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いのちの棋譜
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第 一 章
大阪市南部のJR阪和線「浪速大学前」のホームに、湊川英樹は六年ぶりに降り
立った。その瞬間、英樹は懐かしさに包まれた。それもそのはず、英樹は学生時代
の五年間、この駅から通学していたのである。卒業してから六年がたったが、浪速
大学前駅は少しも変わっていなかった。そのせいか、自分が学生時代に戻ったよう
な錯覚を英樹は覚えた。
改札口を出て、大学に向かう道は両側に学生目当ての喫茶店・雀荘・飲食店等が
並んでいる。いわゆる学生街である。どの店も、英樹にとっては懐かしい思い出の
場所だ。記憶のない店もちらほら見かける。この不況で閉店した店のあとに新しく入
ったのだろう。 英樹は、そんな学生街のなじみの店、喫茶「アーベーツェー」の扉を
押した。
「ヒデちゃん、ヒデちゃんか? いやあ、久しぶりだな」
マスターが懐かしい声で迎えてくれた。幾分、白髪が増えたようにも見えたが、相
変わらず元気そうである。
「ロサンゼルスから帰ってきたのかい。向こうは楽しかったかい?」
「いいえ、仕事が忙しくて、大変です。日本には仕事で帰ってきただけなんです。一
週間でまた戻らないといけないいんですよ」
「そうかい。それはせわしないな」
英樹は店内を見渡した。六年間の間に、店は大きく様変わりしていた。眼をひいた
のは、奥に並んでいるパソコンである。
「マスター、あれは」
「ああ、あれは去年から置いてるんだ。インターネットができるパソコンだ。時代の流
れには逆らえないからね。うちも『ネットカフェ』の仲間入りさ。でも、思ったより効果
はなくてね。ご覧のとおりさ」
確かに客はまばらだった。その少ない客の中で、一番奥のパソコンに座って熱心
にネット碁を打っている、白髪の老人がいた。その老人の横顔をみて、英樹はどこ
か引っかかりを感じた。碁は終盤を迎えていた。終局すると、老人はがっくりとうなだ
れた。
「違う。鳴彦じゃない。ああ・・・・今日もだめだったか・・・・・・」
ひとり、うめくように声を絞り出すと、よろよろとした足取りで、勘定をすませ、元気
なく扉を押して、帰っていった。
「いまの方は?」
英樹はマスターにきくと、思いがけない答えが返ってきた。
「ほら、ヒデちゃんが囲碁部で活躍していたとき、海沢鳴彦(なるひこ)ていうやたら
強い学生が平安大にいただろう。あの鳴彦君の親父さん、海沢光雄さんだ。この近
所に住んでいるんだ。」
マスター自身、大の囲碁好きだけあって、詳しい。
海沢鳴彦――英樹にとっては忘れようのない名前である。
――そうか、あの人が海沢兄弟のお父さんか。どこかでみかけた顔だと思ったが―
―
海沢兄弟は、かって学生囲碁界にその名を轟かしていた。兄・鳴彦とのリーグ残
留を賭けての決戦、弟・和彦と後輩・北村との全国大会出場を賭けての死闘が、英
樹の記憶によみがえった。そして、その父・海沢光雄もたしか府内屈指の強豪で、
何回か府代表としてアマ棋戦に出場していたはずだ。
「鳴彦君の事件、知らないのかい? そう・・・・いやぁ、実はね、ヒデちゃんがアメリカ
に行っている間に大きな事件があってね。ああ、ホットでよかったかい?」
マスターは英樹に語り始めた。
第 二 章
「あれは、二年ぐらい前のことだったかな」
マスターがコーヒーを淹れ始める。
「鳴彦君がヨーロッパに囲碁の親善対局旅行に行ってね。3日目、アムステルダム
で突然、行方不明になったんだ。ツアーの一行からちょっと離れて土産店に入って
から、行方が判らなくなった。大騒ぎになって、現地の警察が懸命に捜したんだが、
