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notes
ここは僕の思う事をただ、だらだらと書いていくコーナーです。 はっきりいってくだらないことしか考えていませんが、近況報告もかねた日記のようなものにしていこうと思っています。.
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2日間ほど某食品会社の工場で働いてきた。労働とは何かを考えさせられた2日間だった。一晩中、肉マンの具をにぎらされるとさすがに食べ物とはおもえなくなる。ベルトコンベアーにのせられて次々とながれてくる物体は肉マンではなく肉マンの臭いをはなつ物体でしかない。そのうち臭いすらなんなのかわからなくなったが。しかし不思議なことに機械によって梱包された肉マンはしっかりと食べ物だと認識するのだ。
この食べ物と食べられる物質の境目はなんだろうか。僕達は普段は店頭にならんだ製品を食品として認識する。いいかえれば貨幣に置き換えられた時に、肉マンは食品となったのだ。申し訳ないがベルトコンベアーにのせられた商品を食べたいとは思えなかった。
このことはさまざまな問題を孕んでいるが否定しようのない事実である。ちょうど、賃金とひきかえの僕の作業が労働であったように。
/31
自己とは他の1要素である。僕が思考する時、主観を客観視する。さらにその自分を客観視する自分を意識する。しかし、それらは全て主観でしかない。
それでもその主観は自己ではなく他の1要素でしかないとはいかに?まったくわからない。
/29
僕個人のもつ自己から自己とは何かという問いかけに移行することは自から他へ主体がうつることである。この場合の他は自分を絶対条件として必要とはしないが、逆に自分が存在するならば、他を絶対条件として必要とする。いいかえれば自分と他が相対するのではなく他の要素として自分が存在することである。自己が変化するのではなく、その意味(質)すらがかわってしまう他化は、独立した単体(個として独立したもの)ではなく、個をとりまく周辺にこそ存在しているのだろう。
/28
では、例えば自分自身を表現するとはどういうことだろう。また、僕自身が問いかける自己同一性としての自己と、それだけではない誰にでもあてはまる自己(概念としての自己)つまり自己そのものの存在を問う表現とはなんだろうか。
自己表現と自己を表現することは微妙にちがう。前者は僕個人の中で完結可能であるし、それを表現するのは、むしろ自己を必要としている僕自身の自己言い換えれば内面である。後者における表現とは自己とは何かという問いかけ自体をさし、これは個人をこえた所でしか存在しえない。そのために表現することが必要になっってくる。自己そのものを問う為には個人の自己(自我といってもいいのかもしれないが)を表現する事が通過儀礼として必要とせざるをえない。しかし個人を超えない限り完結した僕個人の自己は発展することもない。
/25
完全なオリジナルは無いと言われているが、もともとある何かに積み重ねていくのが創造なのかもしれない。なにもないところから何かを生み出すことが創造だとすれば、人は創造者たりえないのではないだろうか。日常に埋没して見えなくなってしまっているものや、得体の知れないもやもや(しかし確かに存在する)ものを形(具体的な物質ではなくともよい)にし、伝えることが表現だと僕は思う。自分さがしイクォール表現、(自己表現)などど、自己と表現を同一視されてきたが、自己も表現されるものの1つでしかないということだ。むしろ表現の過程において自己を知るというかんじかな。
/22
表現とはなんだろう。僕はそこにあるものを見つけだすということだと思う。だから、表現と創造は微妙にちがっているのだと思う。
もともと存在するものを意識して、(させ)発見することが表現の第一歩だと考える。
/21
