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「那珂通辰の活躍」に戻る 現場付近地図
 1335年(建武二年)12月、北畠顕家が率いる官軍八千の軍勢は、奥州多賀城を進発し、常州多珂郡甕ノ原(三ヶ原=みかのはら)に差し掛かったところで休息をとっていた。
 北畠軍は後醍醐天皇の勅命を受け、鎌倉にあって反旗をひるがえした足利尊氏を、京都から鎌倉に向かった新田義貞と共同して、挟み撃ちの形で討つための行軍であった。

 休息中の北畠軍を襲ったのは、常陸国豪族、佐竹貞義率いる四千とも五千とも言われる軍勢であった。長途の疲れと混成部隊、地理不案内も手伝い、北畠軍は総崩れとなり、壊滅寸前となった。
 そこへ背後の大甕山(おおみかやま)から駆け下り、優勢に立つ佐竹軍に猛撃を加えた軍団があった。それは常陸国の豪族那珂通辰が率いる軍勢二千であった。従うのは同国大井郡戸村城主戸村氏、川辺郷川野辺氏、那珂東郡平沢氏の一族郎党であった。

 この戦闘に際し通辰は一族郎党にこのように言ったのではないだろうか。「皆のものよく聞け。我等が今敵を前にして立っているのは甕ノ原である。この地はあの鹿島神宮におわすタケミカヅチノミコトが朝敵、ミカホシノカカセオを討った場所である。今、我が先祖重代にわたり朝廷から恩地をいただいているこの常陸の国で、こともあろうに清和源氏、新羅三郎義光公の末孫、佐竹貞義がこれも清和源氏、足利尊氏と組して、義良親王を害し奉らんとしている。ここにわが一族ことごとく立って朝敵を討とうではないか。尊王の大義は我等にある。また場所も古に我等が守護神、鹿島神宮が敵を滅ぼしたところなり。我等が負けるはずが無い。いざ、我に続かん。」

思わぬ伏兵の出現に慌てた佐竹軍は総崩れとなり太田の本城へ撤退し、さらに天然の要害、西金砂(にしかなさ)城へ立て篭もり再起を期したのであった。
後醍醐天皇肖像画
 「太平記」はなぜかこの甕ノ原の戦について語らず、また正規の史料にも残っていない。水戸一高にいた吉田一徳博士の論文や、さらには茨城県の郷土史家の高橋茂氏、大内政之助氏などはそれぞれの著書でこの戦について書いている。

 また、「那珂の伝説」(大録義行編・筑波書林)にも、この戦にかかわる伝説が載っており、「古房地」のいわれはその伝説に書いていた。通説では北畠軍は奥州多賀城を出発した後、現在の福島県の浜通りではなく中通り方面を通って、那須、足利、埼玉、相模を通り鎌倉へ攻め上った、と伝えられているのである。

 しかし、先に述べた通り茨城県日立市界隈の伝説や古文書、諸家系図に記されている言い伝えから、北畠軍の主力は海岸沿いを南下して、おそらく常陸から西進して足利、埼玉、相模と抜けたのではないか、と考える。