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第 一 章
玄関のチャイムが鳴った。ソファに座っていた小林恵美がインタホンの受話器をとる
と、それが碁盤と碁石の配達だと知れた。ワクワクしながら、恵美は宅配便業者から
荷物を受け取ると、まだ引っ越しの荷物が整理されていない、ワンルームマンションの
部屋の中央に置いた。
――さあ、今日から私も一国一城の主だわ。棋具も揃ったし。あとは荷物の整理をし
ていくだけ・・・・・――
箱を開けると、古い桂の足付き盤が現れた。厚さ3寸だが、恵美にとっては、それで
も重い。もう一つの箱からはこれもかなり古いケヤキの碁笥と蛤石、碁笥箱。この春
から就職した恵美にとっては、棋具の出費も節約の対象だ。近所の碁盤店で売りに出
ていた中古品を購入した。出来れば新品が欲しかったが、社会人一年生の給料では
やむを得ない。それでも、碁盤と碁石が届いたのは嬉しかった。
「何も学校を出てすぐに一人暮らしをしなくても、家から会社まで通えるのに」という両
親を「社会に出たんだから、親から離れて独立したいの」と説得、入社後一ヶ月で格好
の賃貸物件を見つけて、引っ越して来たのである。
シングルベッドに木の机。白のクローゼットにリビングボード。ダイニングテーブル。
十帖程の広さの洋間では、これだけの家具が並んでいては碁盤の置くスペースが窮
屈だったが、それでも恵美は足つき盤を選んだ。大学時代に始めた囲碁も、五年目に
入り、二段になった。腕が上がるにつれて、その奧の深さにのめり込んでいった。
――囲碁は素晴らしい。一生の趣味にしよう――
そう心に決めたのだった。
本棚には秀策・道策の打碁集と玄玄碁経・碁経衆妙などの古典詰碁。定石事典、囲
碁の月刊誌――本棚だけを見れば、これが22歳の独身女性の一人暮らしの部屋と
は誰も思わないかも知れない。
荷物を整理し、部屋を片づけると、ようやく碁盤に向かえるスペースが出来た。大好
きなモーツァルトのCDをBGMにしてコーヒーを飲みながら古碁を並べる。
ゆっくりと時間が流れるひととき。恵美も、この時間だけは、その日会社であった嫌
なことも忘れる事が出来た。ストレスが解消される。また明日一日働くエネルギーが充
電される。
恵美は最近思う。
――秀策の棋譜とモーツァルトの音楽は、同じようなリズムを持っているのではない
か。秀策の石の調子、リズム――モーツァルトの旋律、リズム――両者は同じ所から
来ているのではないか。どちらも、神から人類へのかけがえのない贈り物――
第 二 章
その週の金曜日、会社勤めを終えた恵美は夕食を済ませると、この日も盤に向かっ
た。BGMにモーツァルトの「ポストホルン・セレナード」をかける。今夜は、秀策・丈和戦
の棋譜である。94手で打掛だが、両者の対局はこの一局しかない、貴重な棋譜だ。
秀策が若いため、手合いは二子。このころ秀策が七段を超える力を既に備えていた
事を思えば、隠居した丈和名人にとっては厳しい手合いだ。
白・丈和のカカリに黒・秀策が一間にハサみ、ツケノビ、右下隅で闘いが始まる。丈
和が得意のねじりあいにもっていこうとするが、やや無理気味で、秀策が冷静に受け
止めていく攻防は、まさに並べごたえ充分である。
白が37とキリを打ったときが、重要な勝負所。ここで電話が鳴った。
恵美が手を止めて電話に出ると、母の貴美子だった。
「今日、タケノコを家で炊いたの。おいしいから持ってきたわ。今からそっちに行ってい
い?今、駅に着いたところよ」
タケノコは恵美の好物である。だが、この、まだ散らかっている部屋を母に見られたく
なかった。引っ越してから四日が経過したが、勤めもあって、荷物がまだ残っている。
「ごめん、おかあさん。部屋がまだ片づいていないの。駅の近くの喫茶店で待ってて。
すぐ行くわ」
恵美は電話を切ると、かかっていたCDを止めて、玄関を出た。
マンションに戻った恵美は、母から貰ったタケノコをキッチンに置き、再び碁盤に戻っ
た。白37まで並べたところで中断したままだ。丈和の強手に秀策がどう受けるか――
興味しんしんで恵美が次の手を追ったところで、手が止まった。
――おや――
石が動いていた。いや、正しくは「次の手が既に打たれていた」だった。
黒38のノビきり。恵美がまだ並べていないはずの「次の手」が、黒石が、すでに盤上
に置かれていた。
――私の勘違いかしら――
いや、そんなはずはない。この碁を並べるのは初めてである。この黒のノビきりを打
った記憶がない。母から電話が掛かってきたとき、黒38はまだ打たれていなかった。
しかし、碁盤には、今黒38が既に置かれている。
――私の記憶違い?それとも――
・・・・・ 恵美が部屋をあけた30分足らずの間に、「誰かが」石を打った?・・・・
恵美は恐怖を感じて、部屋をぐるりと見回した。鍵は確かに掛けた。帰ってきたとき
も鍵は掛かっていた。部屋はワンルーム。玄関、トイレ、風呂、クローゼット、押入。こ
れで全てだ。恵美はおそるおそる、それらを調べてみた。むろん誰もいない。盗られた
ものもない。 窓はどうか? アルミサッシの窓は、いずれも内側からしっかりと鍵が掛
かっていた。誰かが入ってきた形跡などない。それにここは五階だ。 天井は? 天井
の壁紙には傷一つない。 換気口、通風口、いずれも極端に小さく、人の出入りは不
可能だ。
――やっぱり、私の勘違いなんだわ――
第一、侵入して棋譜の続きを並べて帰るだけの泥棒など、いるはずもない。きっと黒
38まで、恵美自身が並べていたのだ。恵美はそう自分を納得させて、丈和・秀策戦の
棋譜を並べ続けた。外は真っ暗な闇のとばりが下りている。静寂のなか、石音が響く。
第 三 章
その次の金曜日、実家に寄った恵美は、部屋の押入の上段に、父から借りたビデオ
カメラを取り付けていた。取り付けが終わると、レンズの幅だけ戸をそっと開けておい
た。
――これで、原因がはっきりするかも知れない――
というのも、あの「石が動かされている」が、月曜日にまたしても起こったからだった。
