勝負は神々の手に

勝負は神々の手に (学生勝負師の夕暮れ 第2部)  


                    第  一  章


「はい、北村です」
慌てて受話器を取った翔太の耳に、懐かしい声が飛び込んできた。
「北村か?久しぶりだな。俺だ。湊川だ」

 湊川さん!思わず翔太は叫びそうになる。湊川英樹。浪速大囲碁部OB、現在佐 藤忠商事ロサンゼルス支店勤務の24歳。翔太が浪速大に入学したとき、四回生で 大将を務めていた。その年の秋のリーグ戦。学生本因坊、海沢兄と一部リーグ残留 を賭けて演じた死闘は、未だに翔太の記憶に新しい。
 
 あれから二年、その対局の記録採りだった翔太も3回生21歳。いまや棋力五段、 押しも押されもせぬ浪速大の大将である。この間、じっと翔太を内で支えていたの は、湊川の面影である。

「湊川さん、もしかして、この電話、ロサンゼルスから?」

「そうだ。国際電話だよ。こっちは今、朝の七時だ。そっちはもう深夜だろう?」

「ええ、今から寝ようと思っていたところです」

「明日はいよいよ関西リーグのプレーオフだな。どうだ、調子は?」

「まずまずです。ともかく、明日は絶対に勝って、関西代表として全国大会に出場し ます」

「それは素晴らしい。名門浪速大も十年、全国大会に出ていないからな。相手は確 か立正社大だったな」

「そうです。海沢さんの弟、海沢和彦と大将戦であたります」

「なに、海沢弟?それは凄い。北村と海沢弟の大将戦か。すさまじい凄い碁になりそ うだな。ああ、応援に飛んでいきたい気分だ」

「海の向こうでの応援、頼みますよ」

「そうだな。おっと、そろそろ出社時間だ。ぼちぼち行かねばならん。がんばれよ、北 村。 TAKE DO YOUR BEST!浪速大の優勝を楽しみにしている」

「はい、力の限りがんばります」

 電話が切れた。明日は決戦。湊川の激励は翔太をなによりも勇気づけた。
――湊川さんの恩に報いるためにも、絶対に勝ってみせる――
 翔太の胸に、この二年間の日々がよみがえってきた。



                     第  二  章



 二年前、湊川と海沢の死闘を目の当たりにしたその日から、翔太の囲碁に対する 情熱が劇的に変わった。あの一局に大きな感銘を受けた翔太は、以来、囲碁に夢 中になって打ち込んだ。

 四回生だった湊川は、懸命に翔太をはじめ、囲碁部のメンバーを鍛えた。が、翔 太らの棋力はなかなか伸びない。しかし、湊川はあきらめない。内定していた大手 総合商社の就職先もフイにしてわざと留年、再び一年間、翔太たちを鍛えた。そして 翔太はようやく大器の片鱗を見せ始め、ついには湊川に互先で打てるまでに成長し た。

「もう大丈夫」
 
 翔太の成長を見届けた湊川は卒業、総合商社に就職した。
そして、その翔太に引っ張られる形で、浪速大囲碁部のメンバーも着実に力をつ け、ついに今季、秋季リーグで優勝、春季リーグ優勝校の立正社大と、関西代表の 座を賭け、プレーオフで対決することになったのである。

 立正社大では、あの海沢鳴彦の弟、海沢和彦が、一回生の新人ながら大将を務 めていた。高校選手権府代表の実績をひっさげた和彦は、春のリーグ戦こそ三将に 甘んじていたが、兄に鍛えられ、めきめき頭角を現した。秋のリーグ戦ではいきなり 大将に抜擢され、全勝、最終の浪速大戦だけが、直前に盲腸炎に襲われ入院、欠 場となった。すさまじい力戦の雄で、「学生丈和」として恐れられる。その強さは、もう 2,3年であの海沢兄を上回るのではないかとさえ言われている。

