幕末・その時代の流れ 


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 徳川幕府が倒れ、明治政府ができあがるまでには、いくつかの段階があったように思います。
ここではあえて、あまり年号などを気にせずに、3つの段階に分けて時代の流れを書いてみます。

第一段階:幕府の力が弱まる

 1853年(嘉永6年)6月3日、アメリカのペリー提督の率いる4隻の軍艦が浦賀湾に現れます。

 ペリーの要求は、上陸しアメリカ大統領からの親書を、江戸の『皇帝』に渡す事でした。
「日本は鎖国の国であるから、ダメだ。帰れ。」と幕府はつっぱねようとしますが、ペリーは
頑として動こうとしません。実は日本の沿岸には、これまでにも頻繁に外国船が訪れては
いたのですが、幕府がのらりくらりと交渉から逃げ回っていました。
そんな幕府の外交手段を熟知していたペリーは、大きな軍艦を見せつけ、攻撃を匂わす強気の
態度で迫る事に決めたのです。この作戦は、まさに大当たりでした。
弱りきった幕府はついに初めて折れ、それでも浦賀沖から何とか下田まで移動して貰い、
そこでペリーから親書を受け取りました。一応の目的を果たしたペリーは、「来年また来る。」と
言い残し、ひとまず引き揚げてゆきました。

アメリカ大統領からの親書には、日本の開港を要求する旨が書かれてありましたが、ゆくゆくは
通商したいのであろう事は明白でした。「鎖国」する事で無理やり時間を止め、外界との接触を
断ち切る事で成り立ってきた『徳川幕府』にとって、これは国の命運を賭けた深刻な要求です。
本心を言えば、絶対に開国などしたくはありません。

しかし、先進国と思っていた、お隣の清国が10年前のイギリスとの戦争で、いとも簡単に破られ
植民地化されてしまった事実が、幕府要人の脳裏をかすめます。
「我々は浦賀で見た、あんな巨大な戦艦を持つアメリカと戦って、果たして勝てるのか…」
答えは無論、NOです。それはわかっているのです。では、一体どうするのか…。
あ〜でもない、こ〜でもないと、結論の出ない話し合いを続けるうちに、年が明け、再びペリーが
来てしまいました。

こうなっては開港する事は仕方が無い、しかしとにかく通商をすることだけは断れ、
という幕府の命を受け、儒学者である林(大学頭・だいがくのかみ)が、横浜に上陸したペリーと
交渉することになりました。結果、とりあえず通商を断ることが出来た幕府は、20日間の交渉の
すえ、漂流民の保護と、補給用に下田と函館の2港を開く事を約束した『日米和親条約』に
調印します。時に1854年3月3日のこと。

 ここで、ちょっと話しが飛びますが、ペリーの2度目の来日中に幕末を語るにはとても
重要な人物が現れます。その名は吉田松陰。長州藩を脱藩した、軍事学の秀才です。

なんと彼は下田に停泊中の黒船に密航しようとしたのです。松陰の動機はこうです。
「敵の地に渡り、その軍事力を知って、それを持ち帰り、日本も諸外国と対等の力をつけ、
そして外国勢力と渡り合う。そうしなければ、日本はいずれ滅ぼされてしまうだろう。」

黒船に乗りこみ、「私をアメリカに連れていってくれ!」と必死の懇願をする松陰でしたが、
条約調印をしたばかりのペリーは、幕府との関係に気を使い、この命がけの
願いを断るしかありませんでした。(ペリーは本当は連れて行ってやりたかったようです。)
松陰は諦め、下田奉行所に自首。一度は江戸伝間町の牢獄に入るものの、
国許の長州・萩に帰る事が許されます。そして萩で謹慎、蟄居を始めた松陰は約三年後、
明治維新と深く関わる人物を多数育てる事になった、『松下村塾』を開くことになります。

 話をもとに戻しましょう。
日米和親条約に調印してしまった幕府でしたが、問題は山積みのままでした。
条約を締結した事によって、「なんだ、幕府とは異人を打ち払う事も出来ないのか」と
一般人にまで証明してしまったワケです。絶大な権力、実は張子の虎だったのでは…?
幕府権力に、翳りが見え始めます。