前回同様、偶然に棋譜並べをしているときに半時間ほど外出し、帰ってきたら今度は
「打ったはずの手」が盤上から取り除かれていたのだ。愕然として恵美は部屋を調べ
たが、「密室の状態」でどこにも異状はない。初めての時は、自分の「勘違い」とも思っ
たが、2回目となると、もう「勘違い」ではない。
自分の留守中、「誰かが」石を動かしたのだ。動機、目的は分からないが、まず、間
違いない。警察に届けようとも思ったが、「あなたの勘違いでしょう」で、取り合ってくれ
ないかもしれない。確たる証拠を持っていけば・・・・・
そう考えた恵美は、浪速大学時代から付き合っていた翔太に相談してみることにし
た。 北村翔太。恵美と同い年の22歳。現在は関西を代表するメーカー、松本電器の
フレッシュマンとして、研修センターで新入社員研修を受けている。浪速大学時代は囲
碁部に在籍、恵美とはともに囲碁を研鑽しあった間柄だ。特に立正社大・海沢弟と関
西代表を賭けて演じたプレーオフの死闘は、二年たった今でも恵美の記憶に深く刻み
込まれていた。
恵美から電話を受けた翔太は当初、、「恵美の勘違い」ではないかと思った。「棋譜
の次の一手を打つだけの侵入者」がいるとは、考えにくかったし、他に何の被害も出て
いないのだから。しかし、恵美の話を聞くうち、あながちそうとも思えなくなってきた。単
なる恵美の勘違いなのか、本当に「侵入者」が石を動かしているのか、解明する必要
がある。
そこで、翔太は、恵美に「ビデオカメラによる隠し撮り」を提案したのである。恵美が
碁盤を離れる前から、部屋に戻ってきて再び碁盤を見るまで、一部始終をビデオカメ
ラに納める。そして、そのテープを再生すれば、全てが明らかになる。
そして翔太の提案を恵美は実行に移した。リモコンでビデオカメラのの録画スイッチ
を入れる。テープが回りだした。
恵美は、いつものように碁盤を部屋の中央に置いて、秀策と錦四郎因碩の打碁を並
べ始めた。嘉永5年に打たれた御城碁である。秀策の先番無敵は有名だが、白番で
の打ちこなしも見事なものだ。因碩が黒39の攻勢に出て来たとき、白44のトビから4
6と打ったのが巧妙で、48のオサエを打っては白が手広い場面となっている。さらに
黒85が悪手で、白86と下がっては白有望である。黒85では86にハネる一手だった
のだ。
ここで恵美はわざと中断し、近くのコンビニへ買い物にいった。時間をつぶすこと30
分。マンションに戻った恵美がおそるおそる碁盤を見ると・・・・・・
石は動いていた。恵美が並べたはずの白86の石が消え、悪手だった黒85の石
が、86のハネの位置に動かされている。恵美の背中に恐怖が通り抜けた。部屋を見
渡すが、むろん誰もいない。どこにも異状はない。盗られたものもない。前回、前々回
と同じだった。しかし、今回はビデオカメラが回っている。恵美は押入を開けた。ビデオ
は録画の状態で動いていた。
――この録画テープを再生すれば、全てが・・・・・・――
一体 「誰が」 石を動かしたのか。 ビデオカメラは 「何を」 見たのか。
恵美は、録画スイッチを切ると、ビデオカメラをTVに接続、テープを最初まで巻き戻
した。
再生のボタンを押そうとして、恵美は躊躇した。何が写っているのか。恐ろしい予感
で一人で見るのが怖くなったのだ。たまらず、恵美は翔太の携帯電話の番号を押し
た。
しかし、恵美の期待とは裏腹に、受話器からは 「電波が届かない状況か、電源の
入ってない・・・・・」 のメッセージが流れて来ただけだった。
――仕方がない――
恵美は、一人でテープを見る決心をした。 水を一杯飲み干すと、高まる胸の鼓動に
耐えながら、恵美は震える指で再生ボタンを押した。
第 四 章
翔太は地下鉄の改札を抜けると階段を上がり、恵美のマンションへと急いでいた。
急ぎ足で歩きながら、翔太に悔悟の念が浮かぶ。「隠し撮りをすればよい」と恵美に提
案したが、今から思えば、危険なアドバイスだった。 恵美の単なる思い込み・勘違い
だったときは良いが、万一、外部からの侵入者の仕業だったとき、そんな細工を労せ
ば、恵美の身に危険が及ぶ可能性がある。 自分が付き添ってやるべきだった。
迂闊・・・・・もしかすると、今日にも恵美は、実行に移しているかも知れない。しかも、
今日に限って翔太は携帯電話を寮に置いてきてしまった。心配でたまらず、その日の
研修が終わるとすぐに会社を出たのである。嫌な予感に包まれながら、翔太は恵美の
マンションへと急いだ。
恵美はボタンを押した。テープが回り始め、TV画面に画像が映った。恵美が部屋の
中央に碁盤を置き、秀策全集を開くところが映しだされる。一手、また一手、石が盤上
に打たれていく。
――自分で自分の部屋を隠し録りするなんて――
TVに写る、棋譜並べをしている自分の姿が、恵美には少し滑稽に思えた。
やがて、TV画面の中の恵美が立ち上がった。上着をかぶると、画面から消えていっ
た。そして後には、あるじのいない碁盤だけが、白86までが置かれた碁盤が写ってい
る。
――やっぱり、私は白86まで打っている――
恵美は振り返って、「現実の」碁盤を見た。白86の石はなく、黒85が別の位置に動
いている碁盤を。やはり、恵美の勘違いではなかった。
恵美の胸が恐怖で締め付けられる。一分、二分・・・・TVの画面を凝視するが、映さ
れている盤上はピリリとも動かない。五分、十分・・・・・・まだ変化はない。のどが乾く。
たまらず恵美はいったん停止ボタンを押し、キッチンに行くと水を一杯飲んだ。
恵美はTVの前に戻ると再び再生ボタンを押した。
五分ほどがたった。 画面の中の白石の碁笥から、なにやら霧のようなものが舞い
上がった。 スーっともやがかかったかと思うと、もやは大きくなり、それは次第に人の
形に変わっていった。息を呑んだ恵美をよそに、それはハッキリと人、それも着物を着
た僧侶の形になっていく。やがて、碁盤の前に座った僧侶の影が、盤上の白石をつか
