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第 一 章
湊川英樹は学校から帰ると、やにわ鞄を畳に放り投げて、碁盤を持ち出した。碁盤
の横には丈和全集と玄玄碁経の詰碁集。碁を覚え初めて1年、碁が楽しくてしょうがな
い頃である。
「英樹、あなたももう中一なんだから、もう少し学校の勉強もしたら」
母親の言葉も、碁盤を前にした英樹には全く聞こえていない。
「・・・・・」 苦笑いしながら、母の良枝は台所で夕食の準備をしていた。もう、これは英
樹の日課になっていた。
一年前、父の実家で祖父から囲碁の手ほどきを受けた英樹は、東洋に伝わるこの
神秘なゲームに夢中になった。覚えれば覚えるほど底知れない奧の深さが知れ、たち
まちのうち、のめり込んでいった。一年足らずだが、英樹の棋力は初段に達しようとし
ている。
英樹は古典にひかれていた。特に、江戸後期の名人本因坊丈和の打ち碁並べと、
古典詰碁を解くのが好きだった。
碁盤は立派な本榧柾目四寸盤。碁笥は桑。石は、今は貴重となった日向特産の本
蛤。小さな工務店を経営する湊川家にとっては不釣り合いな程の立派な棋具である。
英樹がものごころついた頃には、この家の座敷の一角に飾ってあった。
英樹が囲碁を始めた日、それは奇しくも英樹の誕生日であったが、父の憲司は家に
あったその棋具一式を英樹に贈った。以来毎日、英樹はその碁盤・石を持たない日は
なかった。
これこそはまさに英樹の宝物だった。毎日碁盤を乾拭きし、石を磨いた。日向榧独
特の風格と、気品、芳香。日向特産の蛤だけに許された繊細な貝目、そして乳白色の
輝き。この石をこの盤に打つ。大好きな丈和名人の打碁を並べる。詰碁を解く。それ
だけで英樹は幸せだった。
一方、英樹には気になる事があった。この碁盤・碁石を一体誰がどんな経緯で買っ
たのか、はっきりしないことだった。祖父は二段の腕前だが、祖父が買ったわけでもな
いらしい。父は囲碁は余り興味がなかったらしく、五級ぐらいで英樹に四子置いてい
る。こんな高価な棋具を買うようにはとても見えない。先祖代々でもなさそうである。盤
や碁笥、石もそれ程古くないからだ。第一、日向の蛤は明治中期以降にしか生産され
ていない。父に聞いてもお茶を濁すような答えしかなく、答えるのがいやそうだったの
で、それ以来盤石の事は質問しないようにしていた。
第 二 章
ある晩、英樹はいつも通り丈和の打碁を並べていた。あまりに面白い碁だったので、
ついつい興のおもむくまま、夜更かしをしてしまった。時計を見ると、もう12時を超えて
いる。
――これはいけない、明日は学校がある――
急いで盤石をしまうと、英樹は歯を磨こうと洗面に行こうとした。
すると、奧のリビングで父の憲司と母の良枝が何やら深刻な口調で話し込んでいる。
ドアは閉まっているが、会話の内容が聞き取れた。
「こんな事が起きるなんてな・・・・」
「ええ、本当に。どうしたものかしら・・・・・」
「今月の末には、振りだした手形の決済が1000万円も回ってくる・・・・・しかし、川上さ
んとこが倒産したとなると、もう入金のあてがない。銀行も『もう、これ以上の融資は出
来ません』の一点張りだし・・・・今月末さえ乗り切れば、来月からは西岡さんからの入
金があるし、何とかやっていけるんだが・・・・」
「よりによって、どうしてこんな時に、うちの一番のお得意が倒産したんでしょう」
「愚痴をこぼしても、しょうがない。それより、どうやって月末の手形を決済するか
だ・・・・・・明日から俺は支払先を回って、何とか手形のジャンプを頼んでくるよ。2,3
件でも応じてくれる所があるかもしれない。お前は、出来る限りの金策をしてくれ。利息
が高くても、このさい、やむを得ない。そうしないと、来週の月曜には不渡り、倒産だ。
