは、恐怖で絶叫を放っていた。
老婆も、声を出せずに恐怖に戦いていた。
鮮血に染められた女の唇は、官能的であり、戦慄の対象だった。
その場にいた三人は、女の行動を見守るしか無かった。
すると突然。
老婆は、銀行を出たばかりの道路に立ち、歩いていた。
少年達は、バイクに乗って老婆に向かおうとしているところだった。
・・・時間が戻った?
バイクと老婆の中央に、女が立っていた。不適な笑みを浮かべながら。
さっきまで女の唇を鮮血で濡らしていた朱は無く、グロスが光るだけだった。
少年達は瞬間的に恐怖から立ち返り、一瞬にしてその場をバイクごと立ち去った。
老婆も女の存在に気付いたらしく、恐怖に顔を強張らせ、タクシーを拾い、女の前から消えた。
「・・・誰でも考えることを、見せただけなんだけどねぇ・・・」
女は、一瞬微睡むような目つきになると、踵を返して反対方向の歩道を歩いていった。
女の名前は、コエ。
知っている者からは、「ナイト・メア(悪夢)」と呼ばれていた。
6
カウンターでは、カタナがコロナを飲んでいた。
カウンターを挟んだ向かいで、マスターがグラスを拭いている。
なんて事はない、バー「イノセント・ブラッド」の光景だ。
そこへドアを開けて入ってきたのはバレットで、迷うことなくカタナの隣に座る。
見た目は美男美女なので、様にはなっている。
カタナはバレットを無視しながら、アーモンドをつまみにコロナを飲み続ける。
バレットは、横目でちらりとカタナを見た後、薄暗い照明だけを頼りに本を読み始めた。
次に入ってきたのは、リッパーだった。
何か面白くないことでもあったのか、少々荒々しく店内に入ってくると、
まっすぐにジューク・ボックスの方に向かった。慣れた手つきで操作し、曲を流し始める。
流れてきたのは、フェラ・クティだった。
カタナから少々離れた位置に座ると、「バドワイザー」とだけ言い、胸ポケットからタバコを取り出した。
マスターはそれを見ると、素早くリッパーの手からタバコを奪い取った。
「いい女になりたかったら、俺の前では吸うんじゃない」
一瞬不服そうな顔をしたリッパーは、渋々と納得したのか、携帯電話を取り出して弄り始めた。
そしてマスターが出してきたのは、オレンジジュースだった。
シュウは、静かにドアを開けて入ってきた。
どういう訳か、マスターはシュウにだけは「いらっしゃい」と挨拶をする。
シュウもニコリと笑顔を返し、リッパーの隣に座った。
リッパーは隣に座った弟に対し、無言を通した。
シュウも、姉であるリッパーに対し、無言を通す。
どうやら、そういう姉弟関係らしい。
マスターはシュウにも姉と同じオレンジジュースをだした。
「みんな、もういるの?」
その声で入ってきたのは、コエこと、ナイト・メアだった。
遠慮なく店内に足を運び、バレットの背中を越えて、カタナの隣に腰を下ろす。
「あなたももう来てたのね」
カタナの腰に腕を回し、官能的な蠢きを見せる。
それに動じないカタナは、低い声でこう言った。
「・・・遅刻をしてきて『もう』は無いだろう。来ていて当たり前だ」
にべもなく一蹴されたナイト・メアは、クスリと笑って、「相変わらずね」とだけ言った。
カウンターにいたマスターは、全員を見渡すと満足げに頷き、こう言い放った。
「よし。狩りの日だ。・・・そろそろ準備に取りかかろうか」
「狩りの日」。マスターは、確かにそう言った。
尋常じゃない言葉を、まるで日常の一こまのように言い放つマスター。
それでも平然としているカウンターの五人。
店内の空気が、今までのバーという雰囲気から、異様な冷たさを孕んだモノに変化しつつあった。
そして、大気の変容が完了したとき、その場にいた全員の瞼が一斉に閉じ、同時に開かれた。
その時の瞳は、誰一人として、真紅を湛えていないモノはいなかった。
燃えるような朱が、全員の瞳を彩っている。
「・・・準備はもう完了しているようだな」
マスターは、全員の瞳を見つめ、満足げに頷いた。
そのマスターの瞳もまた、真紅だった。