んで碁笥に戻し、黒石をつかんで打ち直す仕草が見られた。次々と繰り出される映像
に、恵美は驚愕の余り叫び声も出ない。その時だった。
パチリ。
恵美の背後から、石を打つ音が聞こえた。恵美の背中が凍りついた。
「誰が」石を打ったのか。確かめなければならない。しかし、振り向けない。心臓の鼓
動が限界まで大きくなっていく。胸が苦しい。恵美は苦しさに耐えて、おそるおそる、ゆ
っくりと振り向いて、背後を見た――
そこには、たった今画面で見た僧侶が、碁盤の前に座っていた。僧侶はじっと恵美を
見つめていた。
恵美の悲鳴が、夜の静寂を貫いた。
ようやく恵美のマンションまでたどりついた翔太は、玄関扉の部屋番号を確認すると
インタホンを押そうとした。その時――
すさまじい悲鳴が部屋の中から聞こえた。
――今のは恵美の声じゃ――
インタホンを鳴らし、ドンドンと扉を叩くが、中から応答はない。
焦った翔太は、一階の管理人室に飛び込むと、嫌がる年配の管理人をせき立て、合
い鍵で扉を開けるよう説得した。
「中から悲鳴が聞こえたんです。一刻を争う事態かもしれないんですよ!」
翔太の言葉に、管理人は、渋々鍵を取り出した。
「若い女性の部屋を、本人に無断で鍵を開けるなんてことは・・・・・・あとで文句を言わ
れてもしりませんからね。あなたも私も男なんだから。責任、取って下さいよ」
翔太は管理人と共に、恵美の部屋に入った。
恵美がTVの前で倒れていた。ビデオカメラがTVと接続されたまま、付けっぱなしにな
っている。部屋の中央には打碁が途中まで並べられたままの碁盤が置かれてあった。
「恵美! しっかりしろ!」
翔太は恵美を抱き起こした。意識はない。しかし、呼吸はしっかりしている。
翔太は電話に飛びつくと、救急車を呼んだ。
第 五 章
恵美は病院でこんこんと眠り続けている。病院の医師は「診察・検査の限りでは異常
はありません。何故目が覚めないのか原因不明です」と説明した。恵美の両親が呼び
かけても、目を覚まさない。倒れてもう二日目になる。
――何か医学で説明できないものが恵美を蝕んでいるのではないか。あの悲鳴はた
だごとではない。あのとき、恵美に何が起こったのか――
翔太は、恵美が倒れた原因を探ってみることにした。
翔太は、マンションの管理人に頼み込んで部屋を開けてもらった。部屋を見渡してみ
る。あのとき、恵美の部屋は密室の状態だった。外部から侵入されたような形跡はな
い。警察も現場検証をして、それは確認されている。何も盗られていない。
倒れたときに、つけっぱなしになっていたビデオテープはどうか。しかし、これは警察
が「捜査上の手掛かり」として持っていってしまった。たしか現場検証の時、その場でテ
ープを捜査員が早送りで再生していたはずだ。テープでは、恵美の部屋が映しだされ
ていた。恵美が打碁を並べている。恵美が立ち上がり、画面から消え、碁盤が映って
いた。
――やはり恵美は自分が提案した「隠し撮り」を実行に移したのだ――
テープを見たとき、翔太は今更ながらに後悔した。あの提案が恵美を危険なことに
―― しかしテープを最後まで見ても、碁盤が映っているだけで、とりたてて手掛かりら
しいものはなかった。一瞬、盤上の石が動いたように見えたのが気に掛かったが、お
そらく錯覚だろう。ビデオの録画が切られたあと、いったい何が起こったのか。それが
謎だった。
残された手掛かりは、碁盤、碁石、碁笥だったが、目を皿にして観察しても何の手
掛かりもない。落胆した翔太に、ふと碁笥箱が目に入った。古い桐製の碁笥箱だが、
蓋の下の方に、墨で署名らしきものが書かれている。字体が崩されている上、年代の
ため薄くなっていて読み辛かったが、長い間見ていると、
「天保六乙未年 肥州 菊池郡 赤星千太郎・・・・・」 と書いてあるのがどうにか判読
出来た。「千太郎」のあとも文字が書いてあるが、これは消えかかっていてどうにも読
めなかった。これ以上は、翔太の知識では手も足も出ない。
「もう、いいでしょう。私も仕事に戻らないと」
管理人の言葉に、翔太は碁笥箱だけを持って恵美の部屋を出た。
困った翔太は同級だった堤(つつみ)に電話をした。堤は囲碁部の同輩だが、今は
大学に残り、大学院で国文学を専攻していた。
堤は恵美の容態を大変心配していたが、碁笥箱の箱書きのことを話すと、「残念だ
が、僕ではよく分からない。僕の知り合いに林田という囲碁史の研究家がいる。今は
大阪文化大の教授だ。紹介するから、その人に見て貰ったらどうかな」 と答えてくれ
た。
さっそく翔太は大阪文化大を訪れてみた。堤が前もって連絡しておいてくれたことも
あり、翔太が面会を申し込むと快く応対してくれた。
林田教授は、一見して囲碁史研究家とわからないほどがっしりした体格だった。
翔太が持参した碁笥箱に目を通した林田は驚きの表情で言った。
「これは大変貴重なものです。あなたは江戸後期の棋士で『赤星因徹』という名を聞い
たことがありますか」
「はい、名前なら聞いたことがあります。確か「松平家の碁会」で本因坊丈和名人との
決戦に敗れて亡くなった悲劇の棋士ですね。『吐血の局』で有名な・・・・・・」
「その通り。よくご存知ですね。ええと・・・・この碁笥箱に書かれている『赤星千太郎』と
は、井上因碩の愛弟子で一門のために命を賭けて丈和と対決、あえなく敗れて26歳
の若さで亡くなった、あの赤星因徹のことでしょう。彼は熊本県菊池郡で生まれ、幼名
を千太郎といったのです。この碁笥箱はおそらく赤星因徹が亡くなった天保六年に作
られたものと推定できます。
天保六年といえば1835年ですから、もう百六十年以上前のことですね。ううむ・・・・こ
の『赤星千太郎』のあとに書かれてある文字が、薄くなっていて読めませんね・・・・これ
が読めれば良いのですが・・・・この上は、これに入っていた碁笥や碁石が作られた経
緯を調べれば、何か分かるのではないでしょうか。
ちょうど、赤星家の子孫――6代目に当たる方が関西に住んでいます。熊本県菊池
市に住んでいたんですが、最近、関西にやってきたようです。たしか京都の御所の西