一家が路頭に ――いや、従業員10人が路頭に迷うことになる・・・・・・ それだけは絶
対にいかん・・・・」
思わず立ち聞きしてしまった英樹は、愕然とした。
――自分は、何も知らないで毎日、囲碁ばかり打ってきた。父も母も、こんなに苦労し
ていたとは――
手形のジャンプとか不渡りとか、難しいことは英樹には判らなかったが、父の経営す
る「湊川工務店」が今、倒産の危機に立たされていることだけは理解出来た。
何か父母の力になれることはないか、そうは思っても、中学一年の自分に何ができ
よう。「1000万円」の数字は、中学生には想像を超える巨額である。英樹は、言いし
れぬ歯がゆさを覚えながら寝室に戻った。
第 三 章
月末を週明けに控えた木曜日の午後、、憲司と良枝は今日も一日中、金策に追わ
れていた。
「あと、300万か・・・・・」 憲司が良枝につぶやく。
「ええ、でも、これ以上はどうしても・・・・・」
「いや、あと舟橋さんところがある。昨日は社長が留守だった。今からでも、手形のジ
ャンプ(注:相手に渡してあった手形のうち一回分を、決済に回さないで返還してもらう
こと)を頼んでくるよ。あそこに振り出した手形だけでも、今回300万円ある。今月の分
さえジャンプに応じてくれれば、うちは助かる」
「でも、舟橋さんところって、あの舟橋電気工事でしょう。あそこの社長さんは決済に厳
しいことで有名なんじゃ・・・・・」
「そうだ。あそこの社長は今まで支払を待ってくれたことがない。手形のジャンプなど、
論外かもしれない。だけど今となってはもう、それしか望みがないじゃないか」
舟橋電気工事の経理担当をしている栗林は、独り車を運転しながらぼやいていた。
――もうすぐ月末か・・・・あの200万円をどうやって穴埋めしようか――
栗林は、最近こりだした競馬に負けが続き、消費者金融から多額の借金をしてい
た。返済を滞らした挙げ句、強引な取り立てに困り果て、会社に入金された売掛金を
返済についつい流用してしまった。
毎月初めには定期監査があり、週明けの月末までに穴埋めしないと、使い込みが発
覚するのも時間の問題だった。
――そのことで頭がいっぱいなのに、また変な事までいいつけられたし、今日はツイて
ないな――
その日、栗林は朝一番、社長室に呼ばれていた。
「君は確か昔,碁盤店で働いていたことがあるそうだな。囲碁も3段の腕前だときいて
いる。それを見込んで頼みがある。囲碁の盤石を探してほしい。盤は日向榧の柾目、
4寸以上。石は日向特産の蛤、それも36号以上だ。碁笥は桑、出来れば島桑がい
い」
「社長、盤と碁笥はともかく石はそう簡単にはみつかりません。今、市販されている石
はほとんどがメキシコ産です。36号以上の日向産は簡単には手にはいりませんよ」
「わかっている。新品でなくても構わない。中古品でも構わないから探して欲しい。そん
なに急がなくてもいいから」
「わかりました。何とか社長のお眼鏡に合うものを探して参ります」
「ああ、それから」 舟橋社長が、戻ろうとする栗林を呼び止めて言った。
「大手のゼネコン、川上建設が倒産したそうだな。うちが取引している湊川工務店は確
か川上建設の下請けをしていたはずだ。ちょっと様子を見てきてくれ。あそこから貰っ
ている今月末付けの手形が心配だ。いいか、おそらくジャンプを頼んでくるかも知れな
いが、絶対に応じるんじゃないぞ」
――社長が大の囲碁好きなのは聞いていたが、またエライ注文を出してくれるもん
だ。それより、使い込んだ200万円をどうしよう。月末までに何とかしないと・・・・もう、
日がない――
焦る気持ちを抑えて、栗林は湊川工務店へと車を向けていた。
栗林が湊川宅を訪れたとき、ちょうど憲司が行き違いに舟橋電気工事に出掛けてい
た。 母も他の従業員も外に出ていて、事務所があいにく無人だった。母に頼まれて、
