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サイモン博士の大いなる野望
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第 一 章
よれよれの紺のブレザーに、えんじの縞のネクタイ。サイモン博士は、いつもの服
装で公園をぶらりと歩いていた。前回、タイムマシンを使った「世紀の助言大作戦」
の失敗のあと、サイモン博士は精神的な打撃から立ち直れないでいた。しばらく、発
明はもちろん、大好きな囲碁さえ打つ気になれなかった。しかし、夏が過ぎ、秋の訪
れを感じさせる10月になって、ようやく、傷が癒えてきたのである。
このころ、サイモン博士に大きな悩みがあった。この十年来、囲碁が全く強くならな
いことだった。覚えてから最初の十年、熱心なこともあって、棋力は順調に伸びてい
き、初段にまで到達した。ところが、そこからバッタリ進歩が止まってしまった。詰
碁、打碁並べ、実戦――以前にもまして努力したのだが、一向に強くならない。サイ
モン博士は、もう十年、初段のまま、昇段出来ないでいた。
サイモン博士は、その原因にうすうす感づいていた。生来の「筋悪」「俗手打ち」の
せいである。
――アタリを打てるところがあれば、まずアテる。不要不急のダメ詰めを打つ。「車
の後押し」をして相手の石を無用に強くする。やたら、コスミツケの先手を打ち、自身
はアジ悪のまま残す。アキ三角、陣笠の愚形を平気で打つ。先手で利くところは、理
由なく条件反射で、すぐに打ってしまう。完全に活きている石同士を後手で切断す
る。厚みを手をかけて地にする。キリのあるところをノゾく――
全て、サイモン博士には覚えがあることばかりだった。こんな手を打っていたら、い
つまで経っても強くなれないな。頭ではわかってはいても、実戦になると、ついつい打
ってしまうのである。どうしても直らない。本筋を打たなければ、一定のレベルから上
には上がることができない。
――どうすれば、俗筋を直せるのか。それさえ直せば、昇段の道もひらけよう――
散歩をしながら、サイモン博士はそのことばかり考えていた。
サイモン博士は公園のベンチに座ると、気分転換に「戦国策」を広げた。囲碁が好
きなサイモン博士は、漢籍もまた好きなのである。ちょうど、「錐(きり)を引きて股(も
も)を刺す」を読んでいたときだった。
「遊説家の蘇秦は懸命に兵法の書を暗唱し、眠くなるとキリで自分の太股を刺し、そ
の痛みで眠気を吹き飛ばし勉学に励んだ」
「これだ!」
サイモン博士は、ひらめいた。
第 二 章
それ以来、サイモン博士は研究室にこもって発明に取り組んだ。苦闘三ヶ月、つい
にサイモン博士の自信作二号が完成した。
名付けて「俗筋矯正ロボット・藤河28号」
長さ10センチほどの超小型ロボットで、昔アニメであった鉄人××号そっくりの形
をしている。特徴は右手にキリを持っていることである。そしてそのロボットの頭脳に
は、サイモン博士が集めた、ありとあらゆる俗筋が記憶させられている。これを背中
に忍ばせておく。
藤河28号はワイヤレスのマイクロカメラで絶えず碁盤を監視している。サイモン博
士が俗筋を打つと、直ちに作動して、右手に持ったキリでサイモン博士の背中を突く
仕組みになっている。ロボットの名前は、サイモン博士が尊敬する(一部不信感も持
っているが)藤河九段と、子供の頃好きだったアニメから名付けた。
「さあ、試運転だ」
サイモン博士は碁盤と碁石を用意すると、「本因坊秀策全集」を広げた。マイクロカ
メラをネクタイの結び目に取り付け、藤河28号を背中に忍ばせた。ポケットのリモコ
ンスイッチを「黒番」にして、電源をONにした。