側に住んでおられるはずです。私も一度、井上家の研究に訪れたことがあります。住
所は・・・・・・」
林田教授は、翔太に丁寧に地図まで書いてくれた。
とにかく、行って調べてみないことには何も進まない。
翔太は京都市の地下鉄今出川駅を下りると、渡されたメモの家へと向かった。御所
を左手に見ながら南へ下がり、西へ入ったところに、その家はあった。「木田」の表札
が上がっている。
古い造りの平屋建ての家を訪問すると、五十歳ぐらいの夫婦が応対した。 翔太が
来意を告げ、碁笥箱の箱書きを見せるやいなや、夫婦の顔色がさっと青ざめた。
第 六 章
翔太は座敷に通されると、当主の妻、民江がお茶を運んできた。翔太がお茶をひと
口飲み終わるのを待って、木田家の当主・栄造は、翔太に尋ねた。
「これは・・・・これはどこから手に入れられました? それに、この碁笥箱に入っていた
碁笥と石は今どこに・・・・・・」
おどおどしながら質問する栄造は、何かを恐れているようだった。
翔太はこれまでの事情を説明し、眠っている恵美を何とか救いたいので、知っている
ことがあれば教えて欲しいと木田夫妻に頼んだ。
夫婦は顔を見合わせた。沈黙が訪れた。やがて、決心したように栄造は、
「そうですか・・・・・あなたのご友人がそんなことに・・・・やむを得ません。お話しいたし
ましょう。このことはよそには一切口外無用としてるのですが・・・・」 と前置きし、ゆっく
りと語り始めた。
「この碁笥箱は、林田先生がおっしゃられたとおり、碁笥と碁石とともに、天保六年に
作られました。この年、『松平家の碁会』で井上家の実質的な跡目、赤星因徹が本因
坊丈和名人に敗れ、二ヶ月後に26歳の若さで亡くなったことはご存知でしたよね。死
因は「肺結核」とされています。
丈和との決戦に敗れた因徹は、敗戦を悲嘆する余り、持病の結核が進行していたこ
ともあってそのまま衰弱して亡くなりました。師匠の井上家当主、因碩(いんせき)は大
いに悲しみ、『この死を絶対無駄にはしない。必ずや本因坊に勝ち、丈和に取って代
わって名人になる』と泣いて誓ったらしいのです。
その直後に、この碁盤、碁石、碁笥、碁笥箱は造られたのです。井上因碩は、毎
日、この盤石で囲碁の研鑽をしていました。その碁笥箱が、今日お持ちになられたそ
の箱です。おそらく、小林さんでしたか・・・・ご友人、恵美さんのお持ちになっている碁
石や碁盤が、それでしょう。
その盤石は当初井上家にあったのですが、当主・因碩が死去すると、それは因徹の
生家、赤星家に戻され、長い間赤星家で保管されていました。現在の熊本県菊池市
内にあるのですが・・・・
私の母は赤星家の一人娘でした。父と結婚してからは「木田」に姓が変わっています
が。父母は結婚した後、赤星家の母屋に住んでいました。父母が亡くなってからは、私
たち二人が赤星家の面倒をみていました。ところが一年前、土蔵が何者かによって荒
らされ、その盤石が盗まれるという事件がありました。二人でその盤石を懸命に捜した
のですが、見つからなかったんです。しかし、『京都の骨董店で見かけたことがある』と
の噂を聞き、その盤石を探すため、私どもは熊本から、こうして京都に出てきて、未だ
に探していたのです。この家は、親戚の一人が海外に転勤となって、空き家となってい
たのを借りているのです」
栄造はここまで喋ると、妻が入れたお茶を一杯すすった。
翔太が質問した。
「盤石のためだけにそこまでされたのですか。よほど大事なものなんでしょうね。しか
し、盤は桂で、碁笥はケヤキ、失礼ですが、そこまでする値打ちのあるものとは思えま
せんが」
翔太の質問に栄造は大きくうなずいた。
「ごもっともな質問です。・・・・・私どもは棋具そのものが惜しくて探しているのではあり
ません。あの棋具が第三者の手に渡ることを恐れたのです。早く探し出して取り戻さな
いと、大変なことが起きるからなのです。実は、あの碁石には恐ろしいことが秘められ
ているのです」
「何ですか。その恐ろしいことというのは・・・・やはり今回の事件とつながりのあること
なんですか」
「それが・・・・」
ここまで淡々と、うち明けていた栄造の口が急に重くなった。しばらく考えていたが、
意を決したように、再び、口を開いた。
「北村さんは、あの白石を見たことがありますか」
「はい、一度だけ・・・・・・」
「何か感じませんでしたか」
「いえ、特に・・・・・ただ、江戸時代につくられたものとしては、少し分厚いなと・・・・・」
「そのとおりです。江戸時代の蛤(はまぐり)石は、ふつう薄っぺらく、厚いものはありま
せん。厚いものを作る材料である日向蛤が、当時はまだ発見されていなかったからで
す」
「では、あの碁石は・・・・・」
「そうです。蛤ではありません」
「確かに、言われてみると貝目も通っていなかったような・・・・では、一体何で造られ
た・・・・」
栄造は黙って、翔太の眼を見た。民江は横で目を伏せている。
翔太は、はっとして栄造を見返した。
「まさか・・・・・」
「そのまさかです。あの白石は、赤星因徹の骨で造られたんです」
第 七 章
重い沈黙が三人を支配した。聞いていた翔太は、あの白石をさわった感触がまだ右
手に残っている気がして、思わず自分の掌(てのひら)を見た。自分の掌が、因徹の血
に染まっているような錯覚に襲われたのである。
翔太は胸の動悸を抑えようと、お茶を飲んだ。
「そんな・・・・人間の骨を碁石にするなど、そんなことが許されて良いのでしょうか」
しばらくすると落ち着きを取り戻して、ようやく声が出た。
「全ては因徹本人が望んだことです。死ぬ前に、自分が死んだら骨を碁石にするよう、
両親に託し、一冊の書物を預けたのです。そして因徹の両親から贈られたその石で因
碩は『打倒坊家』を目指したが、結果はご存知のとおりです。ここまでは、それですん
でいたのです。ところが・・・・そののち・・・・」
栄造は話を止め、お茶を一杯飲んだ。
「そののち、大変なことがわかったのです。その、死の間際に残した書というのが・・・・