学校から帰宅したばかりの英樹は、事務所と続いている自宅の居間でいつもの盤石
で丈和の碁を並べていた。父母の苦労が気になっていたが、どうしようもないので打碁
並べをして気を落ち着かせていたのだ。
事務所のドアが開いた。
「こんにちは。舟橋電気工事です」 栗林が事務所内を見渡しながら言った。
「父も母も留守です」 顔を上げた英樹が答えた。
「いつ頃帰ってこられるのかな」
「そろそろ帰ってくることだと思いますが」
「少し待たせてもらいますよ」
事務所の椅子に腰を下ろした栗林は、英樹の並べている盤石を一目見て目を見張
った。
――これは大変な値打ちものだ。特に石は、あの日向特産の蛤じゃ・・・・しかも、あの
厚さは・・・・
「坊や、ずいぶんと良いものを使ってるね」
「ああ、僕の宝物だ。お父さんから貰ったんだ」
「坊やのもの?・・・・・おじさんに少し見せてくれないかな」
「ああ、いいよ」
白石を一粒、手にとって見る。その瞬間、栗林はこの蛤が日向特産の雪印、それも
36号の貴重なものだと判った。繊細な貝目、乳白色の艶のある輝き。盤もしかり。こ
の風格と芳香、それは日向のもの。木口の天地柾の木取りが、この盤の希少性を物
語る。碁笥も島桑の極上品である。
――こんな素晴らしい棋具一式が、よくぞこんな市井の家に、しかも子供が持っている
とは。厳しい社長も、こんな盤石なら満足するだろうな――
栗林は感心した。
「坊やは何歳?」
「12歳だ。明日で13歳になるけど」
「そうか、もう中学生か・・・・・囲碁を始めてどのくらいになる?」
「ちょうど一年ぐらいかな。もうすぐ初段なんだ」
「もうすぐ初段か・・・・」
そのとき、栗林にピンとひらめくものがあった。
――これは、使い込んだ金の穴埋めに利用出来るかも――
第 四 章
憲司は舟橋電気工事へ行ったものの、昨日に続いて社長、経理担当が不在だった
ため、すごすごと帰ってきた。
――困った。やはりアポを取ってから行くのだったか――
帰ってみると、経理担当の栗林が英樹と話をしている。
「湊川さん、待たせてもらったよ」
「栗林さん。ちょうど良かった。今お宅の事務所に行って来たばかりなんだ。 英樹、向
こうへ行ってなさい」
英樹はドアを閉めたが工務店の事が心配で、奧へ下がったふりをしてそのままドア
のそばに立っていた。
「湊川さん、だいじょうぶかい。川上建設が倒産したっていうじゃないか。月末の300
万の手形、間違いなく落としてくれるんだろうな」
「そのことなんだが・・・・まことに申し上げにくいんだが・・・・・今月分だけ、ジャンプさせ
て欲しいんです。今のうちにはとても落とせるだけの資金がないんです。来月になれ
ば、西岡さんところから大きな入金があるので、何とか落としていけるんだ」
「馬鹿言っちゃいけないよ」 けんもほろろに栗林が言った。
「苦しいのはうちも同じだ。300万も待てるわけないでしょう。それに湊川さん、うちの
社長が決済に厳しいのはよく知っているだろう」
「わかっていますけど、どうしようもないから、こうやって頼んでいるんです。 お願いしま
す」
「いずれにせよ、手形のジャンプは出来ないよ。それより、湊川さん――」
栗林が囁いた。
「息子さんがお持ちの囲碁のセット、あれをお売りになりませんか。100万円で引き取
りますよ。むろん、現金で」
「ばかな。あれは私のものじゃありません。あれは息子が大切にしている宝物だ。第
一、売りものじゃない 」
そのとき、ドアが開いて英樹が飛び出した。
「おじさん!あの囲碁のセットあげるから、父の頼みをきいてください!」
「英樹! そこにいたのか。馬鹿なことを言うもんじゃない。子供は関係ない。向こうに
ひっこんでなさい」
――チャンスだ―― その瞬間、栗林は頭に浮かんだ策が自然と口に出た。
「坊や、どうだ。おじさんと一局、勝負しないか。おじさんは初段の免状を持ってるん