 そんな衰えを隠せない幕府とは逆に、元気を取り戻してきた権力がありました。
天皇を中心とする、朝廷です。朝廷が表舞台に現れ始めたのには、水戸藩の元藩主、
徳川斉昭(なりあき)という人物のチカラ添えがありました。

斉昭という人、実は西洋文明大好きなのですが、同時にその文明を知れば知るほど、いまの
日本の文明と比べて、その遅れに脅威を感じてしてしまったのです。そこへ黒船来航です。
幕府も腰が引けたその力に、とても今の状況の日本が太刀打ち出来ないだろうと思われました。
が、斉昭はある事に気付くのです。
「戦艦を使った戦い方では、なるほど日本に勝ち目は無いであろう。しかしいくら戦艦が
強くても、人間が上陸してこなければ何も出来ない。つまり、上陸させなければ良い。たとえ
上陸してきても、それを打ち払えば良いだけではないか。それをなぜ幕府はもっと強い態度に
出ないのか。」

これが後に幕府を倒してしまう程のパワーを持った言葉、『攘夷(じょうい)』思想の原点です。

斉昭はこうも考えます。『幕府』という組織は一体何なのか・・・?その考えを突き詰めて行くと、
『将軍』とは『天皇家』をお守りする『臣』の中で最大の武力を持った、いち大名でしかないはずだ
という、結論に突き当たったのです。ちなみに、こうした天皇を尊び、天皇こそ国の長とする
考え方を、『尊皇(そんのう)』思想といいます。

もともと尊皇思想の強い水戸藩ですから、天皇家を守る義務を忘れてしまった幕府に対し、
斉昭は強い憤りを憶えます。これに先ほどの攘夷思想が合体して、水戸藩には『尊皇攘夷』
とよばれる考え方が生まれてきます。

「このまま幕府に外交を任せていては、日本という神の国が、異人達に踏みにじられてしまう。」
行動力のある斉昭は、すぐに公家達と接触し始め、彼らを上手く使い、外国嫌いの時の天皇、
孝明帝を水戸びいきにする事に成功します。そして朝廷から幕府に対して、「今後外国との
条約を締結する際は、いちいち天皇のお許しを貰ってから調印するように」という命令を出す
事にも成功したのです。

さて、この命令を受けて弱ったのは幕府です。
外国は調印しなければ攻撃するぞと半ば脅して来る。朝廷は調印を認める気などないくせに
こっちの許可を取れという・・・・・・。なんだか面倒な事になってきたゾ・…というそんな時に、
アメリカ総領事として、下田に赴任していたハリスが、またしても幕府に新たな条約の
調印を求めてきました。

それは、『日米修好通商条約』。
和親条約には無かった、日本とアメリカの貿易を盛り込んだ条約です。
この条約、日本にとってとても不利なものであった事が後々になって分かるのですが
この時点で欧米列強諸国との交わりが全く無かった幕府は、どのように条約を煮詰めていくかも
分からず、また武力行使によって植民地化される恐怖・焦りも手伝って、
もはや受け入れるしか無い、と結論を出しました。

幕府は早速朝廷に対し、条約締結のお許しを貰おうとします。が、しかし、やはり・…
お許しは中々降りない、というより、斉昭や公家達の策略により、降りないように細工されて
いたのです。

許可をくれ〜!と地団駄を踏む幕府に対し、アメリカ総領事として下田に赴任していたハリスは
たたみかけるように、親切とも脅しとも取れる、こんな事を言ってきます。
「中国での戦争が、間もなく終わりそうです。そうなれば、イギリスやフランスが、
日本に攻め込んで来て、今よりももっと悪い条件の条約を付きつけてきますよ。
そうなる前に、今すぐアメリカとの条約に調印したほうが絶対に良いのです!」
こうして、時の幕府老中である彦根藩・藩主の伊井直弼(なおすけ)は悩んだ末、ついに
1858年6月19日、天皇の許しを得ぬまま、『日米修好通商条約』を締結してしまうのでした。