実は『うらげんらん』と呼ばれる、恐ろしい書物だったのです」
「うらげんらん? 」
「北村さんは、『玄覧』という棋書を知っていますか」
「玄覧・・・・名前だけは聞いたことがあります。確か赤星因徹が著した詰碁集ですよ
ね」
「そのとおり。あの『玄覧』には、「表」と「裏」の二冊があるのです。通常知られている
のが、「表」のほうです。そして因徹が死の間際に書き残した書が、『裏玄覧』と呼ばれ
ています。
前書きの部分が因徹の遺言書になっていて、本文の部分が二十題の詰碁集になっ
ているのです。
『裏玄覧』はそれ以後、赤星家の土蔵で保管されています。外に出せば恐ろしいこと
が起こるとされ、門外不出となっていたのです。書かれてある遺言の内容や詰碁は、
代々、赤星家の当主のみが閲覧を許されていました。今その内容を知っているのは、
私と民江だけです」
「その・・・その『裏玄覧』の遺言書には、一体何が書かれてあるんでしょうか」
翔太の問いに、栄造の顔がこわばった。
「私の口からはとても申せません。幸い、遺言書の部分だけ、筆写したものがあります
ので、ご自身で読んでください」
栄造の言葉に、民江が立ち上がって、床の間の違い棚を開けると、ふろしき包みを
運んできた。ふろしきを机の上でとくと、和綴じの古い写本が現れた。
「これが遺言書の部分の写本です。おそらく、明治の頃に写されたものだと思います
が」
表紙には、墨で「玄覧 (続)) 天保六乙未年八月 赤星千太郎 死の床にて之
(これ)を記す」 と書かれている。
翔太は息を呑んで表紙をめくった。
第 八 章
「我、死後も碁石となりて永遠の時を超えん。願わくば、坊家を破る礎(いしずえ)となら
ん。
この石を触る者なかんずく本因坊家の棋譜を並べる者、これを眠らせ、永遠の眠り
に導びかん。即ち、一月にて死を迎える。
それを遮(さえぎ)る者、ただ詰碁二十題を解く者のみ。各月の我命日に正午より坤
(ひつじさる)の祠(ほこら)に入りて備えし盤で詰碁を解き、日の入りまでに全てを完答
する者のみ、その眠りを解くことを得。置き直しは、これを許さず。一題でも誤りし者、
解かざる者,即ち死を迎える。この詰碁を前に読む者、もとより解くあたわず。事は前
を流れる川を渡るより、一人で行うべし」
一読した翔太は戦慄した。やはり石が動いたのは恵美の錯覚ではなかった。因徹の
霊が現れたのだ。しかも、恵美は「私、最近古碁を並べてるの。道策と秀策を・・・・・」
と言っていた。夜毎、坊家の打碁を因徹の骨で並べていたのだ! そして因徹の怒り
を買い・・・・・
事態の重大性が、翔太に大きく壁となって現れてきた。
「この、坤の祠というのは?」
「坤とは、方角のことで『南西』を指します。坤の祠、つまり赤星家の南西に森があり、
そこに小さな祠があって、赤星家の先祖を祀(まつ)ってあるのです」
「各月の我が命日とは・・・・・」
「因徹が亡くなったのが、旧暦の八月二十八日です。したがって、毎月旧暦の二十八
日に当たる日という意味になります」
「と、いうことは・・・・わかりやすく整理すると、こうなりますね」
「私は、死んだ後も骨を碁石にしてもらって、時間を超え碁石として生き続け、本因坊
家を破る礎となる。その碁石を触る者で、本因坊家の棋士の棋譜並べをした者は永
遠の眠りにつくことになろう。眠りについて三十日で死亡する。これを止めることができ
るのは、詰碁二十題を解ける者だけである。つまり、旧暦の二十八日に当たる日に、
赤星家の南西の森にある祠にこもって、そこに備えてある盤で正午から日没までに
『裏玄覧』二十題全てを解きなさい。解いた者のみ、眠りを覚ますことができる。一度
置いた石は、置き直しができない。(頭の中でヨミ切ってから石を置かねばならない)も
し一題でも間違ったり、解けなかったりしたときは、その者にも死が訪れる。前に一度
でもその詰碁を見た事がある者は、その資格がない。これをするには、祠の前を流れ
る川を渡る所から最後まで、全て一人で行わねばならない。・・・・・」
翔太がここまで読み直すと、栄造は黙ってうなずいた。
「眠りについたのが、二日前の五月二十三日・・・・・すると恵美は、このままだと六月
二十三日に・・・・・そして、それを防ぐ手だては、ただひとつ・・・・・旧暦二十八日の日
に、祠にこもって『裏玄覧』を解く・・・・・しかし、失敗すれば、死が訪れる・・・・・というこ
とは・・・・・・今日が五月二十五日だから・・・・今日は旧暦で何日なんですか?」
翔太の問いに、民江が奧に下がって、ややあって暦を出してきて机に広げた。
すばやく暦の数字を追った翔太は、「うっ」 とうめいた。
「今日は旧暦の四月二十七日ですね。ということは・・・・・・」
「・・・・明日、五月二十六日、旧暦四月二十八日にそれを決行しないと、間に合わない
ということです」
栄造の言葉に、翔太は愕然とした。
再び沈黙が訪れた。
――どうすべきか――
やるべきことは、はっきりしている。しかし、あまりの唐突な運命の挑戦に、言葉を失
っていた。
長い沈黙の後、ようやく翔太が口を開いた。
「今まで、このようなことは、あったんでしょうか」
「江戸時代の嘉永七年に一回、明治三十年に一回、実際にこのような事件が起きた
と、赤星家の文書には書かれていました。いずれも、事情をよく知らない者が土蔵にし
まってあった石で、坊家の棋譜を並べたのが原因です。 嘉永七年の時は、遺言書を
信じる者がなく、裏玄覧を解く者が現れませんでした。眠った人は『いずれ目が覚める
だろう』と放置され、ぴったり三十日後に死亡しました。
明治三十年のときは、嘉永七年の出来事がまだ人の記憶にあり、『救うべし』 と、
祠に一人、籠もったのです。いまのプロ並の力量がある方だったそうですが・・・・・」
「結果は・・・・・」
おそるおそる、翔太は質問した。
「日没後、いくばくもなくその人は祠の中で死んだ、と書かれてます」
「眠った人は・・・・・」
「やはり、ぴったり三十日後に、死亡したそうです」
