イルサンの地震体験
<2005年>
5月31日(火)
2005年5月。脳出血で倒れてから3年8ヶ月が経過した。最後の回復を待たれた左腕も基本的には真上まで上がるようになった。ただこれからの問題は「どれだけ日常的に」ということだ。例えばキーボードにしても両手で打てるようになった。ただ実際にはどうしても右手だけで打ってしまう(ちなみに私は左利きである。以前はマウスも左手で操作していた)。このように以前のレベルまで回復するのにはまだまだ時間がかかるということがわかった。今後を期待していて欲しい。
ところで以前の日記からずいぶん時間がたった。それにはちゃんと理由がある。それは私の住む福岡では3月20日に「福岡西方沖地震」が発生したからだ。私の自宅はいわゆる「警固断層」の東側にあり、福岡市内で最も揺れが激しかった箇所の一つである。その中でも家のマンションは建物の損害が特に厳しかったところである。我が家は玄関のドアが開かなくなり、ベランダに続く窓のカギが閉まらなくなり、壁の4箇所に亀裂が入るという被害があった。もうそれから2ヶ月も過ぎ、今後大きな余震の可能性も小さくなった。そこでこの私の体験を皆さんお伝えしようと思い、日記を再開することにした。今回はここまでとしたい。
7月16日(土)
ところで知り合いの方々から「今回の地震はたいへんでしたね。でも余震もなくなりもとの生活に戻ることができてよかったですね」という旨のお見舞いのことばを頂いた。その方々にはたいへん感謝しているが、ただ「もとの生活に戻ることができ」たかというとそうではないというのが本音だ。
7月中旬の私の生活。例えば朝起きる。すると居間とリビングにはそれぞれ外側から室内にかけての壁にひびが2箇所ずつあるのがまず目にはいる。ベランダへと続く窓はカギがいまだ壊れた状態だ。次に私の部屋に入る。そこの壁にもひびが入っている。家内の部屋でも壁にひびが入っているという状態だ。どうにかつけられた仮の玄関を出ると廊下の崩れかけた壁を通ることになる。我が家の玄関の表札は近くのコンクリートの地面に無造作に置いてある。
つまり家は3月20日の状態からほとんどそのままの状態で今日に至っているということだ。もうそろそろ工事が始まると聞いている。もちろん玄界島の方々の避難生活に比べればなんてことはないのかも知れない。でも実際にここに住んでいる私たちも罹災したということ、そして現在においてもまだ復興の段階であることを知っていただきたいと思っている次第である。
と書いていると前置きばかりになってしまいそうなので、そろそろ3月20日に話を戻して進めていくことにしたい。
8月15日(月)
8月中旬現在では少しだけ復興された部分ができた。玄関を出たところの壁である。コンクリートの剥がれた箇所が修復され外からは一応室内が完全に隠された状態に戻った。ただどこからが修復された箇所であるかは一目瞭然であり、また室内に至っては壁が白いテープで補強された状態であることには変わりない。復興はまだまだだ。
3月20日に話を戻そう。
その日は3連休の中日だった。その日は日曜日で、私と家内はいつものようにテレビを見ていた。すると突然あたりが大きく揺れだした。そしてそれがだんだんひどくなりだした私達がまずしたことは、落ちてくるテレビをソフトランディングするように手で支えることだった。
相当長い時間で、2~3分はあっただろうか。揺れがおさまった後二人はしばらく呆然としていた。テレビはある場面を映したまま動かなくなっている。
客観的な状況を記すと、2005年3月20日日曜日午前10時53分、震度6弱、マグニチュード7.0、震源地は福岡西方沖玄界島付近である。
ということは後でわかったことで、その時はなにがなんだかわからなかった。しばらくすると玄関の方から男性の声が聞こえてきた。「外に避難してください」
そこで家内がその男性と玄関のドアを開けようとするが、まったく動かない。私は左手はどうしてもまだ不自由で重いものは動かせないので、動くはずもない。