当然ながら、無許可の条約調印という、これまでの苦労を水泡に帰すような手段は、
孝明天皇にとっても、徳川斉昭を中心とした尊王攘夷論者にとっても、怒髪天の行ないです。
 しかし、朝廷工作では斉昭に負けた伊井直弼ですが、その頃の幕府内での権力は絶大で
もはや斉昭の力の及ぶところでは無くなっていました。直弼は自分の推していた
紀伊藩主、徳川慶福を14代将軍・家茂として就任させることに成功し、自身も大老に就任。
その力を存分に発揮し、幕政に口出ししたことを理由に、斉昭を謹慎処分としてしまいます。

 謹慎処分を受けた、斉昭の直弼に対する憎悪、そして皇国・日本を守らなければ、という
激しい危機感は、つのるばかりです。京に集まっていた斉昭派の学者・知識人達は、毎日
いきり立って議論を重ねた事でしょう。歯止めの無い議論は、どんどん過激にエスカレートし、
ついに、ある結論を導き出します。
伊井直弼の暗殺と、直弼の治める彦根藩への襲撃-----。

 しかし、この情報は、直弼の知るところとなり、ついに直弼はその権力をもって、
反対派の一掃に踏み切るのです。
1858年9月、水戸の徳川斉昭をはじめ、京都で策謀をしていた志士はもちろん、
水戸派に肩入れした大名、公家にいたるまで捕らえられ、謹慎、蟄居、死罪と
いうような厳しい罰を与えられます。これがいわゆる『安政の大獄』です。

 そして『安政の大獄』といえば、忘れてはならない人物がいます。
かつて黒船に密航しようとして失敗し、謹慎、蟄居となった吉田松陰です。
直弼が無許可の調印をしたころ、彼は萩で『松下村塾』という私塾を開いており、
尊王攘夷思想や軍事学等を教えていました。

水戸派による、大老の暗殺計画を知った松陰は、皇国を守るために、自分も何か
動かなければ!と思い、松下村塾の塾生と共に、直弼の腹心の部下である、間部詮勝
(まなべあきかつ)の暗殺を図ります。(この頃、松陰は『倒幕』という考えを、ハッキリと
言明してはいませんが、持っていたようです。)
そして驚いた事に、彼はこの計画を、長州藩の上層部に打ち明け、藩を挙げてこの計画を
遂行するべきだと、説いて回ったのです。

驚いたのは長州藩の首脳陣です。
「伊井大老の粛清の嵐が吹き荒れているこんな時に、そんな計画が藩内に
あることが知れたら、藩自体が大変な事になるではないか!」
伊井大老を恐れた長州藩では、松下村塾を即時閉鎖し、松陰を投獄します。

投獄された松陰は、別件で江戸に呼び出され、幕府の取調べを受けるのですが、
その時、何をどう思ったのか、自分から、間部暗殺計画を自白してしまうのです。
驚いた幕府側は、釈放するつもりだったこの青年を、危険分子として斬首する事にしました。
こうして吉田松陰は30歳という、短い生涯を閉じる事になります。

 「身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも 留め置かまし大和魂」
処刑される前日に松陰が書いた『留魂録』。上の句はその表紙の裏に書かれた辞世の句です。
 この、吉田松陰というひとの死後、松下村塾にいた塾生たちはこの『留魂録』を回し読みし、
松陰の執念と、幕府への憎しみを増幅させていきました。

 安政の大獄を断行した直弼でしたが、彼自身もこの大獄により死期を早める事になります。
水戸藩では徳川斉昭が、いまだ蟄居中。弾圧の風当たりを真っ向から受けた水戸藩士たちに
とって、直弼は激しい憎しみの対象となったのです。
 そして1860年3月3日、直弼は江戸城へ向かう途中、桜田門外において、
 名の水戸藩士と、一人の薩摩藩士の手により斬殺されます。(『桜田門外の変』)
(この報を聞いて安心したかのように、同年6月、水戸の斉昭も獄中で病没しています。)