秀策と秀和の対局を並べ始める。黒1小目。サイモン博士がパチリと打つ。藤河2
8号は動かない。白2小目。黒3小目。・・・・・・白30まで、ロボットは微動だにしな
い。
「こわれてるのかな」
サイモン博士は次の黒31を実戦からはずして、わざとアキ三角に打った。
その時である。ロボットが作動し、その手に持つキリがサイモン博士の背中を突い
た。
「ぎゃあ!」
サイモン博士は、あまりの痛みに飛び上がった。
「痛た・・・・・・」苦痛にうめきながらも、サイモン博士は満足だった。
「効果てきめん、大成功だ。やはり俺は天才だ・・・・・・この痛みがあれば、俗筋を打
てなくなる。このロボットで一年後には二段いや三段まで上がってやる。将来、五段
になるのも夢じゃない」
サイモン博士の野望はとどまる所を知らない。
「ようし、明日から碁会所に行って特訓だ!」
まだ痛む背中をさすりながらも、サイモン博士は希望にあふれていた。
第 三 章
サイモン博士は、戦々恐々としながら碁盤に向かっていた。碁会所で紹介された
相手は初段で、ちょうど棋力が釣り合っていたが、今日からはもう一人、敵がいる。
いつ後ろからキリで突かれるか分からない。いやが上にも着手は慎重になった。
ちょうど布石が終了したところだった。幸いなことに、まだ藤河28号は作動してい
なかった。それは単なる偶然に救われていただけだったのだが、サイモン博士は、
そうは思わなかった。
――俺の碁も、捨てたもんじゃない――
サイモン博士は、警戒を怠り始めた。局面は進み、石が接触する中盤戦に突入し
た。接近戦になると俗手が出やすくなる、それは当然のことだったのだが。
――ここは、難しい。ヨメない。まずアタリを打ってから考えるか――
パチリ。サイモン博士は、深く考えずに「アタリ」を打った。打った瞬間、サイモン博
士は「しまった」と思ったが、遅かった。その一瞬の油断を藤河28号は見逃さなかっ
た。すばやく対応した。
「ぐわっ!」
サイモン博士が悲鳴を上げた。碁会所の客が一斉にサイモン博士を振り返った。
「どうかしましたか?」対局相手が心配そうに声をかける。
「いえ、別に・・・・・」サイモン博士は、背中の痛みをこらえながら、平静を装った。盤
面は抜き差しならない闘いに入っていく。
サイモン博士は、よほどリモコンで、電源を切りたい誘惑にかられたが、「いやい
や、そんな意志の弱いことでどうする」と思いとどまった。
――まずデを一本利かせてから――
パチリ。しかし、サイモン博士の熟考にもかかわらず、典型的なダメヅめの悪手だ
った。打った瞬間、藤河28号が作動した。
「おわ!」
またしても悲鳴が出る。
――ここは、押しを打つ一手――
パチリ。しかし、ケイマにはずすか、一間にトブのが、その場面では本筋だった。
藤河28号の容赦ない追及が飛んだ。
「ぎゃっ!」
――このアテにはツグしかないな――
パチリ。サイモン博士は誤った。ツグとダンゴになるため。外からアテ返して整形す
る一手だった。
「ぐわ!」
パチリ。「ぐわ!」
パチリ。「ぎゃ!」
一手打つたび、サイモン博士は悲鳴を上げた。
「こ、こんなはずでは・・・・・・」
サイモン博士は、自分の碁が思ったより重症なのを知って愕然とした。
対局相手が心配そうに声をかけた。
「あの・・・・ほんとうに、お体のどこかがお悪いんでは・・・・・」
サイモン博士はその日、這々(ほうほう)の体(てい)で家に帰った。
第 四 章
一ヶ月がたった。サイモン博士は碁会所で2段に昇段していた。囲碁の技量が特
別に進歩したわけではない。何よりも慎重に一手一手を打つようになったことが大き
い。従来の、「よく考えずに打って、打ったあとで盤面を見て良かったか悪かったか
を考える」が影をひそめ、「打つ前に、よく考える」習慣が身に付いたからである。