 その和彦は決戦を明日に控え、「二年前のあの日」を思い出していた。
 あの日、リーグ戦から帰ってきた兄の落胆を和彦は忘れることが出来ない。兄の 実力を誰よりも知る和彦にとって、
「負けた。2部に陥落した」の一言は、信じられなかった。何故負けたのか、いくら訊 いても答えず、ただ、「負けた、陥落した」を繰り返すばかりだった。相手の湊川が大 一番に強い勝負師であることは知っていたが、無敵の兄が敗れたことはなお信じら れなかった。後日、その対局の詳細を人づてに聞き、和彦は憤りに震えた。

――汚い、なんと汚い連中か。兄の無念は、いつか、この俺が――

 そして、その機会は意外に早く訪れた。明日のプレーオフ、浪速大の大将は北 村。きけば、あの湊川の愛弟子だという。秋のリーグ戦では浪速大戦に病気欠場し て優勝をさらわれてしまった。今回は木っ端微塵に粉砕してくれる。北村を、浪速大 を破って立正社大を全国大会に連れて行くのだ――和彦は闘志をみなぎらせてい た。


第   三   章


 翔太は深呼吸すると、ゆっくり第一着を打ち下ろした。黒1、星。やや間をおいて、 和彦は白2小目。代表決定戦の大将戦、ピンとした緊張感が漂う。ここに、関西学 生囲碁選手権団体戦のプレーオフの幕が切って落とされた。
 
 思案にふけりながら、翔太は背後の恵美の視線を強く感じていた。小林恵美、21 歳。浪速大文学部三回生、囲碁部ではマドンナ的な存在である。特別美人というわ けでもないが、なだらかな肩、ぱっちりとした瞳。その恵美が自分の後ろで記録を採 ってくれている。心ひそかに恵美に思いを寄せる翔太にとっては、湊川の激励と並 んで、最大の応援といってよかった。

 翔太のそんな思いとは裏腹に、盤上は序盤からすさまじい闘いになっていた。小 目に黒二間高ガカリ、白の手抜きに内ヅケ、ハネ出し、キリ、サガリ・・・・・一つ間違 えばすぐにツブレとなる。大事な対局であるのに、互いに無難なワカレを選ばない、 相手の意中の逆をいこうとする。どちらも、自分のヨミの力が相手を上回っていると 信じている。その自信がなければ、とても打ち切れないぎりぎりの手を両者は選ぶ。

 力と力が激突し盤面で石がきしむ。一つ間違えば奈落の底――翔太も和彦も、一 心不乱に手をヨンでいる。立正社大や浪速大の観戦者は、どちらかがツブレてたち まち終局となるのではと冷や汗をかきながら盤上を見つめていた。

 和彦はシチョウ有利をたくみに利用し、黒のツケにワリツイでからキリを打った。翔 太も懸命に二段にハネたが、和彦は冷静にキリからアジ良くポンヌキ、隅は黒地と なったものの、白が手厚い外勢を得る振り替わりとなった。
 ほっとした空気が観戦者からもれた。双方ともツブレなかったことに安堵する一 方、両者のヨミの正確さに感心したのである。

 しかし、翔太の表情は冴えない。派手な振り替わりを演じたものの、白が手厚いワ カレであり、既に白の面白い碁になっている。さすがは「学生丈和」――だが、負け るわけにはいかない。白に傾いた勝負の流れを何としてでも断ち切らねばならな い。和彦が「学生丈和」なら、俺は「学生幻庵因碩」になるまでだ。翔太は腕組みをし たまま、長考に入った。

 和彦は自信を深めていた。――なるほど、北村は確かに相当な打ち手だ。今まで の誰よりも骨がある。しかし、まだ自分とは距離がある。勝てる。勝って、兄の無念 を今こそ晴らすのだ―― 

