学生勝負師の夕暮れ

学生勝負師の夕暮れ
                      第 一 章
 
 湊川さんがじっと碁盤を見据えている。一心に読みに耽っている。
「この一局だけは絶対に勝たねばならない」 その気迫が、後ろで棋譜を取っている 私にもじりじりと伝わってくる。

 既に対局開始から一時間になろうとしているのに、盤上はまだ布石が終了したば かりである。私はかって、碁の観戦にこれほど緊張したことがない。一手、また一手 石が打ち下ろされるたび、どきりとしては、碁罫紙に棋譜を書き込んでいく。

 会場は狭く、対局用の椅子やテーブルが所狭しと並べられており、記録を取る者 は、対局者の後ろに立ったまま、棋譜を取らねばならない。一局2時間はかかるの で、結構重労働なのだが、今日ばかりは全く苦にならない。この一番に賭ける選手 たちの意気込みが私の心までを熱くしている。晩秋で暖房もはいっていないというの に、私は自分の背中が汗びっしょりになっているのに気がついた。
 
 関西学生囲碁選手権団体戦、秋季リーグ戦の最終日である。私は湊川さんの対 局の記録を採っている。我が浪速大は今季は絶不調。これまで一つの白星も上げ られず、ついに六連敗。最終戦、同じく六戦全敗の平安大との一戦に一部リーグ残 留を賭けることとなった。

 かって、浪速大、平安大と言えば、関西屈指の強豪校で常に優勝を分け合ってい た。しかし、この数年は、両学ともめっきり選手層が薄くなり、「名門浪速大・平安大 もいよいよ危ない」と言われるようになった。そして今季、ついに来るべきものが来 た。この一戦、負けた方が二部に陥落するのである。

 関西学生リーグというのは、一部から三部まであり、一部リーグを頂点の八校が 占める。春季と秋季の一部リーグ優勝校がプレーオフを行い、勝った方が関西代表 として全国大会に出場する仕組み。団体戦形式で、五人が盤を並べて同時に打ち 始め、三勝した方の勝ちである。

 すぐ横で、関西国際大と立正社大の二校が優勝争いをしているのと対照的に、重 苦しい悲壮感が漂っていた。学生の囲碁部にとっては、一部リーグ在籍は大きな勲 章である。優勝が最終目標であるのは当然だが、その前に、何よりも一部に残留す ることが第一目標となる。その意味で、両校の選手は、優勝決定戦のような緊張感 につかっているとも言えた。


              第 二 章


 対局日の一週間前、囲碁部の部室では平安大戦を前にして対策会議が行われ た。先に口を切ったのは、部長である医学部五回生の河口さんである。最年長の二 四歳、囲碁部の重鎮である。

「みんな承知のことと思うが、今度の平安大戦には囲碁部の浮沈がかかっている。 勝てば残留、負ければ陥落だ。苦労して今日の浪速大囲碁部をつくりあげた先輩が たの名誉を守るためにも、二部陥落だけは避けねばならない。石にかじりついてで も、今度の試合は勝たねばならない。勝つには三勝が必要だが、これがなかなか至 難だ。特に、平安大には、海沢というのがいる」

 海沢鳴彦、平安大法学部三回生。自称六段だが、その恐るべき力は、実力七段 と言われている。一回生の時から学生本因坊を名乗り、以後三連覇、記録更新中 である。リーグ戦でも大将の重責にあって、過去に負けたことがない、関西随一の 強豪なのだ。

「どうしても海沢には一敗する。したがって、後の四人で何とか三勝を上げることだ。 それには、大将の海沢には、こちらの一番若い小島君をあてる。いわばアテウマ だ。副将にはいつも大将を務めてもらっている湊川くんを、以下実力の順に、私、木 田君、そして山内君。この組み合わせでどうだろう」

「海沢が必ず大将で出てくるのは間違いないんですか」
山内さんが尋ねた。もっともな質問である。
「それは間違いない。海沢は過去三年、ずっと大将で打ってきている。相手は名門、 平安大だ。小手先の技など使わず、大将から順に、強い順に並んで来るに違いな い」

 沈黙が流れた。浪速大もかっての名門である.こちらは小手先の技を使ってもいい のか。一瞬、河口さんに反駁したくなったが、一回生で選手でもない私が口を挟む のは出過ぎたこととかろうじて我慢した。

 「ほかに異論がなければこれで決定ーー」
河口さんがここまで言った時、私のすぐ横に座っていた湊川さんが突然、
「ちょっと待ってください。その方法で本当に勝てるのですか」
と、質問した。河口さんは少し躊躇した後、言った。