――何か他に良い策はないのか――
翔太は懸命に知恵を巡らす。
「裏玄覧を解く以外に、恵美を救う方法はないのでしょうか。たとえば、あの白石を
粉々にしてしまうとか、溶かしてしまうとか」
「とんでもない!」 栄造は即座に否定した。
「遺言書には書かれていませんが、少しでもあの白石をどうにかしようとすれば、まず
命はないでしょう。私たちも、あの石を処分することも考えないではなかったのですが、
『それだけはやってはならない』の言い伝えもあり、今日まで来ているのです。まった
く、このたびはご迷惑を掛けて申し訳ない・・・・・・私たちも、もうどうして良いか、わから
ないのです・・・・・」
栄造の語る事実が、ひとつまたひとつ、翔太に巨大な壁となってのし掛かってきた。
第 九 章
翌日、翔太は、熊本県・菊池郡の山の麓を流れる川の前に立っていた。幅十メート
ルほどの川、その川に、人が一人、やっと通れるだけの幅を持った木の橋が架かって
いる。橋を渡れば、そこは祠を祀ってある森である。
――ついに、ここまで――
詰碁が全題解けないとき、自分は死んでしまうのか。いいしれぬ恐怖が翔太を包
む。しかし、翔太はここに来る道を選んだ。恵美を見殺しには出来ない。
――やはり、自分は恵美を――
翔太はいま、自分の気持ちにはっきりと気づいていた。
今度のことは、親友の堤にだけは伝えておくことにした。そうしないと、自分が倒れた
とき、前後の事情が誰にも分からなくなるからだった。昨日、手紙を書いて速達でポス
トに投函した。今頃着いていることだろう。堤の、相変わらずの青白い、人の良さを思
わせる童顔が、翔太の頭に浮かんだ。この前会ったとき、以前に増して顔色が悪かっ
たのが、今も気に掛かっていた。大学院で苦労しているのだろうか。今頃手紙を読ん
で、さぞかし驚いているに違いない。
一方、あえて両親には知らせないことにした。無事帰還したならば、心配をかけただ
けの結果になるからだ。それに、親の声を聞いて、決心がにぶるのを翔太は恐れた。
一体、「裏玄覧」とはどのレベルの詰碁なのか。翔太は、アマとしては府代表クラス
の棋力に達していたが、二十題全問正解、しかも置き直しは出来ない、となるとハード
ルはこの上なく高い。一題でもヨミ落としがあれば、それで終わりだ。百年ほど前に、
プロ級の力を持った者が命を落としている事実が、それを如実に物語る。
――もう、生きて再び、この橋を渡ることはないかも知れない――
悲壮感が翔太をおおう。
その翔太の横には、栄造と民江がいた。場所案内を兼ね、見送りに来てくれたの
だ。栄造は翔太に何度も翻意を促したが、無駄であった。ならば、と見送りに来てくれ
た。
既に太陽は高く、まもなく正午になろうとしている。川の水がぴかぴかと光り、初夏の
到来を思わせる。しかし、その川の流れは、翔太には寒々とした死への入り口にも思
えた。
――まるで易水(えきすい)のようだ――
川を前にして翔太は思った。
その川の流れは、二千三百年前の昔、中国の大国・秦(しん)の横暴に苦しむ小国・
燕(えん)の将軍、荊軻(けいか)を、翔太に思い出させていた。
燕を救うため、秦王(後の始皇帝)を暗殺せんと、供(とも)の者わずか一人で大国秦
に乗り込む荊軻。降伏を伝える使者のふりをして秦王に会い、その席上で秦王を刺し
殺そうというのである。
失敗すれば死、成功しても死。 悲壮な決意を胸に、荊軻は燕を旅立つ。国境を流
れる川、易水。この川を超えればそこは秦の地である。見送りに来た人々との別れの
宴、荊軻は高らかに謳(うた)った。
「風 蕭々(しょうしょう)として易水寒し。 壮士ひとたび去りて 復た(また)還(かえ)ら
ず」
(風が淋しくヒュウヒュウと吹いて、易水は冷たい流れを湛(たた)えている 。ここを渡
れば敵地、壮志をいだく我は、この地を一度去れば、もう二度と帰ってくることはない
のだ)
見送りに来た人々は皆泣き、荊軻は一度別れると、もう振り向くことはなかったとい
う。
「どうしても行かれるのですか」
栄造の言葉に、翔太は黙ってうなずいた。
「私たちが、おともさせていただけるのはここまでです。どうぞ、ご無事で」
栄造が絞り出すように声を出すと、両手で翔太の手を握りしめた。横で民江は、うつ
むいてじっと涙をこらえていた。
「ありがとうございます。きっと帰ってきます」
しかし、言葉とは裏腹に、無事に帰れる可能性がほとんどないことは、三人とも分か
っていた。
翔太は踵(きびす)を返し、橋に向き直った。もう、迷いはない。 やるべきことは唯ひ
とつ。 恵美の命を救う、 それだけだ。
「・・・・・壮士、ひとたび去りて 復た還らず」
荊軻の言葉とともに、翔太はひとり、橋を渡った。
第 十 章
橋を渡り、栄造から教えられたとおりに森を進むと、小さな祠があった。渡された鍵
で古びた錠を開ける。正面に神棚が祀ってあり、その奧に二帖ほどの部屋。進むと明
かりを採る窓のそばに、碁盤と碁石が置いてあった。
手渡されていた風呂敷包みを翔太は開いた。そこには「裏玄覧」の原本があった。
ページをめくると、前書きの次に詰碁集の第一問があった。「黒先白死」と添え書き
がある。
――待った、ハガシは許されない。落ち着いて、慎重に――
翔太の腕時計が正午を指した。今日の日没・日の入りの時刻は七時十六分。それ
までに全題正解せねばならない。座り直した翔太は、「第一番」問題図のとおり、石を
並べ始めた。
橋のたもとでは、栄造と民江が草むらの上で並んで座っていた。祠のある方角を向
き、不安そうな面持ちで見守っている。初夏の太陽が容赦なく二人を照りつけるが、額
を流れる汗を拭おうともせず、二人はただ翔太の無事を祈った。
祠の中では、翔太が全力を上げて詰碁を解いていた。文字通り命がけの行である。
ようやく第五問を解き終わったところで翔太は時計を見た。二時になろうとしている。
――思ったよりは、簡潔型で解きやすい詰碁だ。所々に、ワナや落とし穴が仕掛けて
あるようだが。どうやら、難易度の低いものから順番に並んでいるようだ。・・・・・・二時