 恵美は翔太の後ろで記録を採っていた。既に白の面白い形勢になっているのが、 自分の棋力でもわかる。翔太の長考がその証拠である。秋季リーグのあと、翔太 は、「自分の勝敗がそのまま、プレーオフの勝敗になるだろう」と言っていた。「海沢 弟に勝つにはヨミだ。ヨミの力を鍛えるしかない。それには詰碁だ」ともいい、「玄々 碁経」や「官子譜」、「碁経衆妙」、「囲碁発陽論」に寸時を惜しんで取り組んでいた。
  部室へ行ったときはいつも、「ああ、恵美ちゃん、いいところに来た」と、詰碁の出 題係をやらされた。いったい何題、本を片手に詰碁を並べたことだろう。翔太はこん なにまで努力してきたのだ。なんとしてでも勝って。恵美は祈った。
 

                   第   四   章


 浪速大囲碁部OBの山内幸雄は、駅へと急いでいた。昨日は土曜日ながら取引先 からのクレーム処理に急きょ呼び出され、家に帰ったのは深夜の一時を廻ってい た。おかげで、今朝はすっかり寝過ごしてしまった。今日は浪速大と立正社大のプレ ーオフの日だというのに・・・・・
 今からでは、会場に着く頃にはもう、終盤戦に入っている頃になるな。山内は舌打 ちしながら、駅に急ぎ足で向かった。
 山内は翔太の三年上で、湊川と同級になる。共にリーグ戦を戦った仲だ。特に後 輩の翔太には、ある理由からとりわけ親近感を持っていた。今日は北村が海沢弟と の決戦、是非とも応援に行ってやらないと・・・・・・時計を気にしながら、山内はホー ムに入ってきた電車に乗り込んだ。

 翔太は苦悩に沈んでいた。局面が進むにつれてますます形勢は傾き、黒の苦戦 はいよいよ疑いがなかった。勝負、勝負と強手を繰り出しても、和彦には全く通用し なかった。冷静に、最強手で返され、差が広がるばかりである。もう中盤も後半、勝 負所も幾ばくも残っていない。こんな、こんなはずでは・・・・・
 苦悩に沈むうち、翔太は右下隅の白のアジ悪に気がついた。この部分だけが、ま だはっきりとは活きていなかった。フトコロが広く、到底死ぬ石ではない。しかし、局 面が進むに連れてダメがつまり、極端にアジが悪くなってきている。逆転するには、 勝負するには、この隅の白石を殺すしかない。翔太は祈る気持ちで、急所のカドに オキを打った。


 和彦は、内心得意満面であった。ここまでくれば鍋に入ったも同然、俺の勝ちは決 まったようなもの。時間もたっぷり残してある。時間切れのような卑怯な手には掛か らない。他の選手も好調だし、最低二人は勝ってくれるだろう。北村を破り、立正社 大を全国大会に連れて行くのだ。

 そう考えていた矢先、翔太の勝負手が打たれた。白石の眼を取りにこられて、和 彦はぎょっとした。まさか、この石が狙われるとは、思いもしなかった。一目、活きて いると判断して、ここまで手を入れていなかったのだ。 ところが、打たれてみると、な かなか活き筋が見えてこない。ダメがつまるとは、恐ろしい。まさに「丈和も恐れるダ メヅマリ」だ。「俺としたことが、不覚」・・・・・
 和彦は長考に沈んだ。


 翔太の後ろで立ったまま記録を採りながら、恵美は幾分疲労を感じ始めていた。 形勢は一向に好転しない。むしろ差が広がっている。苦戦は翔太ばかりではない。 副将の小島さん、四将の田代君も旗色が悪い。三将の堤君と五将の神原君は何と か勝てそう・・・・・・やはり勝負のカギはこの大将戦に・・・・・
 そんな中、翔太の勝負手が打たれた。和彦が長考に沈んだのを見て、恵美にほ のかな希望が湧いた。ここに来て長考するということは意表をつかれた証拠であり、 隅が手になれば、一気に形勢は逆転する。
――それにしても、この隅の死活は複雑怪奇だわ。石の形は単純なのに・・・・。ちょ っと考えただけでも、白の応手に数種類あり、それに対する黒の応手は何十種類も ありそう。ああ、この隅の変化は無限、私の棋力を遙かに超える。だけど・・・・この 隅の形は、どこかで見たような気が・・・・・気のせいかしら――
 恵美は右下隅をじっと見つめた。



