新撰組の超おおざっぱな説明    ・・・・です。ホントにおおざっぱです。スミマセン。                                                      


          1834年(天保五年)10月9日、武州多摩郡上石原村、宮川家の三男として
         近藤勇が生まれる。

          1861年(万延ニ年)8月、近藤勇は天然理心流、試衛館道場の四代目を襲名する。
         同門に土方歳三、沖田総司、井上源三郎、永倉新八、山南敬助、藤堂平助、原田左之助。
 1863年(文久三年)2月8日、出羽(山形県)の郷士、清河八郎の提案に
端を発する幕府の浪士隊募集に応募した200人以上の浪士が江戸から京都へ
向けて出発。その浪士隊に、近藤も試衛館道場をたたみ、土方ら試衛館メンバーを
ひきつれ参加。

 月末に浪士隊一行は京都へ入った。
が、到着早々、清河はこのまま江戸へ戻ると言い出す。おどろく浪士達だが、
清河に押しきられる形で、3月中旬に一部の者を残し、みな帰ってしまう。
一部の者とはすなわち後の新撰組、近藤一派と、芹沢鴨一派のあわせて
13名の浪士達であった。

 当時の京都は過激な攘夷思想を持つ『志士』と称する不逞浪人達が多数潜伏。
恐喝や強盗、殺人といった凶悪な事件を起こし、治安が乱れていた。
『京都守護職』の会津藩主・松平容保(まつだいら かたもり)は、『志士』たちの
取締りを居残った近藤達に任せることにした。

こうして京都守護職御預、『新撰組』は誕生する。清河の浪士隊が江戸へ帰るのと
ほぼ同じ頃のできごとである。

その後、新撰組は過激志士の取り締まりに奔走するが、一方で隊の幹部となり
慢心した芹沢らは目に余る乱行を始める。これにより、近藤一派により粛清され、
以後、新撰組は近藤一派が取りしきるようになる。

 新撰組は土佐・長州・薩摩などの『志士』達を捕縛し、あるいは容赦無く
切り捨てた。(新撰組隊士達は本当に強かったらしい。)
1864年(元治元年)6月5日の「池田屋」騒動などもその流れである。
当然、志士からは激しく憎まれ、また恐ろしがられた。

 また一方で、新撰組は苛烈な内部粛清や暗殺も多々行なっている。
1864年10月、新たに参謀という幹部職で入隊した、伊東甲子太郎
(いとう かしたろう)は入隊後、思想の違いを理由に新撰組を二分し、
新たに隊を作るが、1867年12月13日、京都、油小路において
近藤一派の手により暗殺されている。

だが、粛清を重ねても時代の歯車は新撰組の方には回らなかった。
大政奉還を迎え、その後おきた戦争では天皇を中心とした
薩・長・土、などの連合軍の攻撃に幕府軍は敗走。
会津藩のお抱えだった新撰組も、ずるずると幕府軍と命運を共にする。

京都から敗走する新撰組は、隊士達の数をすり減らしながら北上。
現・千葉県の流山において、かつての局長、近藤勇は捕らえられ、
1868年(慶応四年)4月25日、板橋の刑場にて斬首される。

北上を続け、函館・五稜郭要塞にたどり着いた副長、土方歳三もこの地に
おいて戦死している。1869年(明治二年)5月11日。
各地に散った生き残りの隊士も降伏し、あるいは逃げ、新撰組の組織は無くなる。
最後の生き残り隊士は稗田利八(ひえだ りはち)。1938年(昭和13年)
1月16日逝去。行年90歳の天寿を全うしている。

 生き残り隊士の中でも特に、幹部であり、試衛館時代からの同志でもあった
永倉新八(ながくら しんぱち)、のちの杉村義衛(すぎむら よしえ)はその著書
『新撰組顛末記』において、実に臨場感に溢れた新撰組を語ってくれている。
1915年(大正4年)1月5日、北海道・小樽にて波瀾の生涯を閉じる。行年76歳。

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