結局見つからなかった。手掛かりらしい手掛かりもなくてね。噂では、某社会主義国
家が拉致したのではないかという話もあったが・・・・・
鳴彦君には知ってるとおり、お父さんと弟がいてね。母親はもう10年ぐらい前に他
界したんだ・・・・・」
マスターがコーヒーカップを英樹の前に置いた。
「あの親父さんは、必死で鳴彦君を捜したんだよ、勤めていた会社も辞めてね。弟
の和彦くんも一緒になってオランダで何日も滞在して行方を捜していたんだけど、や
っぱり見つからなかった。そのまま、もうかれこれ二年かな・・・・・
心当たりは全部当たったんだけど、結局手掛かりもなくて、一時は諦めたみたいだ
ったんだが・・・・・・ああ、さめないうちに飲んでよ」
英樹はコーヒーをすすった。
「ある日、ネット碁の普及をみて『これだ』て言ってね。『囲碁にあれほどの情熱があ
った鳴彦が、簡単に碁を捨てるはずがない。生きていれば、きっとどこかで碁を続け
ているに違いない。ネットで碁を打っている可能性は大いにある。鳴彦はきっとどこ
かで生きている。記憶喪失でも何でも、きっと生きている。』 以来、うちの店に毎日
来ては、対局相手を探して、対局してるんだよ・・・・・」
「しかしマスター、ネット碁を打つ人は世界に何十万人といますよ。その上、ハンドル
ネームを本名で打つ人はまずいない。仮に、万が一、親父さんが鳴彦君と対局でき
たとしても、それが鳴彦くんだとは、わからないでしょう」
「それも、言ってみたんだがね・・・・・・親父さんはこう言ったんだ。」
『鳴彦の棋力はネットでも8段格以上だ。そんな強い人はそう数は多くない。それ
に、わしは鳴彦に幼稚園のころから、学生時代まで毎日のように碁を教えてきた。
何十年、何千局と打ってきている。鳴彦の碁は知り尽くしている。たとえハンドルネ
ームが別人でも、打ってみれば、鳴彦かどうかは分かる』
「そう言われると、返す言葉もないしね。毎日毎日、雨の日も風の日も、うちに通って
きては、朝から晩までネットで対局していくんだ・・・・・・そして、『鳴彦じゃない、ああ、
今日もダメだったか・・・・・』て肩を落として帰っていくんだ。もう、気の毒でね・・・・・何
とかならないものかな」
マスターは大きな溜息をつき、外を見た。既に薄暗くなった街に、銀杏の葉がはら
はらと舞い降り、秋の深まりを知らせていた。
――あの鳴彦が――
対局中の鳴彦の冷静な表情が、英樹の胸によみがえる。もう行方不明で二年にな
るという。そして、まだ六十前だというのに頭を真っ白にした光雄の、肩を落として帰
っていく哀しい姿が頭に焼き付き、、英樹の心をいっそう締め付けた。
第 三 章
冬の到来とともに、街はクリスマス・ソングにおおわれた。華やいだ街とは異質の
空間で、海沢光雄は今日も「アーベーツェー」でネット碁を打っていた。夜九時の閉
店前、客はもう光雄一人だった。洗いものをしながら、マスターはぼんやりパソコンコ
ーナーを見ていた。
こんな光景がこの一年間、毎日のように繰り返されていた。いったい、いつまでこ
んなことが続くのだろう。鳴彦君が見つかるまで、あるいは――・・・・・・よからぬ想
像に行き当たったのでマスターはそこで考えるのをやめた。
和彦君は東京に本社を置くメーカーに就職したため、仕事が忙しいせいもあって、
帰阪するのは年に2、3回だときいた。となれば、光雄は全くの独り暮らしである。大
阪に身寄りはいないらしかった。この寒い夜に、光雄が灯りのともっていない真っ暗
な家に帰り、失意のままドアの鍵を回す場面を想像するたび、マスターは心が痛ん
だ。何か手伝えることがあればとも思ったが、こればかりはどうにもならなかった。マ
スターに出来ることは、光雄を「超お得意客」として、ネットの利用代金を大幅に割引
した月極にしたことが精一杯のことだった。