か・・・・・・まずい。一問解くのに約25分かかっている。このペースだと、第18題を解
いたところで日没になってしまう。ペースをあげないと。 だんだん難易度も上がってい
くし・・・・・・・しかも、今まで解いた5題も、必ずしも正解しているとは限らない。間違って
いたら、あといくら努力したところで・・・・・いや、今そんなことを考えてはダメだ。ただ前
だけを見て、自分を信じて、進むだけだ。そう、自分を信じて――
翔太は第六問の問題図を並べ始めた。
翔太が、命がけで「裏玄覧」と闘っている頃、恵美は相変わらず国立南大阪病院で、
こんこんと眠ったままだった。
ひとりの人間が、恵美を救うために命を賭けて闘っている。この事実を恵美はまだ知
らない。しかし、恵美はすやすやと、穏やかな表情で眠り続けている。きっと翔太は助
けてくれる。そう信じているかのように。
オク、サガリ、ハネる、キル、ホウリ込み・・・・・いや待て、ハネた時にキラないでヘコ
む手が・・・・
勝手ヨミ、見落としは許されない。全力で翔太は詰碁を解き続ける。暑さと疲労と緊
張感で、汗がしたたる。しかし、そんなことにはお構いなしに、太陽は次第に傾いてい
った。明かり窓から漏れる光が、次第に赤みを帯びてくる。
ようやく翔太は15問目を解き終わった。時計を見ると六時を回っている。
――解ける―― 翔太は手応えを感じていた。究極の緊張感と、後がないという背水
の思いが、実力以上のものを翔太から引き出していた。ふだんなら見えそうもない手
が見えたり、ヨメそうもない手がヨメたりしていた。
――ひょっとすれば―― 翔太に希望が湧いた。
あと五問――残りは八十分足らず。
――落ち着け。1つ1つ。確実に――
マンションの管理人は、管理人室でTVを見ていた。エアコンを入れてあるせいか、と
ても気分が心地よい。今日は客も少なくて、手持ちぶさただ。
――二日前、五階503号室の小林さんが倒れた事件があったとき、救急車や警察が
来て、もう大変な騒ぎだった。あの、小林恵美とかいうお嬢さんはまだ病院で眠ったま
ま、目を覚まさないらしい。原因も分からないとか。かわいそうなことだ。それにしても、
今日は誰も来ないし、静かな一日だ――
うつら、うつら。エアコンの心地よさに、管理人は不覚にも腰掛けながら居眠りを始め
た。目が覚めたとき、机の直ぐ横に掛けてあるマスターキーのうち503号室のキーが消
えていることに、管理人はまだ気づいていなかった。
翔太はようやく十九問目を解き終わった。時刻は七時前である。
さあ、残るは最後の問題、第20問である。「白先活き」とあった。
――よし、二十分あれば、何とかなる――
しかし、最後の問題を解き始めて、翔太の顔が蒼くなった。それは、とてつもなく難し
い詰碁だった。まず、図柄が大きい。その上、第一手の候補が、十指に余るほどある
のだ。普通、直感で第一手の候補は三〜四手に絞られるのだが、この問題はそうで
はなかった。おまけに、その、考えられる着手に対する応手が、また星のごとく無限に
分かれている。「囲碁発陽論」のエース級の問題に匹敵するといってよかった。碁盤に
石を置いて研究しても、プロでも間違うかもしれない。まして、この自分が頭の中だけ
でヨミ切るなど・・・・・百年前、プロ級の人が、この祠で死んだ理由が、ようやく翔太に
も分かってきた。この、最終問題にやられたのだ! 巨大な見えざる力が立ちふさが
るのを翔太は感じた。
菊池の里の夕暮れ――橋のたもとでは、栄造と民江が座り続けている。あと、十五
分で日没を迎える。そわそわしている民江に、栄造が声を掛ける。
「落ち着くんだ。信じて、待つんだ。あの人を信じて――」
既に森の中は夕闇に満ち、窓の外は薄暗くなってきている。真っ赤な日輪が、山裾
にかくれ、初夏の長かった陽も、ついに沈もうとしている。しかし、最後の詰碁がどうし
ても解けない。
翔太は時計を見た。日没の七時十六分まで、三分を切った。森の祠では、もう陽は
入らず盤上も見えなくなっている。
持参した懐中電灯で盤面を照らして、懸命に考えるが、どうしても活き筋が見えな
い。
――解けない。広過ぎる。手がヨメない――
あと120秒。 焦りが先立ち、冷静にヨミを入れることが出来ない。
心臓の鼓動ばかりが、激しくなっていく。汗が盤上にしたたり落ちる。
――だめだ、間に合わない――
あと60秒。 翔太は焦った。
第 1 1 章
午後七時十六分、日の入り。 翔太の腕時計が、運命の時刻を指した。翔太の手は
止まったままだった。どこでも良いから石を置こうともしたが、それすら出来なかった。
もう、辺りは暗く、祠は静まり返っている。
「ああっ」 わけもなく声が出た。
――ダメだった。ついに、恵美を救えなかった――
翔太は脱力感に襲われ、盤側にへたり込んだ。
そのときだった。翔太ののどに、見えない何物かが飛びかかったかと思うと、ぐいと
首を締め上げ始めた。
「くっ、苦しい」 翔太は思わず立ち上がり、首を締め上げる「見えざる手」を両手でふり
ほどこうとしたが、鉄の輪が締まるようにその手は翔太の首を絞めていく。
「ぐっ、うっ・・・・・・」
翔太の意識が遠のいた。
大阪市にある製鉄工場別館。この建物は、回収した鉄材を高熱で即座に溶解、リサ
イクルして新たな鉄の原料を供給する最新鋭装置を誇っていた。
「高熱溶解処理中・危険」のランプが点っている。
その横で、溶解炉管理係長はいくぶん疲労を感じていた。
――ああ、疲れた。このところ残業が多いな――
時計を見ると、もう7時15分を指している。
――そろそろ、今日の操業も、やめるか――
そう思って、監視席の椅子から立ち上がったときだった。
「ああ、君、ここに入っちゃいかん!」
職員の制止を振り切って溶解炉に向かってくる男がいる。小脇になにやら抱えてい
る。
あっというまもなく、男は、溶解炉の投入口のノブを開けると、高熱で煮えたぎる炉の
中へ、脇に持っていたものを投げ込んだ。
まっさかさまに落ちていく。蓋がはずれ、中からバラバラと無数の白い石が飛び散っ