                 第   五   章



 翔太はじっと右下隅を睨んでいた。もう、勝負の行方はこの隅ひとつにかかってい る。活きられれば負け、殺せば勝ちだ。和彦が長考に入って既に20分。一向に石 を下ろす気配がない。確かに難解だ。正直いって、俺の棋力をもってしても、ヨミ切 れない。まさに、実戦詰碁だな・・・・・・まてよ、この形、どこかで見た記憶が・・・・・そ れもつい最近にだ。不要な石を取り除くと・・・・・・だめだ、思い出せない・・・・・・


 和彦は懸命に活き筋を探していた。活きさえすれば、活きさえすれば勝利が!し かし、この隅一つの狭い所に、小宇宙の如く無限の変化がきらめいて、とてもヨミ切 れるものではなかった。おまけに、あれほど残っていた持ち時間もなくなってきてい る。
――サガリ、オサエは簡単に死だ。オキにトビツケるか、コスンでフトコロを広げるか どちらかなんだが・・・・ヨメない。変化が多すぎる。もう、考慮する時間がない――
  トビツケか、コスミか、もう指運に賭けるしかない。コスミはどうも眼あり眼なしにな りそうな気がする・・・・・自分のカンを信じよう。
 和彦は、心中とは裏腹に、自信満々の手つきで、トビツケを打った。


 和彦に自信に満ちた手つきでトビツケを打たれ、「さては活きをヨミ切られたのか」 と翔太は動揺した。実際、トビツケを打たれてみると、次の黒の手が存外、難しいの である。
 この石さえ殺せば、この石さえ殺せば・・・・・懸命にヨムが、無条件で葬る筋が見え てこない。持ち時間も、刻一刻と少なくなっていく。焦りばかりが先立ち、翔太は断崖 に追いつめられていった。


 恵美は棋譜を採る手が震えるのが自分でわかった。思い出した、思い出したわ! この右下隅の形、「黒先白死」の詰碁。そう、たしか、二週間ぐらい前に部室で翔太 に出した問題と同じ。「発陽論」だったかしら・・・・・その時翔太は解けなかった。回答 を示したとき、「へぇ!なんて妙手だ!」と、えらく感心していたような記憶が・・・翔 太、思い出して。これはあの時の問題よ。思い出せば翔太は勝てる。思い出して、 思い出すのよ・・・・・・・恵美は思わず、その白いたおやかな手を、そっと翔太の肩に 置いた。


 山内は改札口を出ると、プレーオフ戦会場へと急いだ。この大きな国道を渡ると、 会場は直ぐそこだ。歩行者用青信号が点滅している。「早く渡らなければ」 山内は 駆け出す。信号が赤に変わる。まだ半分しか渡っていない。そのとき、ズボンのポケ ットから、携帯電話が落ちた。カラリンと道路にころがる。
「いけない」
 行き過ぎてから、あわててバックした瞬間だった。急いで交差点を右折しようとした 大型トラックが、山内の後戻りに意表をつかれた。けたたましいタイヤの悲鳴ととも に、急ブレーキが踏まれたが、間に合わなかった。 
 「ドン!」  鈍い音とともに、山内は跳ねとばされた。


            第   六   章


 翔太の胸は高鳴った。思い出した!これは、「発陽論」だ!
 さっき、恵美の温かな手が肩に置かれた瞬間、恵美との詰碁特訓の場面が鮮や かによみがえった。不要な石を取り除けば、二週間前に部室で恵美に出題された詰 碁と、全く同じ形ではないか。
 たしか、「囲碁発陽論」の「勝図の部」の最後の方の詰碁だ。黒1カドにオキ。白2ト ビツケ。まさに解答の手順どおりここまで進んでいる。黒3がオキの連続技。白がさ えぎったとき、二の二にハイ込み・・・・・・白10のとき黒11に黙ってツグのが妙手。 この手に感心したような記憶が・・・・・・以下黒15まで、発陽論の解答手順が、鮮や かに翔太の眼前に浮かんだ。勝てる。これで俺は海沢弟に勝てる。
 翔太は一躍、二度目のオキを打った。
 