だ。互先の一番勝負だ。コミは5目半でな。坊やが勝ったら、お父さんの頼みどおり、
手形のジャンプをしてやろう。そのかわり、おじさんが勝ったら、坊やのその棋具一式
を戴く」
「栗林さん、何を言うんだ。子供には関係のない話だろう」
「俺は坊やと話ししてるんだ。どうだい。坊やが勝ったら、お父さんの会社がつぶれなく
てすむんだよ。勝負するかい?」
「やるよ」 英樹がためらいなく答えた。
「馬鹿、英樹。 やめろ!」 憲司が声を荒げる。
「お父さん、僕、お父さんの役に立ちたいんだ。僕が勝ったら、お父さんの会社が助か
るんだろう。 大丈夫、負けないよ」
「英樹・・・・・」 憲司は言葉が出ない。
「ほう、坊や、大した自信だな。じゃ、さっそく対局といこうか」
栗林は居間に上がり込むと、どっかと碁盤の前の座布団に座った。
――うまくいった。俺は碁会所で3段格で打っているが、免状は初段しか持っていない
から、別に嘘はついていない。2段差があれば、堅く打てば負けないだろう。それに、
相手は子供だ。プレッシャーが、こちらとは全然違う。この盤と石なら、文句なく社長も
納得する。この盤石を「200万円で棋具商から買いました」と社長に言えば、使い込ん
だ金をそっくり穴埋めできる――
ニギッて英樹の黒番となった。黒番を当てて、幾分ホッとした英樹に栗林がプレッシ
ャーをかける。
「坊や、わかっているのか。坊やの一手一手に、お父さんの会社の運命と、従業員10
人とその家族の生活がかかっているんだぞ」
瞬間、英樹は険しい顔つきになった。
「お願いします」 一礼後、黒第一着を星に打つ英樹の手が、こころなしか震えて見
える。
(坊主め、緊張しているな。無理もない。まだ中学一年だもんな。この勝負、もらった)
栗林は、心中ほくそえんだ。
第 五 章
息詰まるような対局が続いている。憲司はじっと英樹の対局を見つめていた。
――この子には、不思議に勝負強いところがある。小学校のとき、一回も逆上がりが
出来なかった。いくら練習しても一回も出来なかった。それが、いざ試験となるとその
時だけ出来た話を聞いた。
また、ある時は水泳でどうしても25メートルが泳げなかった。しかし、検定試験の時だ
け、完泳したというエピソードもある。
小さいとき、ビー玉遊びをしていて、これを当てれば勝ち、というとき、ことごとくビー
玉を命中させた、という話もある。
「ここ一番、には負けない」 本人も深い自信を持っているようだった。 小柄で今でもま
だ小学生に間違えられる英樹に、どこにこんな勝負強さが宿っているのか――
憲司は知っていた。先程、第一着を打つ指が震えたのは決して英樹が臆していた
のではない。「この一番、絶対に勝つ」の強い気合と決意の表れ、つまり武者震いであ
ることを。
我が子ながら堂々としている。憲司は感心した。まだあどけなさが残る、その小さな
両肩にはとてつもないプレッシャーがかかっているであろうに――
局面は布石が終了し、中盤に入っていた。
形勢は憲司にはよくわからなかったが、一つの疑念が頭にもたげていた。栗林は本
当に初段なのか。2段、3段、あるいはそれ以上ではないのか。棋力を偽られたとした
ら、英樹には勝ち目はない。「手合い違い」は、囲碁の勝負の場では、決定的な壁とし
て勝敗を分けてしまう。そんな疑念が憲司の頭から離れなかった。
対局しながら英樹は、憲司と同じ事を考えていた。栗林は強い。明らかに英樹より上
だった。碁会所で対戦する、3段の客と同じぐらいの手応えがあった。普通なら2子置
く相手に、互先の手合いなら、勝負の行方は・・・・・
しかし、英樹は思った。日頃父から教えられて、座右銘としている言葉を。
DO YOUR BEST ! 「全力を尽くせ」
そう、手合い違いだろうと、なんだろうと、自分の取る道はただ一つ――
DO YOUR BEST ! その時その時に、最善を尽くせ!