 大老が暗殺されてしまう、というこの前代未聞の事件は、黒船来航以来、民衆にまで
広がっていた不安をさらに強いものとします。もはや幕府の権威は失墜しました。
「大老が殺されるような今の徳川幕府に、この国を守ることなど出来ないのではないか?」
日本の国内で、さまざまな議論と主張が飛びかい、迷走し始めます。

第二段階:長州派の台頭、そして没落

 そんな不安を打ち消し、幕府権威の回復を図ろうと、幕府内部で出てきたのが
幕府と朝廷との結び付きを強くし、互いに強力しあって、日本を治めていこう、とする
『公武合体政策』でした。
 孝明天皇の妹である和宮が、将軍家茂のもとに嫁いだのは、この政策の
一環です。幕府は、朝廷と結びつくことで、何とか生き残りを計ろうとしたのです。

 しかし、幕府が朝廷と結びつくのを阻むため、朝廷工作を行なうものがいました。
松下村塾の塾生で松陰の義理の弟でもあった、久坂玄端(くさかげんずい)を始めとする
長州系の若い志士達です。
安政の大獄で一掃されてしまった、水戸派に取って替わるように、長州派が台頭
し始めます。彼らの頭には、すでにハッキリと『倒幕』の考えがありました。

せっかく弱ってきた幕府に、再び息を吹き返されては、困る…このまま一気に
叩き潰してしまいたい…・その為にも『公武合体』で徳川が盛り返す事など、許せません。
松陰の遺志を継いだ彼らは、天皇を中心とし(自分たちが主軸となった)新国家の
樹立を目指します。
(もとより長州藩では江戸に足を向けて寝ろ、と言われていたという説もある位ですから
彼らの頭に、すんなりと『倒幕』という考えが生まれたのは、ごく自然な事だったと、
いえるかもしれません。)

 力の衰えを隠せない幕府に対し、急激に力をつけ始めた京都、朝廷。
対立し始めた政局は不安定で、先行きが見えない状態になってきました。
新勢力の朝廷に影響を及ぼし始めた、長州藩志士たちに遅れをとるまいと、
やがて全国の尊王攘夷思想の若者が、ぞくぞくと京都に集まり始めます。
密談を重ね、仲間が仲間を呼び、どんどん増える志士達。
 
しかし、彼らのすべてが本当に将来の理想を持っていたわけではなく、
ただ、戦国さながらに、「京都へ行けば出世できるかもしれない。」という
安易な発想から、訳も分からずに「攘夷、攘夷!」と叫ぶものが多かったのも事実。
また、そんな志士達は、脱藩して京都へ来ていた者も多く、当時の脱藩は罪ですから
すでに犯罪者となっている=無職なわけで、誰か、かくまってくれるスポンサーがいなければ
生きられない。かといって、全員が上手い事、スポンサーを見つけられる訳は無いので、
食いっぱぐれる者も当然ある訳です。そんな彼らに残された道・…それは強盗や恐喝です。
そして同時に横行したのが、暗殺。暗殺を行なうことで、仲間内に名を売り、生き残ろうと
でもしていたのでしょうか。京都は本来の目的を見失った過激浪士たちによって、
治安を激しく乱されることになってきたのです。

 そんな情勢の京都を治めるべく、幕府から『京都守護職』の命を受け、東北の雄藩、
会津藩が乗り込んでくる事になります。
会津藩は『新撰組』などを使い、過激浪士達の取締りを始めます。
 そしてこの事で、京都はその後、徐々に治安を取り戻していきました。
孝明天皇は会津藩と、藩主の松平容保へ、深い信頼を寄せるようになります。

そして同時に、ある勢力には憤りを感じ始めます。それは、相変わらず宮廷内を
牛耳っている長州派です。
当初は反対していたものの、実際に婚姻関係を結んでみると、妹宮の夫、将軍家茂が
良い人間である事を知った孝明天皇は、幕府に対し好意的になってきたのです。
ひたすら幕府の非なるを訴え、血なまぐさい事件を次々と起す長州派に、すでに
嫌気がさしていました。