 和彦は、翔太の連続オキの手順に目を見張った。鋭い、何と鋭いヨミ。依然として 活き筋が見えて来ない。しかし、ひとまずここはサエギる一手。
 和彦はサエギリを打った。翔太はノータイムでハイコミ。和彦のツグを待って翔太 は、ナラビの好手をまたもノータイムで返す。和彦が、この一手とばかり、出からホ ウリコミを放った。これで右のオイオトシと左の活きが見合い――と思われた瞬間だ った。翔太は、満を持して黙ってツグとどめの妙手を放つ。息をつかせぬ妙手の連 続、まさに三世井上因碩の名品、「不断桜」、発陽論――


 その瞬間、和彦は愕然とした。翔太に妙手をノータイムで続けられ、詰碁のような 鮮やかな手順で白石が仕留められた。
――死んだ。それも、こんな鮮やかな手筋で――
 和彦は信じられない思いで右下隅を見つめた。この難しい手順を、それもノータイ ムで・・・・・・北村にこんなヨミの力があったとは・・・・・無念、無念だ・・・・が、しか し・・・・・・

 和彦は冷静になって、形勢判断をした。すると、隅が死んだにもかかわらず、盤面 で15目少しほど負けているだけだった。コミをいれれば10目ほどの差だ。それまで いかに白が勝っていたかが知れた。もっとも、もうアジの良いヨセしか残っておらず、 両対局者の棋力を考えれば10目の差は大きく、逆転の余地はない、といってよか った。持ち時間も、双方とも終局まで打てる時間を残していた。
――負けた。もう勝てない。しかし―― 和彦は思った。
「勝負はゲタをはくまでわからない」
 最後まで打とう。最善を尽くそう。和彦は決心した。


翔太が次々と鮮やかな妙手順をノータイムで放つのを見て、恵美は感動に震えてい た。ああ、ついに思い出してくれたんだわ。二人で詰碁を並べたあの特訓の日々が 思い出された。
――翔太の努力が報われた。ああ、神様は翔太を見捨てなかった。 この隅を殺せ ば、逆転も逆転、大逆転だわ――

 その時、恵美のポケットがブルブルと震えた。マナーモードにしてある携帯電話が バイブで震えている。
「岡田君、ちょっと棋譜の続きをとって」
 恵美は後輩の岡田に、採譜を代わって貰うと、すばやく廊下に出て、折畳の携帯 を開いた。発信者名が「河口 浩」と表示されている。

 河口 浩――浪速大囲碁部OB、翔太や恵美より4年上。恵美が入学したとき、医 学部の5回生で囲碁部の部長を務めていた。今は国家試験に合格し、研修医とし て、たしかこの近くの大学付属病院に勤めているはずだ。プレーオフの応援に来た がっていたが、「その日はあいにく当直で来れない」と言っていた。

――結果の問い合わせかしら――
「はい、小林です」
 電話に出た恵美に、懐かしい声が飛び込んできた。
「恵美ちゃんか?浪速大付属病院第一外科の河口です」 しかし、その声は異常に 焦っていた。

「北村君はそばにいる?もう対局は終わったかな?」

「北村君は今まだ大将で打っています。あと15分ぐらいで終わると思います。いま2 勝2敗で、北村君が勝てば、関西代表として全国大会へ行けます」

 元浪速大囲碁部のレギュラーだけあって、恵美の言葉で、翔太の今の立場を河口 は瞬時に理解したようだった。少しためらいの後、河口は言った。

「恵美ちゃん、いいかい。これから僕が言うことを落ち着いてよく聞いて欲しい」

 河口の冷静な声が続く。聞いている恵美の表情がみるみるうちに蒼白になった。

「そんな・・・・・・」

 絶句する恵美に構わず、河口は話を続けていく。

    