英樹は、盤上の戦いに集中していった。しかし、形勢は確実に白有利となっていた。
栗林は自信を深めていた。
――やはり俺の方が強い。これは本来なら2子の碁だ。堅く打ち進めていけば、よも
や負けることはあるまい――
陽が傾き始めた。盤面はもう大ヨセとなっていた。優勢を意識する栗林が、堅く地を
囲う碁に持っていったため、英樹の力戦ぶりを発揮されるところがないまま、終盤を迎
えていた。
――白がだいぶ良いな―― 憲司にも白の優勢が見て取れた。
――といって、他に勝負どころもなさそうだし―― 心なしか、英樹の表情も険しい。
――もう、この碁は鍋に入ったも同然―― 栗林は勝利の手応えを感じていた。
しかし、大差に見える碁でも、大ヨセでゆるみ出すと、その差は驚異的に縮まる。味
の良い手はヨセでは緩手であり、手をいれないですむところで手を入れれば、相手に
大どころを続けて打たれることになる。栗林は、そのことを軽視していた。
非勢を意識する英樹は必死だった。この勝負だけは、勝つことが全てだった。負け
れば半目でも100目でも同じである。英樹は大ヨセに、「勝負、勝負」とあらん限りに
踏み込んでいく。アジ悪でもなんでも手を抜いて、大どころへ、大どころへと先着した。
一方、優勢を意識する栗林は、「このまま堅く打って逃げ切り」を目指したため、「相
手の手につく」結果となった。 その差は見る見る詰まった。
小ヨセの段階に入った栗林は、再び目算をして事の重大性に気付き愕然とした。
――しまった。ゆるんだ。細かい碁になってしまった――
ここから栗林の必死の頑張りが始まる。ヨミをいれて、手を抜く所は手抜きし、一目
でも大きいところへ最善を求めて打つ。
英樹も必死になってヨセを打った。長考に長考を重ねて、慎重に打っていく。 両者と
も、小ヨセを打つのにこれほど時間をかけたことはなかった。
――きわどい。一目二目が勝負を分ける――
死力を尽くして、両者はヨセ合う。
最後の半コウまで息の抜けないヨセ勝負が続いた。
「終わりですね」英樹がヨセの手止まり、半コウをツギながら言った。
「そうだな。終局だ」 大きく息を吐いて栗林が答えた。
――どちらが勝っているのか。これは細かい――
棋力が5級ぐらいの憲司には、一体どちらが勝っているのか、何度数えても「きわど
い勝負」しか判じえなかった。憲司にできることは、栗林が整地で不正をしないよう、目
を光らせておくことだった。
張りつめた空気の中、ダメヅメが終わった。 双方が死石を取り、アゲハマで地を埋
める。整地を始める。
白地をつくる英樹。黒地をつくる栗林。整地が終わった。緊張の一瞬である。
「白、10――30――45――58、58目」 英樹がつぶやく。
「黒は・・・20――40――50――64、64目か」 栗林が声を上げた。
「黒64、白58だって、盤面6目、半目! えっ! 半目負けかよ! 」 栗林が叫んだ。
「そんな、 半目だったなんて・・・・10――30――58か・・・・20――50――64
か・・・・・」
栗林が、盤側を見渡してハマが落ちていないかみるが、その顔がみるみる真っ青にな
った。
「黒の半目勝ちだね。約束どおり、父の頼みをきいていただけますね」 英樹がたたみ
かけた。
「わっ、わかっている! くっ・・・・・この碁を落とすとは・・・・・」
栗林ががっくりとうなだれる。
英樹は大きく息を吐き出すと、ホッとして汗を拭い、盤面から顔を上げた。そのとき、
栗林の座っている座布団の陰に黒石が一つ、落ちているのが英樹の眼に入った。
――あ、あれはアゲハマだ――
英樹の心臓が大きく鼓動を打った。
第 六 章
――どうしよう――
英樹は迷った。普通の対局だったら、すぐにでも、「そこにアゲハマが落ちているよ」
と口に出たに違いなかった。しかし、この対局は違う。父の会社の運命と、その従業
員・家族の生活が・・・・
このまま黙っていて、いったん盤上の石を崩してしまえば、もう勝敗がひっくり返るこ