(背中にキリが飛んでくる攻撃を考えれば、当然のことかも知れないが)
初段ぐらいのアマチュアなら、このような心構えの変化だけでも、すぐに一目上が
るものである。
「近頃サイモン博士は碁が変わった」
「サイモン博士がきれいな筋や形を打つようになった」
そんな噂が碁会所で飛び交うようになった。
ところが、ここに、このサイモン博士の昇段を不愉快に思っている人間が一人い
る。サイモン博士の宿命のライバル、ガーフィー博士である。ガーフィー博士も、囲
碁と発明に並々ならぬ熱意を持っている。ガーフィー博士とサイモン博士は同い年
で、どちらも 「囲碁も発明も、俺の方があいつより才能がある」 と思い合っている
間柄だ。
先日も、「五目ナカデとニュートリノの有機学的関連について」 なるガーフィー博士
自信の論文を発表し、昨年サイモン博士が発表した 「二目の頭を見ずにハネた場
合の生体高分子解析についての一考察」 を上回るものと自負していた。
囲碁についても棋歴20年になるのに、やはりサイモン博士と同じく初段止まりで、
ここ10年、一目も上がっていなかった。「まあ、いい。あのサイモンよりはまだまし
だ」と、ガーフィー博士は常々自らを慰めていた。ところが、この一ヶ月で異変が起き
た。お地蔵さんのように初段の定位置を動かなかったサイモン博士が2段に昇段し
たのだから、ガーフィー博士は面白くない。
――あんな筋悪が、昇段出来る訳がない。これにはきっと裏がある。調べてみよう
――
ガーフィー博士は、さっそく調査に乗り出した。
ガーフィー博士は調べていくうち、奇妙なことに気がついた。サイモン博士が対局
中に、突然苦痛の叫び声を何度も上げるというのである。それも、考慮中は起こら
ず、着手直後に起きるのである。肩や腕に痛みが走ると言うのならともかく、ひたす
ら背中をさすっているらしいのだ。そして、その現象はサイモン博士が腕を上げた頃
から、ちょうど始まっていた。さらに突き止めて調査すると、背中の治療のため、近
所の外科に通っていることも分かった。
――サイモンの背中に何かあるな――
しかし、いかに勘のいいガーフィー博士でも、藤河28号の存在までは突き止める
ことが出来なかった。
第 五 章
そんなある日、サイモン博士は「柴中博士 ノーベル物理学賞受賞記念パーティ
ー」に招待されていた。会場のホテルに着いてみると、有名な科学者はもちろん、大
臣、TVタレントなど、各界にわたる有名人が多数招待されていた。TVカメラも入って
いる。ライブ中継されるらしい。よくみると、あのガーフィー博士が来ている。
――嫌な顔を見た。大体、俺はともかくとして、どうしてあんな三流の学者をこんなパ
ーティーに呼ぶのだろう――
サイモン博士とガーフィー博士は同じことを考えていた。
パーティーが進み、宴もたけなわに入った頃、司会者が口を開く。
「皆様、柴中博士はじつは知る人ぞ知る、大の囲碁ファンでいらっしゃいます。博士
は囲碁初段の腕前と聞いております。本日、ひそかに柴中博士のためにプロ棋士を
ゲストとしてご招待しております。ご紹介いたします。酒田道憲九段と水森広章九段
です」
大きな拍手に迎えられて、酒田九段と水森九段がステージ中央に出てきた。司会
者が続ける。
「ただいまから、柴中博士のノーベル賞受賞を記念しまして、特別企画として「ペア
碁」をこのステージで行いたいと思います。大盤解説を水森九段にお願いします。白
を持つのは、柴中博士と酒田九段のペア。黒を持つお二人は・・・・・・この会場の中
から選ばさせていただきます。希望者の方、いらっしゃいますか?」
プロと囲碁が打てる!サイモン博士はためらわず手を挙げた。そして、ほとんど同