第   七   章



 恵美は廊下で呆然と立っていた。
――こんな、こんなことが――
 河口からの電話は悪魔の声のように恵美には思えた。


「恵美ちゃん、いいかい。これから僕が言うことを落ち着いてよく聞いて欲しい」

「はい」   緊張する恵美に河口の言葉が続く。

「さっき、山内君が――恵美ちゃんの3年上の山内君だ。覚えているね?――トラッ クに跳ねられて、大学付属病院まで運ばれてきた。出血多量の重体だ。今すぐ輸血 をして手術をしなくてはいけない。しかし、山内君の血液型が特殊で、病院には在庫 がない。赤十字病院にはあるんだが、取りに行く時間がない。君も知っていると思う が、北村君がちょうど山内君と同じ血液型だ」

そういえば、翔太から聞いたことがある。山内さんと翔太は偶然、10万人に一人の 特殊な血液型だって。
河口は続ける。

「今すぐ輸血が必要だ。すぐに北村君に来て欲しい。大事な対局中だってことは判っ ている。しかし、これには人ひとりの命がかかっている。いますぐ対局を放棄して病 院に駆けつけるか、対局を終えてから病院へ来るかの判断は、北村君に任せる。い いかい、恵美ちゃん、今ぼくが言ったことを、すぐに北村君に、正確に伝えて欲しい。 病院の場所は、知っているね?そこからは5分の距離だ・・・・・・・・」
 電話が切れた。

――こんな、こんなつらいことを翔太に伝えるなんて――

 あんなにも努力して、こんなにも苦労して、今やっと翔太は勝利をつかみかけてい るのだ。あともう10分ちょっとで対局は終わる。いっそ、対局が終わってから翔太に 伝えようか・・・・・恵美は迷った。しかし、そんな考えはすぐに、「人ひとりの命がかか っている」に打ち消された。そう、人の命がかかっている・・・・・全ては翔太が決める こと。私の役目は、河口さんの言葉を、今すぐ翔太に正確に伝えることだけ・・・・・。
 ためらいが許されるような状況ではなかった。恵美は決断した。すばやく対局場に 戻ると、意を決して恵美は翔太に近付いた。


――勝った。ついに海沢弟に勝った。俺がこのまま勝てば3勝2敗で浪速大は勝て る。ああ、やっと湊川さんに恩返しが出来る――
 翔太は、改めて盤面を見渡し、黒に9目は残ることを何度も確認した。

 その時、手洗に行ったとばかり思っていた恵美が戻ってきた。なにやら様子がお かしい。顔が青ざめ、思い詰めた表情をしている。何があったのか。翔太はいぶか った。


 恵美は意を決した。河口さんの言葉を、そのまま翔太に伝えよう。耳打ちするか、 若しくは翔太を廊下に呼び出して伝えたかったが、状況が状況だけに、それは出来 ない。対局についての助言と誤解されかねない。周囲の人には聞かれたくなかった が、やむを得なかった。恵美は翔太の横に来ると、周囲にも聞こえる声で、河口の 言葉をそのまま翔太に繰り返した。

 恵美が翔太に河口の言葉を伝え終わったとき、会場がざわめいた。和彦は、その 刹那、険しい表情を見せた。

 言われた一瞬、翔太は混乱したが、すぐに事態を理解した。あと長くとも10分で対 局は終わること。しかし、一方で、山内さんが今すぐ輸血を必要としていること。そし て輸血に必要な血液を提供出来るのは翔太ひとりであること
 あとは決断するだけだった。「あと10分足らずで対局は終わる。終わってから駆け つけても」も頭に浮かんだが、「人ひとりの命がかかっている」の言葉と、眼に浮かん だ山内の顔が翔太を迷いから吹っ切れさせた。

「みんな!すまない!」 翔太は、一言叫ぶと対局場を飛び出して行った。

「翔太!私も行くわ!」 恵美はあとを追った。

あとに和彦が残された。和彦は、死闘が繰り広げられた盤上と、たった今まで翔太 が座っていた大将席を、険しい表情のまま、じっと見つめていた。


 
                     第  八  章


 浪速大医学部附属病院三階。手術室隣の処置室のベッドに、翔太は横たわって いた。何しろ800CCも輸血したのだ。しばらく横になってないと起きられそうもなか った。横のチェアーでは恵美が不安げに座っている。
 手術が開始されてから、まもなく一時間になろうとしている。山内さんの容態は、依 然として分からない。