「正直なところ、これでもまだ難しい。大将の小島君の負けは決定的だし、副将の君 が六分。あと私を含めた三人が二勝上げられる可能性は低い。しかし、海沢という 怪物がいる以上、仕方がない。何にしても、一敗が最初に確定しているのが痛い」

「もし海沢を倒せたら」 湊川さんが言った。

「もし海沢に勝てたら、一転、こちらの勝利は確実になる」

 座は一転、ぎょっとして湊川さんに視線が集中した。河口さんが怪訝な表情で、
「それはそうだが、誰が海沢に勝てるのかね。あいつは鬼神のごとく強いんだぜ」
と、言った。湊川さんが少し間をおいたのち、
「河口さん、いつも通り、俺を大将に置いてくれないか。俺が海沢を倒す。浪速大が 残留するにはそれしかない」と言った。

これには、河口さんはじめ、座は騒然となった。
「馬鹿な。君は海沢以外の相手となら勝てる可能性が五分以上あるのだ。みすみす 負けると判っている相手と打たせるわけにはいかない。海沢の実力は私が言うまで もなく、君が一番よく知ってるはずじゃないか。また、碁の実力の差というものは、い かんともしがたい壁みたいなものだ」

「それは判っている。しかし、小手先の技を使って、なお負けたとあっては名門・浪速 大の恥だ。正々堂々と臨むべきだ。勝ってみせる。頼む、河口さん、俺を海沢に当 ててくれ」
沈黙が流れた。皆おし黙ってじっと下を向いている。
「君がそこまで言うなら」河口さんが漸く口を開いた。
「部員の多数決で決めよう」

 評議は分かれたが、僅かな差で湊川さんの意見に決まった。
 河口さんは苦々しい表情で、
「来週の平安大戦は、従来通り、大将から五将まで実力順に並ぶものとする。浪速 大囲碁部の名誉にかけて奮闘するよう」
と言って、会議は終了した。

 会議が終わってから、湊川さんが私に、
「北村、今度の俺の対局の記録は、お前が採ってくれ」
と言った。私は一瞬とまどったが、
「はい」 と笑顔で頷いた。


                      第 三 章


 対局開始から一時間が経過した。長考派の海沢さんは相変わらず、落ち着き払っ て打ち進めている。湊川さんもいつもより時間をかけて一言もしゃべらず、一心に碁 盤を見据えたままだ。石を打ち下ろすたび鋭く対局時計のボタンを叩く。 こんな気 合いの入った湊川さんを見たことがない。他の対局はほとんどが中盤半ばに差し掛 かっているというのに、まだ漸く布石が終わったところである。

 湊川さんは運良く黒番を当て、ここまで実によく打っているように、私には思えた。 海沢さんも一手もよどむことなく、、堂々と、打ち進めてきている。さすが、関西最強 と自他ともに許すだけあって、その石の運びには渋滞する所がない。その海沢さん に、ここまで形勢不明に持ち込んでいるのは、湊川さんの大健闘と言って良かった。

 少なくとも、ここまでは、湊川さんのリーグ戦歴で一番よく打てている、と私は思っ た。しかし、このまま終局までいくとはとても思えなかった。そんなことを、海沢さんが 許すはずがないからである。不安感が次第に心につのる。
 ただ私はこうして棋譜を採るしか出来ないのだ。
 

 海沢さんが長考に入った。中盤の難所に差し掛かって来たのだ。いつもなら、既に 自分が優勢になり、逃げ込み態勢に入っているのに、この碁だけはそうではなかっ た、その不本意さから脱却しようとしているのであろうか。しきりに湊川さんの黒の大 石を見つめている。

 その不気味さに耐えかねて、私は他の碁を見回してみる。副将の河口さんと四将 の山内さんの形勢は若干良いように思えた。三将の木田さんは明らかに劣勢であ り、五将の小島さんの碁は形勢不明だった。こうなると、やはり大将戦がカギを握っ てくる。湊川さん打つ石一つ一つに浪速大の浮沈がかかっているのだ。

 湊川さんもはや四回生。来春からは、大手商社に就職することが決まっている。湊 川さんは常に勝利のみを目標にしてリーグ戦を戦ってきた。どんなに悪い碁でも徹 底的に粘って、アッという逆転劇をしばしば演じてきた。自称五段だが、「リーグ六 段」、「奇跡の湊川」と他校の選手に恐れられる所以がここにある。

 この碁は、おそらく学生生活最後の公式戦になるだろう。その対局にあえて海沢さ んとの碁を選んだ。どちらかといえば小柄で穏やかな童顔の湊川さんの、内に秘め られた闘志が、盤側に立つ私にまで伝わってくる。
 