しばらくするとその男性はベランダの方から緊急扉を突き破りながらやってきて、「ここから出て下さい」。そこで家内と私はベランダを通って玄関が開いている端の部屋まで行って階段を使って一階まで降りることができたのであった。地震体験はここから始まった。
9月18日(日)
9月現在やっと玄関ドアの修復が始まった。まだ我が家までは来ていないが、まもなくのことだろう。仮ドアでも十分実用に耐えるとは思うが、セキュリティ等のことを考えるとやはり本格的なドアは必須だ。工事中はたいへんうるさいが、一度地震に遭った人間からすればなんてことはない。
3月20日の地震に戻ろう。一階玄関まで降りた家内と私は、しばらくマンションの前でじっとしていたが、そのままにしているわけにもいかないので、とりあえず日頃避難場所に指定している近所のK小学校に行ってみることにした。
小学校の体育館に行ってみると、先に来た人がとりあえずストーブ等を設置しているのが目に入った。その様子をしばらくみていたが、家内は「一度部屋に戻ろう」と言い出した。考えてみれば私は上下ジャージに丹前に運動靴、家内はセーターにズボンにスリッパ、二人とも財布も何もない。とにかく家に戻ることにした。
マンションの玄関まで戻った所で家内が「部屋に行ってくる」と言って一人自宅のある6階まで階段を上っていった。私は家内が戻ってくるのをじっと待っていた。すると同じマンションの住人のお一人が私の近くにいて「すこしの時間なら大丈夫ですよ」とおっしゃってくださった。私はこの言葉をたいへん嬉しく感じた。こういった時に適切に判断してくださる方がいるのは何とも心強かった。
しばらくすると家内が自分と私の鞄を持って戻ってきた。嬉しいことに私の携帯まであるではないか。早速熊本の両親に無事であることを伝え、家内の財布もあったのでとりあえず開いている近くのファミレスを探すことにした。時間はおよそ午後1時頃のこと。
10月19日(水)
ちょくちょく家内と行っている近所のファミレスが地震当日にもかかわらず開いていた。後でほとんどの店が緊急閉店になっていたことを知る我々にとってはこの店の英断には本当に頭が下がった。
その店で家内がたくさん料理を注文して瞬く間に全部たいらげてしまったのには大変驚いた。私は逆にほとんど食べ物がのどを通らなくなっていたのだ。緊急時の人の性格はそれぞれ違うと改めて気付かされた。
結局その日はもう一度部屋に今度は私も戻り、ジャンパーにジーパンという姿で東区にある家内の知り合いの家に泊めてもらった。そのことには大変感謝している。そうして翌日家内と私はマンションに戻ってきた。
まず我々がやったことは、閉まったままになった玄関の扉をそこに来ていた専門の人達にどうにか開けてもらうことだった。玄関は開けたままになってしまうが、開かないままでいることを考えればずっといい。それから洗面所や台所の水道を再開し、倒れていた食器棚を元に戻した。いくつかガラスが壊れてしまったが、使えないことはない。その間家内はいくつものガラスの破片をいらなくなった段ボールに入れた。
部屋に戻って改めて中を見渡して、今回の地震がいかにひどかったか再確認した。私の部屋は10余りある本棚がすべて倒れていた。特に4つほどはぐにゃぐにゃに折れ曲がった状態で空中にとどまっており、まずどのように中の本を取り出していいのかわからず途方にくれた。
リビングの2つあるうちの1つの洋服ダンスは倒れたままで私と家内とでは元に戻せなかった。ただある画面を示したままだったテレビであるが、なぜか奇跡的に元のように映り出したのは嬉しかった。ただし部屋の足下の位置から上には動かせなかった。
これからどのように部屋を元の状態に戻すのか、全く見当がつかなかった。それが翌日3月21日の我が家の状態だった。
11月24日(木)
11月になり、玄関も表札を除いて基本的に元に戻った。ベランダの窓にも鍵がかかるようになり、緊急扉の修復以外はセキュリティも保たれるようになったようだ。やっと日常の生活を始められるようになった。話は3月21日に戻る。