――山内さんは助かるのか――

 翔太は、山内の人の好い笑顔を思い出していた。プレーオフの前の山内さんの言 葉。
「プレーオフは必ず応援に行くぞ。浪速大をお前の力で全国大会へ連れて行ってく れ」
「海沢弟は力戦の雄だからな。あいつに勝つには、詰碁を勉強して、ヨミの力を鍛え なければだめだ」
「一手一手を丁寧に打つことだ。海沢弟がいくら強いといっても、必ず勝機はある」
 その1つ1つが翔太に勇気をくれた。その山内さんが今、生死の境をさまよってい る・・・・・・助かって欲しい、翔太は祈った。

 そのとき、扉が開いた。翔太と恵美が思わず顔をあげると、河口が立っていた。白 衣のあちこちが血痕に汚れて、手術の激しさを物語っていた。河口はそばまで来る と、翔太と恵美に大きくうなずいた。

「手術は成功した。山内君は助かったよ。まだ注意は必要だが・・・・・・あと10分、輸 血が遅れていたら、危ないところだった。北村、よく来てくれた」
「ああ、どうぞ入って下さい」

河口が振り返って言った。

「山内君のご両親だ」

 河口に促されて、中年の夫婦が入ってきた。二人は翔太のそばまで来ると、

「あなたは幸雄の命の恩人です。何とお礼を言って良いか・・・・・ありがとうございま す」

 たどたどしく言うと、何回も深くおじぎをして、かわるがわる、横たわったままの翔太 の手を何度も握りしめた。



                   第  九  章


 河口と山内の両親が出ていくと、部屋には翔太と恵美の二人が残された。山内さ んが助かった。翔太も恵美も、それだけで満足したつもりだったが、時間が経つにつ れ、もう一つの容赦ない現実が重く心にのしかかってくる。

――あそこまで勝利を手中にしながら――
 悔しくて、翔太は泣きたい気分だった。それは恵美も同じだった。試合のことは口 には出さなかったが、翔太がかわいそうで、自分一人だったらその場で泣き伏した かもしれなかった。恵美は辛うじて涙をこらえていた。

「いこうか」 翔太が恵美に言った。
「大丈夫? 歩ける?」
「ああ、大丈夫だ」
 翔太はベッドからゆっくりと起きあがった。靴を履こうとしたとき、翔太は立ちくらみ がしてよろめいた。恵美があわてて翔太を支えた。
 
 エレベーターで一階のロビーまで下りると、浪速大囲碁部のメンバーが翔太たちを 待っていた。山内さんの容態を心配して皆、不安げな表情をしている。

「山内さんは助かったよ。まだ注意が必要らしいけど」

翔太の声に、どっと安堵の溜息ががメンバーからもれた。

「だけど、試合では・・・・みんな、すまない」

翔太の言葉に、同級の堤が苦笑した。

「何を言っている、北村。浪速大が関西代表だ。全国大会でも大将でがんばってもら わないとな」

「えっ」

きょとんとする翔太に堤が続ける。

「あれからすぐ、海沢君が投了したんだよ。『どうしても9目半足りない』て言ってね。 3勝2敗で浪速大の勝利だ」

 翔太と恵美は顔を見合わせた。

「翔太・・・・・・」

 感極まった恵美の頬にスッと一筋、涙がこぼれ落ちた。こらえようとしたが、一度 頬を伝うと、涙があふれ、もう止まらなかった。
 翔太は、そんな恵美をこの上なくいとおしく思った。
 周囲の目を気にしながらも、翔太は、やさしく、恵美の肩をそっと抱き寄せた。

                                   (終わり)






 最後まで読んでいただき、ありがとうございました。次回作にご期待下さい。
 ご意見・ご感想をお聞かせ下されば幸いです。(結末のネタバレを掲示板にカキコ ミするのはご遠慮下さい)
                                 (中河原 潤)

 


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