事例1:ある婦人科医の不幸な体験
(婦人科の開業医、K氏の手記より)
今朝も、先日退院した患者から、ついでの折で良いから一度往診して欲しいと昨日頼まれたので、
慣らし運転がてら行ってみることにした。
ごたごたした街中の道はやがてバイパスに連なり、まるで有料道路のように野原の中を真っ直ぐに付きぬけていた。
今日は不思議と車も少なく、途中、軽ライトバンに一台会ったきりで、この世は全く私のためにあるような朝であった。
途中の小さな村を過ぎた頃、急に霧が立ち込めだし、すぐひどい霧の中に入ってしまった。
こんな濃い霧は私の記憶には全くなく、10メートルくらいしか視界がなかった。
私は速度を落としてしばらく走っていたが、やがてその霧も晴れ、
再びもとの清々しい朝に返っていた。そこは目的のA村の近くであった。
(中略)
さて、病院に戻り、半分ほど患者を処置し終わった時、
看護婦がけげんな顔をして一枚の名刺を持ってきた。
見ると、刑事何々と書いてある。
患者の事について聞きに来たのだろうと思い、仕事の切れ目を見て急いで応接室に行ってみると、
二人の警官は丁寧な挨拶の後、
「先生は今朝ほど、これこれの道を自動車で走らなかったでしょうか?」
「ああ、行きましたよ」
「それなら先生はひき逃げを認める訳ですね」
「何ですって、私がいつひき逃げをしました。馬鹿馬鹿しい。
私は途中で誰一人にも会いませんよ」
「でも先生の車が人を引き倒すのを、
田んぼにいてみたという人があるのですが」
「それはどこですか?」
「A村の手前です」
「A村の手前、ああ思い出しました。私がA村の手前に行った時は非常に濃い霧でよく注意して運転しましたから、
そんなことの無かった事を自信を持って言えます。
第一、 あんな濃い霧の中で、田んぼからでは何も見えるはずがありませんから、
私でなく霧の前、あるいは後で走った他の車であることはそれだけでも証明できます。
私でないことお分かりになったのですから、お引取りください」
「先生はそうまで申されますか。
それなら車を一応見せてもらってよろしいでしょうか」
「どうぞどうぞ、鍵はこれです。看護婦に案内させますから
私でないことを認めたら帰ってください。では」
私は馬鹿馬鹿しい話に時間を取ったことを多少腹立たしく思いながら、
急いで診察室にとってかえし、再び診察を開始した。
「先生、警察の方がガレージまで来てくださいと呼びに来てますが」
「この忙しいのに、まったくうるさいな」
と、患者に了解を求め、急いでガレージに行ってみた。
見ると、車は早外に出してあって、調べたり写真を撮られたりしていた。
「やっぱり先生です。署までご同行願います」
「そんな馬鹿な」
「ご自分でここを確かめなさい。血痕、そして凹み。
こんなに凹んでいて知らないなんて、警察を馬鹿にしなさんな」
私は一瞬棒立ちになった。血痕、凹みは覗きこまなくてもよく見えた。
・・・・私は取り調べ質に入っても、まだ何が何だかわからなかった。
ありのままを何度も言ったが、頭から誰も信じなかった。
今朝、霧のあったことを村人にきいてもらうように頼んだ。
A村の入り口付近で朝早くより草取りをしていたお百姓さんが来たが、
「霧なんて、そんなものは全くありませんでした。
第一、 このへんは薄くかかる霧の日があっても、濃い霧なんて昔から一日もありません。
今朝はその薄い霧すらなく、良い天気でした」
と口をそろえたように言う。
・・・・・後になって分かったことだが、
前所有者も或る春の朝、深い霧に教われてひき逃げ事件を起していた。
さらにその前の所有者もひき逃げ事件を起しており、被害者は死亡している。
・・・・誰に話しても取り合ってももらえない話であるが、
今もあの車は執念を乗せて、
次の獲物を狙って走り続けていることであろう。