閉店時間が近付いた。ネット碁は続いている。たとえ相手が鳴彦でないと分かって
も、いったん対局を始めたら、光雄は常に全力を出して最後まで打ち切っていた。そ
れが目に見えない相手への最低限のマナーだと考えていたからであった。今日も、
光雄は時間いっぱいまでがんばり、最善手をヨンでいた。マスターもよく分かってい
て、閉店時間が来ても黙って洗いものを続けるのが習慣になっていた。
九時。つけっ放していたテレビでMHKのニュースが始まった。メインキャスターが
いつもの落ち着いた口調でトップニュースを流す。
『本日、政府筋が明らかにしたところによりますと、今回、戦後初の大垣首相のK国
訪問にあたり、K国はかねてより日K間で問題となっていた拉致(らち)疑惑につい
て、持っている情報を全面的に提供すると発表しました。これにより、行方不明とな
っている方々の消息が判明する可能性が強くなりました。現在、警察当局により、K
国に拉致された可能性のある方はこの二十年間に十八人にのぼり・・・・・・・』
マスターは、ハッとして顔を上げた。
『拉致されたとみられているのは、次の方々です。・・・・・新潟県○○市の△△□□
さん、福井県○○市の△△□□さん・・・・・・』
対局を終えた光雄が、急いでカウンターに座って、食い入るように画面を見つめて
いる。
『・・・・・大阪府大阪市の海沢鳴彦さん・・・・・・以上、十八名の方です』
「親父さん!」 マスターが叫んだ。
「鳴彦君だ!行方がわかるかもしれないよ・・・・・」
マスターの言葉に、画面を見つめたまま、光雄は大きくうなずいている。
『・・・・・今入った情報によりますと、明日の日K首脳会談の終了後、官房長官が記
者会見し、K国側から提供された情報を発表する予定です。MHKではこの模様を
明日午後六時より総合テレビで中継します・・・・・・』
「明日か・・・・・」 光雄がつぶやいた。
「そうだよ、明日の午後六時だって・・・・・・」
「マスター、悪いけど・・・・明日の記者会見、ここで一緒に見てくれないかな? 和彦
は東京にいて帰って来られないだろうし、どうも一人で観るのが、ちょっと怖いん
だ・・・・・東京まで行くのも・・・・・俺はテレビ局や記者に追い駆けられるのが嫌いな
んだ」
「ああいいよ。そうだ、明日は六時から、親父さんの貸し切りにしよう。そうすれば邪
魔も入らないし」
「悪いな・・・・・」
光雄が、少しはにかんで笑った。マスターは光雄の笑顔を二年ぶりに見たような気
がした。明日、光雄が二年間探し続けていた鳴彦君の消息が分かるかも知れない。
――しかし―― マスターは、一方で不安感も払拭(ふっしょく)できない。
――無事だと判明すればいいが、もしかしたら鳴彦君は――
想像がまた悪い方へ行きかけたので、マスターは考えるのをやめた。一方、光雄
は、耐えきれないほどの期待と不安の両方の重荷を背負っているに違いなかった。
第 四 章
その日が来た。マスターは朝から落ち着かなかった。光雄は、記者やテレビ局が
家まで押し掛けて来るのを恐れて、朝からずっと「アーベーツェー」のパソコンコーナ
ーでネット碁をして時間をつぶしていた。
平日のせいもあって客は少なかった。光雄もマスターも、合格発表を待つ受験生
の様な落ち着かない気持ちのまま、その日一日が過ぎていく。
そうこうする間にも日は沈み、夜の帳(とばり)が下りた。
「今日はあいにくこれで閉店なんですよ、すいませんねぇ」
マスターは最後の客が帰るのを待って、表の看板を「本日閉店」に掛け替えた。
「商売の邪魔して悪いな」
「いいよ。もともと客なんてほとんどいないんだから」
午後六時。MHKの特別報道番組が始まり、記者会見場が映しだされた。
「いよいよか・・・・・」 光雄がつぶやく。
光雄とマスターはカウンターに並んで座り、テレビをじっと見つめた。