ていくのが、監視席の窓から見えた。
――あれは、碁笥と碁石だ――
係長はその若い男をみた。その一瞬。男はのどを押さえて苦しみだした。のどをかき
むしるように、悲鳴と共に倒れた。
「おい! 誰か!」 係長は叫んだ。
栄造は時計を見た。もう、日は沈み、七時半を回った。「もし、七時半になっても、橋
に戻ってこなかったら」の約束の時間だ。翔太は戻ってこない。
「おい、行くぞ!」 栄造の言葉にしたがって、民江も暗がりの中、栄造と共に橋を渡
っていった。二人は祠を目指して急いだ。
第 1 2 章
――夢をみているのか――
翔太は宙をさまよっていた。両親の顔が見える。恵美の顔、堤の顔――大きな碁盤
があった。誰かが碁を打とうと言っている。
自分は死んだのか。一体、どうなったのだろう――
気がつくと、翔太はベッドに寝かされていた。
「おお。気がついたか、もう大丈夫だ」
父の昌晴と、母の妙子が安堵の表情でベッドの直ぐ横に立っている。
「ここは?僕は――」
「大変だったな。お前は祠の中で倒れていたんだ。木田夫妻が救急車を呼んで、この
病院まで運ばれてきたんだ。ここは菊池市の病院だ。今日でもう三日目だ。なかなか
目を覚まさないので心配したが」 父・昌晴が笑みをもらした。
「木田さんがね、林田先生を通じて、家に連絡をくださったの。昨日の晩、熊本に着い
たのよ。」 母の妙子が涙ぐんでいる。
――そうだ、あの時自分は、最後の問題がどうしても解けずに日没を迎えて、首を見
えない力で締め上げられ――
そのまま気を失ったのだ。でも、どうして助かったのだろう。翔太は不思議に思った。
あのまますさまじい力で、首を絞められ続けていたら、助からなかったはずだ。
「え、恵美は・・・・小林さんは・・・・・」
「小林恵美さんのことなら、もう心配いらない。おとついの夜、目を覚ましたそうだ。元
気らしい」 昌晴がうなずきながら答える。
「恵美が助かった?・・・・・・目を覚ましたって・・・・・」
――よかった―― 翔太は安堵したが、
――自分ばかりでなく、恵美も助かった。どうして、一体、何が―― 疑問を払拭(ふ
っしょく)出来ない。
「そう、小林さんも、もう心配はいらない。体が少し衰弱しているので、あとまだ二,三
日の入院は必要らしいが・・・・・・ただ・・・・」 昌晴は、言いよどんだ。
「ただ? ただ・・・・何なの、お父さん?」
「ただ、堤君が・・・・・」
「堤が? 堤がどうかしたの?」
「堤君がおとつい、亡くなった。製鉄工場で急に倒れて、窒息死したらしい。・・・・・実
は、堤君から昨日、家に封書が届いているんだ。翔太、お前宛になっている」
昌晴は、内ポケットから封筒を取り出して翔太に渡した。
思いも掛けない父の言葉に、翔太は絶句した、事態がのみこめないまま、父から受
け取った封筒を開封した。中には便せんで二枚ほどの手紙が入っていた。
翔太は急いで目を通した。
「 北村、君がこれを読んでいる今、僕はもう死んでいるかも知れない。しかし、君にだ
けは、どうしても伝えたくて、今電車の中でこの手紙を書いている。
君には黙っていたが、僕は実は、悪性の骨肉腫におかされ、あちこちに転移して、も
う手が付けられなくなっているんだ。手術すら出来ない状態で、もうあと半年も生きられ
ないそうだ。(最近は、本人に告知をするからね)
ひと月前に告知されたとき、僕はもう目の前が真っ暗になったが、二週間ほどして、
ようやく冷静に自分の宿病と向き合うことが出来た。
――残された命で何をするべきか――
僕はずっと考えあぐねていた。その答えが分からないまま、大学院での生活を続け
ていたんだ。
そして今日、一時間ほど前、君からの手紙を受け取った。北村、いま君の手紙を読
んではっきりと「何をするべきか」その答えがわかった。
僕は、決意した。 今から恵美のマンションに向かい、忌まわしい石を僕の責任で処
分するよ。「それだけはやってはいけない」らしいが、おそらく、僕が死んでも恵美は助
かるに違いない。そして君も。 あの石さえ処分してしまえば、もう悲劇が再び起こるこ
ともない。
学生時代から、僕はずっと恵美が好きだった。でも、生来病弱な僕は、恵美を幸せ
にする自信がなく、この思いをじっと今日まで温めてきたんだ。これは僕に出来る、最
後の勇気だ。
まもなく、電車が駅に到着する。どうやら、日没までには石を処分できそうだ。
僕は囲碁のおかげで、君と恵美に巡り会うことができた。この素晴らしいゲーム・囲
碁を、僕に引き合わせてくれた神に感謝したい。 僕は生まれ変わっても、また囲碁を
続けることにするよ。
さようなら
五月二十六日 記す。 堤 明久
友・北村へ 」
翔太は堤の手紙を読み終えると、そっとベッドの脇に置いた。
「堤君は、あの日、日没の頃に因徹の石を製鉄工場へ持ち込み、碁笥ごと溶解炉へ
投げ込んだらしい。工員の証言では、投げ込んですぐにのどを押さえて苦しみ出し、倒
れたそうだ。工場の人が救急車を呼んだが、救急隊が駆けつけたときには、も
う・・・・・」
父も、そして母も、うつむいて目頭を押さえている。
「つ、堤・・・・・」
翔太の眼から涙が、とめどなく溢れた。
「堤・・・・・・・」
哀しみが翔太の肩をふるわせ、嗚咽(おえつ)が昼下がりの病室に満ちた。
(終わり)
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。ご意見・ご感想をお聞かせいただ
ければ幸いです。次回作にもご期待下さい。 (中河原 潤)
(作者 注) この小説に出てくる古碁の着手・解説及び時代考証については、筑摩書
房刊 「日本囲碁大系 10 丈和 」 (昭和51年刊 藤沢秀行) 「 同左 15 秀策
」 (昭和51年刊 石田芳夫) を参考としました。 また、荊軻の故事については、
旺文社刊 「古典解釈シリーズ 史記 」 (昭和52年刊 新開高明) を、一部引用又
は参考としました。
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