ある日、孝明天皇は京都守護職、松平容保へ密かにこんな相談をします。
「なんとか朕のそばで、長州なまりが聞こえぬようにして欲しい…」

これを受けた容保は、同じく長州派の台頭に不快感を持っていた薩摩藩と協力し、
深夜から早朝に掛け、武力を御所の各門前に集結。翌朝登庁して来る長州派が
御所に入れないよう、全ての門を閉ざしてしまったのです。
この行ないに翌朝、長州派が憤然としたのは簡単に想像がつくと思います。
しかし御所に向かって発砲すれば、『逆賊』。唇を噛み締め、長州派は京の都を去り、
長州藩領へと向かいました。(『818の政変』)

長州藩を追い払う事に成功した、孝明帝と幕府でしたが、そんな事で権威の復活が
できる訳ではありませんでした。
今後の『公武合体』を主軸とした幕府政権を支えるために組織された、『参与会議』と
呼ばれる越前松平・薩摩島津・肥前鍋島・土佐山内の4藩連合も、歩調が揃わぬまま
自然消滅。いまだ外国との問題も山積みのまま。
先行きの不透明さは何ら変わりがありません。

一方、藩領へ戻った長州藩士達も、政権の奪取をあきらめた訳ではありませんでした。
京に残った長州系の浪士達もいまだに水面下で革命の為に、活動を続けています。
ちなみに、新撰組の名を一躍有名にした『池田屋事件』が起こったのは、この頃で、
この事件が長州藩士達を、決起させる原因になったといっても過言ではないでしょう。

精神的に追い詰められてきた長州藩士達は、長州藩の御所への参入を朝廷に願い入れ、
受け入れられなかった時には、孝明天皇を長州藩へ誘拐しようとする計画を立てます。
反対意見も多々あるなか、来嶋又兵衛(きじままたべえ)を中心とする血の気の多い
長州藩士達が、この無謀としか言い様の無い計画を実行に移してしまいます。
京を目指し、武装して進む長州藩士の数は約   人。

この計画は、すぐに幕府・諸藩の知るところとなり、御所周辺には会津藩・薩摩藩を
始めとする諸藩が守りにつきました。
御所周辺へ到達した長州藩士達は、武装解除を命令されますが、これを無視。
構わず御所へ入ろうとしたため、ついに御所周辺で戦闘が起きてしまいます。
(『禁門の政変』)

気合の入った長州勢でしたが、所詮は多勢に無勢。
天皇からの長州征伐の勅許も貰った幕府連合軍は、敗走する長州兵を追撃し
蹴散らしました。(『第一次長州征伐』)
善戦むなしく、敗走し、壊滅した長州藩士達。
この時の戦いにより、京は火事を起こし、3日間も燃え続けたそうです。
来嶋又兵衛は戦死、久坂玄瑞も敵に追い詰められ自刃しました。

戦後、幕府はこの戦乱の責任を取るよう、長州藩に迫ります。
長州藩内は揺れ動きました。来嶋や久坂の挙兵には参加しなかったものの、
倒幕を志す者達(以後『正義派』とよぶ)と、幕府に恭順をしめし、現状維持を願う
保守的な者達(以後『保守派』と呼ぶ)・・・・・・。

結局、この時は保守派の意見が強く、藩論は保守派に牛耳られました。

保守派首脳陣はさっそく、正義派に肩入れしていた3人の家老を切腹させ、
正義派の弾圧を始めます。これもひたすら、幕府に恭順の姿勢をしめす必死の
アピールです。正義派の面々は、保守派の藩士達から暗殺の標的とされ、
逃亡するものも多く、その勢力はもはや形を留めてはいませんでした。

また、この長州征伐の後に、下関では外国船との戦いもあり、長州藩は
まさに虫の息と言って良い状況に追いこまれていました。
もはや、長州藩の革命思想は、絶えてしまったように思われました。