とはない。栗林も父も、気付いていない。だけど――
『このまま黙っていたら、もっと大切な何かをなくす』 その思いが英樹を動かした。
「おじさん・・・・・・」 英樹が口を開いた。
「その座布団の下に・・・・アゲハマが一つ、落ちているよ・・・・・・」
胸を締め付けられるような痛みを感じながら、英樹は声を絞り出した。
「えっ。なんだって!」
栗林が座布団をめくると、黒石が一つ、転がっていた。
「これはアゲハマだな。じゃあ、黒地は63目、盤面5目だから、白の半目勝ちだな」
栗林が拾った黒石を黒地の中に埋めながら念を押した。
英樹は、コクリとうなずいた。
「英樹・・・・・」 憲司は絶句した。
「驚いたな。何と正直な坊やだ。でも、勝負は勝負だ。悪く思わないでくれよ」
栗林は、少し臆しながらも、盤上の石を片づけた。運び出そうとして碁盤に手をかけ
たとき、
(こんな純真な少年の宝物を奪っても良いのか。)
栗林は良心の呵責(かしゃく)を感じた。一瞬、躊躇したが、
(使い込みの穴埋めができなければ、クビになる。いや、それだけではすまないかも)
その恐怖が、再び碁盤に手をかけさせた。
(ごめんよ坊主、俺もせっぱ詰まってるんだ)
恐ろしい程の後ろめたさに襲われながら、栗林は碁盤と碁笥を丁寧に車に運び込
んでいった。
英樹は身動きひとつせず、自分のかけがえのない宝物が一つ、また一つ持ち出され
ていくのを蒼い顔のまま見送っていた。
「じゃあな、坊や。 湊川さん、月末の手形の決済、頼みますよ」
音をたてて、車が走り去った。
後に憲司と英樹が残された。盤石がなくなった居間に二人は座っていた。
英樹はじっとうつむいて畳に正座したままだった。
「うっ、うううっ」 やがて、耐えきれなくなった英樹の眼から次々と涙があふれ出た。
「ごめんなさい・・・お父さん、ごめんなさい・・・・僕、お父さんの役に立てなかっ
た・・・・・・・」
憲司は、泣きじゃくる英樹をぐっと抱きしめた。
「いいんだ・・・・お前は立派だ・・・・立派だったよ・・・・」
「でも、お父さんの会社が・・・・・・」
「心配するな。大丈夫だ。何とかなるよ。まだつぶれると決まったわけじゃない」
そう言いながらも、憲司には判っていた。もう月末に不渡りを出すことは明らかだっ
た。倒産を防ぐ手だては、もはやない。
――しかし――
――湊川工務店はつぶれる。だが、俺は素晴らしい息子を得た――
英樹を抱きしめながら憲司は思った。
第 七 章
「社長、素晴らしい盤と石でしょう」
栗林は得意げに舟橋社長に盤石を見せた。しかし、社長の様子がいつもと違って、
どこかよそよそしい。
舟橋社長は盤石を見ながら言った。
「確かに素晴らしい盤と石、碁笥だな。どうやって手に入れた? 」
「知り合いの碁盤店から購入しました。中古品ですが、素晴らしい値打ちものです。20
0万円かかりましたが・・・・・・」
「200万円?」
碁盤の天面、木口をじっと見ていた社長の顔に驚きの表情が出た。社長は盤、碁
笥、石をそれぞれ変わりばんこに見つめていた。
「栗林」 社長が言った。
社長は社員を決して呼び捨てにはしないのに、急に呼び捨てで呼ばれた栗林はぎょ
っとして向き直った。
社長が冷たい口調で言った。
「これは・・・・碁盤店で買ったと言うのは嘘だな? 200万円というのもでたらめだろ
う」
「とんでもありません」
「なら、領収書を見せて見ろ」
栗林は、ぐっと言葉に詰まった。社長が続けた。
「出せまい。それに、山田コーポレーションからの先月あった売掛金はどうした? 先
方は確かに先月末に200万円小切手で払ったと言っている。 どうして、どの帳面・伝
票にもそれがのってない? お前が最近競馬にのめり込んでいるという、噂があって
な。 今日、帳簿書類を調べさせて貰った」
栗林の顔面が蒼白になった。
「200万、どこへやった? 弁明してみろ!」
栗林は蒼い顔のまま、うなだれている。
「会社の金を使い込むような奴は、今日限りクビだ。それに、この盤石はどうした?