 突然、海沢さんがパチリと扇子を閉じ、スッと白石を置いた。打たれた一瞬、湊川 さんの体が硬直したかのように私には見えた。黒の大石の薄みを狙ったその白石 は、置かれてみるとまさしく、黒の肺腑をえぐる一着だった。

 この一着から白黒の均衡は崩れた。黒の大石に眼がないのだ。白はますます躍 動し、黒を追いつめていく。まさに海沢学生本因坊の面目躍如である。

 窮地に立った湊川さんは惜しみなく時間を使って、懸命にシノごうとする。白の攻 めは痛烈を極めている。並の打ち手なら、ここでツブレて投了だろう。しかし、湊川さ んは踏ん張り、粘りに粘って。白に決め手を与えない。何とか攻め合いの形に持っ ていこうとする。

 海沢さんが二度目の長考に入った。
「ここで決めてやる」 その気迫が伝わってくる。
 と、その時、
「ありません」
 三将の木田さんの、小さな、つらい一言が出た。投了ーーこれで一敗である。勝利 には、残る四人で三勝せねばならない。木田さんの投了を聞いたとき、湊川さんの 背中がかすかに揺れたようにも思えた。

 その時だった。長考に沈んでいた海沢さんが突然顔を上げ、白石を打った。打た れた瞬間、湊川さんは天を仰いだ。まさにとどめの一着だったのか・・・・・黒の大石 に眼がない。
「死んだ」 私は思った。
 もう名人が束になってかかっても、この石が活きるすべはない。やはり、学生本因 坊だった。湊川さんの決死の粘りも通じなかったのか。
 黒の大石が活きて細かい、という碁である。死んでは話にならない。

「投了か」私は観念した。
 しかし、湊川さんは投げなかった。
 

   第 四 章


 湊川さんは長考に入った。残り時間から見て、おそらく最後になる長考に入ってい る。
 海沢さんが怪訝な表情で湊川さんをみつめた。戸惑いとも言える眼だった。
「どうして投げないんですか」
「勝負は決まったでしょう」
そう言たげな表情だった。
 湊川さんはその屈辱に耐えながらまだ考える。

 過去に何回、この場面に出くわしたことだろう。湊川さんの記録を採るたび、この、 今の海沢さんの表情を私は見てきた。湊川さんの相手は「もう勝った」「どうして投げ ないのか」と怪訝な表情をしてきた。そして、湊川さんはその碁に逆転してきた。度 肝を抜く勝負手を放っては、勝負をひっくり返して来たのである。
 
 そんな湊川さんが最後になろう長考をしている。
 「また始まるかも知れない」 私は思った。
過去、目の当たりにしてきた奇跡の逆転劇が。
 しかし、今回は相手が相手だ。今までの単なる強豪とは違うのだ。
 それでも、希望的観測とはわかっていても、
「もしかしたら」を私は願わずにはいられなかった。

 そのとき、隣の河口さんの碁が終わった。
 地を作りだした途端に衆目を集める。
 つくって盤面五目黒勝ち。コミがかりで白の半目勝ちが確認された。その瞬間、平 安大の選手は頭を抱え、河口さんは、精魂尽き果てた表情ながらも、会心の笑みを もらした。
 これで一勝一敗のタイである。

 今度は平安大選手側にかすかに動揺が走った。
 その刹那、長考に入っていた湊川さんが、やにわ、石を打ち下ろした。打たれた直 後、海沢さんは唖然として湊川さんの顔をジロリと見た。筋悪といって、これほど筋 悪の手はなかった。俗手の典型、勝負手というには余りにお粗末、誰もが思いつい た瞬間にお払い箱に入れるような手だった。
 ところが、実際に打たれてみると、これで案外、黒が粘っているのだ。あるいは海 沢さんのヨミの死角に入っていたのかも知れなかった。活きれば、相当細かい。ある いは逆転ーーほのかに私は希望を見いだしたが、海沢さんは落ち着いた表情で応 手をヨンでいる。
 やはり、学生本因坊。並の選手なら、ここで動揺してハマるかもしれない。海沢さ んは違った。

 考慮10分、スッと白石を置いた。棋力二段の私にはわからないが、おそらくは最 善手であったろう、湊川さんが大きくうなずくと素早く応戦した。
 双方、ヨミ切っていたようで、バタバタと進んだ。