第3段階:長州の復活と幕府滅亡


しかし、長州藩の正義派にとっては救世主とも言うべき、快男児がついに立ち上がります。
その名は高杉晋作。かの、吉田松陰の教え子です。
高杉は自らの集めた若者80名だけを率い、藩内の保守派勢力を一掃するクーデターを
起こします。散り散りになり、動きを潜めていた正義派の藩士達は、このクーデターの報を
聞くや、ぞくぞくと高杉のもとに集結。
この武力をもって、保守派政権を打倒した高杉は、なんと藩論を『倒幕』という革命思想
一本に塗り変える事に成功します。

長州藩のクーデターを受け、もちろん幕府は憤りました。
「恭順しないなら長州藩を武力で叩き潰してやる…!」

これに対し長州藩は、いくら藩論を倒幕に決めたからと言って、
「おう!良しかかって来い!!」と言える状況ではありません。
幕府と外国と、何度にもわたる戦争で、人員も財源も疲弊しきっていました。
もしいま幕府に攻められれば、今度こそ本当に終わりなのです。

その頃の他藩の倒幕派志士達の間でも、この話題は議論されていたでしょう。
果たして瀕死の長州が生き延びるにはどんな方法があるのか…。
一般論として、「長州と薩摩が協力すれば、幕府に対抗できる」という考えはありました。
しかし、818の政変、禁門の政変以降、薩摩藩士を「薩賊」とまで呼んでいる
長州藩が薩摩と手を結ぶことなど絶対に有り得ないと、誰もが思っていました。

つくづく、こういうところが歴史は面白い、と思うのですが、ここで本当にタイミング良く、
もうひとりの快男児が現れます。
土佐藩の脱藩浪士、坂本竜馬です。
亀山社中という海運業を始めた坂本は、薩摩藩が密輸入した武器(薩摩藩は色々と
ダークな事をしてますね)を自分の会社の船を使って長州藩へ運び、長州藩からは
当時薩摩藩で不足していた米を運び、これを代金とすれば、お互いが不足なものを補える。
こんなウマイ話しを蹴る気かと言って、両藩に働きかけました。

思想とか、そういったもので説き伏せようとせず、ビジネスとして持ちかけた所が
この同盟を成功に導いたのかもしれません。
1866年(慶応2年)1月22日、不可能と言われていた薩長同盟は成立したのです。

この同盟以降、時代の歯車は、完全に薩長を中心に回り始めます。

そしてそのころ・・・・・薩長同盟を知らず、他藩からの反対意見があるにも関わらず
それを押しきって、幕府軍は長州へ進撃していました。
長州藩兵3,500人に対し、幕府軍は10万人。人数では圧倒的に有利なはずの
幕府軍の戦況は、どうしたことか思わしくありません。

「いやだなあ…」と思いながら戦闘に参加している幕府軍に比べ、長州藩兵は
「国を守るんだ!」という気概に燃えています。人数だけは多くても、人の質、
意気込みが長州藩の方が勝っていたのです。

そして先の薩長同盟により、新式の銃火器も充実してきています。
長州藩は、各所で幕府軍を撃退し始めました。
そんな劣勢に陥っていた幕府軍を、さらに驚天動地の衝撃が襲います。
1866年(慶応2年)7月、なんと、大阪城にいた将軍・家茂が何の前触れも無く
急死してしまったのです。

もともとあまり気が進まない上に、総大将まで失っては、もう士気は低下する
一方です。そのまま火が消えるように、幕府軍は征長軍解兵令を発布し、
解散していきました。
そしてこの、第二次長州征伐の失敗により、徳川幕府の権威は完全に地に落ち、
事実上、崩壊してしまったのです。

その後、同年12月5日、徳川最後の将軍、慶喜(よしのぶ)が15代目の
征夷大将軍に任ぜられました。この慶喜、かつて伊井大老と泥沼の争いをした
水戸の徳川斉昭の7男です。

新しい将軍が誕生したその頃も、薩長は倒幕への運動を怠ってはいませんでした。
天皇を味方につけるべく、朝廷へ働きかけ、幕府を見限る方向に持っていこうと
努力していました。しかし、妹宮を故・家茂公に嫁がせた孝明天皇は相変わらずの
幕府びいきで、倒幕には反対しています。
幕府にとって、孝明天皇だけが、今は唯一の頼みの綱でした。

