実寸15cmx580cm巻紙

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坂田家文書 又左衛門様 拝上」
とは?



ここに書きしるされたものは、
23歳の若者坂田忠左衛門が、
長崎の島原の乱に、
福岡秋月黒田藩の一員として出陣し、
その戦況報告と共に、自分にもしものことあらばと、
(これが現実となったことは哀れであるが)
父にあてて頼み書き残した遺言書と思われる。

嶋原の乱関連年表
慶長一七年(1612) 幕府キリシタンを禁じる
 〃 一九年(1614) 高山右近等キリシタン148人追放
元和九年  (1623) 幕府多数のキリシタンを江戸で処刑
寛永一四年(1637) 10月24日一揆勢有馬村代官を殺害
                      嶋原城へ押しよせる
             11月  幕府一揆鎮圧のため板倉内膳正重昌を派遣
             11月12日 一揆勢は嶋原城兵を攻撃
                        三宅藤兵衛戦死
          (寺沢兵庫頭堅高の家来で富岡城 の城代)
             11月下旬 一揆勢原城に籠る
             12月9日 板倉重昌有馬に入る
             12月19日 原城総攻撃
             12月27日 幕府老中松平伊豆守を上使として派遣
寛永十五年(1638)  1月1日  板倉重昌戦死
             1月3日  伊豆守嶋原到着
                  九州の軍勢一二万 四千名原城包囲
            2月21日 一揆軍城外で鍋嶋・黒田兩陣を 襲撃
             2月27日  鍋嶋勢原城に火を放つ 
             2月28日 一揆軍全滅

坂田忠左衛門(勝重・初大三郎・三郎・忠左衛門)
   父(坂田権大夫諸利改又左衛門勝利)は
   元日向高鍋藩秋月侯の重臣であったが、
   御家中争論の筋発り止むなく同地を立退き浪人となり
   秋月に参った折、ふとした縁で、秋月黒田藩家老田代外記に
   抑留られ取持にて黒田家に仕官す。
   長興公(秋月黒田藩初代藩主)御代寛永九年に父叉左衛門は
   二百石馬廻役江戸在勤につき、寛永十四年父に替わりて
   島原の陣御供仕り2月27日城攻めに奮戦討死す(享年二十三歳)


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