 結局、黒の大石はコウになった。無条件死と思われた大石がコウになったのだか ら、黒の勝負手は成功したのだ。しかし、湊川さんの表情は冴えない。一方、海沢さ んの表情は落ち着いていた。何故ーーその理由がすぐには理解できないでいた。
 盤上では、黒の大石の生死を賭けて、壮絶なコウ争いが始まった。

 黒白交互に、次々とコウ材が打たれていく。打たれてはコウがとりかえされ、打た れては取り返されていく。
 そうした中、五将の小島さんの碁が終わった。
 つくって黒番小島さんの5目半負けが確認された。負けを覚悟していたらしく、小島 さんは無表情のまま、淡々と感想戦に応じている。
 ついに二敗目、もう後がない。

 「あとがないか」
湊川さんのつぶやきだった。この対局中、初めて湊川さんが声を出した。それは声 というより、絶望的な響きを持ったうめきともとれた。なぜーー勝負手は成功したは ずではないか。無条件死をコウに持ち込んだのに。

 私はハッとして盤面の形勢を確かめてみた。理由がわかった。形勢は圧倒的に白 が良く、黒が無条件活きで細かい形勢だった。コウではだめなのだ。六十目負けが 二十目負けに変わるだけで、「勝負」を考えるとき、コウに持ち込んだところで、無条 件死と大差ないのだった。

 黒にもついにコウ材が尽きた。湊川さんは大石を活きた。しかし、白もその代償と して二十目の大利を得、今度こそ、白の勝利が確定した。盤面で二十目は足りな い。もう勝負が動く所はない。長いコウ争いをしたため、どこも打ち切ったアジ良い 形をしており、もう大ヨセしか残っていない

 刀折れ、矢尽きるとはこのことを言うのだろう。湊川さんの投了は、いよいよ疑い がなかった。これでついに三敗。浪速大の負けが、二部陥落が決定したのだ。
 ところが、湊川さんは投げなかった。そのまま、打ち続けたのである。
 

 これには海沢さんはもちろん、周囲の観戦者も首をひねった。湊川さんの真意を 図りかねているようだった。粘ると言っても限度がある。緊張の糸が切れ、疲労がど っと押し寄せた。浪速大のため、負けと決まったものを万が一を頼りにまだ打ち続け ている湊川さん。私はもはや見ていられなかった。この後の着手を採るに忍びなか った。

「外に出よう」
 私は後の採譜を同級の堤に頼むと、扉に向かった。
 「負けました」平安大 四将の声がした。山内さんが中押し勝ちしたのだ。しかし、湊 川さんの負けが決まり、三敗が決定的となった今、それが何の慰めになろう。

 素早く扉をしめ、廊下に出た私はどこともなく歩いた。廊下の突き当たりがちょうど ベランダだった。私は力を抜いて、ベランダにもたれかかった。
 冷たくなった秋風が、無念の思いをつのらせる。
「やはり海沢の壁は湊川さんでも破れなかったのか・・・・・」
 我が浪速大もついに二勝三敗で平安大に敗れ、二部に陥落するのだ・・・・・
 何とも言えぬ悔しさが胸をおおった。


                  第 五 章

 私が囲碁部に入ったのは半年前のことであった。運良く浪速大の入学試験に合格 し、まさに我が世の春だっだ私は、大学で何を始めるか迷って末、高校時代に始め ていた囲碁を続ける決心をして、囲碁部に入ったのだった。
 
 その時、最初に打ってくれた人が、湊川さんだった。棋力初段だった私は、四目置 いて湊川さんに惨敗した。白の剛腕に黒はズタズタにされ、内心四子なら楽勝と思っ ていた私には、湊川さんの力は驚異そのものだった。

 終局後、着手の手直しを最初から丁寧にしてくれたあと、碁を打つ時の心構えま で、湊川さんは教えてくれた。印象的で、今でもはっきりと覚えている。

 「学生囲碁部の碁は勝たなくてはいけない。どれだけ良い碁を打っても、終わった ときに勝っていなくては何にもならない。どんなに負けている碁でも、可能性のある 限り粘るべきだ。勝負手を放って、勝利を追求すべきだ。しかし、勝てる可能性が消 えたとき、死力を尽くしても逆転出来ないことが明らかになったら、これはもう、潔く 投了するしかない。負けが決まったのに、だらだらと打ち続けるのはやめろ。まし て、時間制の碁で、相手の時間切れを狙って必敗の碁を打ち続けるなんて、絶対に するべきではない。碁は、正々堂々と打て」


                  第 六 章

 淋しい気持ちで色々な事を回想しているうち、私はフッと我に返った。知らぬ間に 十分間経過している。もう湊川さんの対局も終了していることだろう。浪速大は平安 大に敗れ、二部に陥落するのだ・・・・・・