最近どんどんと描く事がなくなっている。僕が思うことには特にこれといった答えがあるわけでもないし、議論の場があるわけでもないので結局1人でもんもんと考えて終ってしまうわけだ。最初は日に1つは何かテーマをみつけて結論までもっていきたいと(論理的ではないくせに結論はあるわけね)おもっていたのだけど、個人的な主張になっちゃうのが残念だ。まあどっちにしろメモがわりに使っているようなものなので相変わらず断片的な文章を書いていこうかと思っている。この文章はかなりいいかげんなため棚にあげておいて言うのだけれど、表現についてこれからしばらく考えてみたい。
表現力とは論理性ではないと思う。正確には論理性も表現力の一部でしかないということなんだが、少なくとも僕はこのスタンスをとりたい。理屈じゃないでしょと言ってしまえば手っ取り早いかもしれない。現代アートの作品なんかをみていて感じる事だけど、やっぱり論理的に構築された作品は必然はあるんだけど。だから?ってとこがある。何から何まで説明してしまっているような。おせっかいさがある。
むしろそこに破たんがある方が魅力を感じてしまう。味があるとか人間らしさの話をしているわけではなくて、論理がどこか破綻して感覚的な要素のある作品のほうが疑問符が付くためにその続きを予期させる点でそう思う。解答か疑問が革新的である場合をのぞけば、哲学としては解答よりも疑問符をなげかけられたほうがおもしろい。おそらく疑問符の方に普遍性はつきまとうのだから。すでにわかんない。あーこれからしんどくなりそう。
/20
ホドロコフスキーのエルトポをみる。最近はドキュメンタリーも人気があるみたいだけれど、骨太のフィクションをみるとあらためて映画のおもしろさを感じる。それは、映画という表現を自己研究する姿勢が彼にはあり、そのことが私とは?どう生きるか?といった誰もがいだく疑問につながっていたからだと思う。
/19
夕暮れの風もすずしくいつのまにか秋深し。思いは空をただよい現実と空想をゆらゆらとしています。特に何も考える事も無い。
現実とは虚構だなあと感じると同時に虚構も現実だと感じます。
/18
今日はバイオリンの演奏会にいってきました。リラックスしまくりでした。聞いていると寝てしまうというまるでタルコフスキーの映画のような心地よさだった。人間が何かをすると痕跡が残る、例えば歩くと足跡が残ったり、リンゴを齧ると歯形が残ったり。今日は、同時に音を発しているのだということをつくづく感じました。痕跡がその行為の後にしばらく残るのにたいして音がすぐに消えてしまうのはなぜだろう。
僕達は形体を光によって認識する。物の形と見えるもの、そして音の関係。いよいよ複雑になってきた。形体は僕達が存在しようとしまいと存在する。音も同じだ。しかし僕の網膜にうつる画像は僕にしか見ることができない。僕の鼓膜を振動させる空気の波動は僕にしか音として聞くことはできない。
目を閉じて物にふれたときにその形を想像するが、耳を塞いだ時にどのように音を想像するのだろう。絵画が日常を模倣にたいして、なぜ音楽は日常の模倣をおこなってこなかったのだろうか。光と物質の関係、空気と音の関係。気になるが何が気になるのかもよくわからない。とにかく良い時間を過ごす事ができました!!
/17
爪をきると物になる、髪をきると物になる。身体が切り離した瞬間に物質になる。この境界を見極めたいという思いがある。どこからが自分で何処からが自分でないのか。そんな事は問題ではないのかもしれない。けれどこの問いは死とは何かを問うているし生とはなにかということを問うている。
/16
今とはいつの事だろう、日本人は今と言う言葉と過去形を同時に使う。『今何か言った?』というふうに。今という言葉には過去が省略されているのだろう、今とは過去の上になりたっているのだから。しかし、過去という概念は今を元につくられる。人間は時間をどのように知覚するのだろうか、行為の痕跡で、因果関係で?