時にガーフィー博士も手を挙げていた。司会者が言った。
「はい、そちらの紺のブレザーを着た方と、あちらのグレーのスーツを着た方、どうぞ
ステージの方へ上がってください」
サイモン博士とガーフィー博士は司会者に促され、ステージに上がった。二人は顔
を見合わせた瞬間、「嫌な奴と組むことになった」と互いに思った。
「そちらの方はサイモン博士でいらっしゃいますね。棋力は・・・・・・二段ですか。こち
らの方はガーフィー博士でいらっしゃいますね。棋力は・・・・・・初段ですか」
司会者が出場者の紹介を続ける。
ステージ中央のテーブルの上に碁盤が置かれ、左側にサイモン博士とガーフィー
博士の二人が並んで座り、右側に柴中博士と酒田九段が座った。ステージ右側に
は大盤が運び込まれ、水森九段がニコニコしてマイクを握っている。手合いは三子
で、相談なし、各人が一手ずつ打っていくことになった。柴中博士、サイモン博士、酒
田九段、ガーフィー博士の順である。
サイモン博士は置き石を三つ、所定の位置に置いた。
「それでは始めて下さい」
司会者の声に、四人はお願いしますと挨拶した。
このとき、サイモン博士は大変なことに気がついた。背中に藤河28号を入れたま
まなのだ。習慣とは恐ろしいもの。慌てて電源を切ろうとしてポケットのリモコンを探
ったが、「ない!」そう、家にリモコンを忘れてきたのである。なのに、電源は「黒番」
でON になっていた。各界の著名人が会場を埋め、TV中継もされている衆人環視の
中では、ワイシャツを脱いでロボットを取り出す訳にもいかない。
「しまった・・・・・・」 サイモン博士は知らず知らず、汗びっしょりになっている自分に
気がついた。
柴中博士が白第一着をゆっくりと小目に打ち下ろした。
第 六 章
サイモン博士は戦々恐々と対局していた。ペア碁であるから、ガーフィー博士と代
わりばんこに着手する。当然、前の人が打った石の流れを汲まなければ、勝利はお
ぼつかない。ペア同士の、暗黙のうちのチームワークが要求される。しかし、この点
において、サイモン博士とガーフィー博士の組み合わせは最悪だった。 どちらも「あ
いつはヘタな碁を打つ。俺がカバーしなければ」と考えているので、石の流れが支離
滅裂になっている。どちらも、前の手を否定するような着手ばかりを続けている。こ
れには、解説の水森九段も困惑していた。
「どうも、黒のペア、チームワークが悪いですね」
まだ始まったばかりなのに、既に2子ぐらいの碁になっていた。ただ幸いなことに、
藤河28号はまだ作動していなかった。
――こんな時に、あのロボットが動いたら、大変なことになる。とにかく、俗手を打た
ないことだ。俗手さえ打たなければ、ロボットは動かない――
自分の手番が来るたび、サイモン博士は長考して、おそるおそる石を置いていた。
ロボットが動かないのを確認するたび、ホッと安堵していた。
柴中博士が、星の黒石にケイマにかかる。サイモン博士の手番だ。サイモン博士
は、堅く、一間トビに受ける。藤河28号は作動しない。
――定石を打てる場面では定石を打とう。それなら作動しない。何とかいけるかも―
―
酒田九段の手番。酒田九段は、サイモン博士が一間トビに受けた黒石と、辺の星
にある黒石の真ん中、四線に、ピシャリと打ち込んできた。ガーフィー博士の手番で
ある。
――ここはコスンで白石を攻めるか、やんわりと中央に向かってトブ場面だな――
サイモン博士がそう考えた時、ガーフィー博士がやにわ、黒石を持つと、打ち込んだ
白石に下ツケを打った。俗手の典型である。
――あっ、それは悪手――
その瞬間だった。背中で何かが動く気配がして、鋭い痛みがサイモン博士の背中
を貫いた。
『ぐわっ!』
サイモン博士は思わず絶叫するところだったが、辛うじて悲鳴をのどに呑みこん