やがて記者会見場に、官房長官が副長官とともに緊張した面持ちで入ってきた。フ
ラッシュが焚かれる中、ゆっくりと座ると無数のマイクが並ぶ机に向かい、小滝官房
長官は手に持った原稿をめくり、読み上げ始めた。
『発表いたします。本日、日K首脳会談の後、K国側より大垣首相に、拉致疑惑に
関する文書が手渡されました。ただ今よりその内容を読み上げます。
昭和50年より平成13年までに、K国特殊工作員によって拉致された方の数
は・・・・・・』
官房長官の感情のない声が続く。光雄とマスターは息を呑んで会見を見ている。
やがて、拉致被害者の名前が読み上げられ始めた。「○○市にて現在も勤務中」
「××年、死亡」 と消息が発表されるたび、記者席からどよめきや溜息が起こっ
た。鳴彦の名前はなかなか出てこない。どうやら、拉致された順に読み上げられて
いるようだった。
『大阪市の海沢鳴彦さん。平成12年10月、観光旅行中、アムステルダムにて特殊
工作員によって拉致され・・・・・・』 官房長官が読み上げた。光雄は息を呑んだ。
『K国○○市において、囲碁のインストラクターとして勤務。平成13年8月、△△川
の洪水により、□□市にて失踪。以降、今日に至るまで消息不明・・・・・・』
「えっ、そんな・・・・ば、馬鹿な。そんなこと・・・・」
光雄が絶句した。
「親父さん・・・・・」 マスターはかける言葉もない。
「消息がわからないって・・・・・・」 光雄が叫んだ。
「せっかく、せっかくここまで分かったというのに、・・・・どうして・・・・」
「でも、K国に拉致されたことまではわかったんだから・・・・・」
マスターの慰めもむなしく響く。
光雄は天井をにらんだ。眼が遠くを見ている。
「K国か・・・・」
「遠いな」 光雄がつぶやいた。 どうやら、光雄は今度はK国まで鳴彦を探しに行く
ことを考え始めたようだった。
しかし、日本と国交のないK国は地理的には近くても、実際にはどこの国より渡航
が困難な遠い国なのは誰もが知っていた。また一つ、巨大な壁が光雄の前に立ち
ふさがった。
「鳴彦は生きている。生きているんだ。きっと探し出してみせる・・・・」
「親父さん・・・・」
官房長官の記者会見が延々と続いていた。
第 五 章
翌日、光雄は「アーベーツェー」に現れなかった。その翌日も、さらにその翌日もや
はり現れなかった。
――こんなことは、あれ以来初めてだ。何かあったのか――
マスターは心配して、店が終わると光雄のアパートに行ってみた。
すると、鍵がかかっていて、光雄がいる気配がない。近所の人に聞くと、体を悪くし
て、二日ほど前、近くの病院に運ばれたという。
ききつけの病院に見舞いにいくと、光雄は入院していた。
病室に行くと光雄がベッドに寝かされて眠っていた。横で、和彦が付き添っている。
マスターをみると、和彦が立ち上がって頭を下げた。
「父がいつも大変お世話になっているそうで・・・・・・・ご迷惑をおかけしています」
「いえいえ、親父さんには。いつもご贔屓にしてもらっています」
「あの・・・・ちょっとお話したいことが・・・・」
和彦に促されてマスターは病室を出た。
病院のロビーで、マスターは和彦から思いがけない言葉を聞いた。
「実は・・・・・親父はもう、長くないんですよ。昨日の検査で、膵臓ガンだと診断され
て。もう手の施しようがないぐらい悪いらしいんです。やはり、この二年間の無理が
たたったようで・・・・・もう少し早く診て貰えればよかったんですが・・・・・私も気がつき
ませんでした。あともう、もって3,4ヶ月だとか・・・・・本人にはまだ言ってないんで
す。親父はまだ『鳴彦を探しにK国に行く』と息巻いてますしね。とても、本当のことは
言えなくて・・・・・ 」
和彦は、、仕事に戻らないといけないので、週末は帰阪できるが平日は東京にい
るとのことだった。念のため、和彦は携帯の番号をマスターに伝えた。
