ある日の授業中,教師が「今日はナショナル・カミングアウト・デイです。それにちなんだ講演があるので聴きにいきましょう」と言いだした。 カミングアウトといえば,普通はゲイであることを表明する事だけれど,まさかその意味ではあるまい。。。と思ったら,本当にその意味での カミングアウトの日との事らしい。「???」と思いながら,とりあえず学校の講堂に向かった。学生が40名ほど集まっていた。
まず最初に,ボストンのトランスジェンダークリニックの職員だというゲイの男性が紹介された。トランスジェンダーを扱うクリニックがちゃんと パブリックに存在することに驚いた。続いて,ゲイ問題を扱ったビデオが上映された。ゲイの人達が登場し,親との確執,子供の頃に 自殺を考えるほど悩んだ事,カミングアウトしてから如何に人生を謳歌しているか,などについて語っていた。
ビデオが提示する調査によれば,ゲイである事に悩んで自殺する青少年がかなりの率の登るという。 なるほど,と思う。この講演の意図は,ゲイを支援する公的機関があることをちゃんと示し,一人で悩んで自殺するな,と訴えることなのだ。 確かに,カレッジ学生は,ゲイを自覚しつつもそれを認められず悩む年頃だろう。 アメリカっぽいなあとつくづく感心してしまった。
一方で,ピンとこなかったのも事実だ。「アメリカっぽいなー」などと考えているのだから,もはや他人事だ。
今までゲイの知り合いを持ったことがないので,問題の深刻さに鈍感なんだと思う。
日本では,ゲイの人達のカミングアウトに関しては,TVのドキュメンタリー番組やバラエティ番組では
既に見慣れた題材だった。「女になりたい男性」のタイプのゲイに偏ってはいるけれど。
ゲイの人達が大いにTVで発言し,それに同調する視聴者はたくさん居た。
TVが取り上げているうちに,いつのまにか一般社会が「それもありだな」と
曖昧に容認していたように思う。何と言うか,ミーハーから入っていくというか,
冗談めかしているうちにいつの間にか一般常識になっていったというか。
アメリカのTVでは,ゲイが登場するSitcomはたくさんあるが,実際にゲイの人がそれを売りにして芸能活動をしているのは観た事がない。(ちゃんと
探せば居るのかもしれないが)
更に,アメリカのあるSitcomを観ていて,こういうやり取りがあった。
「君はゲイか,ストレートか?」
「うーん,時々ゲイよ」
「そんなのあるか,ゲイはいつでもゲイだ」
この台詞には首をかしげてしまった。人間,そうそう割り切りのいい生き方ができるものなのか。
自分をゲイという型にはめることは,今度はその型からはみ出した部分の自分を悩むようになるんじゃないだろうか。
この日の講演を聴いて感じた違和感というのは,ゲイ支援そのものに対するものではなく,背後にある社会のあり方に対してのものだったのかも しれないと思う。 アメリカでは,一旦「支援の対象とすべき人達」と社会が認知すれば,その人達に対しては手厚い公的支援が用意される。 その型にはまっていれば,アメリカという国は非常に生き易い。その裏返しとして,自分の悩みを規定する型が用意されていない場合は, 必要以上に社会から黙殺されているように感じてしまうのかもしれない。
自分を規定する型が無いと生きられない人達に対して,型を用意してあげる事は大切だとは思う。だが,「型なんかにはめられなくたって 生きていける」という考え方も必要ではないだろうか。
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