だ。
――しまった。ロボットは石の色と形で識別して作動するよう設計されている。俺が
いくらいい手を打っても――
そう、ガーフィー博士が俗手を打てば藤河28号は作動する。
――しかも――
なお悪いことには、ガーフィー博士は「筋悪」「俗手打ち」ではサイモン博士ををは
るかに上回る、筋金入りの打ち手だった。「あんな筋悪、見たことない」 「あれだけ
俗手ばかり打って、よく初段になれたもんだ」 が、物理学界の囲碁仲間ではもっぱ
らの評判だった。ここまで考えたサイモン博士は、目の前が真っ暗になった。
――よりによって、こんな場面で、こんな奴とペアを組むことになろうとは――
何たる皮肉な巡り合わせ。このうえは、ガーフィー博士に少しでもまともな手を打って
貰う以外、サイモン博士にはどうしようもなかった。
柴中博士はすばやくオサエを打った。サイモン博士は仕方なくヒキ、酒田九段はツ
ギを打ち、黒はサカレ形となった。
「ちっ。ちょっと、悪かったかな」 ガーフィー博士がつぶやいた。
――ちょっと?ちょっとだと! この筋悪が!――
サイモン博士は怒鳴りたくなる衝動を辛うじて抑えた。
局面が進み、中盤の戦いに入った。酒田九段が、しなる指で二段バネを打った。
次はガーフィー博士の手番だ。その瞬間、サイモン博士は嫌な予感がした。ここは
黙ってハネ返すのが本筋なのだが・・・・・黒が黙ってハネ、白ツギ、黒ノビキリとなる
のが筋だ。
ガーフィー博士が、またしてもつぶやいた。
「まあ、とりあえずアタリしておこうかな」
その言葉を聞いて、サイモン博士は血が逆流する思いがした。
――とりあえずアタリしておこうだと! なにが「とりあえず」だ!――
サイモン博士は思わず、「やめんかぁ!」とガーフィー博士を怒鳴るところだった。
しかし、そんなことはお構いなしに、ガーフィー博士はアタリを打った。「待ってまし
た」と藤河28号が作動した。
『うぐ!』
サイモン博士は、必死の思いで激痛を堪え忍んだ。
――うぐぐ・・・・・またしても・・・・・――
サイモン博士が恨みを込めて横を見ると、ガーフィー博士は、「ふんふん」と鼻歌を
歌っている。サイモン博士は、よっぽどその横面をひっぱたいてやろうかと思った。
「どうやら、白が優勢になりましたね。ちょっと黒チーム、息が合ってません。酒田
先生に引っ張られ、柴中博士は健闘してます。なんでも、柴中博士は、この二ヶ月
ほどで急激に腕をあげられ、このほど入段を果たされたとか。ノーベル賞受賞と、お
めでたいことが続いていますね。まだ、50手ほどしか進んでいませんが、今現在で
白が追いついたとなると、黒は苦しいですね」
水森九段の「まだ50手」の言葉を聞いて、サイモン博士は気が遠くなるのを覚え
た。
「絶望的」の文字が大きくサイモン博士の前に立ちふさがった。
第 七 章
サイモン博士が修羅場を堪え忍んでいるうちに碁は進んだ。しかし、相変わらずガ
ーフィー博士は俗筋を連発。サイモン博士も、激痛で思考力が低下し、俗筋を打つ
ようになった。さらには柴中博士までが、つられるように俗筋を打ち始めた。悪手の
オンパレードだ。
「どうも、いただけませんな。酒田九段も苦笑されてます。どうも俗筋は伝染するもの
なんですかね。柴中博士も、人が変わったようです。これではノーベル賞を辞退しな
いといけませんね」
水森九段のジョークに会場が沸いた。一方、サイモン博士は、藤河28号のフル出
動で、もう我慢の限界に達していた。背中の痛みで意識がもうろうとしてきたのだ。
局面は柴中博士のミスが続いたため、黒が劣勢とはいっても投了するほどの差で
はなかったが。
――だめだ。もう限界だ。次に自分の手番が回ってきたら、投了しよう。ガーフィー
が何と言おうと――