――こんなことって――
光雄にとっては余りにも厳しい現実に、マスターは言葉を失っていた。
第 六 章
十二月二十四日、クリスマス・イブ。ある人にとっては特別重要な日だが、ある人
にとっては、いつもと変わりない、ただの冬の一日である。喫茶「アーベーツェー」の
マスターは明らかに後者だった。大学も既に冬休みに入っているせいか、イブだとい
うのに店内はガランとしていた。2,3、カップルが入ってきてコーヒーを飲んで帰って
いった。あとは、おそらく「メリー・クリスマス」のメールを送りにきたと思える客が数人
来ただけだった。 夜8時を過ぎると、この二,三日の急激な冷え込みのせいか、ち
らほらと雪が舞い始めた。客足もバッタリと途絶えた。
――うちみたいなムードのない店は、こんな日はダメだな。今日は早く店を閉めると
するかな――
マスターがそう思ったとき、店の扉がゆっくりと開いた。
マスターが扉の方を見やると、そこには海沢光雄が立っていた。寝間着の上にコ
ートを羽織っている。
「親父さん、その格好は・・・・もう体はいいのかい? 入院してたんじゃなかったのか
い・・・・・」
驚くマスターに光雄は言った。
「寝てられやしないよ。こっそり抜け出して来たんだ。鳴彦を探さないとな・・・・・退院
したら、K国へ行けるよう外務省にかけあうつもりだ・・・・」
光雄は奧へとよろよろと歩き、いつもの指定席に座ると、マウスに手をかけた。
「そんなことして、大丈夫かい? 今日は特別寒いよ。見てのとおり、雪まで降ってる
んだ。あまり無理すると・・・・・」
マスターの心配をよそに、もう光雄はネット碁の対局相手を探している。
「・・・・・・・」 あきらめて、マスターは洗いものを始めた。
九時。閉店の時間になった。外は雪が降り続き、街全体にうっすらと雪が積もり始
めた。
――今日ぐらい、残業はしたくないな――
そう思ったマスターが、光雄に声を掛けようとした。
その光雄はモニターをじっと、身動きもせずに食い入るように見つめている。様子
が変だ。
「マ、マスター・・・・・」
光雄の声が震えている。マウスを握る手までが、ガタガタと震えている。
「見つけた、ついに見つけたよ・・・・・・・」
絞り出すような光雄の声に、マスターは思わず駆け寄った。
マスターが画面を見ると、対局相手のハンドルネームは、「N・U」、棋力は5d(8段
格)となっていた。光雄が先番で50手ほど進行している。
「これは鳴彦だ・・・・この強さ、この打ち筋。・・・・」
マスターは、ただ息を呑んでモニタを見つめていた。本当なのか、これは。こんな
奇跡が本当に起きたのか。光雄の思う一念、ついに成し遂げられた聖夜の奇跡を
目の当たりにして、言葉が出なかった。
光雄は、対局相手とチャットをしようとしてマウスから手を放してキーボードに手を
かけた。その時、急に胸を押さえて床にうずくまった。
「親父さん!」
光雄は左胸を押さえたまま、「苦しい・・・・・動悸が止まらない・・・・・」とあえいでい
る。
マスターはためらうことなく、救急車を呼んだ。
光雄が救急車で運び出され、マスターも付き添いで同乗、誰もいない店内でパソコ
ンは対局中のまま、残されていた。
「狭心症を併発しています。癌の進行で体が衰弱しているので、絶対安静が必要で
す」
運び戻された入院先で、医師はそう診断した。
ベッドに寝かされ、点滴を受けている光雄をみながら、マスターは思った。
――この一年、休店日以外は毎日、親父さんはパソコンに向かって朝から晩まで真
剣に碁を打ち続けていた。体が悪くならない方がおかしい。しかも、和彦君が言うに
は、もう治る見込みはないと――
マスターにも鳴彦と同じぐらいの息子がいた。他人事にはとても思えなかった。息
子はもう結婚して独立しているが、もし自分が同じ立場になったとしたら、病身で、果