正直に言えば、警察に通報するのだけは勘弁してやろう」
もはやこれまでか―― 栗林は、観念した。
第 八 章
栗林から一部始終を聞き終わった舟橋社長は、どこか遠い眼をしながら独りつぶや
く。。
「そうか・・・・湊川さんところの息子の・・・・・・」
「栗林、帰っていいぞ。もう、明日から会社に来なくていい。使い込んだ200万はこの
盤石と相殺してやる。身辺整理をして、とっとと帰れ」
「ありがとうございます。失礼します。お世話になりました」
「あ、ちょっと待った」 社長室を出ようとした栗林に、舟橋社長は声をかけた。
「湊川さんの息子はなんて名前だ?何歳ぐらいだった?」
「えっ。・・・たしかヒデキとか・・・・明日で13歳になるとか。なんでも丈和名人の大ファ
ンだそうですよ」
栗林は、社長室を出ていった。
「ヒデキ・・・・明日が13歳の誕生日・・・・・丈和のファン・・・・」 感に堪えたように舟橋
社長は、独り立ちつくしていた。
舟橋電気工事の阿部総務課長は、社長室に血相変えて飛び込んだ。
「社長、栗林君が会社を辞めることになったと言って、荷造りしてます。どういうことでし
ょう?」
舟橋社長はデスクに向かっていた。
「知っている。いいんだ。自己都合での退職だ。君には後でゆっくり説明しよう。栗林君
がやっていた仕事は、明日から野崎君にやってもらう。ああ、それより、阿部君」
舟橋社長は、机の横の盤石を指さしながら言った。
「この碁盤、碁笥、碁石をこの封筒とともに、ここへ至急送ってくれ」
社長はを阿部課長に封筒と届け先を書いたメモを渡した。
「これをですか」
「そうだ。なに、息子への誕生日の贈り物だよ。取扱いは慎重にな。大至急だ。」
「息子さん、ですか」 阿部課長は怪訝な顔をした。
棋具一式を運び出して社長室を出たあとも、阿部課長は首をひねった。
――たしか社長は独身のはずじゃ。しかも、宛先は――
舟橋社長は、誰もいなくなった社長室で、椅子に座ったまま、感慨に耽っていた。
あの碁盤とこんな形で再会することになろうとは。しかも、今回もほんの一瞬のすれ
ちがいだ。前回も・・・・・・・・
過ぎ去りし日の苦い思いが、舟橋社長の胸を締め付けた。
第 九 章
土曜日の朝。憲司は苦渋の決断をした。十人の社員を集め、週明けから湊川工務
店を閉鎖する事を伝え、全員に解雇を言い渡すのである。残った現金が債権者に搾り
取られる前に、少しでも従業員に退職金として一円でも多く分配しておきたかった。
「良枝,全従業員に、至急集まってもらいなさい」
憲司の言葉に、良枝は黙ってうなずくと電話をしようと居間へ下がった。
その時、「宅配便です」 大きな荷物が湊川工務店に届いた。
依頼人は「舟橋電気工事」となっていた。
荷物を開いてみて憲司は驚いた。栗林が持ち去った棋具一式がそっくりそのまま、
戻されてきている。棋具ばかりではない。一通の封筒が同封されている。
封筒を開けると、蛤の碁石が一粒、転がり出た。そして証券が二枚、手紙と共に同
封されてあった。
一枚は、湊川工務店が舟橋電気工事あてに振り出した、週明けに決済に回される
はずの手形がそこにあった。そして、もう一枚は、憲司が驚いたことには、舟橋電気工
事が湊川工務店あてに振り出した、額面三百万円の小切手だった。
憲司は手紙を開いた。
「このたびは弊社社員、栗林が貴社に多大なご迷惑をおかけし、申し訳ございませ
ん。実は、栗林は終局時に、ご子息の碁笥のふたからこぼれ落ちたアゲハマを一つ、
隠し持っておりました。同封した蛤石がそのアゲハマです。したがって、勝負はご子息
の半目勝ちです。盤と石をお返しします。お約束とおり、月末の手形もお返しします。ま
た、ご迷惑をかけたお詫びのしるしとして、無利息で三百万円をご融資させていただき
ます。返済はいつでも結構です。弊社振り出しの小切手を同封させていただきます。