しかし…

その孝明天皇が同年12月25日に急死してしまいます。
あまりのタイミングだったため、薩長によって毒殺されたとする説が、今なお
まことしやかに言われていますが、真相は無論判りません。

新天皇には幼い少年が選ばれました。この人が明治天皇です。
明治天皇はまだ年が若い、という事で、実務はもっぱら取り巻きが行なっていました。
取り巻き…つまり薩摩。長州のことです。
(後にここに土佐藩も加わります。)

1867年(慶応3年)10月、薩摩、長州藩は密かに少年天皇から倒幕の密勅を貰い、
自分達を正義とした上で幕府軍と戦う準備を着々と進めていました。
この動きを察知した幕府は、戦争を回避するため、政権を朝廷に返上すると
言い出しました。この動きの裏には、薩長同盟を成立させた坂本竜馬の影が
あります。彼の頭の中には、「政権が移ればそれで良い。何も不要な血を流してまで
日本人同士が争う事は無い。」という考えがあったのでしょう。勝海舟らと協力して
この平和的な政権交代を進めようと、努力していました。

「天下の将軍様が、俺の意見を取り入れて、政権をお返しします、と朝廷に頭を
下げてくれるという。俺は慶喜様のために、たとえ死んでもこのご恩をお返ししたい。」
涙を流しながら、苦心の『大政奉還』を喜んだ坂本でしたが、そのわずか1か月後、
何者かによって暗殺されてしまいます。

その後も旧幕府は、ひたすら新政権に恭順の姿勢をとり、反抗する態度を
見せませんでした。

「徳川が、朝廷に反抗している」という理由で、天皇の軍隊として
幕府軍と戦う準備を進めていた薩・長・土三藩連合は、『大政奉還』によって
肩透かしをくった状態になりました。
自分達が正義である、として攻める為の大義名分を失ってしまったのです。

政権を返上した、とはいえ旧幕府には広大な領地と軍資金、そして何より大きな
軍事力があります。直轄の軍隊と旧幕府に協力する諸藩の軍隊とを合わせれば
薩・長・土三藩連合軍の及ぶところではありません。今は自分達が優勢とはいえ、
強大な軍事力をそのまま生かしておいては、いつまた再び、政局をひっくり
返されるか判らないのです。

何か自分達を正義として、幕府軍をたたき潰す大義名分を作らなければ・・・。

そこで新政府軍は、江戸の市内で強盗や殺人、火付けを手当たり次第に
行ない、旧幕府軍を挑発し始めました。これに乗ってはいけない、罠だ、と
元将軍慶喜をはじめ、旧幕府の重臣達は、家臣に必死に呼びかけますが、
耐え切れなくなった旧幕府軍は、ついに新政府軍の挑発に乗り、慶喜らの
許しを得ないまま、攻撃を開始してしまいます。

地理的に、旧幕府は大阪城、新政府軍は京都・御所にいます。
「旧幕府軍が大阪から天皇のおわす京都に攻めてきた!奴らは天皇に歯向かう逆賊である!」
という具合に新政府軍は自らの正当さをアピールしつつ、出撃します。

新政府軍  万に対し、旧幕府軍   万人。
これが鳥羽・伏見のあたりで大激突し、激しい戦闘が始まりました。

数で負けている新政府軍は、兵士達の士気を上げる為に、ある、目に見える魔法を
使います。それはいま『錦の御旗』と呼ばれる、天皇家の菊の御紋が縫いつけられた
旗で、これを自分達の陣地に翻すことで、自分達こそが正規軍であり、旧幕府軍は
逆賊である、我らはこの逆徒を討つ為に戦っているのだ、という正当性を誰の目にも
判るように宣伝したのです。