たしてここまで出来るだろうか。
その晩、マスターは一晩ベッドに付き添った。翌朝、椅子に座ったままウトウトして
いたが、カーテンの影から差し込んだ朝日で目が覚めた。
やがて、光雄がうっすらと眼を開けた。マスターに気がつくと、 「ずっと、わしをみて
いてくれたのか、ありがとう」と言った。
「いいよ。そんなこと。大事なくてよかった」
光雄は天井を見ながら、なにやらしばらく考え込んだあと、言った。
「マスター、ひとつお願いがあるんだが」
「なんだい。何でも言ってくれ」
「わしが倒れたときの、あの時の対局、プリントアウトしてくれないかな。鳴彦との対
局の棋譜だ。持っておきたいんだ」
「ああ、いいよ。お安いご用だ」
第 七 章
光雄の闘病生活が始まった。抗ガン剤の投与や、放射線による治療が主体となっ
たが、もはや完治は望めず、治療は専ら延命が目的とされた。光雄自身も、自分の
病気の事を薄々感づいていた。
しかし、そんな中でも、光雄はマスターから貰った棋譜を始終枕元に置き、「鳴彦
は生きている。病気を治してK国に行くんだ」 と周囲に言って自分をも励ます日々
が続いた。
光雄は主治医が驚くほど病とよく闘った。
時折、「鳴彦を探しに『アーベーツェー』へ行きたい。外出許可を下さい」 と言って
周囲を困らせることも再三だった。
それでも、癌は確実に光雄の心身を容赦なく蝕んでいく。四月に入ると、光雄はも
うベッドから起きられなくなった
4月中旬、満開の桜がゆっくりと散り始めた頃、力尽きた光雄は、和彦に見守られな
がらその生涯を閉じた。五十九歳だった。
第 八 章
第25回世界アマチュア囲碁選手権戦。4月下旬、今年は東京で開催された。世界
各国からアマチュアの強豪が続々と成田空港に降り立った。
中国代表の陳永元はK国代表の李相郭と並んで飛行機のタラップを下りてきた。
陳にとっては2回目の日本である。李はK国代表だが、直接日本へ乗り入れする便
がないため、中国経由で日本入りしたのである。
陳には昨日から心に引っかかっていることがある。李が昨日の対面以来、一言も
口をきかないことだった。当初は無口な人だと思って余り意に介さなかったが、全く
一言も喋らないというのはおかしい。こちらに何か非礼があり、それで気を悪くして
口を利かないのかと勘ぐりたくなるぐらいであった。陳がわざわざ片言のK国語で挨
拶しても、頭を下げるだけで李が一言も喋らないことを、陳はずっと気にかけてい
た。
日本棋院の酒田九段と小竹九段は成田空港のラウンジで、続々と到着する各国
の選手を出迎えていた。中国代表の陳選手とK国代表の李選手がラウンジに下りて
きた。李選手を見た瞬間、酒田九段は「おや?」と思った。その顔をどこかで見た記
憶があった。しかし、手持ちのデータでは、李選手は今回彗星のごとくあらわれ、初
出場でK国の予選で優勝、初来日とのことだった。前に会ったことなど、あろうはず
がない。しかし、確かにどこかで見たことが・・・・・
酒田九段は、記憶の糸を懸命にたぐり寄せた。その時、同行していた週刊「囲碁」
の編集長が声を上げた。
「あ、あの人は・・・・」
第 九 章
光雄が亡くなってから一週間がたった。久しぶりに日本に戻った英樹は「アーベー
ツェー」の扉を押した。光雄のことはマスターから既に電話で聞いていたが、この店
に来ると、光雄がパソコンに向かっていた光景が思い出され、あらためて哀しみが
増した。
「ああ、ヒデちゃん、また帰ってきたんだな」
「ええ、今度は二週間です。」
「そうか、少しはゆっくり出来るな。・・・それにしても、海沢の親父さん、かわいそうな
ことになってしまって・・・・・」
マスターが、やや間をおいて続けて言った。
「ありがとう、ヒデちゃん」
英樹は不意をつかれたようにマスターを見た。
「知ってらしたんですか」