 重い気持ちのまま、ベランダから出て、対局場へと戻った。
 その対局場では、驚くべき事態が、私を待っていたのである。

 湊川さんは、まだ打っていた。他の対局は全て終了し、二人の周囲に人が鈴なり になっている。

「何があったのか」

 私は人を押しのけて盤上をのぞいた。 私の期待に反して、盤上はまるで変化が なかった。手数は相当進んではいるが、形勢は相変わらず白が良く、二十目以上の 勝ちは疑いがない。しかし、海沢さんの表情が変わっていた。

 これまでの冷静さが影をひそめ、あわてふためいて打っている。しかも、着手が異 常に早い。湊川さんが打って対局時計のボタンを押した時には、もう海沢さんは次 の手を打って、時計のボタンを押していた。そして、それは湊川さんも同じだった。

 「時間!」

 私はハッとして、湊川さんの投了しない真意に気付いた。
 学生リーグ戦は持ち時間各七十五分で、使い切ると形勢のいかんにかかわらず 時間切れ負けとなる規定がある。
 対局時計には時計面が二つ並んでいて、各々の残り時間を示している。二つの時 計面の上にはボタンがそれぞれついていて、自分が打ったら、すぐにボタンを押す。 すると自分の残り時間を示す時計が止まり、相手の残り時間を示す時計が動き出 す仕組みになっている。

 そして持ち時間を使い切ると、長針が「12」のところまで来ると、「12」の横に設け てある小さな赤い針が水平から垂直にストンと垂れ下がる。その瞬間、時間切れ負 けとなるのである。

「湊川さんは時間切れ勝ちを狙ったのか」

 対局時計を見ると、双方とも一分の時間も残していない。まだあちこちに小ヨセが 残っており、両者とも終局まで打ち切れるだけの時間を残していないことがすぐに判 った。どちらかが時間切れで勝つのは必定だった。

 盤上ではすさまじい石の打ち合い、ボタンの叩き合いが続き、修羅場の様相を呈 している。海沢さんが石を置いて、時計のボタンを押すまでに、もう湊川さんは次の 石を置いている。湊川さんがボタンを押したときには、もう海沢さんは次の石を置い ていた。

 もはや、これは碁の勝負ではなかった。両者は唯、盤にいかに速く石を置けるか、 いかに速く対局時計のボタンを押せるかしか考えていなかった。

 どちらの時計が先に時間切れとなるのか、どちらの時計の赤い針が、先にストンと 落ちるのか、周囲の観戦者は息を呑んで見守っている。
                       
 パン!ひときわ高く湊川さんがボタンを叩いたその時、海沢さんの時計の赤い針 がストンと落ちた。海沢さんもボタンを押した。湊川さんの時計の赤い針もストンと落 ちた。どよめきが観戦者からもれた。


               第 七 章


 「先に落ちちゃいましたか」
 海沢さんが小声でつぶやいた。湊川さんが小さくうなずく。凍りついたような沈黙が 流れた。二人とも碁盤をじっと見つめたまま、身動きしない。感想戦もない。黒番、 湊川さんの時間切れ勝ち。思いがけない結末に、自分たちの勝利を疑わなかった 平安大の学生はショックで声も出ない。二人とも無表情のまま、まだじっと碁盤を見 つめている。碁に勝って勝負に負けた敗者と、碁に負けて勝負に勝った勝者は、同 じ表情をしていた。

 やがて、どちらともなく石を崩して盤上を片づけ始めた。片づけ終わると、湊川さん は静かに立ち上がった。山内さんや小島さんが「残留だ、残留だ」とはしゃぐのを尻 目に、無言で対局場を出ていこうとする。河口さんが湊川さんに話しかけようとする が無視されている。

 私は湊川さんの後を追って廊下に出た。既に陽が傾き、西の空が深紅に染まって いる。湊川さんは背中を見せたまま、夕陽に向かってじっと立ちつくしている。その 背中が限りなく淋しい。

 「湊川さんーー」
 声を掛けてみたものの、言葉が続かない。形はどうあれ、勝負に勝ったのだ。これ で良かったのだ、そう思ったが言葉に出せない。
 ただ私は、入相が美しく湊川さんを照らすのを静かに見守るばかりである。
 河口さんが来て、湊川さんの肩をポンと優しくたたいた。   
                                       (終わり)

   


  最後まで読んで戴き、ありがとうございました。次回作にもご期待ください。   (中河原 潤)
   (ご感想をお聞かせ下されば幸いです)



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