その日から私は書棚の整理を始めた。といっても書棚から本を全部出した、といった方が正解で、どのように本を並べればいいのか全く分からない。
そこでとりあえず私のもの2台、家内のもの1台、のコンピュータを発見し、すべて起動した。固定電話も含めこれで通信手段は元に戻った。
CDやDVDを元の位置に並べ、テレビをつけていられるようになった。服もかけられるようにしたのだが、いざという時のために一通りのものはリビングに置いておくことにした。
しかしここまでが限界で、特に書棚については何をどうしたらよいか茫然自失の状態といった方が良かった。私の左手がまだまだ不自由であるといったこともあったのだが、それにしてもこの書棚だけはどうにかしなければと思った。
とそれから数日後、家内が私にこのように言ったことで、話は急展開する。「弟が友達を連れて家に手伝いに来るよ。」
この「弟」というのは家内の弟のことで、家内の故郷プサンからやってくるということだ。家内のこの言葉にびっくりし、また感激した。思い返せば3月20日の夜、泊めてもらった東区にある家内の友人の家には、その友人のお兄さんがその日に韓国から様子を見にいらしていたのだ。韓国の人達はこういった時には迅速に行動するということだろうか。熊本の私の実家の人間には考えもつかないことだった。
翌日弟が友達を連れてやってきた。弟と友達がまず最初にしたことは、私の部屋の書棚の本を元に戻す作業だった。2~3時間ですべて元の位置に配置された。といってもほとんどが日本語あるいは中国語の本なので韓国から来た弟達にとっては上下の区別ぐらいしかつかないのだが、順番は別にして6個ほどの棚は本が全て並んだ状態になったわけだ。その間私は指示だけをさせていただいた。弟達からすれば私は実務をする意味がないという判断のようだ。
韓国には兵役がある。そのことの本当の意味が分かったような気がした。いざという時任務遂行の為迅速に行動するということ。日頃「韓国人はあつい」と私達は言っているのだが、もうひとつの韓国の姿をまざまざと見せつけられた。3月下旬のことだった。
12月25日(日)
3月中はそういうわけで忙しい毎日だったが、弟達が帰って4月になると、少しずつ元の生活が戻ってくるのを感じた。
仮のドアが付けられたことがまず最初だったろうか。それまでドアは鍵がかけられず、家内と私のどちらかが家にいけない状態だったが、壊れたドアをはずし、どうにか鍵のかけられる粗末なドアが設置されたのである。「粗末なドア」と書いたのは現在客観的にみれば、という意味で、付けられた時には大変嬉しかった。
勤務先は自宅ほど被害が大きくなかったことには少し安心した。落ちた書類等を元に戻した。ただある本棚の位置が大きく変わっていたのには驚いた。それまで壁に向けてほぼ直角に備え付けられていたものが、ほとんど部屋の真ん中ぐらいに斜めに移動していたのだ。やはり目に見えないところでいろいろ被害は発生していたのだと思う。
しばらくして授業の準備を整え、新学期が始まった。その一方で私は自宅の書斎の整理を再開した。とにかくある程度本は整理しないと仕事にならない。ただその一方でそれまでどこに置いたかわからなくなっていた本が何冊か見つかったことには感謝した。
その間地震がなかったわけではない。震度4程度の余震が5~6回、それからそれ以下の震度~3は無数に起こった。震度4の時にはさすがにびっくりし、しばらく立ち上がったままの状態だったが、3以下の時にはほとんど気づかない程に私の体は耐震性を帯びてきたようだった。
このようにたとえ地震が起こった後でも日常はいつも通りやってきた。そして私も部屋の片付けの一方でいろいろなことをこなしていった。
私の厄明けを博多駅近くのとある神社で済ませたのは4月19日のことだった。神主さんからお供えする箸等をいただき、その後その足でもう20年あまりもお世話になっている箱崎の筥崎宮にもお参りした。これでやっと日常の生活に少し戻れるかと思った矢先、最大の余震に遭遇することとなる。翌4月20日のことだった。