「そりゃ・・・・・わかるよ。いくらなんでも、あんな偶然が起きるわけがない。鳴彦君に
匹敵するぐらいの棋力があって、しかも鳴彦君の碁風を知り尽くしている人間なん
て、和彦君を除けば、この世にヒデちゃんしかいないよ」
「あれで・・・・・よかったのでしょうか」
「何言ってるんだ。よかったに決まっているじゃないか。親父さんは鳴彦君が生きて
いるって、満足したまま、あの世にいけたんだ」
マスターがコーヒーカップを英樹の前に置いた。その時、テレビの画面が突然ニュ
ース画面に切り替わった。
MHKの臨時ニュースが流れた。
『ただいま入りました情報によりますと、世界アマチュア囲碁選手権大会に参加のた
め東京を訪れているK国代表の李相郭さんが、 平成十二年にアムステルダムで拉
致された海沢鳴彦さんであることが、複数人の証言で明らかになりました。海沢鳴
彦さんは、二年半前にアムステルダムでK国特殊工作員に拉致され、K国に強制連
行後、K国□□市で生活していましたが、平成十三年八月にK国中部を襲った大洪
水のため、行方不明となっていました。本人は一切の記憶を失っていましたが、この
ほど「李相郭」の名前で囲碁選手権大会のK国代表として来日、海沢鳴彦さん本人
に間違いないことが、出迎えた日本側の複数人の証言で明らかになりました。繰り
返します・・・・・』
英樹とマスターは、思いもかけぬニュースに息を呑んだ。
「ヒデちゃん! 鳴彦君が!」
「鳴彦君・・・・無事だったのか・・・・」
「このニュースを親父さんが聞いたらどんなに・・・せめて、あと一週間生きていてくれ
てたら・・・・・」
マスターが残念がった。
その時、中年の男が「アーベーツェー」の扉を開けた。スーツにネクタイ姿である。
「『アーベーツェー』のマスターはあなたですか」
「はい、そうですけど」
「私は国立南大阪病院の事務室の者です」
男は名刺を出してマスターに渡した。
「じつは、一週間前に亡くなられた海沢光雄さんより、これをあなたに届けるように頼
まれまていましたので・・・・直接あなたに渡してくれと」
そう言って、事務員は大きな封筒を差し出した。
「たしかに、渡しましたよ」 事務員は帰っていった。
「親父さんが俺に・・・・何かな」
マスターは怪訝そうに封筒を開けると、そこには一枚の印刷された棋譜が入って
いた。棋譜の下に一行、何か書き添えてある。
「これは・・・・」 マスターはじっと見つめたあと、
「ヒデちゃん、これ・・・・・・」 英樹にその紙を渡した。
英樹はその棋譜を見た。まぎれもなく、聖夜に自分が光雄とネットで打った棋譜だ
った。黒1星、白2小目、黒3小目、白4カカリ・・・・・53手目までが総譜で印刷されて
いた。そしてその棋譜の下に、たどたどしい筆跡で一言、言葉が書き添えてあった。
『 ありがとう、湊川君。 海沢光雄 』
「親父さんは何もかも知っていたんだな。知っていて・・・・」
マスターがしんみりと言った。
「ええ・・・・・」
テレビ画面では、空港のロビーで鳴彦が報道陣に囲まれ困惑している姿が映しだ
されている。
「鳴彦君のこの姿を、一目親父さんに見せてやりたかった・・・・・」
マスターのつぶやきに、英樹は棋譜を手に取ったまま、じっとテレビに映る鳴彦の姿
を見つめた。
「そうですね、鳴彦君のこの姿を・・・・・」
もう、その後は言葉が出なかった。そっと押さえた目頭に熱いものがこみあげ、あ
ふれた涙が頬を伝うのが、自身ではっきりとわかった。
(終わり)
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。ご意見・ご感想をお聞かせいた
だけたら幸いです。 次回作にもご期待下さい。(中河原 潤)
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