貴社との今後ますますの親密なるお取引をお願い致します。また、ご子息の今後の
健やかな御成長を心よりお祈り申し上げます。 草々
舟橋電気工事社長 舟橋英一 」
「良枝! 良枝!」
憲司は良枝を呼んだ。
第 十 章
舟橋社長は書架の囲碁全集を見ながら、十三年前を思い出していた。
関西の経済が、「万博景気」で絶頂にあったとき、高度成長を見越して借金で購入し
た株が大きく値上がりし、舟橋英一は一躍、大金持ちになった。裸一貫から身を起こ
し、小さな電気工事会社を営んでいた英一が自身のヨミを信じて打って出た賭けに勝
ったのだ。そのときに、宮崎の碁盤商から大枚はたいて念願の盤・石・碁笥を手に入
れた。
日向産榧の碁盤、日向産の蛤石、御蔵島産の桑の碁笥――長年の夢を果たし、英
一は得意の絶頂にあった。
妻をめとり、長男も生まれた。
ところが―― 一度株で儲けた夢を英一は忘れることが出来ない。またしても、信用
取引で大もうけをたくらんだ。株は下がった。損を取り返そうと、大きく勝負に出た。株
は下がり続け、気がついたときには本業ではもう、まかなえないほど損失が巨額なも
のに膨れあがっていた。
折しも、二人目を身ごもった妻が、車の運転を誤り崖下に転落、車が大破し炎上、急
逝した。
「妊娠中は運転するな。仕事も休め」 と英一が言っていた矢先の事故だった。 長男
は保育園に預けられていて無事だったが。
生後間もない長男をだかえて、英一は途方にくれた。身寄りもない英一が子供をだ
かえて再起を図るのは困難だった。。
英一は、孤児院の事務長をしていた知人に、一時期だけののつもりで子供と棋具を
託し、弁護士に破産手続きを一任、出立した。
それから、英一は再び、裸一貫から働いた。「舟橋電気工事」を始め、生活が安定し
たのは一年後だった。
ところが子供を迎えにいったとき、孤児院はすでに閉鎖されていた。事務長も行方が
判らなかった。預けられていた孤児達はあちらこちら分散されて別の施設に入ったらし
かった。
英一は懸命に息子の行方を捜したが、ついに消息は分からずじまいだった。
以来、英一は大きな心の傷を負いながら、じっとひとり、孤独に耐えて来たのだ。
「舟橋電気工事」が大きくなり、法人に改組されてもそれは変わらなかった。
――会ってみたい―― 英樹は自分の,たった一人の肉親なのだ。一目、成長した
我が子に会ってみたい。 舟橋社長は 耐えきれない程の衝動にかられていた。
いや、会ってはならない。栗林との対局の模様を聞いただけでも、英樹が立派に育
っていることがわかる。両親も立派な人物に違いない。
――今の英樹の幸せを壊してはならない――
親の名乗りを上げてはならない。せめて、今の自分に出来る精一杯の思いやりは、
遠くからそっと英樹を見守っていくことだ。舟橋社長は淋しい決意をした。
――それにしても、丈和の大ファンとは――
「蛙の子は蛙、か」
書架の丈和全集第一巻を取り出しながら、舟橋社長は苦笑した。彼もまた、丈和の
碁を並べない日はなかった。
――いつか、英樹とあの碁盤で対局できる日が来るだろうか――
社長は、ひとり盤に向かうと、丈和・猪之助の棋譜を並べ始めた。
湊川工務店は立ち直った。憲司は仕事にますます励んだ。
――俺にはこんな素晴らしい息子がいる。子供が授からなかった私たち夫婦に、神は
素晴らしい贈り物をくださったのだ。 やるぞ。 息子のために、妻のために――
(終わり)
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。次回作にもご期待下さい。ご意
見・ご感想をお聞かせ下されば幸いです。 (中河原 潤)
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