<2006年>
2月5日(日)
2005年4月20日午前6時11分、マグニチュード5.7、震度5強、これがちょうど一ヶ月後における最大余震の概況である。
その日朝目覚めた私はなんとなく布団でうつらうつらしていた。すると突然大きく揺れ出した。しばらくして揺れが収まると家内も自分の部屋からやってきたので、、二人でテレビを見ることにした。
大きな余震だったらしく、テレビではずっとその状況を映し出していた。幸い居間では特に何も落ちてはいなかった。私も自分の部屋に行ってみたが書類が数枚床に落ちている程度で、たいした被害ではなかった。
今回は本震ほどのことはなかったことに安心した私は、すぐに着替えて勤務先に行くことにした。今日は授業があるのである。
「先ほどの余震は大きかったですね」と言いながら近所の方とエレベータを降り、まず地下鉄に向かった。すると入り口のシャッターが下りていた。地下鉄がまた臨時で閉まっていたのだ。だが一度その体験をした私はすぐにバス停へと向かい、しばらく待ってバスで学校に行った。こういうことに慣れた自分を不思議に思ったりした。
学校に着くとその日は階段を使って自分の研究室のある5階まで行った。すると途中で立ち止まるをえなくなった。なんと緊急扉が閉まって部屋まで行けなくなっているのだ。しようがないのでその場で座ってずっと待っていた。
ずいぶん待っただろうか。ある同僚の先生がやってきた。するとこともなげにその扉の一部を手で開けて、私を入れてくれた。「本震の時も研究室にいて緊急扉の開け方を覚えたんですよ」とのこと。私は祭日でもあり本震の時は自宅に居たので、学校のことは今までほとんど眼中になかった。その時学校にいた方々のことを考えるとゾッとした。
部屋に入った私はまたびっくりした。なんと両面式の本棚がもっと中央側に大きく移動していたのだ。今回は研究室の被害の方がよりひどかったことに気づいた。本棚は一人では元に戻せないので、とにかく書類を元に戻して次の動作を考えることにした。
3月26日(日)
先日の3月20日で今回の福岡西方沖地震からちょうど一年が経った。室外に通じる四箇所の内壁にひびがはいっている状況を除けば少なくとも表面的には元の状態に戻った。室外から見た限りでは問題がないということだ。話を去年の4月20日に戻そう。
とにかく書類を元に戻した私は8時40分の授業を待つことにした。この授業は主に中国からの留学生を対象にした大学院のものである。教室へと向かった。
教室には今日はさすがに3名ほどの出席しかなかった。いつもなら7~8名といったところだ。ので今日は日本の研究者のこれまでの状況とこれからの状況を簡単に述べてお茶を濁すことにしようと話を始めた。
9時を過ぎた頃だろうか、またグラグラっと揺れた。学生さんたちも私も思わず立ち上がって室外に数歩出たりもした。そこで私は授業を止めることにし、皆さんに教室を出るように指示した。
それからしばらく研究室で時間を過ごした私は、地下鉄でHキャンパスに向かった。予定では午後そこで授業を行うことになっていたからである。
ただそこでもすでにすべての授業は休講の措置が取られていた。そこでしばらく知り合いの先生のところで時間をつぶし、また地下鉄に乗って自宅へと戻った。
自宅へと戻ってもなんだか落ち着かなかった。これからどうなるだろうという不安でいっぱいだったからである。しかしその夜は特に余震は起こらなかった。
それからどうなったかというと、4月20日以降は地震の回数は激減した。何回か余震はあったものの、さほど大きいものではなかった。そして5月末の今回の日記の冒頭に戻るというわけである。
今回の地震は私にとってだけではなく、福岡及びその付近の人々にとってたいへん貴重な経験となった。特に玄界島の皆さんにとってはこれからも復興の日々は続くであろう。もうこれから当分の間はここ福岡では大きな地震が起こらないことを祈りつつ、今回の日記はここまでとしたい。
今回の日記を読んでくださった皆さん、どうもありがとうございました。