現在、過去、未来、どれがもっとも早く認識されるのだろうか。知識として体系化されたのかどうかではなく、人間1人1人がどのように感覚として刻み込んでいったかのほうに興味がある。僕、個人としては過去の追憶が先にあり、ついで未来を予感し、現在を知覚したのだと考える。更にどれにも属さない時間仮にαが存在する。つまり過去、未来、現在、αの順番で時間が訪れるわけだ。。思考すると、どうしても現実(出来事)との間に時間差が生じる。認識したとたんに過去となってしまい。今をリアルに感じる事はできなくなるのだ。これは身体のかかえるジレンマである。
思考した自分を意識するであろう瞬間を今とよぶのだろうか。これもよくわからん。
/15
過去は過ぎ去りもう無い。未来とは未だ来らずまだ無い。人は未来にも過去にも生きる事はできない。過去にもどることはできないし、タイムマシンで過去に戻ったとしてももどった今であり過去ではない。未来に辿り着く事もできない。過去も未来も存在しないのだろう。その存在をいかに証明できるのだろう。
ただ過去や未来という概念が、今に存在するだけである。今は過去の未来であり、未来の過去である。つまりはもっとも新鮮な過去であり、もっとも懐かしい過去である。自我というものを基準に考えたときに、過去や未来という時間軸の概念が存在するのであって意識がなければ、時間の存在さえなく、変化する永遠の今というものがあるだけなのかもしれない。それでも人は、実体のない過去や未来を意識するのだ。過去に出会った、またこれから出会うであろう人達や出来事、物。そし何よりもも自分自身を、人はいつでも、今という時間を作り続けている。
/14
映画が見たい!、本が読みたい!肉が喰いたい!何が幸せって、好きな本を読んでいる時デスネ。などと、思春期の少女みたいなことを言っている僕であるが、読むのもさることながら、本屋にいるだけでも嬉しくなってしまう。なんだかいろいろな本があるとワクワクする。と文章で書くとすごく馬鹿みたいだが、実際にもそうだ。。僕はその他に、ホームセンターにも興奮する。祭りの屋台も好きだ。ゲームセンターもそう。スーパーも、とにかくいろんなものが並んでいる場所に惹かれてしまう。昔から優柔不断な所は変わらない。
大半は購買意欲を刺激させられているからだろうが、無条件に何かが並んでいるビジュアルに反応してしまうようだ。入場行進、ドミノ倒し、画材店、モー娘。
足並みをそろえることは意外と難しい、だから偶然でも必然でも何かが揃うのは、おもしろい。誰しもそういった場所があるのではないだろうか。とくに今日は書く事なかったなぁ。
/13
ホームページをつくるまで、このように毎日何かを書くという習慣はなかった。日記といっても良いのかもしれないが、どうしても誰かに見られる事を意識してしまい本音がかけなかったのである。でも、誰にも見られないような日記に書くようなことが特別にあるわけでもなかったので、僕個人の日記があったとしても此処に書く内容とあまり変化はないだろう。(むしろ日記を書くきっかけとしてよいと思われるが。誰もこれを見ていない可能性大だし
ネット社会では本音が氾濫している。実社会では、本当に信頼できるごく限られた人間にしか語られない話が、ここでは不特定多数の匿名の人々にむけて発信されているのだ。このコントラストはすごい。あえて、ネット社会、現実社会といっているが、どちらも現実ではあるし、バーチャルとリアルの間はもっと複雑である。(逆にシンプルといってよいのかもしれないが)それぞれの社会はリンクしているだけでなく、同時にそれぞれを補完する形で独立しているわけだ。そこで語られる本音とは決して同質ではない。ネット社会と現実社会の差異は確実に存在するのにもかかわらず、そこで語られる言葉を同質のもの、(本音、気持ち)だとするとらえ方に問題があるように思われる。それも、あたかも客観として論じる人々よりも、語るものたちのほうにこそこの認識が必要なのかもしれない。本音を語るのはさほど容易ではない。信頼と緊張感の中で伝える努力を必要とするのだ。
これを現代社会がつくりだした歪みだと批判する事は容易く、しかもそのことをここで書こうとすること自体がそもそも皮肉のようだ。 どちらにせよ、始めから疑われない言葉なぞ存在しないのかもしれない、メール、電話、手紙、であろうと直接伝える方法も伝える手段にすぎない、方法が多様化すればするほど、なおさら伝える努力が必要になってくるだろう。むしろ誰に何を、どのように、その動機と選択、その誠意が大切だと感じる。
/12
スポーツの秋である。 今日は日本代表のサッカーとk1の二本立てだったのだが。代表は1ー1のひきわけ。kーは反則の連続というわけで何となく不完全燃焼に終った。サッカーもk1も世代交代といわれているが、どうしてもベテランを応援してしまう。ベテラン選手には試合い内容だけではなくプロセスまでを見るからだろう。更に選手とその全盛期をみていた当時の自分をかさねることで感情移入するんではないだろうか。子供の頃のヒーローはいつまでたってもヒーローだ。ヒーローの衰えを感じるのは寂しいけれど、いつまでもかわらない不屈の闘志は新人となんらかわらないし、むしろ肉体的ハンデをせおった今のほうがより強い精神力を必要とするのではないだろうか。もちろん、それを超えようとする新たなる勢力にも期待が膨らむ。やはり気分はいつまでも新人でいたいものだ!