もう座っているのがやっとの状態で、サイモン博士はついにリタイアを決意した。
その時だった。手番で考慮中の柴中博士が、突然「うーん」とうめき声を上げたか
と思うと、椅子から崩れ落ちるように床に倒れ込んだ。ドサッと鈍い音がしてそのま
ま動かなくなった。
「柴中博士!」
会場が騒然となった。
「大丈夫ですか!どうしました 、柴中先生!」
サイモン博士が柴中博士に駆け寄って抱き起こすと、柴中博士はゆっくり眼を開い
た。「サイモン博士・・・・・私は馬鹿な学者だ。・・・・笑ってくれ・・・・」 と言った。サイ
モン博士は何のことだかわからなかった。柴中博士は続けた。
「私の背中をさぐってくれたまえ・・・・」
サイモン博士が、柴中博士の背中をまさぐった。すると、ワイシャツとスラックスの
あいだからカランと転げ落ちたものがある。金属製の小型ロボットだった。それは、
藤河28号とそっくり同じ形をしていた。右手にキリを持っているところまで同じだ。
柴中博士が続ける。
「君は、『戦国策』を読んだことがあるかね? 私は十年間、ずっと3級のままだっ
た。筋が悪いせいで、全く昇級出来なかった。しかし、私はどうしても強くなりたかっ
た。そしてある日、 『戦国策』をヒントに、そのロボットを発明したんだよ・・・・・」
「ネクタイに小型カメラがあって、私が俗手を打つと、そのロボットが背中をキリで突
く仕組みになっているんだ。『高田28号』というんだ。私が尊敬する高田本因坊と、
子供の頃好きだったアニメから名付けた・・・・・・ノーベル賞学者が、3ヶ月も研究室
に籠もって、こんなくだらないものを作っていたんだよ・・・・・笑ってくれ・・・・・それでも
私は強くなりたかったんだよ・・・・この気持ち、君ならわかってくれるだろう・・・・・・・」
サイモン博士は、「こんなくだらないもの」 と 「君ならわかってくれるだろう」 の言
葉に引っかかりを感じたが、黙って聞いていた。
「でも、これのお陰で私は初段になることが出来たんだよ。私は嬉しかった。ノーベ
ル賞を貰ったときと同じぐらい・・・・・ところが、今日うっかりロボットを背中にいれた
ままで、しかも電源を切る装置を家に置いてきてしまったんだ・・・・・あげくのはて、
俗手を連発して、このざまだ。・・・・・私は間違っていた。我々は棋士じゃない。囲碁
は楽しく打つものだ。こんなロボットはいらない・・・・・今、やっと気がついたよ・・・・・」
救急隊が到着し、柴中博士は担架にのせられて運ばれていった。ざわめきが残る
会場で、サイモン博士は、柴中博士製作の「高田28号」を手に取って、じっと見つめ
ていた。
第 八 章
事件からしばらくたった。幸い柴中博士の傷も大したことはなく、サイモン博士の傷
もようやく癒えた。そんなある日の午後、サイモン博士はよれよれの紺のブレザーに
えんじのネクタイをして、いつものように碁会所で碁を打っていた。背中には、藤河2
8号と高田28号の二つのロボットが入っている。
――ここは、こう打つところかな――
パチリ。
「ぐわ! うぐ!」
悲鳴が二回起こった。
パチリ。
「ぎゃっ! おわっ!」
一手打つたび、サイモン博士は悲鳴を二回上げた。
――ロボットを二台、同時に使えば、二倍速く強くなれる。二年で五段、将来は七段
になるのも夢じゃない――
サイモン博士の大いなる野望は、果てしなく続く。
(終わり)
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。次回作にもご期待下さい。
ご意見・ご感想をお聞かせいただければ幸いです。 (中河原 潤)
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