この効果は絶大でした。味方の新政府軍の士気が上がったのはいうまでもありませんが
旧幕府軍の士気が、逆に一気に下がってしまったのです。「自分達が逆賊・・・?」
そんなつもりは全く無かった旧幕府軍は、うろたえ始め、各地で負け始めました。

そんな中・…。
大阪城にいて、この戦いを、苦々しく思っている人物がいました。
元将軍、慶喜です。彼は再三、家臣達から、士気を鼓舞するため、前線におもむき、
陣頭指揮をとるよう頼まれていました。
なかなか重い腰をあげようとしなかった慶喜ですが、戦況が思わしくなくなってきており
戦意を上げなければ負けてしまうかもしれない、という段階に来てやっと「指揮を取る」と
出撃を約束しました。

家臣達が「やれやれこれで少しは戦況も良くなろう」と安心したその夜、あろうことか
慶喜はこっそりと大阪城を脱出、江戸へと逃げ帰ってしまったのです。

翌朝、慶喜が消えている事に気付いた大阪城内は大騒ぎでした。
慶喜にしてみれば、
「政治工作の途中で、制止するのも聞かずに勝手に暴発し戦争が始まってしまい、
あげく逆賊とまで言われている。こうなる事は見えていたんだ、だからあの時
挑発に乗るなと言ったのに。勝手に戦い始めた奴らの事など俺はもう知らん。」
という感じだったのかもしれません。そして何より彼は、水戸徳川家の産まれです。
水戸といえば、尊皇攘夷の親玉。天皇から逆賊とされる事は、彼自身が一番恐れて
いたはずです。

とにもかくにも、総大将が消えた幕府軍の士気はボロボロで、戦況が良くなる
事も無く、北へと敗走を始めました。

江戸に帰った将軍、慶喜は自主的に上野・寛永寺にこもり、謹慎生活を始めました。
あくまで、新政府軍に恭順の姿勢を示す彼でした。
しかし、旧幕臣達は、まだ、抵抗をやめる気にはならず、上野に新たに彰義隊なる
軍隊を結成し、将軍を守るように立てこもりを始めます。

今度は江戸が、きな臭い状況になってきました。
というわけで新政府軍の次の目標は江戸になることは必至。
何と言っても江戸にはまだ江戸城がそびえ、天下の将軍様の御威光は残っています。
ここをなんとかしなければ、新政府軍は安心出来ません。新政府軍は江戸総攻撃の
準備を始めました。

しかし、江戸での戦争を回避しようと、一人の幕臣が、新政府軍の西郷隆盛と話し合いを
始めました。その幕臣とは、故・坂本竜馬が師と仰いだ男、勝海舟です。
この話し合いの結果、江戸城を無血開城する事になり、江戸は戦火に包まれる事を
逃れられたのです。

元将軍、慶喜も江戸を離れ、生まれた土地、水戸藩領へと引きこもり、謹慎生活を始めました。
徳川家の権力も、領地も、家臣も、全てを放棄し天皇に恭順した最後の将軍は、
その後、明治になり朝敵の汚名を晴らす為に尽力し、それが叶うと泣いて喜んだと
言われています。三つ子の魂百まで…という感じですね。

さて、江戸を素通りした新政府軍は、歯向かう旧幕臣達をねじ伏せるべく、
掃討戦へと移っていきました。(江戸でも将軍の去ったあとの寛永寺で彰義隊が
壊滅させられていますので、全くの素通り、という訳では有りませんでしたが)

北上しつつ旧幕府軍と新政府軍は戦いを続けます。
会津、蝦夷と戦争を続け、ついに蝦夷の旧幕府軍を打ち負かした新政府軍は
やっとながい国内戦争に終止符を打つ事ができました。
吉田松陰を断罪した『安政の大獄』から、実に10年目の、1869年(明治2年)
大願成就でした。

とても長くなってしまって、すみませんでした。最後までお付き合い下さったかた、本当にありがとうございます。
この「流れ」は本当に大雑把なもので、細かなエピソードや、重要な役を果たしたのに出ていない人など
数えきれない程、抜けている部分が多々あります。書き切れ無かった部分が好きな方、本当に申し訳ありません。

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