/11
毎日この欄を書くのは結構大変だ。得に毎日に変化がないからだ。
変化がないのは悪い事では無い。望まなくとも変化はあるのだから。それを見つければいいだけだ。生物としては死(マイナス)にむかっているにもかかわらず、人生は生(プラス)の方向にすすんでいるように感じるのはなぜだろう。記憶を積み重ねているという感覚は不思議だ。
このプラスマイナス0地点は、『私は誰?』という問いを発している。
現実では1ー1=0は可能であるが、0ー1=ー1不可能である。なぜならば無を基点とした時にプラスが規定されるのに対し、マイナスは無より規定されないからだ。(無があるのではなく無と言う概念がある) 私は誰?という問いには、概念としてのー1、point0ではなく、あらかじめ実体として存在している1が解答へのヒントになりそうである。このマイナスとプラスの関係を身体=マイナスと、精神=プラスの関係におきかえれるとして身体のリアリティーは1からプラスマイナスされ精神のリアリティーは0よりプラスされる。
よくわからん。
/10
最近〜という言葉をよく聞くが、何が最近かよくわからなくなってきた。最近に限った事では無いのに最近〜だ。そんな言葉は聞き飽きた。 といっても僕自身も最近〜を連呼すのだけれど。
いったい何時からが最近なんだろうか。基準を何時に設定するかで最近の単位は変わる。一週間、それとも一年、よくわからない。人々は、おそらく今というものに関する知覚と限定を同時に行いたいのだろう。
現代という言葉もよくわからない。一体、現代はいつまで続くんだろうか。現代の次の概念はあるんだろうか。新しく生まれた言葉はその時代を基準につくられているために、時代そのものがかわってしまうとねじれが生じてしまうのだろう。価値の変容による、意味の変容は言葉のもつおもしろい要素であるが、このように概念の消失がおこることも時にはある。この危うさを文化とよぶならば、消失を変容の一部と定義することもできるなぁと最近思う。
/9
hpをたちあげたのはいいが、内容が稚拙でなんだ恥ずかしい。得に報告するようなこともないわけだが、購読者もわずかである。別に自己満足でいいわけんなだが、自分が満足できない状態である。アニメとかを作れば少しはおもしろくなりそうだけど…。まだまだ改造の余地が盛り沢山なのでその点は期待できそうだ。
午後からペットショップにいく。特別生き物を飼おうというわけではないが、目の保養に子犬や子猫を見に行くわけだ。生き物を売り買いする事にはいろいろと意見があるようだが、僕は基本的に肯定派である。といっても、豚肉や牛肉を買う事を考えると、家畜としての動物、家族としての動物に差をつけるのは人間のエゴだと思っているからなのだが。だから、たまに売れ残って大きくなってしまった動物の行く末を考えて心配になったりするだけれど。自分では飼えないであろうカメレオンやフェレットとふれあえるペットショップは僕にとって楽しいところである。
/8
夕暮れが近くなってきた、弁当を食べながらTVを見る。卒業制作のアイデアがまとまらない。映像作品にしようと思っているのだが、みんながみておもしろいものと自分が興味を持つものとの折衷案みたいな間のができればよいのだけれど。
普段の生活から離れないように日常を突き放してみる。矛盾がそこにある。
抽象的なようだけれど、日常と非日常というのはあんがい近いものだ。日常に附随するものとして非日常がある。けれど、本来は毎日が非日常といってもよい。日常とはなんだろう、毎日は本来ちがうものなのに人はいつの間にか習慣や環境によって日常という幻想をいだいているにちがいない。それは、明日が予期できるということかもれない。
未知というものは恐怖だ。しかし期待もそこにはある。 日常にはそれがない。日常という言葉には安心感と不安が同時にふくまれる。人は同じような毎日を構築しながら解体する。埋没しながら意識する。そこから逃げない事が覚悟といってもいいのかもしれない。
10/7
日付けを書いてしまうと、毎日更新しないといけないような、強迫観念を持ってしまうのだが 記録の為に記しておこう。hpを作っているくせに、とくに伝えたい事やメインになるよう
なものも無いのでhpを作る為に作っているといってもいいのかもしれない。 しかし、おもしろいことを見つければ紹介していきたいと思っているので、日々を見る目が
変わっていきそうではある。
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